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二章・大峰山
一般的に、鬼とは恐怖の象徴である。
羅城門に隠れていた鬼は、その先入観から鬼に友好的に話しかける人間がいるなどと考えたこともなかった。もし、そんな人間がいても、それは襲われないために機嫌をとっているか、頼光のように鬼たちを騙すためかの二択でしかなかった。
だからこそ、鬼がそのときに直面した状況は、彼女を大きく混乱させるのに十分すぎた。
都良香と名乗る貴族が、真の意味で友好的に、そして、無警戒に話しかけてきたのだ。
「いや~、鬼がこの羅生門の近くに鬼がいるという噂は本当だったんですね~」
壁の外、屋根に佇む良香が陽気に口を開く。壁を隔てて話しかけられているので、その容姿は不明。また、声質も中性的なため、鬼は貴族の性別すら判断出来ない。陽気な声音から、その元気さだけが、無駄に主張されている。鬼は混乱する頭を整理して、この状況をどうやって切り抜けるかを考える。
(こいつを殺すか?いや、こいつは貴族のようだ。さっき衛兵と話していたし、ここで殺せば私の居場所がばれる。)
先ほど、この人間は『文章博士』と名乗っていた。鬼には、それがどれ程高い位なのかは分からなかったが、それでも、ここで殺せば後々危険な状態に陥ることは目に見えていた。
だったら、
(『自分が鬼ではない』とうs・・・
「まさか、綱殿たちに騙されて酷い目にあった鬼たちの一人であるあなたが、『自分が鬼ではない』と嘘をつくはずはありませんよね」
この場を切り抜けるための鬼の思考は、良香の、まるで思考を読んだような発言に遮られてしまった。
「聞いていますよ。何でも大江山の鬼王は、その最後の時に自分を騙した綱殿たちに『鬼はこんな嘘をつくことはない。』と言っていたそうですね」
(そういえば、そんなこと言ってたなあいつ)
鬼は、今はどこにいるか分からない友人に対して、ほんの少しの怒りを覚えた。ここまで言われたら、意地でも嘘をつく訳にはいかない。
そして、ここまできたら、鬼は自分が鬼であると認める他、道は残されていなかった。
「ええ、私は鬼だg・・・じゃない。鬼ですよ。大江山の合戦で角と片腕を失っているので、現在も鬼といえるかは分かりませんが」
あくまで、危険はない。
鬼は、そう思わせるため、丁寧な言葉を選んで話した。さらに、鬼は続けて口を開き、気になっていたことについて触れる。
「私と話をしたいといいやがっ・・・仰っていましたが、一体どのようなご用件でしょうか?」
この良香という人間が、何が目的で話をしようとしているか。この返答次第で、鬼は、今後の対応を変えなければならない。
しかし、
「えっ」
「えっ」
良香の困惑した声を聴いて、鬼は思わず同じ言葉を返してしまう。良香は、数秒考えて質問の意図を理解したようで、言葉を返してくる。
「先ほど、素晴らしい歌を返して頂きましたので、それついてお話しようかと思っていたのですが、なにか不都合でも?」
「・・・はっ?」
鬼は一瞬、何が起きているのか分からなくなっていた。確かに、鬼は良香が歌った歌に対して、歌を返した。それは認める。しかし、それがどうして鬼に話しかけるという行動にでる要因にはならないだろう。
(それとも、ここで語らなかった他の理由があるのか。)
例えば、武士に鬼の居場所を報告するためとか。
鬼が思考の泥沼に嵌っていると、良香は鬼が気を悪くしていると勘違いし、慌てて言葉を重ねる。
「あわわ、もしかして歌で関係をもった人と普通に言葉を交わすのが苦手な人、じゃなかった。鬼ですか?あの博雅様と共に笛を吹いた鬼的な鬼ですか。そうだったらすみません。お願いします食べないで下さい!」
話の後半になるにつれ、良香の口を動かす速度が速くなるのを感じる。どうやら、世捨て人の類ではないらしい。鬼が考えても可愛らしい限りだが、ここで騒ぎを起こされるというのは、鬼にとって都合が悪い。
「いえっ、そうではなく、こうも人間から友好的に話されるのは、初めてなもので、少し混乱しただけです。喜んでお話に付き合いますよ」
