◆◆◆◆◆
ルフレさんと『お父様』達が酒宴で盛り上がっている頃。
私は、久し振りに『お母様』と二人で少しお話をしていた。
ルフレさんとの子供を身籠っている事を知った時は、とても驚いたけれど……それ以上にとても嬉しかった。
愛する人との子供が、自分とルフレさんの命の糸が繋がった先の新たな小さな命がこの身に宿ったのだ。
それを嬉しく思わない筈は無かった。
……だけれども、そうやって一頻り喜んだ後で、どうしようもなく不安になってしまったのだ。
自分は、「この世界」にとっては存在しない筈の者。
歪められた時の環によってこの世界に在る者。
時を歪め変えてしまったその影響を、自分はまだ完全には把握出来ていないし、もしかしたらうんと何十年と経ってからそれが発覚したりするかもしれない。
何にせよ、私の存在が「この世界」にとってどう扱われるものなのか、全く分からないのだ。
それなのに、こうして新しい命をこの身に宿した。
……時の環を歪めた報いを、自分一人が受けるのならまだ良いのだ、それはとうに覚悟しているから。
だがもしも、自分だけでなく、この腹の子もその影響を受けたら……その所為で苦しい目に逢ったり辛い想いをしたら。
それを考えるだけで、私は恐怖に苛まれるのだ。
そして、不安の原因はそれだけではない。
自分の子供であると言う事は、即ち「聖王家」に連なる者であると言う事。
それは……その身体の何処かに、『聖痕』と言う形でその証が示されてしまうと言う事でもある。……私の左眼の様に。
そっと左眼を押さえる様に瞼に指先を当てる。
……『これ』は、自分の誇りの拠り所であると同時に。
決して逃れ得ぬ枷でもあった。
特に、有り得べからざる存在として此処に居る私にとって、これは禍の種になりかねないモノである。
私から『聖痕』を受け継ぐと言う事は、間違いなくその一生に何かしらの不自由が課される。
誰の目が見ても明らかである証と言う事は、その出自を秘匿せねばならぬ時には枷にしかならないのだから。
衣服で隠せる場所や誤魔化し易い場所に刻まれるならまだ良いが、自分の様に隠すのもやや難しく誤魔化しも難しい場所に刻まれたら、きっと不自由を強いる事になるだろう。
自分の場合は仮面を被るか眼帯で隠すしか無いが、そのどちらもが却って人の目を惹いてしまうモノである。
自分は、先の戦争の折に負傷したからだと偽っている為、同情の様な視線を向けられる事はあっても、奇異なモノを見る視線は少なく、下世話な好奇心を向ける者も少ない。
だが、初見の場合だと酷く眼帯に注目される事が多い。
……生まれてくる我が子が女の子であり、もしルキナの様に眼に『聖痕』が刻まれていたらと思うと居た堪れなくなる。
『お父様』は、出産の際には聖王家との繋がりも強い、口の堅い信頼出来る産婆を寄越すとそう言っていたが……。
それでも不安は尽きない。
イーリスの歴史を紐解くと、火遊びで産まれた『聖痕』を宿した庶子の扱いを巡って争いが起きた事は幾度もある。
自分達がその禍にならない保証は無い。
……そして、最も不安な事として。
どうすれば自分が『母親』として正しく在れるのか、全く知らないのである。
……あの『絶望の未来』ではそんな事を学んでいる暇は無かったし、この世界でもそれは変わらない。
そもそも、この世界に在ってはならぬ存在である自分が、「誰か」と子を成すなんて可能性を端から考えていなかった。
だから、右も左も分からないのに、突然『母親』となる事が決まったルキナは、狼狽え不安になるしかないのだ。
そしてそれを、『父親』としての役割が降って湧いた事で右往左往しているだろうルフレに頼る訳にもいかなくて。
それを誰にも言えずに、独り抱え込んでいた。
だが、それを見抜いたからなのかは分からないが、『お母様』から食事の誘いが来たのであった。
戸惑いながらもそれを受けて、夕食の席に招かれたのであったが。食事中はともかく、食後の話題に窮してしまう。
