人間側の勝機は一つ。
その一つの勝機に繋ぐため、産屋敷と八八は策を巡らせた。
だが何もかもが綱渡り。
特に最後の博打は何もかもがギリギリで、どうなるか八八にもさっぱり読めなかった。
されど希望はある。
戦いが始まる前、八八はそれを仲間達に話していた。
「拙者はこの戦いに臨むにつき、お館様から全技能を解禁されている。
普段使うことが絶対に許されていない技を使うことができる。
普段お館様によって禁じられている技ゆえ、今日のみの披露であるが、強力だ」
「あぁ? そりゃ派手な技なんだろうなとは思うが……
お館様も何考えてんだ?
そんな強力なものあるなら常時派手に使わせた方が良いと思うんだが」
「お前は物事をあせりすぎる。
お館様曰く。拙者が人間社会に居続けるためには、絶対に必要なことだそうだ」
「……ハッ、ぼんやりとだが想像はつくな。
よっぽどヤベェ隠し玉か。
それが周知されると、八八の将来的な扱いがヤバくなる、そういうやつだ」
「お館様との約束は破らぬ。それが拙者の"義"だ。
何が起ころうとそれだけは絶対に破らぬ。
それゆえ、お館様が解禁した今は、存分に使うことを誓おう」
黒死牟襲来の前に八八が四人の仲間に明かしたその技能こそが、突破口。
「誰も完全ではない。
拙者の力もそうだ。
これを活かすには、拙者の尽力だけでなく、皆の助力が要る。
古き『武家書法度』にもある"侘び寂び"というやつだ」
「派手に任せろ。だけどそれは絶対侘び寂びじゃねえからな」
天元、真菰、獪岳、善逸。
四人の内三人が、八八の指示に忠実に動き、彼と産屋敷の作戦を遂行しようとしていた。
八八は夜闇に紛れ姿を消し、森に紛れ気配を消した。
だが黒死牟相手には大した時間稼ぎにもなりはしない。
攻撃する隙を伺っていた八八を、巨大な月と小さな月の形をした斬撃を
木、岩、土。何もかもが月に貫かれ、切り裂かれ、消し飛ばされていく。
接近すれば無双の剣術。
離れればえげつない月の飛び斬撃。
ここが森という群生する閉所でなければ、打つ手はもっと無かっただろう。
黒死牟が戦いやすい場所に誘い込まれていたら、勝ち筋は異様に少なくなっていたはずだ。
しからば、この地の利を活かさない手はない。
まだ視認できない八八に更なる攻撃を加えようとした黒死牟に、四方八方から木が倒れ込んできた。
黒死牟は眉一つ動かさず数本を斬撃で消し飛ばすが、一本だけ対処が間に合わず、鬱蒼と葉が生い茂る大木が黒死牟に倒れ込む。
一般人だったならば圧死もありえたが、黒死牟の体はビクともしなかった。
「む……」
今、八八は木を切っていない。
今切っていないはずなのに今木が切れ、倒れてきた。
八八が今木を切って黒死牟の方に倒して来ていたなら、黒死牟でも流石に気付くはず。
金剛夜叉流・黙斬り。
"切った後、指定した時間の後に対象物質が切断される"という時間差斬撃だ。
使い所が多くはないが奇抜な応用が利き、八八は事前に木を斬っておき、88秒後にそこに歩いて来た黒死牟に向けて切断された木が倒れるようにしていたのだ。
時間差で木に叩き込まれる斬撃、と言うは簡単だが、やるには相当難しい。
世界がどう思おうが切った物がいつ切れるかはオレが決めることにするよ。理論。
「奇怪な……剣術だ……」
のしかかる大木を蹴り飛ばした黒死牟を、『左右から』挟み込むように銃撃が襲った。
狙いがあまりにも荒い、雑な銃撃だった。
だが弾丸の数が多い。
黒死牟は大きく動かず、その場で軽い身のこなしだけで左右からの弾幕をかわし、『二方向』から攻撃が来たことを訝しみつつ、左右両方に三つずつ斬撃を放つ。
地を這う月の斬撃が森の木々を斬り飛ばし、その向こうの銃手を切断すべく飛ぶが、そこにあったのは銃を持った腕だけだった。
