"U"を失ったな……
そこは、現実味がないほどに『屋内』を継ぎ接ぎしたような空間だった。
上も下も無いような、外も内も無いような、異様な場。
息が詰まるような圧迫感が満ち満ちている。
その理由は、この空間に王のように君臨するその男が、苛立つ鬼舞辻無惨だからだろう。
異空間・無限城。
鬼にとっての最後の城。
人が決して足を踏み入れることができない領域であり、十二鬼月にとっては無惨に呼び出された時に招集される場所……鬼の異界の本拠である。
頻繁に入れ替わる下弦の鬼ではここに来たことがない者も珍しくないが、百年以上入れ替わりが無かった上弦の鬼ならば、過去にここに来たこともあった。
そんな無限城の中心の空間の片隅で、無限城の内装を見上げる男が居た。
男の名は
鍛え上げられた肉体は特異な雰囲気を纏い、血鬼術を発動させる鬼の力とはまた別の、『鍛え上げられた力』を感じさせる。
知識があるものならば、彼の体に刻まれた黒い線が江戸時代などに施される刺青刑のものであることを看破するだろう。
腕周りの二本線から、江戸、甲府、奈良、大阪あたりで刺青を入れられたことも、あるいは見抜くかもしれない。
縦に腕を横断するような刺青や、体全体に施される刺青は刑罰例に無いため、猗窩座の刺青は腕のそれを基点にしていることがよく分かる。
全身に刺青が走る猗窩座は、知識の無い者には異様な体模様の鬼に見え、知識がある者には『全身が罪の証だらけの鬼』に見えた。
「……上弦の壱がやられた件が、ようやくか」
上弦の鬼が全員招集される時。それは、上弦の鬼が倒された時だ。
だがここに集められた者は、既に皆黒死牟の死を知っていた。
すぐ呼ばれないことを不思議がっていた者も居たが、知っている者は知っている。
今の無惨が、噴火直前の火山のようになっている、その理由を。
「猗窩座殿」
「童磨か」
「おとなしくしときなよ。今の無惨様かなりヤバいからね」
「……なるほどな」
上弦の弐、童磨が扇で顔を隠し、童磨に密かに語りかける。
黒死牟が死んだ今、彼らが鬼舞辻配下のツートップだ。
「……」
「……」
上弦の参と上弦の肆は口を開きもしない。
無限城の中心で、無限にも思える怒気を秘め、未だ口を開かない鬼舞辻の怒りに触れてしまうことを恐れているようだ。
「堕姫、余計なこと言うんじゃねぇぞ」
「ん」
上弦の陸、妓夫太郎と堕姫の兄妹は、兄が妹の口を閉じさせている。
妹が迂闊な発言をしがちなことを、この兄はよく知っていた。
皆、知っている。
鬼舞辻無惨が、怒りで仲間を殺すことを。
癇癪で部下を殺すことを。
誰か一人が失言すれば、次の瞬間に唐突に、ここに揃った上弦の鬼五人全員が殺されてもおかしくはない。
鬼舞辻無惨は、そういう男だ。
ましてや今の、時折怒りに身を震わせている鬼舞辻無惨なら、沸点は更に下がっていると見て良かった。
「黒死牟が死んだことは、お前達も全員知っているな」
上弦の鬼達が跪き、鬼舞辻の語る言葉を粛々と受け止め、頷いていく。
「お前達の数字を、まず一つずつ上げる」
無惨はまず、上弦の五人を昇格させた。
上弦の壱。氷の鬼、童磨。
上弦の弐。拳の鬼、猗窩座。
上弦の参。醜の鬼、半天狗。
上弦の肆。壺の鬼、玉壺。
上弦の伍。双の鬼、妓夫太郎。そして堕姫。
「そして、お前が新たな陸だ。鳴女」
「有難き幸せに御座います」
そして無惨の背後で沈黙を保っていた『もう一人』が、上弦に選ばれる。
十二鬼月の上層、鬼舞辻無惨に最も近い力と血を持つ六人―――上弦の鬼。
一人減って、一人入って、また元通り。
とは、いかない。
鬼舞辻無惨を除けば間違いなくぶっちぎりの最強であった鬼、黒死牟の死は、上弦の鬼達に『そんなバカな、あの黒死牟が』という驚愕を与え、『油断すれば自分もそうなる』という戦慄に似た気の引き締めを与えていた。
彼らにはもう、毛の先程の油断も無いだろう。
鬼舞辻が滅多に戦わない以上、黒死牟という存在は、鬼の中で最強の代名詞である。
それが負けたのだ。
弱い鬼が倒されただけなら、上弦にも油断はあったかもしれない。
だが、自分より強い鬼が倒されているのに、"今の世代の人間"を侮る者などいなかった。