鬼は正直に答えて、とりあえず人間を黙らせる。だが、
「そうなんですか。では是非お話しましょう!鬼が人間をどのように思っているのか興味があるんですよね」
どうやら、鬼がこの人間と話さずにやり過ごすことは、不可能になってしまったようだ。
『〇〇が好きなやつに悪いやつはいない。』というのは、どうやら、それをする者たちにとっては真実であるらしい。
それは、歌においても同様で・・・
「なるほど、なるほど。つまりあなたは桃色の髪をもった鬼で、角と片腕を失っていると」
良香の発言に鬼は素直に頷く。頷いたところで、その様子は壁を隔てている良香には伝わらないのだが、鬼はそれほど気にしていない。
話し始めてから、約一時間。鬼は、警戒は解かないまでも、良香に対して、ある程度気を許していた。ただ、先ほど『嘘をつくはずがありませんよね』と言われてしまったため、意地でも嘘はつけない。自分がここに来た目的は話の流れで出てこなかったからいいものの、自らの容姿や腕や角を失ったことについては話してしまった。その割には名乗っていないのだから、不思議なものである。
「角を失った、赤というよりは桃色の髪をもった女の鬼ですか。どこかで聴いたような気が・・・」
女であるとは話していないが、声音で性別がわかったらしい。しかし、これらの情報で、自分の目的がばれてしまうのはまずい。鬼がそう考えたその瞬間、良香の口が動く。
「もしかして、あなた!双子の鬼メイドの姉で、ハイスペックな妹に尊敬されてて、主人であるピエロみたいな見た目の人に心酔していて、pixivのプロフィールで、体重は『膝にのせても重くない』とか名前の由来は『right』とか宣っている、『〇e:ゼロから始める異世界生活』の出演者ですか?確か名前はラm・・」
「色々とダメなやつです。私の感覚だとその作品って今から千年後位の作品である気がするんですけど。それと作品名を隠す気がないですよね。もっと言いますと、『メイド』とか『プロフィール』とか平安時代には絶対に日本に来ていないであろう単語を普通に話すのやめません!」
良香が的外れな予想をたてると、鬼は怒涛の勢いでツッコミをいれる。ちなみに、メイドの起源は十九世紀の西洋なので、平安時代という設定のこの作品では、絶対に出てきてはならない言葉である。
「前半の二つはともかく、最後の一つを言うのは止めましょうよ。それ言おうとしたら、登場人物全員が古語で話さないといけなくなりますよ。そんなことしたら、作者が本当に理系じゃなくなってしまいますよ。理系の癖に国語、特に古文の偏差値しか上がらない作者の気持ち、分かります?」
息をするように出てくるメタ発言の数々に驚愕しながら、鬼はふと気になったことを口に出した。
「さっきからボケの量が多すぎませんかね。第一章では考えられないほどのボケの量な気がするんですが」
「あっ、それは、作者がこのシーンを書いた時は、もうこの小説で私たちがボケることが出来る部分を作らない予定だったからですよ~」
良香の口から、更なるメタ発言が飛び出してきて、鬼は心の中で、もうツッコミを入れるのは止めにしようと心にきめたのであった。
良香は、それから毎日、羅城門を訪れた。もともと良香は、周りから『歌の才能を持った変人』という扱いを受けているらしく、この門を訪れるという行動も、その変人的な行動の一部として扱われているらしい。鬼からすれば、鬼だと分かっていて話しかけてくる時点で変人であることは分かっていたことなのだが。
また、良香が飲食物を確保してくれたため、食料の問題は解決した。さらに鬼は、自分を生かしたその言動から、良香が自分の居場所を武士に報告する可能性は無いと判断した。
鬼と良香は、お互いに興味のある歌のこと、鬼自身の身の上のこと、千年後には童に大人気になりそうな動く絵のこと、そして、良香が興味をもっていた仙人のことについて、気が済むまで話し合っていた。
そうしている間に、鬼は丁寧な言葉遣いにも慣れてきて、警戒心も必要最低限のものになっていた。
