月の綺麗な夜だった。
鬼が活動する夜は、鬼殺隊の仕事の時間。そして、鬼が襲撃してくる時間である。
獪岳は大分暖かくなってきた空気に季節の移り変わりを感じながら、里の外縁周辺を気配を消しながら巡回していた。
感知能力において、獪岳は善逸に大幅に劣る。
それを歯痒く思いもするが、劣等感を感じたところでどうにもならない。
(俺があのカスに劣ってるところなんてねえ。何もねえ。そうだろ)
埋められない才能の差異。
善逸と獪岳は、どんなに羨んでも互いにはなれない。
鬱屈した気持ちを抱えながら歩いていると、獪岳は見慣れないものを見た。
「……あんな奴でも鍛錬は自主的に真面目にやってんのか」
八八の訓練風景である。
借り物の木刀に重りを付け、木から吊り下げた材木相手に、素早く間断なく剣を振り続ける技の連携訓練が、月の光にうっすらと照らされていた。
『残り体力=技を出せる数と継戦能力』である通常の呼吸の剣士とは違い、八八は『鍵ライフ値=技を出せる数と継戦能力』である。
鍛錬で技を使わなければ、訓練直後の戦闘でも一切継戦能力は下がらない。
ゆえに他の人間よりもより効率的に時間を使っていくことができるのだった。
八八は獪岳を視認し、木刀で肩をコンコン叩いて獪岳に寄って来る。
夜に月の光の下見ると何故か"あまり人間に見えない"のが、不思議だった。
「獪八か」
「何だその呼び方……?」
「お前もいずれ分かる時が来よう」
「……あークソイライラする!
わっかんねえんだよお前の言いたいことも言ってることも!
意味分かんねえ言い草並べて煙に巻いて楽しいってか!?」
「そうとも言えるし、そうでもないとも言える」
「ぶっ殺してえ……これが暖簾に腕押しってやつか?
なんなんだあんた……どういう目で世界がどういう風に見えてんだよ……」
「拙者生来目が見えん」
「嘘つけ今日の昼間見えてただろうが」
「目が見えん」
「取って付けたような欠損アピールやめろ!」
このままでは会話のペースを完全に持っていかれたままになり、狂人の寝言に飲み込まれる! 悪夢から抜け出せなくなる! そう思った獪岳は思い切って話題を変えた。
「あ、あのよ。あの鱗滝真菰? だったか。
あの女との関係実際どうなんだ?
照れ隠しとかウゼェ善逸を振り切るのが目的とかで、本当は……」
「心の目で見よ。
人と人との繋がりもまた目には見えぬ。
大事なものは目には見えない。
すなわち逆説的に、それは人の繋がりが大事なものであることを示すのだ。
侍の力とは断ち切る力と繋げる力。
姫との繋がり、『勇』を力に変えるのもそれよ。
侍は侍の前にちゃんとした武士であるべきだ。
そして武士の前に……ちゃんとした人であるべきだ。
姫にとって運命の侍は一人だけど。
運命が必ずしも"恋"に発展する訳じゃない。
ひとつ言っとくよ。恋は
『武士』はただの人間だ。だが『侍』は人間ではない。
つまるところ拙者は人間ではない。
真菰姫と恋をするのは人間である。お前もいずれ分かる時が来よう」
「クソッ駄目だ会話のコンボが繋がっちまう! 狂人の型を繋げんじゃねえ!」
八八の定型語録連打にあっという間に飲み込まれ、会話の主導権を持って行かれそうになった獪岳だったが、なんとか踏み留まり、めげずに会話を切り替えていく。
「そ、そうだ。
あんたも修行するんだな。
てっきり不死身の体に頼り切ってまともに修行してないもんだと思ってたぜ」
「そうとも言えるし、そうでもないとも言える」
「どっちなんだテメェふざけ……!
いや、駄目だ駄目だ、こういうところでキレるとこいつに会話のペース握られんだ……」
獪岳は深呼吸し、八八の空気に飲み込まれないように踏ん張った。
だがそれができているということは、八八をある程度理解し、その会話に合わせられるようになってきていることを意味している。
彼と会話を続けようとしている時点で、既に手遅れなのだ。
「鍛錬は良い。
己の力を伸ばしていける。
色々あったが簡単に言うなら自己向上のためだ。
自信があれば拙者は永遠に負けを認めないで済むからな。
人を守る力を鍛える姿、オレにとっては一番侍らしく見えるよ」
「負けを認めない?」
「うむ。侍は負けを認めぬ限り死なぬのだ。
そして心が負けを認めた瞬間、武神に見放され死を迎える。
己に定めた"義"が折れた時、貫くべき"勇"を失った時……『散体』するのだ」
「……はっ、なんだそりゃ!