「黒死牟に星砕く一撃を与えた男。
そして最近、鬼の情報共有を妨げる男……
八八八八八八という男が居る。
この男が黒死牟を倒すために切った隠し玉が二つあった。
この情報を残した黒死牟の中の私の細胞を探し出すまでどれだけかかったことか……」
大気剣はあらゆるものを切り刻み、吹き飛ばした。
黒死牟の一部を、その体内の無惨の細胞の一部を。
それは時間が経てばいずれ自然と日光に当たり、消滅するはずのものだったが、岩と岩の間に落ちていたそれを、現上弦の陸・鳴女が見つけ出していた。
無惨が鬼から情報を抜き出す時には、二つの方法がある。
一つは、自分の血と細胞を媒介にしたネットワークによる情報収集。
もう一つが、触れた鬼の細胞に情報を吐かせるものである。
裏切者を取り込んだ後にその取り込んだ細胞に尋問を始める、ということすらできる。
大気剣で散逸した細胞を回収することで、鬼舞辻は黒死牟を殺した八八の切り札の情報を、十分すぎるほどに獲得していた。
「隠し玉は大気剣。脳の読み取り。この二つだ。
脳の読み取りは気を付けていれば問題なくかわせる。
大気剣は強力だ……が。
一般人を巻き込むからだ。これよりお前達に人が多い場所以外での戦闘を禁ずる。それと……」
鬼LINEネットワーク(仮称)を通さず、八八に気付かれないよう、鬼舞辻は自分の口から八八の情報を全て伝えていく。
上弦は情報を共有したが、鬼舞辻の怒りを理解できなかった。
『あまりにも八八が強いから無惨がこんなに怒っている』と思っていたからだ。
八八の脳読み取りは触れなければ発動できず、柱クラスの剣士と戦っても余裕な上弦からすればかわすのは難しくない。
大気剣に至っては人が多く居る場所では使うことすらできない。
後に残るのは、不死と不死殺しが売りの不死身の侍のみ。
その能力の特異性こそ脅威だが、上弦は皆――壱の童磨と弐の猗窩座は特に――1対1の戦いで負ける気はしなかった。
上弦の者達が脅威に感じたのは、むしろ他の鬼殺隊だったと言える。
八八と組み合わせることで、通常以上の活躍を見せる、十数人の柱クラスの剣士の群れ。
それこそが黒死牟を殺したものだと、上弦の鬼達は考える。
"絆の強さ"などという臭い言い回しをする鬼は居なかったが、それ以上に相応しい表現がないこともまた事実であった。
無惨が語り、上弦が聞き、各々が各々らしい思考をしていく。
それらはおそらく、八八と対峙した時に開示されるものになるだろう。
恐るべき強敵達。恐るべき鬼達。彼らは人が討つべき魔物として、暗躍の会議を続ける。
「そして、我々は―――」
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煽りが始まり、手を変え品を変えた煽りが繰り返され、瞬時に無惨の脳内が沸騰し、安全なところから四六時中煽ってくる八八への怒りが―――爆発する。
突然キレた無惨の、癇癪という爆弾の唐突な起爆に、上弦全員が巻き込まれた。
それは鬼としての鬼舞辻無惨の全力全開。
山を崩し、海を砕き、空を滅ぼす全方位攻撃であった。
周囲の敵全てを粉々にする、『痣』が出た柱級の剣士ですら目では追えない、通常の人類では抗いようのない『鬼舞辻無惨という災害』そのものの顕現だ。
問題は、周囲に人間も鬼も居ないということなのだが。
その一瞬の癇癪により、無限城が崩壊しかける。
童磨が吹っ飛び、猗窩座が両断され、半天狗が真っ二つになり、玉壺が壁の染みになりかけ、妹を庇った妓夫太郎が粉々になり、鳴女の胴に大穴が空いていた。
だが、全員生きていた。
無惨が"そうしよう"として意識的に殺さない限り、攻撃の即死力は低下する。
無惨の殺すつもりの攻撃、日光、日輪刀、候剣でなければ、鬼は死なないのだ。
鬼同士の殺し合いが無駄と言われる理由である。
「ぐっ……!」
上弦はボロボロになっていたが、なんとか無惨の攻撃に耐え、生き残る。
流石は鬼の最上位。
全員が鬼舞辻から大量の血を与えられているだけあって、その耐久力も絶大だ。
危うく『上弦六人を殺した鬼狩り最大の功労者』という称号が鬼舞辻に付くところであった。
「何もかもが苛立たしい……!