そんな私に、お母様は、もっと肩の力を抜いて気軽に話をしよう、とそっと微笑んだ。
……その微笑みは、『絶望の未来』で喪ったお母様の微笑み方と全く同じで。それが少し胸にチクリと痛みを与える。
そんな私の顔を見て、少し困った様に微笑んだ『お母様』は、手ずから淹れた食後のお茶を勧めてくる。
それを有難く受け取って、一口飲んだ。その途端。
ふわりとした優しい甘さと、和らぐような清涼感を感じた。
「……このお茶は……」
『絶望の未来』で、幼い自分が不安になった時に、何時も『お母様』が淹れてくれたお茶と、同じモノであった。
不思議と心が落ち着くその味と香りを、味わっていると。
『お母様』は、私がルフレさんとの子供を身籠った事を、心から喜ぶ言葉を贈ってくれた。
妊娠が分かって直ぐに、ルフレさんと共に『お父様』と『お母様』にはそれを伝えたのだけれども。
そう言えばその後でこうして二人になる事は無かった。
だからなのか、面と向かって祝福され、何となく面映ゆい。
『お母様』は、『お父様』と同じく、ルフレさんと『夫婦』になった時も、そして子供ができた時も、我が事の様に喜んでくれて、そして何時も私の『幸せ』を願っていてくれた。
……やはり私にとってのお母様は、『絶望の未来』で喪ったあのお母様だけなのだけれど。
それでも『お母様』も大切な「家族」だ。
祝福されて、嬉しくない訳は無かった。
細々とした日々の話が弾む内に、何か心配な事や悩み事は無いかと、『お母様』はそう私に尋ねてくる。
その優しい眼差しは、私の悩みや不安なんて全て見透かしている様に思えて。
そして……『母親』としての深い慈愛に溢れたその眼差しに促される様に、ポツポツと話し始めてしまった。
産まれてくるだろう我が子に、辛い想いをさせてしまわないかと言う不安。
ちゃんと『母親』に成れるのだろうかと言う不安。
それらは押し殺していた筈なのに、一度打ち明け始めると堰を切った様に後から後から溢れ出してきて。
気が付けば、話そうとなんて全く思っていなかった事まで、『お母様』に打ち明けてしまっていた。
もしかして気分を害してはいないだろうかと、そう不安になってその顔を恐る恐る覗き込むと。
『お母様』は少し哀しそうな顔で、だけれども微笑む様に、私を静かに見詰めていた。
そして、ふわりと席を立って。
幼子にそうする様に、私の身体を優しく抱き締めてくれた。
突然のその行動に驚いていると、『お母様』はまるで子供をあやす様にゆっくりと背を撫でてきて。
……それが、まるであの日の……。
この身の上を『お父様』に語り……そしてそれを『お母様』にも受け入れて貰ったあの日、抱き締めてくれた『お母様』のその手を、どうしてだか思い出してしまう。
少し泣いてしまいそうになりながらも、どうかしたのかとそう『お母様』に尋ねると。
『お母様』は優しく微笑んで、頑張っている『娘』を励ましているのだと、そう笑った。
その顔が、お母様のそれと重なって、胸が少し苦しくなる。
『お母様』にとっての娘は、「ルキナ」であって、此処に居る自分ではないのに。
それでもそうやって自分の事を想ってくれるのが、とても嬉しかった。……そしてそれと同時に少し寂しい。
そんなルキナに、『お母様』は、「ルキナ」が産まれた時の事を話し始めてくれた。
『お父様』と結ばれて、そして「ルキナ」を授かった時。
『お母様』は喜びと同時に、とても不安になったそうだ。
……聖王家の者には、『聖痕』が存在する事を先ず前提として求められる。それが血統の正統性を示すモノであるからだ。
……聖王家に生まれながら、『聖痕』が発見されなかった者は、その正当性を生涯疑われ続ける事になる。
丁度、リズ叔母様がそうであった様に……。
王家の歴史を紐解けば、かつては『聖痕』が無いからと王家から抹消されてしまった者も居たらしい。