黒死牟の左右に切り離した腕が一本ずつ。
本体が居ない。
「腕だけ……だと……?」
切り離された腕が持っていた銃が消え、左右に斬撃を撃った直後の黒死牟の真正面から、最高最速の動きで八八が切りかかった。
銃になっていた八輪刀を磁力で引き寄せ掴み、同時に磁力で体を加速させている。
その速度は、さながら疾風。
「いざ!」
侍が切り離した体の一部は原則として動かなくなり、時間経過で消滅する。
だが修練次第で切り離した体を動かすことも可能なのだ。
金剛夜叉流にはそれを用いた技はないが、同じく侍の流派である
八八も限定条件下で切り離した腕に雑な動きをさせるくらいならできる。
そうして、攻撃を誘引する囮を作ったのだ。
八八が工夫を凝らして作った、千載一遇のチャンスであった。
至近距離まで接近し、全力で刀を十字に振るう。
だが、黒死牟は。
工夫に工夫を重ねて作ったチャンスを、隠し玉一手で容易に潰す。
「!」
十字の斬撃が、黒死牟の"変化した刀"に、こともなさげに受け止められていた。
黒死牟の刀が、3mを超えている。形状はまるで神宮遺物の七支刀である。
巨大な剣と素の剣技だけで、八八の拾ノ型を防いで来るという悪夢。
黒死牟の悪夢は終わらない。巨大な刀に力が満ちる。
八八の体がバラバラに切り刻まれ、山の斜面に転がっていく。
おむすびころりん、鬼切りころころ、転がった肉片から蘇った八八が、黒死牟を睨む。
刀の変形に、刀を振らなくても放てる月の刃。
並の刀では刀の打ち合いでへし折られ、鍔迫り合いに入れば一方的に切り刻まれてしまう。
ヘビーゲーマーの侍なら『クソゲー!』と叫んでいるところだ。
「……そんな隠し玉が許可されてると思うか?」
「許可を得る必要があるとは……思っていない……」
月の呼吸はまだまだ技が尽きる気配も見せない。
一方、金剛夜叉流はぼちぼち技が打ち止めだ。
困ったことに、黒死牟は達人である。
八八が一度見せた技への反応速度が異様に速い。
一度見せたら半ば見切られてしまうのだ。
八八は徐々に奇策に頼らざるを得なくなってきている。黒死牟が純粋に強すぎる。
一方黒死牟は、七支刀で防御しても僅かに抜けて来た十字斬りの斬撃が、僅かに己の頬に付けた切り傷を指先でなぞっていた。
傷自体は浅かったが、いつまで経っても治らない。
其は鬼の不死を殺す一撃。
「傷が治らぬ……そうか……これがあの御方に消えない傷を付けた……」
「
攻撃に攻撃を重ねて、ようやくかすり傷。
八八は自分一人ではこれ以上深い傷を付けられる気がしない。
これならまだ無惨の方がマシだった。
無惨は迂闊で、油断もするし、判断ミスもする。
臆病ゆえの慎重さくらいしか不安要素がなく、候剣を叩き込む余地も僅かだがあった。
だが、黒死牟に隙はない。
鍛え上げられた武技を振るう黒死牟相手に『まぐれ当たり』はない。
黒死牟より無惨の方が遥かに速く、遥かに力強く、遥かに生命力が高いのは間違いないが、その上で言える。
八八にとっては、無惨よりも黒死牟の方が圧倒的に難敵だ。
「……いや……待て。
もしやとは思うが……
侍が言葉の最後に付ける『候』……
すなわち『終わり』……
『終わりをもたらす剣』という意味の駄洒落か……?」
「拙者は知らん」
「お前の技だろう……!?」
八八は対敵の武器をよく観察する。
よく見ると、刀の枝分かれが七本ではなく、四本であることに気が付いた。
すなわちそれは、
振るえばただそれだけだけで、敵は
なんとも鬼らしい刀であると言えよう。
「肌を裂かれた程度では……赤子でも死なぬ……」
「今拙者は思ったのだが、眼が六個というのは不揃いで気持ちが悪いな。後二個欲しい」
「貴様の名前の八も六個だろう……?」
「お前もいずれ分かる時が来よう」
刀が四支刀に変形してからの黒死牟の攻勢は、まさに絶望の体現だった。
