オリジナルの白黒プリキュア 作:ソラ
早朝の道場で、黒木野南月は祖母と対峙していた。
ナツキが祖母に空手を習い始めて十年も経つが、祖母を相手にして、未だに勝利できたことはない。六十代も半ばだというのに中学生の自分よりも素早い身のこなしは、最早妖怪変化の域だ。
もちろん、言葉にすればあとが怖いので、間違ってもそんなことは口にしないが。
ナツキが前の脚を、ダンッ、と強く踏み込むと、畳敷きの床が軋んだ。左の順突きから右の逆突き、右の回し蹴りへと繋げる。
しかし、定石通りの基本の連撃は、いとも簡単に捌かれた。
返すように、早気を咎める右の掌底が、ナツキの額に放たれる。見えている筈なのに、避けることも受けることも出来ずに痛打され、首が反り返った。
蹌踉めきながら一歩、二歩と退がり、構え直す。
「相手の構えから読み取れることは多い。よく観察しなさい」
ナツキは祖母の言に従い、その構えを見つめた。
祖母は掌底を放ったままの体勢で、右手をこちらに向けて伸ばしている。一見、隙があるようにも見えるが、適当に踏み込めば先程の二の舞だろう。
心を落ち着けて、ゆっくり息を吸い、ゆっくり吐く。
相手を慎重に観察して、呼吸を合わせる。次の一手はなにか、相手の思惑はなにか、意表を突くにはどういう手があるか。
ナツキが思考をいくら巡らせても、祖母の構えを突き崩すことは出来そうになかった。
軽くこちらに向かって伸ばされたその右手は、まるで他者の侵入を阻む結界だ。射程の長い中段蹴りで牽制しても、余裕を持って払われるだろう。
そして、蹴りを放ってバランスを崩したところに、祖母からカウンターの下段蹴りが来る。
彼女が放つ返しの下段は、まるで柔道の足払いだ。
それを喰らったナツキは、これまで悉く畳に叩きつけられてきた。お陰で受け身は上手くなったが、感謝する気にはなれない。
微動だにせず睨み合っていると、ナツキの耳の奥が、俄かに騒めいた。
最近偶に、ごく小さな耳鳴りが聴こえる時がある。すぐに治まるし、日常生活に支障は無いので特に病院などには掛かっていない。
しかし、今日の耳鳴りはいつもより大きく響いている気がした。
──悪意の……──
突然、脳内に直接反響するような声が聴こえた。ナツキは驚いて目を大きく見開き、辺りを見回してしまう。
祖母と自分以外誰もいない道場に、声の主は見つからなかった。
出し抜けに隙を晒してしまった孫に、祖母はデコピンをこつんと当てた。
「いたっ」
「集中出来てないね、今朝の組手は終わりだ。シャワー浴びておいで、汗臭い女は嫌われるよ」
「へーい」
素直に道場を出て、母屋の方へ向かう。耳鳴りはもう止まっていたが、先ほど不意に聴こえた声が、心に少しだけ引っかかった。
汗を流した後、中学校の制服に着替えたナツキがリビングに訪れると、母と祖母は既に食卓についていた。
祖母と行う早朝の組手は日課になっていたが、祖母が朝からシャワーを浴びる事は殆ど無い。何故なら、彼女はナツキとの組手で全く汗をかかないからだ。いつか汗だくの祖母に「おばあちゃん、シャワー浴びておいでよ」と言うのが、現在の目標である。
祖母はナツキが来るまで箸をつけずに待っていてくれるが、母は先に食べ始めていることが多い。それに対して特段の文句はない。勤め人である母は、朝食を食べたらさっさと職場に向かわねばならないのだ。
中学生であるナツキや、気儘な隠居の身である祖母に合わせていたら、遅刻してしまう。
祖父はナツキが生まれる前に亡くなっているので、父を病で亡くして以来、黒木家の食卓は祖母、母、娘の女三人だけになっている。
母はよく笑う人だ。今も朝食を食べながら、祖母に対して愚にもつかない話をして笑っている。
祖母はナツキにとって父方の祖母なので、母とは血の繋がりは無いのだが、この二人は不思議と仲が良い。近所の人などは、この二人を本当の親子だと誤解している節もある。
実際、ナツキ自身も幼い頃は誤認していたくらいだ。
「ナツキ、早よ食べ。雪原ちゃん来ちゃうよ」神戸出身の母は、会話の端々に時折関西弁が混じる。
「わかってるよ」
椅子を引いてテーブルに着く。祖母と声を合わせて、「いただきます」と呟いた。
ナツキ達が箸をつけ始めたところで、朝食を食べ終えた母は席を立ち、「じゃあ、おばあちゃん洗い物お願いね。いってきまーす」と慌しく出かけていった。
時刻は七時半。ナツキの友人である雪原桃香が家に迎えに来るのは、大抵八時頃なので、あと三十分は余裕がある。
