『竦む心、願いへの逡巡』
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朝起きて、目覚めた時に愛する人が自分の傍に居る事が。
指先にその柔らかな髪の手触りを感じる事が、彼女の声や息遣いを感じる事が、彼女の香りを感じる事が。
それが何れ程の『幸せ』であるのか、何れ程の得難い「奇跡」であるのか……。ルフレはそれを日々噛み締めている。
何よりも愛しい……彼女の声が自分の名を呼んでくれる事、そしてそれに返事が出来る事。
その全てが、泣きそうになる程の「奇跡」であった。
「奇跡」を重ねてこの世界に再び帰り付いたルフレは、泣きたい程に『幸せ』な日々を。先は分からないけれどそれでも愛しい日々を。ルキナとその歩幅を合わせる様にして、ゆっくりと歩く様な速さで、共に生きていた。
『死』を越えて再び巡り逢ったルフレは、互いの願い通りに、その手を再び掴む事が出来たのだ。
それが嬉しくて幸せで……余りにも居心地が良くて。
これ以上を望んでしまえば、罰が当たってしまうのではないかと思う程に満ち足りていて。
ルキナも、満ち足りた様に幸せに笑っているのだからと。
ルフレは、そんな穏やかで幸せな日々に微睡んでいた。
しかし、共に生きるからこそ、一歩進まねばならない。
そんな時が、ゆっくりと……近付いてきているのであった。
「ルフレ、何時頃ルキナと結婚するんだ?
式の準備も色々とあるのだろう?」
何時もの様に共に公務に励んでいたクロムが、目を通しサインした書類から目を上げて、唐突にそう訊ねて来た。
ルフレは、丁度書類を纏めていた所で。
唐突なその問いに、思わず硬直した様にペン先を止める。
紙面に小さなインク溜まりができ始めた時、漸く。
「けっこん……?」
ぼんやりと、そう呟いた。
結婚。ルフレと、そしてルキナが……?
……結婚……?
「二人は恋人として付き合ってそれなりに経つし、共に一つ屋根の下に住む仲だ。
将来の約束の一つや二つしているだろう。
婚約はもう済んでいるんだろう?」
クロムの言葉に、ルフレは思わず固まった。
そして、必死に過去の記憶を掘り返して……。
……自分が、一度も。そう、一度たりとも。
将来を誓う様な言葉を、口にした事が無い事に気付いた。
『愛』を告げた事なら、何度だってある。
共に生きたいとも言った。
しかしそれは、『婚約』などの様なものではなくて。
ルフレとルキナの関係性は、依然『恋人』のままだ。
同棲もしているのに、『結婚』と言うそれは『夫婦』と言うカタチは、未だそれを口の端に上らせた事も無い。
「……まさかとは思うが。ルフレ、お前……ひょっとしてまだ婚約も何も済ませていないのか…………?
それでルキナに無体を働いているならば、俺もルキナの『親』としては黙っていられないのだが……?」
返答如何によってはお前相手でも容赦しないぞ、と。
そう無言の圧力を掛けてくるクロムに、ルフレは必死で首を横に振ってそれを否定する。
婚約だの結婚の約束だのの類いを何一つしてない事は確かであり、一つ屋根の下で共に暮らしている事も事実だが。
少なくともルフレは、まだルキナに『無体』と評されるであろう行為は、何一つとして行っていない。何もしていない。
互いにまだ、清い関係である……筈だ。
それが良い事なのかどうかは別にして。
必死に否定したルフレのその表情を見て、クロムは何処か呆れた様に深い溜息を吐く。
「だが、お前が帰って来てからもう三月は経ったぞ。
あの戦いの前から付き合っていた事を考えれば、まだはっきりと婚約していないのはどうかと思うが……」
ルフレが還ってくるまでに掛かった月日の事も考えると、ルフレはかなりの時間、二人の将来についてあやふやなままにしてしまっているのだろう。
それを自覚した途端、ルフレは思わず自分のその行いに唸り頭を抱えてしまった。
……不味い、不味過ぎる……。
ルフレ本人にその様な意図は全く無かったのだけれども、これでは不誠実にも程があるのではないだろうか。
クロムに指摘されなければ、ルキナが何も言わないのを良い事に、ズルズルと『恋人』を続けてしまった可能性も高い。
『恋人』の関係性に不満がある訳では無い、だけれども、その関係性に留まる事だけで満足してはいけないだろう。