斬撃の威力、速度、攻撃範囲が全て爆発的に伸びている。
八八は防御も回避も間に合わず、幼稚園児に捕まったアリのようにバラバラにされる。
どれだけ全力を隠しているのか。
どれだけ隠し玉があるのか。
どれだけ追い詰められてから切れる切り札があるのか。
底が全く見えないことが、あまりにも恐ろしい。
それは八八や無惨が持つ怪物性ゆえの恐ろしさではない。
技を磨き、術を鍛え、奥の手を最初から切らず、隠し玉を使わずとも勝てる地力を備え、戦いの最適な場面で行使し、敵の意表を突く。
すなわち、人が持つ恐ろしさであった。
そういったものこそが敵の心を揺さぶり、敗北感を敵に与えるため、『不死身の侍』に効く可能性を持っている。
「お前のような者は生まれてすら来るべきではない……」
「人の誕生すら否定する姿、オレにとっては一番侍らしく見えるよ」
「お前が存在していると……この世の理が狂うのだ……」
「神や仏がどう思おうが世の理が狂うかは俺が決めることにするよ」
「……神仏より自分が上だと堂々と名乗る男は……初めて見たな……」
「流星の―――武神、不動明王!!!」
「……観音菩薩の両侍は毘沙門天と不動明王……
戦いの最中に不動明王に祈りを捧げるとは……
完全に無知蒙昧な侍というわけではないようだ……」
"己の考える侍らしさ"を見たことで、ふっ、と口角を上げる黒死牟。
「何言ってんだこいつ」と八八は言いかけたが、それをなんとか言い留まる。
「型ごとの技の違いがわからないんで
『適当に剣振って月出して思いつきの技名言ってる鬼』
って呼んでいースか? なんとなく剣筋が見えてきましたよ」
代わりに飛び出した言葉は煽りであり、黒死牟の眉が動き、また八八の首が飛んだ。
しかし即座に体は再生し、再生速度は衰える様子も見せない。
八八について探ることが、鬼舞辻が黒死牟に与えた命令である。
なのだが、黒死牟は今のところ八八のことがまるで理解できなかった。
「見えん……全く見えん……
殺し方を多少変えてみても……不死身の理屈は見えず……
追い詰められる気配もなければ……新たな手を切る気配もなしか……」
「猫を被るのは嫌いなんだよ。本性を隠して大人しくはできねータチでな!」
「だが……痛みは感じると見た……」
黒死牟がゆったりと、けれど流麗に、伸びた巨刀を構える。
「逃げられぬよう捕らえ……延々と切り刻み……
貴様の心が萎え……指一本動かせなくなった頃……
あの御方の血を体内に入れれば……果たしてどうなることか……」
八八は表情には出さなかったが、黒死牟の透過の視界は、皮膚の下の八八の表情筋にあたる機構が僅かに反応したのを見逃さなかった。
「記憶を奪い……心を喰らい……
正気を蝕み……魂まで侵し……
あの御方の忠実な下僕に変える始祖の鬼の血だ……
完全に弱りきった状態で大量の血が一気に入れば……何か起こるか……?」
黒死牟は透き通る世界を見通す眼を身に着けている。
八八の心眼とは別方向の人の極限。縁壱の遺産。他の鬼はこの視界を持っていない。
だからこそ、黒死牟のみが辿り着いた解答があった。
何かが起こるかもしれない。
何も起こらないかもしれない。
だからこそ、黒死牟はとりあえずでそれを試そうとするし、八八はあまり余裕ぶっていられなくなってくる。
「そして……あの御方が苦戦した理由もよく分かった……
貴様は相手の攻撃に目を慣らす……
時には回避も放棄して攻撃を凝視する……
不死ゆえに……誰よりも攻撃の見切りに専念できる……
よってあの御方の最速の攻撃も……時間さえかければ見切ることができる……しかし……」
八八は鬼舞辻の攻撃に目を慣らし、最終的には対応もできるようになっていった。
なら、黒死牟相手にもそれはできるのか?