そう頻繁にある事では無いらしいが、間違いなく『聖王家』の者でも『聖痕』が確認出来なかった者は今までも居た。
更には、王族が降嫁したりした場合も、一代二代は『聖痕』が表れる事が大半であるのだが、次第に『聖王家』の血が流れていても『聖痕』が表れなくなる事も確認されていて。
『聖王家』の血を継ぐからと言って必ずしも『聖痕』がその身に現れる訳では無いらしい。
学者の説によると、聖王を継承する一連の儀式や、或いはファルシオンや『炎の台座』などの神宝が近くに存在する事が、次代以降の『聖痕』の発現に何らかの関与をしているのではないかと言う説もあるらしいのだがそれは定かではない。
だからこそ、産まれて来た我が子に『聖痕』が無かったらどうしようかと、『お母様』は不安になったらしい。
『聖痕』が有ろうと無かろうと、愛しい我が子である事には変わりないけれど。
……『聖痕』を持たぬ王族が何れ程大変な目に遭うかをよく知っているだけに、その様な苦労を我が子に与えるのではないかと思うと、気が気では無かったらしい。
だけれども、そんな不安は。
産まれた「ルキナ」のその産声を聞いた瞬間に、その儚い身体を抱き締めた時に。全て消え去ったのだと。
そう『お母様』は微笑んだ。
だから、心配なんかしなくて良いのだと。
誰もが皆、『母親』になるのは初めての時があり、その時は新米の『母親』として右往左往する事になる。思い通りになる事なんか殆ど無い。それでも、産まれて来た『我が子』と一緒に、『母親』になって行けばいいのだと。
そう元気付ける様に、笑ってくれた。
困った時には何時だって、自分や『お父様』を頼ればいい、『家族』を頼ればいいのだと。
そう微笑む『お母様』は……間違いなく、『母親』であった。
『お母様』に話を聞いて貰って、少し気が楽になった私が、またこうして話をして貰っても良いだろうかと訊ねると。
『お母様』は、何時でも待っている、と。
そう微笑んで、ルフレの待つ家に帰る私を笑顔で見送ってくれるのであった。
悩みが全て消えた訳では無いけれど。
それでも、久し振りにとても心が軽くなって。
我が子を祝福する様に、お腹にそっと手を当てた。
◆◆◆◆◆
クロム達からの励ましを貰って、少し気が晴れたその夜。
ルフレは庭のベンチに腰掛けて、一人静かに更け行く夜空を見上げていた。
……人は、死ぬと「星」となって遺してきた大切な人を見守ると言う話がある。……それが事実なのかは知らない。
何処かに死者の世界があるのかもしれないし、天国やら地獄があるのかもしれないし、或いは魂が巡り巡ってまた何かの命としてこの世に戻るのかも知れない。
死後の世界がどんなモノなのか、そもそもそれが存在するのかどうかすら……誰にも分からないのだ。
ルフレは一度この世界から完全に消滅し、『死』を迎えてはいるけれども。だが、あの現実とも夢とも言い難い狭間の場所を、果たして「死後の世界」と呼べるのかは分からない。
生きている限り人は「死後の世界」を本当の意味で知る事は出来ないのだから。
そんなルフレが夜空を見上げているのには、もしかしたらその頭上に輝く星々の何処かに居るのかもしれない『母』を想っての事であった。
星に手を伸ばしたって、それを掴む事は出来ない。
その無数の輝きの何処かに『母』が居るのだとしても、星を掴む事は出来ないし、その「思い出」が蘇る訳でも無い。
……『母』を想うと言っても、今のルフレにはそもそもの話、その人との「思い出」自体が無いのだ。
だから、どんな人だったのか、どう言う風にルフレに接してくれていたのかも……全く知らない。
そもそも、自分を少なくともある程度以上まで育ててくれたのが『母』であるのかどうかも知らない。
生きているのか、死んでいるのかさえ……。
……もし、『母』が既に故人であるのなら。
この夜空に浮かぶ星々の輝きの何れかから、『母』はルフレを見守ってくれているのだろうか?
自分は『母』から、そういう風に愛されていたのだろうか?