朝昼晩煽ってくるあの男も!
あの男が演じる鬱陶しい人間も!
『大して好かれてないのに彼女気取りの女』!
『"理想のパパ"とかいう本を読んでベタベタしてくる父』!
『話を聞かず論点をすり替え相手に謝らせて解決とする少年侍』!
演じられる人間がいくつあるのだ!
あの男は手を変え品を変え毎日私の頭の中に語りかけてくる!
今日はカツ丼の作り方が十時間はノンストップで流れていたのだ!
上弦のお前達もそうだ! 苛立ちの原因でしかない!
産屋敷一族はいつ葬れる!?
青い彼岸花はいつ見つかる!?
鬼殺隊すら滅ぼせず……そんな無能な貴様らを残しておく意味などない!」
激怒する無惨は、鳴女が懸命に立て直そうとする無限城を、膨大なエネルギーがこもった叫びだけで、盛大に揺らした。
世界すらも揺らすような、超越者/怪物の咆哮。
「いや、もはや、そんなことは後回しでいい!
お前達に新たな指示を命じる! そして、奴を殺せ!
……あの男だけが、私を完全に滅する刃を持っている!」
上弦の者達はただただ本能的に、疑問を持つことも許されず、無惨の指示を待つ。
「童磨! 貴様が上弦の壱だ、黒死牟の後任となり、遊びも結果に繋げろ!」
「貴方様のご意思のままに。ちゃんと期待に応えてみせますとも」
「猗窩座! 妓夫太郎! 堕姫! 柱を削れ! 奴らの歯向かう力を削げ!」
「はっ」
「だってよお兄ちゃん」
「しゃんとしろ堕姫」
「玉壺は捜し物の全てを引き受けろ! 期間内に全てを見つけなければ許さん!」
「かしこまりました」
「半天狗! 黒死牟の代わりに、あの男の不死身を壊す方法を探れ!」
「ヒィィ……お、お任せください……」
「鳴女! 全員から要求されればすぐ応え、全ての指示を達成させろ」
「御心のままに」
「そして!」
「お前達に新たな指示を命じる、と言いつつ、拙者には何も言わないのか? 鬼舞辻」
「む、お前には……ん? え? あ? は?」
八八が居た。
「よう」
「うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっっ!?!!?!?!?!?」
無惨はパニックに弱かった。
常時冷静な判斷をすることが苦手だった。
頭は悪くなくとも保身に偏り過ぎな男だった。
"生きるための最適解"以外の正解を掴み取ることが苦手だった。
彼が正解を引き当てる時は、大体自分の命がかかった時である。
無惨は瞬時に判断し、空間を操る鬼である鳴女に指示を出す。
「はるか遠方に放り出せ鳴女ッ!!!!!」
「はい」
八八の足元が開き、その体が落ちていく。
そこから接続された、どこか遠くの空間へと。
「くそっ! ハメられた……別宇宙に閉じ込められるって事か!」
「いや流石に私もそこまではできませんが」
消える寸前まで通常運行の八八に鳴女が戸惑い、八八の姿が消え、無惨が少し勝ち誇った顔で八八が先程まで居た場所に唾を吐いた。
そんな無惨に、猗窩座が話しかける。
「無惨様」
「なんだ猗窩座? ふん、奴も鳴女の能力までは把握していなかったようだな……」
「今の時点で我々で囲んで潰し、童磨が凍らせていればそれで終わっていたのでは?」
「……」
あっ、と、誰かが心の中で言った。そんな気がした。
「黙れ」
文字にし難い。
文章にし難い。
それを語ることがかわいそうなほどに理不尽な、無惨から猗窩座への攻撃が始まった。
自分に口答えする部下への制裁と、ただの八つ当たりである。
「私は何も間違えない。
私の言うことは絶対だ。
私のやることは全て正しい。