答えは否。
「技を散らせば……
攻撃の速度に緩急をつければ……
目が慣れないような工夫を凝らせば……
貴様は永遠に我々の攻撃に慣れない……
我々に致命の一撃を届かせることができない……
技が無く肉体性能に頼り切りのあの御方とは違う……
上弦の壱……弐……参……その三人にとって……貴様は全く脅威ではない……」
「そうとも言えるし、そうでもないとも言える」
「貴様の強がりくらいならば……透けて見えている……」
黒死牟は恐るべき男であった。
八八は不死。その上不死殺しも持っている。
最強にして始祖の鬼である鬼舞辻とだって引き分けた。
そんな八八という化物に対し、隙無く戦い、淡々と新路を模索する。
黒死牟のこの在り方は、鬼殺隊の在り方そのものだ。
自分よりも化物である敵を見ても怖気付かない。
どうしようもないように見えても諦めず、突破口を探す。
常識と摂理を超越した化物を、人の考察と論理を積み上げることで打破する。
技が広範囲破壊攻撃ばかりで大味に見えるが、それに騙されると即死する。
黒死牟の強さの本質は、目の前の敵の技能や特性を素早く見抜き、それに対応し、生半可な覚醒や超越者ならば封殺してしまうところにあった。
「いや……黒死牟の攻略はものすごく時間がかかるのだ」
「互いに対し……攻め手に困るは……同感ということか……」
「その通り。もう……ボクの出番はなさそうですね。強い『勇』を感じます」
「……?」
「よくやった早太郎」
八八は多くの技を出した。様々な工夫や小細工を仕掛けた。
結果、黒死牟は隠していた札をいくつか切り、八八を改めて敵と見定め向き合っている。
その意識は八八と、八八の仕込むあれこれに集中していた。
八八はここまで、意識的に黒死牟の意識を引き付け、この恐るべき鬼の攻撃を自分に引き付けて来たのだ。
そして。
空から鎹鴉が落とした八八の腕が――八八がそうなるように仕込んだここまでの流れに沿って――黒死牟の警戒の隙間を抜けて、黒死牟の髪に触れた。
その力は、産屋敷が使用を禁じた力だった。
もしもその力が周知されれば、八八はずっと人間としての幸福を得られなくなる。
そう、産屋敷は確信している。
たとえ八八が人間としての幸福を求めていないとしても、産屋敷は鬼殺隊の棟梁として、八八を子のように可愛がる父として、八八の幸福を諦めていなかった。
侍は、他人に手で触れることで、ほんの一瞬でその"脳内情報"を何もかも取得できる。
できてしまう。
それは、とても便利で、利便性と引き換えに八八の未来を奪ってしまうものだった。
他人の脳内情報を全て無条件に取得できるのは、あまりにも倫理に反している。
秘密、後悔、過去。何もかも、ものの数秒で見られてしまう。
そんなことが知れ渡れば、その人間に近寄られるだけでも人は嫌がるだろう。
触れられただけで頭の中身を全て読まれてしまうなら、人はその者に近付かない。
この能力が周知されれば、八八は孤独に向かって行くことになる。
これは、人間の尊厳を踏み躙る力。
他人の脳内を勝手に覗く化物は、きっといつか鬼と同じように扱われてしまうだろう。
八八は勝利に繋げる一手として、解禁されたこの能力を躊躇いなく使用した。
侍はこの脳ハックへの抵抗力を持つが、この世界に"侍"は居ない。
人間や鬼ならほぼ一瞬でハッキングは完了だ。
八八は腕を切り落とし、鎹鴉の早太郎に腕を渡し、高高度で待機させ、自分に最大限に注意を引き付けたタイミングで、落とした腕を通して脳ハックを行ったのである。
脳の情報を問答無用で引き出すだけで、この技自体には攻撃力はない。
だからこそ、これは次に繋げる一手。
「……気分の悪さが尋常でないな。拙者も、二度とやりたくはないものだ」
八八は引き出した脳内情報を、外部に映像と音声として出力した。
周囲の人間に、八八に、そして黒死牟自身に、聞こえるように。
黒死牟―――
兄が巌勝。弟が縁壱。
成人してからは、巌勝が『縁壱の兄』と呼ばれることはあっても、縁壱が『巌勝の弟』と呼ばれることは、ついぞなかった。
それほどまでに隔絶した差が、この双子の間にはあった。
継国縁壱は、鬼狩りの剣士に必要だったものの全てがあった。
最強の呼吸、日の呼吸。
候剣にも並ぶ不死殺し、赫刀。
心眼とは別ベクトルで見えないものを見通す、透き通る視界。
桁違いに身体能力を引き上げる痣。