そんな事を、ぼんやりと考えていた。
……『母』から愛されていなかったとしても、棄てられていたり或いは物心付くかどうかの頃に死に別れていても。
それでも、『母』が命懸けでルフレをあの闇の底の様な狂気の領域から連れ出してくれたのは、先ず間違いは無いだろう。
あの狂気と妄執だけが支配する場所で生きていたら、ルフレは間違いなく壊れていた。
いや、その場合は最初からそう心も認識も「造り上げられる」のだから壊れると言う表現は正しくないだろう。
ただ少なくとも、『邪竜ギムレー』に相応しい……『人間』とは思えない人間性になっていた筈だ。
クロム達と出逢う事も無く、ルキナと出逢う事も無い……。
そして『ギムレーの器』である事に何の疑問を懐く事も無く、『ギムレー』へと成っていたのであろう。
それは……少なくとも今こうして思考しているルフレにとっては、とても恐ろしい可能性であった。
あの日目覚めるまでを自分がどうやって生きていたのか、きっともう二度と思い出せないだろうけれども。
それでも、例え『母』がどの様な人であったのだろうとも。
あの狂った場所からルフレを命懸けで連れ出してくれたと言う事実だけで、深い深い感謝を懐く事に迷いは無い。
『母』がそうしなければ、今のルフレは存在しない。
クロム達と出会う事も、ルキナと出会う事も、……こうして愛する人との間に命を授かる事も、無かったのだから。
だから、顔も分からない名前も分からない……それでも確かに『ルフレ』と言う人間の根幹に存在したその人に。
有難うと……ただそう伝えたいのだ。
そんな事を考えながらぼんやりと夜空を見上げていると。
「ルフレさん……?
こんな時間に外に出てどうかしましたか?」
そんな事を言いながら。
ルキナが、ひょっこりと姿を現した。
……もう既に寝ているものだとばかり思っていたから、突然現れてルフレは少し驚いたのだけれども。
……ルキナも、『母親』と何か色々と話をして来たからなのか、色々と吹っ切れた様な……それでも何かを考えている様な顔をしていた。……丁度、ルフレの様に。
「ああ、ルキナ。少し、星空を見上げていたんだ。
ルキナも一緒に見るかい? 今夜は雲が少ないからね。
とても綺麗な星空が広がっているよ」
そう微笑み掛けると、ルキナもそっと笑って。
ルフレに寄り添う様に、ベンチに座った。
そして、ルフレの様に夜空を見上げて、感嘆の声を零す。
「本当に……素敵な星空ですね。
夜は……あまり好きではありませんが。
こうして星を見上げるのは、好きです。
……それで、どうして星空を見上げていたんですか?
何か、考え事ですか?」
小さく首を傾げてそう訊ねてくるルキナのその眼差しには、どうしてだか「不安」の様なモノが揺らめいていて。
何故? と考えたルフレの脳裏に一つの「記憶」が蘇った。
それは、「あの日」の前夜。
二人で寄り添って、満天の星空を見上げた「記憶」。
……ルフレが、ギムレーと共に『消滅』する覚悟を決めて、ルキナの『願い』をそっと手離したあの夜の事であった。
それに思い至ったルフレは、「ああ……」と。
ルキナの眼に揺らぐ「不安」の陰に納得した。
だからルキナを安心させる様に、その身を抱き寄せる。
「大丈夫だよ、ルキナ。
君を置いて逝こうとかなんて、全く考えていないさ。
ただ……もし、死んだ人の魂が「星」になる……と言う話が本当なら。僕の『母』も、この中に居るのだろうかと。
そう、思ってね。
顔も名前も分からない……僕には何も思い出してあげられない人ではあるのだけれど。
それでも間違いなく僕をこの世に産んで……そして、ギムレー教団の手から連れ去ってくれた人だから。
こうして、僕も『親』になる身だからかな……。
それを、感謝したくなったんだ……。
まあ、感謝しようにも、生きているのか死んでいるのかも分からないからね。
……だから、星空を見上げていたんだ」
そう言うと、ルキナは安心した様にほっと息を吐いて。
そして、優しい眼差しで夜空を見上げる。
「死んだ人の魂が星に、ですか……。
それが本当の事かは分かりませんが……、もしそうなら、とても素敵な事ですね……。
……あの『絶望の未来』でも、お父様やお母様たちは、星になって私たちを見守っていてくれたのでしょうか……。