二人がそのような生活を始めて、一週間が経過したある日、鬼は良香にいつもの元気がないことに気づいた。
「どうしました?今日は随分元気が無いようですが・・・」
歌の話が一段落ついたところで、鬼はその事実について言及する。すると、良香は少し笑った風に口を開いた。
「すみませんね。鬼に心配されるとは、驚きましたよ。まぁ、少し人間関係で悩みがあっただけですよ。親しくしていた若者が、私よりも出世しましてね。優秀な人材ですし、逆恨みも甚だしいというのは分かっているのですが、そう簡単には受け入れられませんよね、そういうの」
正直、鬼には理解できない内容だったが、良香が思い詰めた顔をしているのと、人を若者という割には良香も歳をとっていないことは、一度も顔を見たことがないにも関わらず、手に取るようにわかった。
「鬼はそういう感覚が少ないのですが、悔しいようですね。その人はどのような方なんですか?」
鬼は同情しつつ、話を進める。別に良香の最近の事情にそこまで興味はないが、自らの目的のためにも、都の様子を聞き出しておきたい。良香の傷を抉ることにもなりかねないが、向こうもこの話題を切り出した以上、この会話が続くのは覚悟の上だろう。
それでも良香は、数十秒間沈黙して、その後で口を開いた。
「菅原道真です。つい先日、従五位上になったんですよね。ほんと、私はこれからどうすればいいんでしょうか?」
「・・・それ、私に聴いてどうするのですか?というか、若者に官位で抜かれたのはそこまで思い詰めるようなことなのですか?」
思った以上に思い詰めている良香に対して、鬼は当然の疑問を述べる。一体、親しいといえど他人の出世が、良香にどんな影響を及ぼすというのか。
その発言を受けて、良香は気まずそうに声を出す。
「・・・いやね。漢詩とかの問答では、完全に上の立場として扱われましたからね、私。それに追い抜かれるのって結構周囲の目が厳しくなるものなんですよ。弟子も同然の人物に追い抜かれた無能と思われるのは、それだけで低評価につながりますからね。全く世知辛い世の中です」
鬼は、言われた事実は理解できたが、そこに込められた気持ちは理解できなかった。
(やはり、人間の心情のいくつかは理解できないものがありますね)
他人と比べるという考え方は、鬼という種族には理解し難いものがある。良香も『周囲の目』や『道真の出世』より、『それらによって自分が直接的に被る不利益』を気にしているようだ。
その日の話は、ほとんどが良香の愚痴になった。一時間ほど話したあとで、ついに良香はとある決意を決めるそれは、
「もうあれですね。京都から出ていきますかね。それで大峰山にでも行って、仙人を目指します!」
その発言は、貴族の地位を捨てること意味していた。人間の社会に興味はないが、良香がかなり大胆な行動をしているのはわかった。
大峰山とは、千年後の地図でいう所の奈良県南部にある山で、中国渡来の神仙思想や仏教、そして道教の修行のため、僧侶たちによって切り開かれた。京都からの近さも相まって、良香にとってはこれ以上ない修行の場だろう。
そして、鬼にとっても、自分の居場所を知る人間が都から消えるのは都合がいい。そう思うはずだった。
「この都で自分の協力者がいなくなるのは、私には都合が悪いですね」
鬼はそう言った。そう言ってしまった。それ以前に鬼はなにかを想ったのだが、後からの思考にその想いは流されてしまった。そして、良香はそれを聴いて、
「あははっ、やっぱり私のことをそんな風に思っていたんですね。大丈夫ですよ。私はここであなたを見捨てるようなことはしません。」
人間として、鬼に協力する。
良香はそう宣言したのだ。
「」
鬼が驚愕で言葉を失っていると、良香はさらに驚愕の発言を口にした。
「この都良香、元大江山が鬼の一人・茨木華扇のために、綱殿からその右腕を取り返して差し上げましょう!」
自らの名や、ここに来た目的。華扇が今まで良香に隠してきたことを、良香は全て知っていたようだ。
「・・・!」
華扇は、先ほど以上の驚愕の身を震わせていた。それは、壁を隔てた良香にも伝わったようで、