それらの負荷に耐え、使いこなす強靭な肉体。
生まれたその時から、縁壱には全て備わっていた。
巌勝は稀代の天才だったが、縁壱と比較すれば、塵芥に等しい存在でしかなかった。
巌勝は必死に弟の背中を追った。
嫉妬。憧れ。憎悪。尊敬。家族愛。
沢山の気持ちがあった。
数え切れない想いがあった。
鬼になって、全てを忘れてしまったが、人間だった頃には沢山の気持ちがあった。
感情は、果て無く渦巻く。
妬ましい。おぞましい。恐ろしい。化物だ。弟のくせに。
縁壱のようになりたい。
縁壱よりも素晴らしい侍になりたい。
縁壱以外の誰にも負けたくない。
私が強くなり続けることを辞めれば縁壱が一人になってしまう。
何も成せないまま死にたくない。
これ以上みじめな想いをしたくない。
もうこの苦しみを抱えたまま無為に生きていたくない。
何を犠牲にしてでも踏みつけにしてでも強くなりたい。
誰よりも努力した者が報われることが世界の摂理だと証明したい。
感情は、底無く渦巻く。
縁壱は、兄を尊敬していた。
その尊敬を、巌勝は内心を隠しながら受け止めていた。
自分よりも遥かに優れている弟からの尊敬は、兄にとっては苦痛だった。
縁壱が使っていた痣や透き通る視界を、巌勝は修練の果てに会得した。
それを見て、縁壱がほっとしていたのを、巌勝はよく覚えている。
縁壱は心のどこかで自分がおかしな人間であることに気付いていた。
他の誰もできないことが、生まれつきできる。
それを一種の化物と思う人間は少なくないだろう。
他の誰でもない縁壱自身が、縁壱をそう思っていた。
そんな縁壱の固有技能を、生まれつきそれらを使えなかった巌勝が、努力で習得していく。
人間に使えるものであることを証明していく。
これを使う者が人間であることを証明していく。
弟の縁壱にとって、兄の巌勝こそが救いだったのだ。
弟の背中を追い、けれど全く追いつけず、されども諦めることはなく、努力を続け誰よりも高みへと登り、その努力によって人々を救い、弟を救う偉大なる兄。
子供の頃からずっとずっと、縁壱は巌勝が大好きだった。
縁壱にとって、生まれた時から自分に備わっていたものには何の価値もなく。
努力によって巌勝が得ていったものこそが、何よりも眩しく輝いて見えていた。
兄という太陽が、縁壱に人間の可能性を、未来の可能性を信じさせた。
人は生まれもったものが全てではないと。
人は努力でどこまでも行けるのだと。
『自分達は特別でないから、次に託せばいい』と、思わせた。
「兄上。私たちはそれ程大そうなものではない。
長い長い人の歴史のほんの一欠片。
私たちの才覚を凌ぐ者が今この瞬間にも産声を上げている。
彼らがまた同じ場所まで辿り着くだろう。
何の心配もいらぬ。私たちは、いつでも安心して人生の幕を引けば良い」
巌勝が、縁壱の認識を、決定的に間違えさせた。
継国縁壱に並ぶ者など、そうそう生まれるはずもないというのに。
「縁壱が、あの見上げる眼が、私を純な憧れの眼で見るあの眼を、裏切れない」
そして、同様に。
あまりにも強すぎた縁壱は、巌勝の人生の選択を、決定的に間違えさせた。
「私は……
兄上のようになりたいと言った縁壱の……
あの縁壱の眼に応えるために……
日本で二番目に強い侍になると言った縁壱の……
兄で……居るために……
この国で一番強い侍に―――縁壱より強い侍にならなければ―――兄なのだから―――」
この世界で鬼と戦える人間は、皆劣化した縁壱でしかない。
縁壱の"透き通る世界"や赫刀の継承は途絶え、痣も僅かな伝承に残るのみ。
縁壱の日の呼吸は現在使える者もおらず、少なくとも鬼殺隊はそれが使える人間が今の時代に居るとは思っていない。
残っているのは、凡人でも使えるほどに性能を落とされた各派生の呼吸と、縁壱も使っていた日輪刀くらいのものだ。
縁壱が生まれた時から備えていた痣を同じように発現させた人間達は、痣の負荷に耐えられず、25歳を迎える前に皆死んだ。
日の呼吸を真似しても近付くことすらできず、最も近付いた月の呼吸でさえ遠く届かない。
誰も。
誰も。
縁壱には近付けない。
縁壱に近付こうとした人間は、心折れるか、身の程知らずの力に耐えきれず死ぬか―――決定的に間違えるか、しかない。
「何故、私は縁壱のように完璧でないのだ?
何故縁壱のような完全な侍になれないのだ?
時間? 時間か? 修行が足りない?