……あの世界の夜空は、見上げても星明り一つ届かない……そんな絶望そのものの様な、昏い夜空でしたが……。
あの分厚い雲に閉ざされた彼方から、お父様達が見守っていてくれたなら……。私は……。
……この世界の夜空には、もうお父様達の輝きは無いのでしょうけれど。それでも少し、嬉しいです」
そしてルキナは目を閉じて、ルフレにその身を預けた。
新たな命が宿っているのであろう……今は目に見える変化は無い腹を、そっと優しく撫でて。
少し切ない……だが『幸せ』そうな微笑みを浮かべる。
「私は……お父様やお母様にとっては、守らなければいけない子供……無力な幼子だったのでしょう。
……お母様は、私を守る様に命を落としてしまった。
私には、それがとても哀しかったんです。
生きていて欲しかった、私を庇う様に傷付かないで欲しかったと……ずっとそう思っていました。
自分が無力だから、自分には戦う力が無いから……。
だから、お母様は死んでしまったのだろうと、……何も出来ない幼子だったから、私はお父様の為に何も出来なかったのだろうと……そう自分の幼さと無力さを憎んでいました。
でも、今なら何となく、お父様達の気持ちが分かるんです。
無力な幼子だからだとか、そんなのじゃなくて。
ただただ……『私』を守りたかっただけなのだろうと。
……私が、まだ産まれてもいないこの子を、何があっても守ってあげたいと願う様に……。
『親』の気持ちは、『子供』には中々伝わりませんね……。
……今なら、お父様とお母様に、『ごめんなさい』ではなくて、『愛してくれて、守ってくれて、有難う』と。
そう言える気がするんです」
もう二人はこの世界の何処にも居ないのですけど。と。
寂し気に微笑んだ彼女に、ルフレは小さく首を横に振った。
「そんな事は無いさ。
確かに、この世界の死者の世界に、君の『クロム達』は居ないのかもしれなくても。
……君の記憶には、確かに存在している筈だよ。
……死んだ人が本当に最後に辿り着く場所は、きっとその人を知る人々の記憶の中なんだ。
思い出の中から、遺してきた人たちの事を見守っている。
だから、君がそれを忘れない限り、彼等は何時も君と共に在る、君をその『思い出』の中から見守っているさ」
そこにその魂が宿るとか、そう言う訳では無いだろうけど。
それでも、『記憶』とはその存在の欠片であり、その人との『思い出』を持つと言う事は、その存在の欠片をその心に刻み込むと言う事でもある。
だから、そこに実体としての『彼等』の姿は無くても。
『思い出』が描く幻は、何時だってそれを思い描く人を見守ってくれるのだ。……そうやって人は、想い偲ぶのだ。
ルフレの言葉に、ルキナは静かに目を閉じる。
「そう……ですね。
もう、お父様とお母様は……私の記憶の中にしか、存在しませんが……。それでも、そこに居てくれるのですね……。
…………叶わない『願い』ではあるのですが。
私は……お父様とお母様と、もっとお話をしたかった。
ルフレさんに出逢った事、こうしてルフレさんとの間に命を授かった事……それを、伝えたかった。
二人の守った命は、こうして『幸せ』になったのだと……。
……それは、決して叶いませんが。
それでも、私の記憶の中に、居てくれるなら。
……それは、とても……」
そこから先の言葉を、ルキナは続けなかった。
ただ、今は遠い『思い出』の中の二人を想って。
そして、その姿を偲ぶ様に瞑目した。
そんなルキナの身体を、抱き締めながら。
ルフレは、遠い『彼等』に、静かに誓うのであった。
◇◇◇◇◇
男は立ち入るなとばかりに産婆達に追い出された部屋の大扉の前で、ルフレは所在なく動き回り続けていた。
ルキナが産気付いて、王家の信頼も厚く口の堅さも保証されている産婆が急ぎ呼び集められてから、既に数刻は過ぎた。
初産は長引くものであるらしいとは事前に聞かされていたが、だからと言ってそれで不安が解消されるなんて事は無い。
扉の向こうからは苦しむルキナの声が聞こえてくる。
子を産む痛みとは、男では一生経験し得ない程の……想像を絶する苦痛であると言う。
今ルキナはこの扉の向こうで必死に戦っているのだ。
そしてそれは、生まれ出ようとしている我が子も。
今直ぐ部屋の中に駆け込んで、ルキナの手を取ってその戦いを支えてやりたいのだが、産婆達には「男は役に立たないし邪魔だ」と言わんばかりの態度で追い出されるのである。
