周囲の音が遠くなり、視界が揺らいでいました。
それは呼吸が乱れ、心臓も強く、身体の中から喧しく聞こえるほどに拍動しているからでした。
外から衝撃を受けたからではありません。
突如目にしたその姿に、混乱と、それに倍する動揺を招いたためでした。
「・・・エステル、さん」
声はどうしようもなく掠れていました。
そしてその声に応じることはなく、彼女はただ暗い瞳をこちらに向け、ぽつりと。
「・・・許さない」
と、もう一度、小さな声で呟きました。
私は狼狽え、震える声でただ問いかけることしかできません。
「な、なぜ・・・貴方が、ここに」
「・・・・・・」
返事はありませんでした。
目にしている光景は、まず有り得ないはずのものでした。
エステルさんはこのような場所には居ません。
時計郷ロストルフ。
彼女は、ここからは気が遠くなるほどに離れたその場所で出会い、そこで別れた魔女でした。
悲劇に抗い、結果としてより残酷な悲劇に辿り着いてしまった、悲しい人でした。
そのはずでした。
「・・・・・・貴方だったんですか?」
杖を向けることすら忘れ、私は疑問を投げかけていました。
フェンベル山の力を得るために魔物を操る魔女。
それはエステルさんだったと、そういう事なのでしょうか。
本当に、ならば何のためにと考える余裕さえ、私にはありませんでした。
そしてそうした私の問いかけ全てを無視して、エステルさんはただ呟くように言葉を紡ぎます。
「・・・あなたが」
その怨嗟に満ちた声に、私はただ委縮していました。
あなたさえ、いなければ。
その口がそう動いたのを、私は見てとりました。
幾度となく夢に見た、エステルさんの表情が目の前にありました。
悪夢が現実となったような、気味の悪い感覚。
そして彼女の、重く、絞り出すような低い声。
「ころして、やる」
ぞわり、と背筋を伝う寒気に、私は思わず後ずさろうとしていました。
そして足がまったく言うことを聞かないことに気づきます。
足も手も、寒気とは別の理由で小刻みに震えていました。
そちらに向けようとした視線もまた、エステルさんの眼から離せなくなっていました。
そうして見ている間に、彼女の腕がゆっくりと上がり、その手に持つ杖で、魔力の塊を作り出します。
それはするりと音もなく私の首に巻き付いて。
ゆっくりと、しかし確実に狭まり始めました。
あの時見たそのままの光景を、私に写したかのように。
訳も分からないままに、私はエステルさんに殺されようとしていました。
まとまらない思考の中で、僅かばかり理性的な部分が疑念を抱かせます。
彼女が殺意を向けるのは、殺人鬼と成り果てた親友であったはずでした。
ただその場に立ち会ったからといって、私にそれを向けるような人だったでしょうか。
因縁があるとしても、殺されるほどに恨まれる理由足り得るでしょうか。
いえ、そもそも彼女はあの時、それに関する記憶を全て魔法に費やしてしまったはずで。
などと、湧いたいくつもの戸惑いはしかし、徐々に首を絞めつけられる苦しさに塗り潰されてしまいます。
「ぁ・・・ぐ、ぅ・・・」
今すぐ杖を振るえば、彼女の魔法を振り払うことはできるでしょう。
とにかくまずはその場を切り抜けるべき、と生存本能が叫ぶのが分かります。
しかし同時に、心の片隅にあった別の感情が、抗う気力を奪っていました。
あの日。彼女の親友を救うべく十年前に遡った場所。
時計郷の路地で見た光景そのままの瞳と、そこに宿る感情。
その眼差しに、私は射竦められていました。
私はあの時、何もできませんでした。
彼女が夢見た希望に手を貸そうとし、結果として何の力にもならずに、傍観者として立っていただけの魔女。
それが私です。
私がいても、いなくとも、あの結果は変わらなかったかもしれないと頭では理解しています。
けれど、いたのに何もしなかったというのは罪ではないかと、どうしても思ってしまうのです。
たとえ何かを変えられるわけではなくとも、何かをすべきだったはずだと、後悔してしまうのです。
そしてそれを糾弾できるのは、詰るべきなのは、彼女以外にはいないとも思っていました。
その彼女が、私を殺そうとするのならば。
そんな気持ちが私の手を動かすことを妨げ、そしてそれは気づけば、致命的な対処の遅れを生んでいました。
「――――イナさんっ・・・イレイナさんっ!!」
悲鳴とも泣き声ともつかない、私を呼ぶ声が聞こえてきました。
ずっと名前を呼ばれていたようなのに、まったく耳に入っていないとはどれほど平静を失っていたのでしょうか。
私は僅かに首を傾けて、たまらず駆け出したといった様子のカエデさんの姿を視界の端に捉えます。
「――――」
すみません。逃げて下さい。
爪先立ちになり、喉を圧されて呼吸もままならない私が出来たことと言えば、諦めの笑みを浮かべることだけ。
あまりに身勝手な、と自らに憤る自分がまだ心の片隅にはいましたが、もはや手遅れと言わざるを得ません。
心乱され、呼吸さえも奪われた私はもう何も上手く考えられず、身を委ねる以外に取れる選択肢がありませんでした。
ああ、でも、カエデさんだけは守らなくては、という想いだけが空回りし、けれども体は動かずに。
このまま私が死んでしまったら、彼女は山を降りるのも大変ですね、などと、支離滅裂な思考しか、出来ませんでした。
そして、意識が薄れゆき。
・・・暗くなる視界の向こうに、灰色の髪が揺れるのを、見ました。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
見かねて、杖をひょいと一振り。
姿かたちはそっくりに、色合いだけがまるで異なるその二人をまとめて吹き飛ばしました。
灰色の方はふんわりと、菫色の方はとても強かにという加減も忘れずに。
悲壮な顔でその場に無謀にも飛び込もうとしていたオレンジ色の少女が、飛ばされてきた灰色の少女を慌てて抱き止め・・・ようとして、衝撃を殺しきれずに尻もちをつき、痛そうな顔をしていました。
ちょっと調整を間違ったようですね。悪いことをしました。
そして私はちらりと視線を向け、解放された灰色の少女が咽込み、まだ生きていることを確認します。
もう片方は氷の山の中に叩き込んでやったので姿が見えません。
私がそちらに注意を払いつつ彼女たちに近寄っていくと、二人がこちらを振り向きます。
「えっ・・・あっ・・・うぇっ・・・?!」
受け止めた魔女の無事を確認して一瞬泣きそうになっていた少女が、闖入者たる私の方を見て、とても混乱したのでしょう。おかしな声をあげていました。
そして、涙を滲ませながら咳き込んでいた、灰色の髪を短く切り揃えた魔女。
涙目の顔はなるほど私によく似て、とても美少女でした。
「あなたは・・・あなた、は」
彼女は私の方を見上げると、それこそ幽霊でも見たかのように目を見開いていました。
無理もありません。私もこんなところで再会するとは思っていませんでした。
依頼を受けて、魔物を探しに登ってきてみれば、自分そっくりな魔女・・・というか、
流石は、出会うはずのない人に出会える山。
「お久しぶりですね」
そうとだけ言って、私はにこりと笑ってみせました。
そうして短髪の私の前に立ったのは、ほうきを携えた一人の魔女。
黒いローブに三角帽子。
灰色の髪は
危機に駆け付け窮地を救う、あたかもまるで物語の主人公のように颯爽と登場してみせた美少女。
そして、彼女を「短髪の私」と呼び、私を「私」と呼んで語る人物。
それは一体、誰か。
「助太刀しますよ、イレイナさん」
そう。
私です。