朝食を食べながら、今朝の組手について、反省点を指南してもらう。技術的な指摘はその日その日でまちまちだったが、祖母の言うことはいちいち尤もな事ばかりだったので、素直に頷いて、神妙に拝聴する。
「ところで、組手の最後、少し気が散っていたようだけれど?」
ちらりと視線を向けて、祖母が言った。責めるような口調ではない。いつも真剣に空手に取り組んでいる孫にしては珍しいと、腑に落ちないのだろう。
「ええと……小虫が耳の傍を飛んでたんだ。羽音が気になっちゃってさ」
耳鳴りについては適当に誤魔化した。あまり家族を心配させたくはない。
別に痛みがあるわけでもなし、そのうち治るだろうと、ナツキは楽観的に考えているのだった。
陽光に金色が混じる良く晴れた朝の通りを、ナツキは学校に向かって友人と二人連れで歩いていた。
雪原桃香とは、小学生の頃から仲が良い。あまり社交的とはいえないナツキにとって、唯一の親友といってよかった。
学校では同じクラスだし、部活は同じ美術部に所属している。といっても、校則で部活動が強制されているので仕方なく所属しているだけで、美術部への出席率は二人とも高くない。
放課後は空手の稽古で忙しいのだ。ナツキはもちろん、雪原も。
とあるきっかけから、雪原もナツキの祖母に空手を習っている。
ナツキの祖母は、昔は門戸を開いて近所の子供たちなどに空手を教えていたらしいのだが、孫が生まれる前には生徒を取るのをやめてしまっていた。
雪原はナツキにとって、ただ一人の空手仲間でもあった。
「明日から春休みだね。何か予定とかある?」雪原は肩まで伸びた黒髪を翻して、ナツキに問い掛けた。
「特にないな。空手の稽古くらいか」
今日は中学一年三学期の終業式だ。隣を歩く雪原の表情には、明日から続く長期休みへの期待感が見え隠れしている。
対して、ナツキの顔は心なしか曇ってみえた。
「どうしたの? ナツキちゃん、ちょっと元気なさげ」
「んー、別に、元気ないって事はねえよ」
「通知表が気になるとか?」
「私の成績は、可もなく不可もなしだよ。喜ぶほどじゃないが、嘆くほどでもない」
「じゃあ、なんでそんなに曇り顔? 今日はこんなに快晴なのに」
数年来の親友は、心の機微を容易に悟る。ただ、とりわけ元気がないわけでもない。ほんの少しだけ、自分の成長に疑問を覚えただけだ。
「今朝も、おばあちゃんにボロ負けしちゃってさ。私、強くなってんのかなあって、ちょっと気になっただけ」
病床の父との約束を、ナツキは今も胸に秘めていた。けれど、誰よりも強くなるというその約束が果たされる日は、まだまだ遠そうだ。
何せ、齢六十を越える祖母にも全く敵わないのだから。
「いや、おばあちゃん先生相手じゃ仕方ないよ。先生って絶対、熊より強いよ」
ナツキの祖母をおばあちゃん先生と呼んで慕っている雪原は、熊の爪のように指を折り曲げた両手を、顔の横に掲げた。がおーっ、と戯けながら言う彼女に、ナツキはくすりと笑う。
「熊より強い、は良いな。熊より強い人相手じゃ、負けても仕方ないか」
「そうそう。大体、私なんかナツキちゃんにいっつも負けっぱなしなんだから。ナツキちゃんが強くなってないっていうなら、私なんかどうなっちゃうのさ」
「いや、雪原は強くなってるよ。始めたばかりの時に比べれば、突きも蹴りも立派になった」
「でしょでしょ? 私が強くなってるってことは、ナツキちゃんも強くなってるってことだよ」
「そっかな」
曖昧な笑みで、ナツキは頷いた。強さとは、相対的なものだ。自分の強さに自信があれば、祖母にいくら負けようと心が揺らぐ事などないのだろうが、自分の力量をどうしても誰かと比べずにはいられない。
大会などへの出場経験がない彼女にとっての比較対象は、師である祖母と、妹弟子の雪原しかいなかった。
「空手大会とか出たら、今の実力がわかるのかもね」
軽い気持ちでナツキが言うと、雪原は驚いた様子で目を瞬いた。
「ナツキちゃんも、そんなこと考えたりするんだ」
「ん? まあな」
「実はね、私もちょっと大会とか興味あって、少し調べたことあるんだ」
「へえ、雪原が?」
春の陽気を擬人化したように朗らかで、闘争とは無縁そうな親友がそんなことを考えていたとは、ナツキは想像もしていなかった。
「丁度、春休みに市民大会があるみたいだよ。私たちがおばあちゃん先生に習ってる空手とは、ちょっとルールが違うみたいだけど」
「市民大会、ねえ」