私が正しいと思ったことが、貴様にとっても正しいことだ。
お前がどう思おうと、正しいかどうかは私が決めることにしている。
……だが! 奴がこの後ものうのうと闊歩することは、私が許さん……!」
"あ、語録ちょっと感染ってる"と思った童磨の思考を読み取り、無惨がその首を刎ねた。
「感染っていない!」
普通に首を落とされても死なない童磨と猗窩座の首が宙を舞い、童磨の首を玉壺がなんとかキャッチし、猗窩座の頭部は童磨の股間の童玉の上に着地した。キンタマクラ。
童磨の体も足も動かず、猗窩座の肉体も生えて来ず、これでは合体式足立たずの玉犬だ。
だが仲間を受け止めた童磨の股間は既に酷使棒に成ったと言える。
受け継ぐのは人だけではない。
鬼も元は人。他の鬼から何かを受け継ぐこともある。
上弦の壱にして酷使棒。童磨が黒死牟から受け継いだ責任は大きい。
それは主に上弦の壱として無惨からのパワハラを受け止め続けるということでもあったが、上弦の壱の名に恥じないよう生きていかなければならないということでもある。
童貞を磨くと書いて童磨だが童貞ではない童磨は、上弦の壱の名の重みを深く感じていた。わけでもなかった。割とどうでもよく感じていた。
キレ散らかす無惨が撒き散らす理不尽が、周囲の上弦を襲い続ける。
「それは痴漢だよ猗窩座殿!」
「殺すぞ」
「無理だよ! 猗窩座殿俺より弱いじゃないか!」
「っ……」
「これからは上弦の壱として無惨様の配下筆頭の俺に敬意を払ってくれ猗窩座殿!」
「……」
「俺は寛大だから俺の股間に頭すりすりしてる今の猗窩座殿も許すよ!」
「っ……!」
「上弦の壱だからね。あと敬語も使ってくれるかい?
その方がほら、猗窩座殿が敬意を払っていた黒死牟殿っぽいだろう?」
「……!!!」
猗窩座と童磨の首を拾ってそれぞれの肉体にくっつけていた玉壺に、鬼舞辻が指示を出す。
「玉壺、奴を追え! 鳴女に送らせる。できれば捕獲しろ」
「は、はい! 分かりました!」
鳴女と玉壺が、鬼舞辻から逃げるように消える。
八八が場に現れた瞬間に一瞬で満ちた空気が抜けていくような感覚があって、復帰した童磨が笑い、半天狗が自分本位に物陰に隠れた。
「人にも鬼にも理不尽の塊が居るのちょっと笑っちゃうよね、ねえ、半天狗殿」
「ヒィィィ……ど、童磨殿……」
無惨は戦力的には全く追い詰められていなかったが、もう限界だった。
便利なことなど分かっていた。
捨てればもう二度と取り戻せないことは分かっていた。
この情報共有こそが『万が一鬼が裏切ろうとした時』の抑止力になることは分かっていた。
分かった上で、鬼舞辻はその全てを放棄する。
「今決めた。もう決めた。私は鬼の情報共有の繋がりを破壊する……!」
鬼舞辻と、全ての鬼と、八八の接続が、断絶された。
鬼舞辻は勝つために相当な賭けに出た―――わけではなく。
単に、鬼舞辻は自分にとって不快なものを自分の周りから消し去り、平穏を取り戻すためならば何でもする男なだけである。
これでもう八八は鬼舞辻に四六時中嫌がらせができない。
だが同様に鬼舞辻も多くのものを失ってしまった。
上弦の伍の分身であり片割れである、堕姫もどこか寂しそうだ。
継国縁壱の粘着自治厨行為を数百年経っても忘れられず、八八に煽られるとしばらく怒りが収まらないのが鬼舞辻無惨。彼はもう千年は人間社会を荒らしているクソコテである。
恨みを中々忘れられず、ごく自然に荒らし行為を繰り返す鬼舞辻無惨のアンチスレ(鬼殺隊)は年月をかけ成長し、今では無惨にとって最悪の脅威となっていた。
対し、堕姫は違う。