痣が出れば齢25を迎える前に死ぬ。
時間はもう無い。道はもう無い。
嫌だ。縁壱に負けたまま……一度も勝てないまま、死ぬなど。
こんな……不完全な兄のまま……
長き時があれば完成させられるはずの極めた技を抱えたまま……死ぬなど……!」
人の善意を信じる者は人の善意を見た者である。
人の可能性を信じる者は人の可能性を見た者である。
稀代の傑物である縁壱が人の善意と可能性を信じられたのは、双子の兄である巌勝が、善意と可能性を見せることでずっと縁壱を救ってきたから。
兄は無自覚に弟を救い続けた。
真に嫉妬に狂うのは、真剣に真面目に生きてきた者である。
手を抜いて生きている人間は狂わない。
真面目に生き、人生の多くを剣に捧げ、全力を費やし、手に出来た血豆が潰れるほど剣を振り、周囲に褒められた天賦の才で強くなっていることを感じ……その上で、叩き潰される。
人生も努力も、何もかも『お前の方が弱い』で無慈悲に無価値にされる屈辱。憎悪。嫉妬。
弟は無自覚に兄を壊し続けた。
巌勝が鬼となり、黒死牟の名を頂いた時にはもう、彼の心の『目には見えない大切な部分』が、どうしようもなく壊れて果てていた。
「何をしてでも縁壱に勝ちたい。何に成り果てても。―――負けを認めたくない」
数え切れない感情があった。気持ちがあった。想いがあった。
その記憶のほとんどを、黒死牟は忘れている。
巌勝だった頃の自分の気持ちも。想いも。願いも。信念も。愛も。
何もかもが"鬼舞辻無惨に都合の良いように"、捻じ曲げられている。
だからこそ。
それを音声と映像として出力することに意味があった。
鬼舞辻の記憶操作は記憶を消しているわけではない。忘れさせているだけだ。
死の淵に至った鬼は、忘れていた人間の頃の記憶を思い出すことがよくある。
脳にその情報がある以上、八八はそれを取得し扱うことができた。
外部に映像と音声として出力された記憶は、鬼の心の深いところを刺激する。
それは最悪、鬼に自害衝動すら引き起こすものだった。
「縁壱……縁壱っ……!」
八八が記憶を映像と音声に変える。
それが黒死牟の心の触れられたくない部分を刺激する。
人の心が蘇りかける。
しかし鬼舞辻の血がそれを抑え込む。
『強くなりたいのではなかったか? お前はこれで終わりなのか? 黒死牟』
血が勝手に肉を動かす。
心を捻じ曲げる。
また、思い出されかけた記憶が薄れていく。
鬼舞辻の血が濃ければ濃いほど、鬼舞辻の悪しき干渉は強くなる。
黒死牟の人の心は戻らない。
黒死牟の見たくないものを見せつけ、人の心を蘇らせようとする侍の力。
―――巌勝は縁壱に抱いていた気持ちは憎悪と嫉妬だけではなかった。
黒死牟の現実逃避に力を貸し、人の心を忘れさせようとする鬼舞辻の力。
―――鬼になって、弟と仲間の心を裏切り、多くの罪なき命を虐殺してきた。
二つは拮抗し、黒死牟の心は人と鬼の間を行ったり来たりして、延々と苦しむ。
人の心が罪悪感、後悔、決意、信念、愛を思い出す。だから苦しい。
鬼の心が嫉妬、怨恨、執念、憎悪を強調する。だから苦しい。
どちらに転ぼうが地獄で、心が救われる道はない。
それは先程、黒死牟の誘いに乗って鬼に成り果ててしまった場合の獪岳が、いつかそうなっていたかもしれない、もしもの未来の姿でもあった。
冷静さは失われた。
技のキレは落ちた。
肉体の動きも悪くなっている。
鬼の身体能力で、冷徹に極めた人の技を放つ恐るべき鬼はもう居ない。
『ここまで人の心を踏み躙れてしまう』からこそ、産屋敷はこの力の使用を禁じていた。
「縁壱」
「何故だ」「許せぬ」「妬ましい」
「月と日」「兄と弟」「劣と優」
「なぜ」「私は」
「いやだ」「どうして」
「誇りの弟」
「なぜだ」
「縁壱」
巌勝だったものが刀を振る。
黒死牟の刀より、太陽になれない月が無数に放たれる。
何故こんなに必死に刀を振ってきたのか、思い出せない。
必死に刀を振って誰に追いつきたかったのか、思い出せない。
「ああああアアアアッ!!」
地を走る、巨大な月の刃。
暴走する感情が技の威力を上げる。
暴走する理性が技のキレを下げる。
強さが増し、弱さが増えた。
今の黒死牟は先程までの黒死牟より鬼らしく、放つ技は強烈で恐ろしくなっていて、けれど付け入る隙が時折僅かに気配を見せる。