お前の方が鬼よりよっぽど化物で人外じゃねーか!
鬼舞辻だって逃げ回ってるんだろ?
じゃあ鬼舞辻だって死ぬってことだろ?
お前の方が鬼舞辻よりよっぽど人間から遠い生き物なんじゃねえのか?」
「まったくだな」
さらりと認める八八に、多少怒りを引き出せると思って挑発気味に言った獪岳は、拍子抜けしてしまう。
「ゆえに拙者は鬼舞辻を殺すまで、絶対に死ぬことはない。
今日までに鬼に殺された人間の仇を、いつか必ず拙者は討つだろう。
拙者以外の鬼殺隊が全員死んでも、拙者が死ぬことはないからだ。
仇は必ず取る。
……そう拙者が言って安心する者達も、それぞれ違う反応を見せる者達も居たな」
「負けを認めなきゃ死なねえからか? 御大層な体だな、羨ましいぜ」
「お前もいずれ分かる時が来よう。
侍は負けを認めた時にのみ死ぬ。
普通の人間は負けを認めても死なず、傷・老・病などで死ぬ。つまり……」
皮肉たっぷりに言う獪岳に、八八は笑む。
「侍でない人間は、負けを認める権利を持っているということだ。拙者はそれが羨ましい」
「―――あ?」
予想外の言葉に、獪岳は目をぱちくりさせた。
「今のお前の師の天元などその最たる男だ。
あれは自分は選ばれた勝利者ではないと思っている。
記憶は敗北に濡れ、喪失ばかりが記憶に残っていることだろう。
……本人の能力や体格は、恵まれていないわけではないのだがな。
だが天元は失う度、守れなかった度、負けを認めてきた。その度に成長してきた男だ」
「宇髄さんは……そういう人だな、確かに」
「生まれ持った力を頼りに戦う拙者が、木刀で模擬戦すれば、天元には絶対に負ける」
「……」
「そうだ。負けを認めぬ者の成長は遅い。
一長一短というやつだ。
拙者は負けを認めぬゆえに負けず、不死だが、それゆえ成長も遅いのだ。
負けを認めないことと、負けを認めること、それらには別々の美徳がある。
決して勝利を諦めない美徳も、負けを認めて成長する美徳もあるのが人間であるゆえに」
負けを認めたら死ぬということは、死ぬまで負けを認めてはならないということだ。
負けを認める権利がないということだ。
一生勝った気で居なければならない。
意識的に勝った気分で居なければならない。
都合の悪い現実からは目を逸らさなければならない。
弱気になってはならない。
他人を頼りにしすぎてはならない。
常に自分を強い理屈で騙し、絶え間なく"無敵の人"で居続けなければならない。
うっかりでも、気の迷いでも、敗北を認めれば、その瞬間に死んでしまうから。
「お前も拙者がどんなに羨んでも持てないものを持っている。それが素直に羨ましいのだ」
八八が獪岳を見るその目に、獪岳は見覚えがあった。
それは、善逸が獪岳を見る目に、獪岳が善逸を見る目に、とてもよく似ていたから。
「負けを認めてないのに他人を羨むのかよ。矛盾してねーか」
「聡いな、獪八」
「世辞は要らねえよ、鬱陶しい」
「完全無欠な侍にも、嫉妬はあるのかもしれん。誰もが人で、誰もが不完全ゆえに」
きっと、どこまで強くなっても、不死身の侍になっても、"嫉妬"は人についてくる。
「……嫉妬なんざこの世で一番不要な感情だと思うがな、俺は」
「ゆえに、人間には敗北を認め、己と向き合い、嫉妬を手放す権利も与えられているのだろう」
「……」
敗北を認める。
自分と向き合う。
嫉妬を手放す。
それが『人間の権利』だなんて、獪岳は思ったこともなかった。
獪岳が少し考え込むと、八八はふらっとどこかへ行ってしまう。
「コソコソ何をやってる!? ……なんだ野良犬か。
コソコソ何をやってる!? ……なんだ野鳥か。
コソコソ何をやってる!? ……なんだ小八か」
「ひぃぃぃ! ……あ、八八さんだ。驚かせないでください!