彼女はバカなので一晩経てば割と忘れる。忘れないのはトラウマくらいのものだ。
クソリプ耐性、レスバ適性……鬼舞辻より頭が悪いことが、レスバ界では長所となる。
八八とのレスバに苛つきつつ、楽しんでいる面もまた、彼女の中にはあった。
堕姫は絶世の美女が鬼となった女だ。
世が世なら、そのレスバトル適性と飛び抜けた美貌で、SNSのクソリプおじさん達を動員し、八鉢とも互角のクソリプレスバトルを繰り広げていたかもしれない。
それはさながら、堕姫という『姫』を守る、クソリプおじさんという名の侍衆。
サムライ8世界において適解である、"一人の姫を守る多くの侍"という在るべき形の体現。
彼女がこの時代で鬼として八八達と戦う運命にあったことは、八八にとっては幸運だったのかもしれない。
八八が堕姫をレスバトルで倒せる可能性は、大正のこの時代だからこそ存在している。なお物理的には一対一ならいつでも倒せる。
堕姫が八八に確定で勝てるのは顔面偏差値マウントだけであるからだ。
これが平成の世であったなら、顔の良さだけで大量のフォロワーをけしかけられる堕姫にも、八八を散体させる可能性が僅かにあったかもしれないが―――時代が、八八に味方する。
八八と堕姫の力関係は、大正という時代そのものを現していた。
「あーあ、あのやり取りも終わりか。
せっかく私のこともお兄ちゃんのこともあいつに褒めさせるようになってきたのに、ちっ」
「堕姫お前なに嵌ってんだ」
妓夫太郎の兄の拳が、軽くコツンと堕姫のこめかみを打った。
その少女は、春の陽気と暖かな風の中、少し陽気に洗濯物を干していた。
「ふんふーん」
少女の名は神崎アオイ。
後方に下がり、ここ蝶屋敷で傷ついた隊士の治療に専念している少女である。
柱のカナエやしのぶからすれば、妹のような存在だ。
八八が天元と話していた『前線から下がって後方に下がった隊員』の同類であるが、今でも並の隊士に訓練をつけてやれるくらいには強い。
彼女は今日も今日とて、しのぶ達が拾ってきた孤児の少女達に医を教え、指示を出し、人の命を救い続ける。
陽光に干されたシーツの香りが、アオイはなんとなく好きだった。
と、そこで、アオイの服の袖を、近くに居た小さな少女が控え目に引く。
「アオイさん、あれなんでしょうか」
「あれ? あれってどれ?」
「あれです、空の……」
アオイと、アオイの手伝いをしていた少女達が、空を見上げる。
さっ、と少女達の顔が青ざめる。
空から、カラスに運ばれて来た生首が、彼女らの前で平然と喋った。
「空からお邪魔する。間に合ったな」
「きゃあああああああ!!」
「ぎゃあああああああ!!」
「ひぃいいいいいいい!!」
「おばけぇえええええ!?」
少女らの悲痛な叫びが響く。
助けを求める悲鳴。
罪なき少女らの声。
不死身の妖怪によってしばらく夢に見そうなメンタルダメージを食らった少女らを救うべく、悲鳴を聞いた女が飛んで来る。
蝶屋敷のお姉さんにしてヒーロー。しの八である。
「こぅらぁ! うちの! 子達を! 怖がらせるな! このドぽんこつ男!」
「ぐえっ」
しのぶの飛び蹴りが八八に炸裂し、宙を舞い落下する八八の首をしのぶが右手で受け止めた。
「というかどうしたんですかその姿」
「上弦二人と一人で戦って必死に逃げて来た。ダメだなアレは、拙者は相性が悪い」
「ええ……とりあえずお疲れ様です」
「そうとも言えるし、そうでもないとも言える」
しのぶが八八の切断された首の断面を見ると、そこには不可思議なものがへばりついていた。
"歪んだ空間"と表現するのが正しいのだろうか?