ルキナがより確たる関係性を望んでいたかどうかは思い返そうとして見ても今一つ分からないけれど、そもそもルキナは自分の願望は隠そうとしてしまう節もある。
本心ではずっと、ルフレからそう言ったカタチでの『約束』を望んでいたとすれば……余りにも酷な事をしてしまった。
だが、一つ言い訳をするのならば、別にルフレの頭に最初からその考えが無かった訳では無いのだ。
共に生きたいと願った事も嘘では無いし、そうして共に生きる時に『夫婦』などと言ったカタチであればとも思った。
だが……。
あの戦いの折には、ルフレはルキナの『使命』の重荷になる訳にはいかないとかなり自制していたし、故にあまりルキナの意識に負荷を掛けそうな『約束』は出来なかったのだ。
だから、恋人関係になっても互いに清い関係のまま。
ルキナに対し肉欲を一度たりとも覚えなかったかと言うと、全くそんな事も無かったのだけれども。
……あの時の、様々な柵に雁字搦めになっていたルキナには、そう言った肉体的な繋がりは却ってその心を縛る鎖になってしまいかねなかった為、そう言う欲求は強く封じていて。
そして、こうして帰って来てからは、ただその傍に寄り添えるだけでお互いに満足してしまって……。
その余りの居心地の良さに、その関係性を積極的に変化させねばと思う気持ちが欠けてしまっていたのだろう。
……考えれば考える程、益々言い訳の余地も無く最低だ。
これでは愛想を尽かされても仕方の無い事なのでは……?
ルフレは思わず頭を抱えて呻いた。
「……まあ、お前達にはお前達なりの進み方があるのだろうから、俺もとやかくは言えんが……。
だがな、ルフレ。やはり、『恋人』としての関係と、『夫婦』としての関係は、違うものだ。
相手を愛し思い遣る事は変わらんが、『夫婦』になると言う事は、『家族』になる事なんだ。
……ルキナにとってのその意味の重さは、分かるな?
俺では、どうやってもあの子が亡くした『両親』にはなってやれないからな……。
だからこそ、……あの子にとっての本当の意味での『家族』になってやれるのは、お前だけなのだろう……。
ルキナを、頼むぞ」
その言葉には、ルキナを思い遣る『父親』としての愛情が確かに籠められていた。
……クロムではルキナの本当の『父親』になれないのは確かだけれども、そこにある父としての「愛情」は本物だろう。
クロムの強い眼差しに促される様に。
ルフレは、ゆっくりと頷くのであった。
◆◆◆◆◆
……今でも。ふとした瞬間に、「あの日」の事を、思い返してしまう。「あの日」の光景が蘇ってしまう。
夜眠る度に夢に見るのも「あの日」の事だ。
崩れ消えて行くルフレのその身体を、絶望と共に見送るしか無かった「あの日」。
掴んだ筈のその右手は、それを握り締めるルキナの手の中で解ける様に消えて……この手の中には何も残らなかった。
『思い出』以外は、彼は何も遺さなかった。
そんな、「あの日」の記憶は。あの日見た、残酷な程に美しい……彼が消えて行った夕焼け空は。
ルキナ心の深い場所に今も大きな傷跡の様に刻まれている。
こうして、ルフレが「この世界」に帰って来ても尚……いやだからこそ一層。「あの日」の喪失が、ルキナを苛む。
再び、喪ってしまうのではないかと。
こうして帰って来た事が幻であるかの様に、目を離した瞬間には何の痕跡も無く消えてしまうのではないかと……。
そんな「不安」と「恐怖」は、どうしても消えないのだ。
夜、ルキナが独り目を覚まして、横で眠るルフレのその温もりと鼓動と確かめている事を、ルフレは知らない。
夕暮れの中でルフレが微笑む度に、「あの日」の光景が重なって、その手を繋がずには居られない事を、彼は知らない。
ルキナにとっては、ただただ……ルフレが「この世界」に存在してくれているだけで、もうこれ以上は何も望めない。
あの、無限に続くかの様に思われた、彼を待ち続けた日々に比べれば。こうして彼を再び『喪う』事を恐れる日々ですら……何にも代え難く『幸い』なのだから。
同じ世界で、同じ時間の中で、共に生きられるのだから。
これ以上を、どう望めと言うのだろうか。
……ルキナに課せられた『使命』は既に果たされた。
「この世界」には最早、ルキナが経験したあの様な形で滅びが訪れる事は無いであろう。尤もそれでも。