妖怪かと思いました! というか小鉄です! 変な名前で呼ばないで!」
「失礼な」
「妥当ですよ! こんな夜中に刀の運搬とかしなきゃよかった……」
里の手前での戦いで八八に刀を投げ渡し助けた少年が、多くの荷物を抱え夜道を歩いていた。
八八がその荷物の多くを引き受け、そのまま八八と小鉄がどこかへ行ってしまう。
獪岳はその後にはついて行かず、森の中に歩みを進め、大木を苛立たしげに殴った。
「……負けを認められるのが、人間の権利だって?
分かった風な口利きやがって……! 負けなんて誰も認めたくねえだろうが!」
脳裏にチラつくのは、弟弟子の善逸の姿。
壱ノ型を使えるというだけで嫉妬が憎しみを生み、憎くて、憎くて……けれど、憎しみ以外の感情もあるから、苦しい。
善逸が獪岳に向ける尊敬の目線すら、今は苦痛だった。
「負けを、認めるなんざ……!」
八八の言葉を聞き、獪岳は一つ、過去の記憶を思い出していた。
善逸と獪岳が宇髄天元の弟子として同道を始めてから、一ヶ月ほど経った頃。
鬼が一つの村を丸ごと食い尽くしてしまうという事件があった。
並ぶ死体。
そこら中に散らばる人間だったものの残骸。
血の染みた地面。
腐敗し始めの肉の臭い。
砂に血が混じり、土に皮が混じり、石に骨が混じる地獄。
死屍累々の地獄の中で、天元はぽつりと呟いた。
―――やっぱ俺は、他の柱みたいにはやれねえな
あれは負けを認めていたのだろうかと、今更になって獪岳は思う。
胸の奥から今まで感じたことのない感情が湧き上がり、その気持ちに向き合うことから逃げるように、獪岳は樹の幹に拳を叩きつけた。
「やめろよ……やめてくれよ……
俺より強くて周りに認められてる柱が負けを認めてるとか……悪い冗談だろ……」
弟弟子の善逸に対し、一つの分野で負けていることすら認められないから、獪岳の心の中は自業自得の苦しみに満ち、自分で自分が分からないほどぐちゃぐちゃになっていた。
翌朝。
暖かな陽光に照らされる食事処で、八八と真菰が昼食を摂っていた。
食べるものを注文してからトイレに行っていた天元が、そこに戻って来る。
「ふぅーすっきりした。
おう、俺が頼んでたうどんもう来たか?」
「実はこっそりカツ丼とうどんのセット食べちゃいました! お前の分はもうない」
「てめっコラァ八八!」
うどんとカツ丼をもぐもぐ食ってる八八の頭を天元が掴み、怒りのまま猛烈に揺らした。
「宇髄さんが頼んだのはまだ来てないよ。
八八くんが食べてるのは私が残しちゃったやつ。
なんかメニューで見て思ったより量が多くって、お腹いっぱいになっちゃった」
「なんだ冗談かこの野郎……土に埋めてやろうかと思ったぞ」
「真菰姫は少食であるからな」
うどん一丁ー、と天元のうどんが来て、食事しつつの談笑が始まる。
「そういえば、宇髄さんの奥さん達は何してるのかな。
私や八八くんには関係ないけど、宇髄さんの全力を活かせるかには関わるよね」
「今は吉原遊廓に潜入してる。
俺は報告が上がって来るまで善逸と獪岳を鍛えてるつもりだったんだがな……
刀の手入れを待ってたらこのザマだ。複数の案件は同時に抱えたくなかったんだが」
「ほう、吉原遊廓……」
「八八くん?」
「拙者は行ったことないぞ真菰姫。姫に誓って」
「へー」
「どうも吉原に鬼が居るくさくてな。
過去の情報をさらってみたが……
どうにも、柱すらやられている可能性が高い。だから俺の出番ってわけだ」
「柱が出るほどの案件……十二鬼月とも言えるし、そうでもないとも言える」
「ま、八八の言う通りだ。俺もまだハッキリしたことは言えねえな」
天元はうどんを箸でつまもうとして、つるっと滑ったうどんに逃げられ、少しイラッとした。
「しかし吉原遊郭とは……奇縁であるな」
「何がだ?」
「宇髄さんが本物の忍者でその奥さんが皆くのいちって話かなぁ」
八八は熱々の揚げかまぼこを汁にたっぷり付けたものを咀嚼し、語り出した。
「その説明をする前に今の銀河の状況を理解する必要がある。少し長くなるぞ。
忍者の多くは大昔に衰退し消え、その末裔は警察や軍に吸収された。
四年前……1911年から人気を得ている立川文庫というものがあってな。
ここが忍者に目をつけている。
去年発売の『猿飛佐助』の売れ行きはとてつもないものがあった。
おそらく今年から、忍者は架空のものとしてその名を知られるだろう。
つまりもうそのくらいの幻想になってしまっているのだ。
大昔に絶えた忍者。だがその全てが絶えたのか?