ルフレには、扉越しにルキナの戦いの無事を祈り続ける事しか出来なくて、それが酷くもどかしい。
不意に、扉の向こうが騒がしくなった。
ルキナの呼吸も、一段と荒くなっていく。
まさか二人の身に何か起きたのかと、直ぐ様追い出される事も忘れて扉を開けそうになったその時だった。
大きな泣き声が、扉の向こうから聞こえた。
命の灯火の揺らめきを、世の果てまで届けんとばかりに泣くその産声に、ルフレは思わず感極まってその場に蹲った。
それから少しして扉の向こうが騒がしくなり、重々しくルフレとルキナ達を隔てていた扉が開かれた。
一仕事終えた満足気な顔をした産婆達に促されて部屋の中に入るとそこには。
激しい戦いの余韻を残す様に少し息を荒げたルキナが、ポロポロと涙を零しながら、お包みに包まれた我が子を優しく抱き締めてあやしていた。
ルフレがよろよろと歩み寄ろうとすると、突如産婆の一人に引き留められ、綺麗な水が入った手桶を渡される。
……これで手を洗ってからにしろと言いたいらしい。
指示された通りに手を洗って漸く接近が許された。
ルフレは、恐る恐るルキナに抱かれた我が子へと近付いた。
ふぎゃふぎゃと元気よく泣いている我が子の顔は、生まれたばかりだからか、まだくしゃくしゃだ。
だが、その髪と瞳の色は、間違いなくルキナ譲りのモノで。
そして、親の欲目でないなら、その目鼻立ちはルフレに似ている様に思える。
ルフレの指先を包む程の大きさも無いだろう小さな小さな紅葉葉の様な右手には、ルキナの子である事を示すかの様に聖痕が刻まれていた。
産湯に浸かり洗われた身体は、ふにゃふにゃと柔らかい。
ルキナは微笑んで腕の中の子をルフレへと託してくる。
教えられた通りに、生まれたばかりの子供の為の抱き抱え方を実践したのだが、首が据わって無さ過ぎて不安になる。
あたふたとするルフレの姿に、ルキナは小さく笑い声を上げて、幸せそうにそれを見た。
「元気な女の子ですよ。
ほら……この目元、ルフレさんにそっくりです」
ルキナに言われて、ルフレが我が子をよく見ようと覗き込んだ瞬間。まだ目はよく見えていないだろうに元気いっぱいに動かしていたその手が、ルフレの指先に触れて。
それを、小さな手で握り締めた。
ルフレの指先すら十分に包み込めていないその手を見て。
何故か、ルフレの視界が滲んだ。
ポロポロと、涙がお包みに落ちていく。
「あ、あれ……おかしいな、何だか涙が止まらないや」
ゴシゴシと拭っても、それが止まる気配は無い。
そんなルフレに、ルキナは。
「良いんですよ、ルフレさん。好きなだけ泣いても」
そう言って、よしよしとルフレの背中を優しく擦った。
それに、益々零れ落ちる涙は止まらなくなる。
……ルフレは。
「赦された」様な気がしたのだ。
今この瞬間に、この世界から。赦されたのだ、と。
『ギムレーの器』として造られた歪な存在でも。
その命の環を繋げていっても良いのだと、お前もその環の中に確かに居る存在なのだと……。
そう、この世界そのモノから言われた様な気すらして。
自分の存在が、世界から赦されたのだと言う気がして。
それが、泣いてしまう程に、この心を震わせていた。
ルフレは、小さな娘の手を、そっと包む様に握り締める。
そして。
「……ルキナ、この子の名前なんだけれど……。
『マーク』で、どうだろうか。
……この子は。僕と、君の、『幸せ』の……その象徴だから」
「『マーク』……。ええ……とても素敵な名前です。
初めまして、今日からあなたはマークですよ」
ルフレからマークを受け取ったルキナはそうあやす様に微笑んでその身体を優しく揺らす。
すると、マークはくしゃくしゃの顔で笑った。
そんなマークの頭をルフレは優しく撫でて、誓う様にマークへと囁いた。
「マーク……。君のその手に、沢山の『祝福』と『幸せ』を。
君の未来に限り無い『希望』を。
それを君に届ける事を……僕は約束するよ。
君は、僕達の一番の宝物だ。
だからね、マーク。
僕達の娘として産まれて来てくれて、本当に有難う……」
愛しているよ、と微笑んだルフレに。
マークは小さなその手を、精一杯に伸ばすのであった。
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