候剣をかすらせることすら難しい歴戦の剣士は、もうどこにもいなかった。
「ズバズバ何をやってる!?」
だが攻撃の速度、密度、連射速度に攻撃範囲がまた上がったことで、八八は本格的に攻めあぐねるようになってきた。
絶え間なく切り刻まれる。
剣を振っても届かない。
銃を撃っても銃弾ごと両断される。
狂乱の極みにあっても、技のキレが落ちても、黒死牟が肉体に染み付かせた月の呼吸の技の脅威は健在である。
「ぬぅァあああああ!!!」
だが、ここで。
八八の指示を無視して飛び込んできた少女が居た。
少女は誰よりも速く、誰よりも美しく、無駄なく速い歩法で戦場に飛び込み、蛇行する疾走にて月の合間を抜け、八八の体を掴んで攻撃範囲を離脱する。
「姫は侍が守るもの、だったっけ」
攻の錆兎。防の義勇。速の真菰。
柱に相応の力を持つ、水の呼吸の同門三人。
人呼んで―――水の三本柱。
「でも八八くんが私をどう思ってても、どうするかは私が決めることにしてるから」
八八はこっそり真菰を『作戦において一番安全な位置』に置いていたが、そんなことは知ったことじゃないと言わんばかりに、真菰は途中で飛び出してきた。
勝つためではない。
負けないためでもない。
ただ、八八を殺す方法を試すために、八八を延々と切り刻もうとした黒死牟の意志を、一つでも多く邪魔するために。
八八が味わう痛みを、少しでも減らしてやるために。
友のために。彼女はここに居る。
「真菰姫、戻れ」
「やだ」
「……水の呼吸は技は柔軟だが皆頑固……よかったな……で……それが何の役に立つ!」
「さぁ、なんの役に立つんだろうね? ふふっ」
微笑む真菰を見て、黒死牟は見たことがあるような、ないような、そんな不思議な既視感と不快感を覚える。
彼は思い出せない。
覚えているはずなのに忘れている。
真菰が微笑みの裏で八八に向けている感情は、黒死牟が巌勝だった頃、縁壱と共に戦うために妻と子を捨てた時、妻が巌勝に向けた感情と同じもの。
『一人で行かないで』という、複雑な感情が絡まった心の叫びだった。
だから苛立つ。
だから後悔する。
真菰を見ているだけで、黒死牟はかつて捨ててしまった妻と子を思い出す。
"すまない"と心が謝る。
"思い出したくない"と、心が逃げる。
鬼の体が記憶を弄り、現実から黒死牟を逃避させる。
夜の帳が降りるように、どうしようもない現実感の圧と共に、無数の三日月が飛来する。
真菰は八八を庇い、流れるような回避と攻撃を組み合わせる参ノ型と、敵の攻撃も巻き込める渦の技である陸ノ型を組み合わせた。
刀や鉄槌で叩いても途絶えることのない流水の如き技が、柱級の技量で放たれる。
月をかわし、月を巻き込み、巻き込んだ月を別の月にぶつけ、敵の力を利用して無理なく全ての月を粉砕していく。
黒死牟の技が夜空を切り裂く月光ならば、真菰の技は決して砕けない水面の月だ。
まさに、柔剣。
非力な女性剣士が目指すべき究極系のような剣術。
柔軟に受け、柔軟に攻め、敵の力を利用する。
真菰の身軽さと素早さもあって、八八の金剛夜叉流よりも遥かに上手く、黒死牟の全力攻撃を捌いて落としていく。
「八八くんを切り刻んで磨り潰して、鬼の血を入れたいんだっけ?」
真菰が、鮮やかな青色の刀を、離れた位置で刀を構える黒死牟に突きつける。
それは、八八同様与えられたばかりの新品の刀。
自分の刀を失っていた真菰に渡された、真菰専用の軽く鋭い、切れ味で斬る日輪刀。
真菰のため、刀鍛冶達が徹夜してまで仕上げてくれた一品。
獪岳と善逸が鬼と戦っていた夜、夜通し刀鍛冶達が頑張っていたことに、何の理由も無かったなんてことはない。
いつだって皆、全力だ。
戦っているのは剣士だけではない。皆、共に戦っている。共に守ろうとしてくれている。
「やってみなよ。できるものなら」
「不遜……!」
再び剣を振ろうとした黒死牟を、更なる乱入者の剣閃が襲った。
神速の接近。雷鳴の攻勢。人影は三。
完璧でない三人が、完璧な連携で黒死牟を追い詰める。
黒死牟はたまらず、跳んで後退した。
奇襲だったとはいえ、黒死牟の額に小さな傷がついている。
天元が笑い、善逸がほっと息を吐き、獪岳が真面目腐った顔で刀を強く握っていた。