「あっ、ごめんなさい。自分の名前とか、隠しているつもりでしたよね。ただ、鬼の生き残りが都の近くにいると分かった時点で、どの鬼が現れたのかはすぐに調べ上げられていたんですよね。『綱殿に片腕を切られた茨木華扇という鬼が、腕を取り戻しに来た』というのは、都の貴族ならもうほとんどの人が知ってますよ」
衝撃的な断言に、華扇は動揺を隠せなかった。ここまでばれているというのは、完全に華扇の予想外だ。今この羅生門にいることが知られていないか、本当に心配になる。
散々混乱した後で、良香が言ったもう一つのことがやっと華扇の頭の中に入ってきた。
(私のために、渡辺綱から腕を取り返す?さっき、良香はそう言ったのですよね)
自分に問いかけながら、華扇は、良香がどれほど馬鹿げたことを言っているのか気がついた。
「って、何を言っているのですか?人間が鬼のために行動するなんて、大罪の中の大罪ですよ。
ここは羅城門、都の端。大声をだせば、当然周囲の人間に聞こえてしまう。それでも、華扇は大声で叫んだ。もしこれが衛兵に聞こえていたら、華扇だけでなく、良香も捕まってしまう。
徒罪は、刑部省が出している、罪に応じた時間、獄で拘束され強制労働させられる罰。流罪は、太政官が出している、追放される罰。そして死罪は、天皇のみが出すことのできた、文字通りの死の罰だ。仏教の教えに背くとされ、八百十年の嵯峨天皇の治世以降は一度も行われなかった死罪だが、人の道を踏み外した良香の行いは、特別に死罪が適用されてもおかしくはない。
そんな状態になっているにも関わらず良香は冷静に、一週間も良香と話していた華扇ですら一度も聞いたことのない程の慈愛に満ちた声で、華扇がどうしても否定したかった事実を口にする。
「この状況で私のことを心配している時点で、あなたはもう『鬼』ではありませんよ」
その時、華扇の中で何かが崩れた。そして、自分が良香のことをどう思っているかを考え、顔をしかめる。良香の声が優しく、そして、残酷に響く。
「例えあなたが腕を取り戻して、力の象徴を得ても、例えあなたが再び角を生やし、完全に元の姿に戻ったとしても、もう、あなたの心は、行動は、歌は、鬼のそれではない。鬼は恐怖の象徴にして、人間の天敵たる妖怪。私は最早あなたに一片の恐怖も抱きません。そんなあなたが、鬼として振舞っても、つらいのはあなたです」
聴きたくなかった。
自らの存在を根本から否定されている。そんな気分だ。華扇は、頭を抱えて、良香の発言を否定しようとする。ただ、言葉がでない。人を喰らうはずの口は、強く噛みしめられ、僅かに塩の味がする。敵を睨むはずの目は、大粒の水滴を流し、少女の頬と床に転がっている死体を濡らす。人間が恐れるはずの少女は、ただただ泣き声をだすのを我慢し、壁の向こうにいる人間に強い感情を向ける。その感情が何かは、少女自身にも分からなかったが・・・
それらの反応に気付いていないのか、気付いていても無視しているのか、良香はただ、この一週間の、鬼(?)と共に過ごした時を思い返して、自らが導いた答えのみを述べた。
「あなたは鬼に戻るべきではない。そんなことは、あなたも、わたしも、人間も、誰も望みません。だから、・・・だから私があなたの腕を取り戻した暁には、・・・
共に仙人になりましょう!」
頭を抱える少女に、壁を隔て、高らかな誘いの声が届いた。
幕間・頼光四天王
綱が、陰陽師から物忌みを受けてから、間もなく七日が経過する。今宵は満月ではあるが、先ほどから降っている雨の影響で、外はほとんど真っ暗だ。七日前、件の陰陽師が綱に言い渡したのは、
(『必ず鬼が腕を取り返しにくるから、七日の間家に閉じこもって物忌みをし、その間は誰も家の中に入れないで下さい』か)
物忌みとは、日常的な行為を控え、ケガレを避ける行いだ。相談に行った手前、その発言を無碍にするつもりはない。ないのだが・・・
「ヅラ~。酒が足らんぞ!酒が~」
「ヅラじゃない桂d・・・でもない綱だ。というか、何故貴様がここにいる、金時!物忌み中だと言っただろう」
変なあだ名を付けられて、綱はすかさず怒鳴り返した。桂というのは、一体誰だろうか?