人の世に争いは絶えず、今日もどこかで誰かが絶望に沈み、災厄の種は常に蒔かれ続けている。故に真に生きとし生ける者達が皆平和に満ち足りる事が叶う世界は未だ遥か彼方で。
この先の遥かな未来でも「絶対に世界は滅びない」とは断言出来ない事は……ルキナとしては少し寂しいが。
そればかりは仕方の無い事であり、ルキナが背負うべき『使命』でも無いのであろう。
それは、その滅びを察知した人々が、何処かの未来で足掻くべき事であろうから。
『使命』を果たしたルキナは、もう自由だ。
だから「この世界」でルキナはルフレを待ち続け、……二年待ち続けたルキナの元に、ルフレは再び帰って来てくれた。
だからこそ、ルキナは恐れてしまう。
もし、「これ以上」を望んでしまったら。望み過ぎたら。
今度こそ、ルフレを永遠に喪ってしまうのではないかと。
望んで、願って、足掻いて、抗って……それでもルキナは喪い続け、望みが叶った事など片手で数える程も無い。
だからこそ、望み過ぎる事を恐れていた。
望む事ばかりを覚えてしまえば、何時か、残酷な運命の女神が自分から何もかもを奪ってしまうのではないかと。
そんな、論理的な思考でも理屈でも無い……「思い込み」と言っても良いそれが、ルキナの心を縛り続ける。
それが、理屈に合わない「思い込み」であろう事は、ルキナ自身もよく分かっているのだ。
しかし、それを自覚しているからと言って、それが意識的にどうこう出来るモノかどうかと言う事はまた別の話であるし、ルキナは分かっていても「思い込み」を振り払えない。
喪い続けてきたからこその、後ろ向きなその「思い込み」は、ちょっとやそっとでは到底拭えないモノになっていて。
そしてそれはきっと、「あの日」消え行くルフレに何も出来なかったからこそ、より深くルキナの心に根付いてしまった。
もし再び「あの日」の様に喪ってしまったらと思うと、ルキナの心は竦み、それ以上を望めなくなる。
「この世界」にはルフレが居るのだから。自分の隣にルフレが居てくれるのだから……。それ以上を望む必要なんて無いだろうと、そう囁く己の心に従って。
ルキナは、微睡む様な『幸せ』に閉じ籠った。
望まなければ、この日々が変わる事は無い、傷付く様な事はきっと起こらないのだから……。
◆◆◆◆◆
『夫婦』、『家族』……。
その二つの言葉が、グルグルと頭の中を巡り続ける様に、ここ数日に渡ってルフレを悩ませていた。
勿論、その「意味」が分からないと言う訳では無い。
が……実感と言うモノは無い。
そもそも、「過去」の記憶が無いルフレにとって、『家族』も『夫婦』も、己には遠い「何か」だ。
……まあ、記憶があったとしても、実の父親であるファウダーがあんなのだったのだから、『夫婦』と言うモノはあまり実感が無い概念だった気もするが……。
まあ、実感と言うモノが無くても。
『恋人』と言う関係性と『夫婦』と言う関係性が違う物である事は、ルフレも確りと分かっている。
国の制度上でも、『恋人』関係にある場合と『夫婦』関係にある場合ではその扱いは全く違うのだ。
そしてきっと、その関係性の確かさは、ルフレは元よりルキナにとってもまた欲するものであろうけれども……。
しかしそれでも何処かに戸惑いとも躊躇いとも取れないモノを感じてしまうのは……。
「それ」が、本当にルキナにとっての『幸い』になるのであろうかと言う思いが、どうしても拭えないからであろうか。
……ルキナは、『絶望の未来』で、『家族』を喪った。
そして、恐らくは今も尚。その傷は癒えていない。
ルキナにとって、『家族』のカタチをした欠落は、誰にも埋められないモノであるのだろう。
……例え、もうあの『絶望の未来』は訪れないのだとしても、彼女の「経験」を変える事は神であっても不可能であるし、そして喪われたそれらが甦る訳でも無い。
…………時の彼方の何処かに、『使命』からは開放された今でも、ルキナの心の何処かは囚われているのであろうか。
喪ってきたモノの形に欠落した心の隙間を、埋める事は果たして叶うのであろうか。
ルキナは、ルフレには彼女が心に引いている「一線」を越える事を許しているけれども。
しかしだからと言って、その心の傷に無遠慮に触れて良いのかどうかと言う事は、全く別の話になる。
まだ癒えてもいない……誰の目にも見えぬが故に、膿み爛れていても周りからは気付く事の出来ぬその欠落に。