「てめェがこいつの何を知ってる? 何が楽しくて刻んでやがる」
天元が黒死牟と相対し、挑発する。
顔は笑っているが、言葉に怒りがにじみ出ていた。
顔にも態度にも出さないが、友を切り刻まれて何も思わないほど、宇髄天元は冷めたつまらない男ではない。
真菰も。
天元も。
八八の尊厳を踏み躙る力を知った上で、何も変わらないで居てくれる。
それがどれほど八八の救いになっているか、二人は毛の先ほども理解していないだろう。
だが、きっとそれでいい。
救われた側がそれを覚えていれば、きっとそれだけでいい。
「鬼ごときが派手にいたぶっていい奴じゃねェんだよ! クソ鬼がァ!」
叫ぶ天元を見て、黒死牟は不快感と憎悪を覚えた。
何故不快感を覚えたのか、黒死牟は自分でも分からなかった。
脳の記憶にはあるが思い出せない。
忘れていないのに忘れている。
巌勝が黒死牟になった後、他の鬼からの伝聞で、黒死牟は縁壱が鬼殺隊を追放されてしまったことを知った。
兄が鬼になったこと。鬼舞辻無惨を取り逃がしたこと。様々な理由があったと聞いているが、黒死牟は知っていた。
鬼殺隊にとって、縁壱はどこまでも『異物』で、『仲間』では無かったということを。
仲間だったなら、生半可なことで追放されるわけがない。
擁護してくれる人間がたくさんいれば、多少やらかしても温情をかけられる。
だが、そうはならなかった。
黒死牟の弟は、継国縁壱という鬼を超える怪物は、どこまでも強き異端扱いで、鬼殺隊の多くの人間に、仲間と扱われることも友と扱われることもなかったのだ。
だから、許されず追放された。
化物のような人間は、化物である鬼のように忌み嫌われる運命にある。
縁壱は一人で死んでいった。仲間にすら忌み嫌われて。
八八は一人ではない。寄り添ってくれる仲間がいる。
何故か、黒死牟は不快で不快で仕方なかった。
何故か、黒死牟は憎くて憎くてたまらなかった。
自分が何故許せないのかも、大事な記憶が欠けている黒死牟には、分からなかった。
「最後に引っ掻き回してくれてありがとうよ八八。おかげで完成したぜ、『譜面』が」
「ここで来たか!」
「ああ! ここで来たぜ!」
憎悪のまま放たれた無数の三日月が、こともなさげに、天元・獪岳・善逸によって切り落とされた。
黒死牟は目を疑う。
「その動き……間違いない……
『譜面』の作成によっていかなる鬼をも討つ男……
二人の雷の剣士を連れ『音柱』と呼び称される剣士……宇髄天元!」
「おうッ! 俺だァッ!!」
『譜面』。
宇髄天元独自の戦闘計算式である。
分析に時間がかかるものの、敵の攻撃動作の律動を読み、音に変換する分析法だ。
全体を見ることでまだ見えていない癖や死角も分かる。
唄に合いの手を入れるが如く音の隙間を攻撃すれば、それは綺麗に敵に当たる。
八八と天元は、戦場で友誼を繋いだ二人である。
二人が戦場で見つけた必勝法が"これ"だった。
八八が不死身の体で敵と長時間戦う。
天元が八八と敵の戦闘を観察し、譜面が完成してから参戦する。
どんなに長く戦おうと死なない八八と、長時間敵を分析すれば八八が倒せない鬼をも倒せる天元―――この戦法で、今まで倒せなかった鬼は居ない。
不死の戦士と音柱は、互いを友として信頼し、最高の共闘相性を持っている。
更に、二人の成長が更にその共闘を高めていた。
八八の技能の成長は、より多く敵の奥の手を引き出し、譜面の完成度を引き上げ。
天元は譜面の恩恵を自分だけでなく弟子二人にも与えることができるようになり、三人の緻密な連携で、どんな敵をも倒すフォーメーションを構築していく。
「なんか刀がめっちゃ禍々しく変形してない……? あれ食らったら死ぬよねねえ死ぬよね」
「今更ビビんなカス。こっからが俺達の踏ん張りどころだ!」
大きな声を上げ、黒死牟に対し心底怯えている獪岳が、痩せ我慢で立ち向かい、叫ぶ。
「壱ノ型しか使えないテメェと、壱ノ型だけ使えない俺!
後継に恵まれなかった師匠が気の毒でならねえよ!
……だからな!
俺とテメェで―――"俺達で上弦の壱を倒しました"って報告に行くぞ! 善逸ッ!!」
「……おうっ!」
若き二人が踏み込む。
天元が二人に合わせて動く。
八八と真菰が息を合わせて飛び込む。
狂乱の中にある黒死牟に向け、五人の剣士が刀を振り降ろした。