そうとも言えるし、そうでもないとも言える。
生き残った可能性があるものもある。
それが甚内風魔だ。
風魔は元々北条氏に仕えていた忍者軍団。
風魔にして封魔。鬼とも戦っていたという。
だがその末裔は関東で盗賊になってしまったと伝えられている。
色々あったが簡単に言うなら私欲のためだ。
盗賊になった風魔を抜け、密告によって壊滅させた忍者・甚内の一派……
それが、甚内風魔というわけだ。
この時代、江戸の無法を仕切った男達を、人々は三甚内と呼んだ。
その内二人、吉原遊郭の庄司甚内と忍者の高坂甚内は同一人物でもあるという。
庄司甚内は吉原の創設者だ。
つまり風魔忍者の末裔が吉原遊廓の創設者である、ということになる。
宇髄忍術家もその末裔である、という可能性はある。
後々の時代まで残ったことは間違いなく、地域的にズレもない。
宇髄忍者は先祖が作った吉原遊廓に"帰って来た"と言えるのかもしれない。
その裏付けにまずこの宇宙の成り立ちを説明しよう。
私がこの宇宙へ来た時、ここは完璧な
何もなく、ただ重さ0の数多の粒子があるだけだった。
何かを崩す……私がここへ来て最初にやったことでもある。
この完璧な
私の体の一部である『h粒子』をバラ撒き、強いエネルギーを放った。
重さ0の粒子の移動を邪魔して
重さを持った粒子が集まり、物質が生まれ。
物質が集まり星が生まれ。
星が集まり銀河が生まれた。生命と意識と情報と共になってな―――」
「おい真菰。こいつに
『誰も聞いてない全ての起源の話されても……』
って言う奴居なかったのか? 何語ってんだこいつ……」
「宇宙の成り立ちも宇髄さんの家系の成り立ちも語りたいから語ってるんだよ、八八くんは」
「人生楽しそうだよなぁ……」
長々語る八八の言葉を聞き流し、くっくっ、と天元が笑う。
「立川文庫の異名を知っているか?
『胡蝶』だ。
『こちょう本ください』と言えば今はどこでも買えるぞ。
創作の忍者の話は実に面白くてな……思わず胡蝶姉妹に贈ってしまったほどだ」
「ああ、なんか読んでたなぁあの姉妹……
いやなんか俺も興味湧いてきたぞ。今度買って読むか」
「拙者も読んでちとアドバイスというものをしてきた。
『本物の忍者はもっと明るい髪で派手な装いです!』
『爆裂忍術とか使います!』
とな……"いや金髪はねーだろ"と叩き出されてしまった。おのれ作者め」
「金髪の忍者なんて居るわけ無いだろ?
もっと俺を見て派手にリアルな忍者を描いてほしいもんだがな」
「金髪の忍者だってきっと居るってばよ。最高に面白いってばよ」
「うわっなんか聞いたことのない語尾が出て来た」
三人分の食事が腹に収まった頃、そろそろ真面目な話ができる頃合いと見て――真面目な話を遠ざけていたのは八八だが――八八は、真面目な顔で語り出す。
「そろそろよかろう。お館様と進めていた計画、ここまで隠し通してきた密命の話をしても」
無惨は八八の鬼を超える不死身性、継国縁壱を思い出す候剣を見て、八八を最大級に警戒していたが、それらと並び警戒すべきものに気付いていなかった。
"鬼舞辻を殺すために生まれてきた者"に与えられし物。
継国縁壱の『透き通る眼』に対応する眼―――『心眼』。
物質的に全てを見通す『透き通る視界』と似て非なる、『全てを本質的に見る視界』。
「拙者の心眼には、真菰姫と天元が死する未来が見えている」
「!」
「あら……それは大変だ。頼れる侍に守ってもらわないと、私死んじゃうね?」
「死なせはせん。そのために、あの"月"をこの手で砕くために、拙者達は多くを準備した」
鬼殺隊は集団であり、組織である。ゆえに。
彼の心眼の恩恵を、組織全体が受けられる―――それこそが、鬼舞辻無惨にとって、何よりも大きな脅威であった。