触れてしまった事が切欠で、より大きな痛みを与えてしまうのではないかと……。少しだけ瘡蓋が出来て痛みが薄れてきたそれを、無理矢理に掻き毟って剥がし惨い傷痕を曝け出してしまう結果になるのではないかと、そうも思うのだ。
…………ルフレと共に過ごす日々の中で、ルキナが『両親』の影に心を苛まれる時間は少しずつ減っている様にも見えた。
が、それは別にルフレの存在がその欠落を埋める事が出来たと言う事では無いのであろう。
単純に、クロム達と過ごす時間よりもルフレと過ごす時間が増えたからだと言うだけなのかもしれない。
しかし、『夫婦』になる、……『家族』になるという事。
それは、ルキナに『家族』と言うモノを……もう取り戻せぬそれをより強く想起させる事になりはしないかとも思う。
それが、少しだけ恐ろしいのだ。
しかし、それと同時にやはり男として、恋人として。
二人の関係性に覚悟と誠意を持つ事は必要であった。
共に生きる、共に苦楽を分かち合う……。
同じ世界で、同じ時の流れの中で、手を取り合って時を重ねて行く事。そしてそれを誓う事。
そこにある『想い』自体に大きな違いは無いのだとしても。
その関係性の確かさは、同じでは無い。
だからこそ、難しい。
ルキナは、ルフレと共に生きたいと、「あの日」もそう願っていた様に今も思ってくれているのだけれども。
それと同時に、やはり今でも何処か。己の「居場所」とでも言うべきモノ、その存在をこの世界に留める為の楔、その身を寄せる為の寄る辺に、迷っている節はある。
この世界に、ルフレと言う愛する存在が在っても。
この世界に本来自分は存在するべきではない、と言う意識は抜けないのだろう。
『使命』から解き放たれても……いや、解き放たれたからこそ尚の事。ルキナは自らの心を縛る鎖を、放せない。
そんな彼女に、『夫婦』と言う確かな居場所を。
『家族』と言う「帰るべき場所」を与えられるならば。
それは、ルキナにとっては一つの確かな「救い」になるのではないだろうかと思うのだけれど。
……それを思い切れないのは、ルフレにとって『夫婦』と言う在り方に実感が持てないが故に、そこにある「繋がり」を今一つ信じ切れないからなのだろう。
仲間達が愛する人と結ばれて『夫婦』として共に生きて行く姿は何時も見ているし、クロムが王妃を得てより確りとした良い王になっていったその姿も、そして愛情を育みながら共に支え合って生きているその姿も、幼い娘に有りっ丈の愛情を注いでいるその姿も、ルフレは知っているけれど。
しかし、ルフレはそれを「見ていただけ」だ。
いざ自分がルキナと『夫婦』になった時に、そうやって彼女をしっかりと支え合って生きていけるのかと思うと、少し不安になってしまうのだ。
特にルフレは、一度ルキナを裏切ってしまっている。
「逝かないで」と願い追い縋る様に伸ばされたその手を。
ルフレは…………掴まなかった。
「必ず帰る」とすら、約束しなかった。
そんな自分が、果たしてルキナのこれから先の一生に責任を持ってしまって良いのだろうかと。……そう思う。
……結局の所、ルフレは恐がっているのだろう。
ルキナを傷付けたくないという事も嘘では勿論無いけれど。
もっと……その根本の部分で恐れているのは。
ルフレには、ルキナと『夫婦』になる様な資格など無いのだと、そう突き付けられ自覚してしまう事を恐れていた。
だからこそ、逃げ回ってしまっていたのだろうか?
そうやって関係性を確かな形にする事から逃げる事は不誠実であると言う自覚はあるのに、それでも逃避しようとする。
……全く以て、我が事ながら愚かしい。
必要なのは、覚悟であると言うのに。
ルキナを『幸せ』にする覚悟、共に『幸せ』になる覚悟。
それさえ決めれば、後はもう悩むだけ無駄でもあるのに。
そして、既にそれを心から望んで、決意して。
そうして自分は自ら選択して、この世界に帰って来たのに。
それでも、恐がってしまうのだろうか?
それは何とも臆病な話である。
意気地無しと罵られても仕方の無い事だとすら思う。
ルフレはそんな自分自身に呆れる様に溜息を吐いて。
そして、クロムの元へと向かうのであった。
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