綱が怒鳴り返したのは、白い着物を半分だけ脱ぐというおかしな服装と、天然らしき縮毛が特徴的な男で、綱と同じく頼光四天王の一人・坂田金時。銀時ではない金時だ。幼き頃は金太郎と呼ばれ、熊と相撲をして勝ったという逸話を持った大丈夫だ。
本来、物忌み中の綱が、金時を家に入れるのはあり得ないことなのだが、綱がなるべく丁重に追い返そうとしたのを、金時は勝手に上がってきて、持参した肴を綱の家にあった酒と一緒に喰らっている。
本日何回目になるか分からなくなった指摘に対し、金時は笑いとばす。
「はっ、あの陰陽師の言うことがどこまで信用できるか分かったものではあるまい。貴様もあの噂を信じていないわけではあるまい」
陰陽師・安倍晴明の母親は、狐であると噂されている。本人は相手にしていなかったが、逆に否定もしていなかった。実際、一条戻り橋に妖の類を住まわせているという噂は本当だった。
「確かにそのような噂はあるが、あれの腕は本物だ。信用できるかはともかく、あの物忌みに間違いはないであろう。それに、狐と言っても稲荷の神の眷属とも聞くぞ」
「どうだか、妖の類だろうが神の眷属だろうが、異種族の血が混じっている時点で考えようによっては鵺の類であろう」
鵺とは本来、猿の頭、虎の四肢、狸の胴体、蛇の尾をもつとされる妖怪だが、異説も多く存在し、この場合では異なる種類の妖や、人と妖が交わって生まれた存在として使われている。遥か西の国、ギリシャに存在すると言われる獣・キマイラの日本版とも言われ、よく分からないものとして扱われてきた。そして、鵺は古来より人間の天敵とされている。もし件の陰陽師が本当に鵺であるならば、頼光四天王の一角たる渡辺綱と坂田金時にとっては妖怪退治の対象となりかねない。他の頼光四天王と彼らの主たる源頼光も、あの男を腕のたつ陰陽師として仕事をまかせる一方、要注意人物として監視していた。
「それに、もし鬼が腕を取り返しに来たとしても、物忌みの効力で彼奴を遠ざけるよりも、我とヅラの二人で鬼を切り捨てる方が良かろう」
五合升の中の酒を飲み干すと、金時が豪快に言い放った。
「ヅラじゃない、綱だ。それに・・・っ」
綱の言葉が変なあだ名の否定のみで終わってしまったのは、先ほどの金時の発言を否定する要素がなかったからだ。
信頼できない陰陽師の物忌みと、長年の経験と鍛錬で培ってきた自らの剣術。どちらを信じるべきかは、自明の理であろう。一人の時は鬼との直接戦闘を避けた綱だが、金時と二人であれば、物忌みに従うより安全だとも思える。綱が仕方なく金時の発言を認めようとした
その時であった。
屋敷に戸を叩く音が響く。綱と酒盛りをしていた金時との間で緊張感が高まっていく。
「鬼か」
先ほどの豪胆さが嘘であるかのように、金時は低い声で呟いた。そこに酒で酔っている形跡はない。幾度と無く鬼を退治してきた金時たちにとっても、鬼はそれほど警戒すべき相手である。
「いや、物忌み中と知らずに訪ねてきた客人の可能性もある。今は従者全員に暇を与えているから、自分で出迎えねばならん。最大限に警戒していくぞ」
刀をいつでも抜ける状態にして、二人は門へ向かう。門の向こうに鬼の気配はないが、気配を消している可能性もあるため、警戒を解く訳にはいかない。金時が戸の一点を見つめ、居合の構えをし、綱がゆっくりと扉を開ける。
扉の前に立っていたのは、小柄な老婆であった。雲で月が隠れているため、よく見えないが、そこまで低い身分にも、高い身分にも見えない。そして、直接見ても、鬼の気配を感じとることはできない。従者ではなく屋敷の主が現れたのに驚いたのか、武士が二人、刀に手をかけている姿に恐怖しているのか、その体は小刻みに震えている。
金時が僅かに警戒を解くと、綱が 刀の柄から手を外し、後にいる金時に話しかける。
「この方は、私の乳母だよ。どうやら、鬼が来るのはもっと先のようだ。しかし、どこに鬼が潜んでいるか分からんからな。警戒は解いてくれるな」
金時が再び周囲を警戒すると、綱は事情を話して帰ってもらうべく自らの乳母へ笑いかける。
乳母に化けた都良香が微笑むのを見たのは、門の前にいた狐の妖だけであった。