視覚的におかしいことが分かるが、具体的にどうおかしくなっているのか、そこが非常に分かり辛い。現代の人類の常識を遥かに凌駕している。
空間干渉系の血鬼術、それも上弦クラスのものであることを、しのぶはひと目で見抜いた。
歪んだ空間が八八の傷にへばりつき、回復を阻害している。
頭自体に傷がないのは、切り離した首の断面の空間を歪めることで再生を邪魔するに留め、頭が粉砕・再生されることで、この血鬼術の効果を外されることを恐れたのだろう。
八八と共闘している誰かが居れば八八の頭を切るだけで対処できただろうが、単独で戦っていた八八にはそれができなかったのだろう。
(これは……私達が何かしないと治らないかな)
"鬼側の八八さん対策が進み始めている"と、しのぶは感じていた。
しのぶは八八の頭を優しく抱え上げ、脇に抱え、手術室に向けて歩き出す。
「しの八は藤の花のいい香りがするな」
「嗅ぐな!」
「ぐえっ」
歩き出した直後、八八の頭をボールのように地面に叩きつけた。
"あれでおしおきを済ませて嫌いにならないのは仲良いなあ"とアオイは思い、地面を転がる八八の頭を拾い上げる。
「あの、大丈夫ですか……?」
「感謝する、
「いや、まあ、はい。私姫ってガラでもないですけど」
「しの八……"優"を失ったな」
しのぶがイラッとしたのが、八八の頭を抱えてるだけのアオイにも分かった。
「アオイ、金魚鉢を持ってきて。人の頭が入るくらいの大きさのものを」
「しのぶ様やめましょうよそういうのは……」
「蝶屋敷のインテリアにして一生飾ってやる……!」
「やめてくださいしのぶ様! 八八さんは死にませんけど蝶屋敷の評判は死にます!」
「大丈夫よ。金魚鉢に水を入れれば八八さんの口は塞げる……!」
「水に浮かぶ八八さんの生首を夜に見たら私達きっと失神します! やめてください!」
しのぶを止めに入ったアオイの手元から八八の首が転がり落ちる。
いつの間にやらそこに居て、地面に転がった八八に微笑みかけ、頬を指先でつんつんとつつき、転がる生首を拾い上げ、近くの台の上の花瓶に飾る女性がいた。
「あらあら、また生首なのね」
「む……カナエ姫。なぜ拙者を花瓶の上に」
「ごめんなさいね。
もうちょっと高いところに置かないと、スカートの中見えちゃう子がいるから。
そうなったらしのぶが鬼になっちゃうもの。
八八くんはこんなになっても生きたままだから、これも生花……かしら。ふふ」
「カナエ姫は流石だな……拙者感服いたした。鼻の呼吸で生鼻を吟じよう」
「姉さん!」
「冗談よ冗談~」
「お前もいずれカナエ姫の冗談が分かる時が来よう」
「分かってますよ! 私が怒ってるのは二人してこっちをからかいに来てることもです!!」
カナエはしのぶの姉だが、しのぶと対照的に落ち着きがあって、のんびりとしている。
ハッキリ言って、語録への適応度で見れば姉のカナエの方が高いということはない。
と、いうか、しのぶの方が遥かに高いくらいだ。
にもかかわらずカナエの方がストレスを溜めていなさそうなのは、カナエが語録という激流を滑らかに受け流しているからだろう。
八八が何言ってるのか分からなくても、カナエは微笑んでごまかす。
微笑んでごまかしておけばなんとかなることを知っている。
素で図太い女なのである。
息が合うから八八と漫才のような掛け合いになるしのぶと、八八が何ほざいてるのか分からなくても微笑んでとりあえず合わせられるカナエとでは、関係性が違う。
カナエがこそこそと耳打ちして、八八が応え、二人の声が合わさる。
カナエが八八の生首を胸の前で抱え、怪談噺の挿絵のように、おどろおどろしい表情を作った。
「「いちまーい、にまーい、一枚足りない、うらめしや~」」
「蝶屋敷と言えばこれよね~?」
「然り」
「それは
怪談の
姉にも振り回され、八八にも振り回される。しのぶはそういう性格をしている。
ただそれでも、怒るだけで嫌いも憎みもしないのは、八八とカナエがしのぶを好いているということを、しのぶも分かっているからだろう。
「生首の早口言葉を聞いた覚えがあるのだが拙者、とんと思い出せん」
「生首生米生卵じゃないかしら~?」
「ああ、それだ。確かそんなだった」
「物騒になってる! 私それ絶対違うと思う!」
「しの八は言える自信が無いのだろう? なにせ早口言葉だからな」
「! なんですって……?」
「生首生米生卵! ふん、こんなの拙者でなくても、義勇ですら言えよう」
「私だってそのくらい余裕で言えますよ! 生首なまひょッあ痛ぁー!」
「噛んだわねしのぶ」
「噛んだなしの八」
「ひゃんへひゃひぇん」
「次に拙者と会うまでに練習しておけ、早口言葉実力誇張しのぶ」
「腹立ちますね本当に!」
仲良いわね、と。姉は思った。