「優勝とかしても全国なんかには繋がってない小規模の大会みたいだけど、噂では全中レベルの選手も、ひとり参加するらしいよ。SNSで見ただけだから、本当かどうかはわからないけど」
全中レベルの選手と聞いて、ナツキの眉がピクリと上がる。
全国大会に出場するような選手と戦えるなら、少し興味がある。
「おばあちゃんに、相談してみるか。私、ちょっと出てみたいな、その大会」
「ホント? じゃあ私も出てみようかな。ナツキちゃんたち以外の人とも、手合わせしてみたいと思ってたんだ」
二人がまだ見ぬ空手大会に想いを馳せていると、背後から走ってきた少女が、ナツキを追い抜いた。
追い抜きざま、少女の肩に背負われた学生鞄が、ナツキの腕に当たる。
「いてっ」
「ちんたら歩いてんじゃないわよ。相変わらず、ぼーっとしてるわね」
くるっと振り返って、嫌味を込めた声で言う少女の顔は、見知ったものだった。
クラスメイトの佐浦希美だ。ナツキたちと同じ小学校出身の彼女だが、その頃から何かと二人に突っかかってくる。
突然つけられた因縁に、雪原は眉根を寄せてムッとする。ナツキちゃんはぼーっとなんかしてないよ、と反論し掛けたところで、当のナツキに手で制された。
「悪いな佐浦。道塞いじゃって、邪魔だったか? ごめん」
ナツキが手刀を切って謝罪すると、謝られた方の佐浦は、何故か少しだけ傷ついたような表情を見せた。
「……バッカじゃないの。そうやって、すぐ謝るところ、嫌いだわ」
鼻を鳴らして踵を返し、佐浦は通学路をまた駆け出していた。嵐のように去っていく背中を、二人はゆっくり歩きながら眺める。
「佐浦さん、いっつもやな感じ」雪原は、吐き捨てるように嘆息した。
「まあ、仕方ないさ。私が悪い」
「そんなことないよ。『あの事』だって、元はと言えば佐浦さんが……」
「いやいや、やり過ぎた私が悪いんだよ。『あの時』だって、おばあちゃんに叱られたし」
飄々としているナツキに対して、雪原は仏頂面のままだ。この話題になると、雪原はいつも機嫌が悪くなる。
剥れて俯向く彼女の頰を、ナツキは人差し指でツンと突いた。
「むう」
「機嫌直せよ。それより、大会のこと調べといて。お願い」
「はあ、わかったよ」
渋々納得した雪原は、仕様がないなと頷いた。でも、やっぱり、佐浦のことは少し嫌いだと思ってしまう彼女だった。
体育館での終業式を終えた生徒たちは、教室の席に大人しく座って、自分の通知表を受け取る順番を待っていた。
名前を呼ばれた生徒はひとりずつ席を立ち、担任教師から一言ずつお褒めの言葉か、もしくはお小言を貰っている。
流石に、自由に席を立って歩き回るような不届きな生徒はいないが、緩んだ雰囲気に満たされた教室の中、近隣の席の者とお喋りしている子は多い。
窓際の列の中程あたりに陣取るナツキの席は、前扉そばに座る雪原とは離れているし、周りには男子ばかりなので、ナツキは机に頬杖をついて外の景色を眺めていた。
透き通るような青空を、太陽に照らされてキラキラと光る雲が流れていく。
視界の左から右へと途切れることなく続く雲の群れを見ていると、透明な春の風が、この眼に映る気がした。
窓の外を眺めている様が、ことさら呆けて見えたのか、前の方の席に座っている佐浦が、丸めた紙クズを投げつけてきた。
ナツキは視線も向けずに片手でパシッと受け捕り、すぐさま後方にポイッと放る。
放り投げられた紙クズは教室後方のゴミ箱に、バスケのシュートのように綺麗に収まった。
ナツキの周りの席に座っている男子たちが、「おおっ」と小さな歓声をあげる。ぱちぱち、と小さく拍手している子もいる。
ナツキは視線を窓の外から佐浦の方へと向け直した。佐浦は険のある眼つきでこちらを見つめている。
そこまで嫌いかね、と思わず首を横に振ると、佐浦はさらに睨みつけてきた。
──悪意の根よ──
突如聴こえた気味の悪い声に、ぞくり、と背筋が震えた。
朝稽古の時に聴こえた声と同じ、しかも、今度はより鮮明に頭に響いた。今朝は何処からの声か全くわからなかったが、今は何故か、佐浦の方から聴こえた気がする。
──けど、佐浦の声とは全然ちがう。この声は、もっとおぞましい……。
ナツキが突然の幻聴に慄いていると、佐浦は、ぎり、と歯噛みし、ナツキから視線を逸らして前に向き直った。
声は、止んでいた。
──ただの耳鳴りかと思っていたけれど、遂に幻聴まで聴こえ出したか。こりゃ本格的に、耳鼻科で診てもらうべきか?
「どうしたの? 黒木野さん」
気遣わしげな顔で、隣の席の男子が話しかけてきた。苗字は田中、名前は確か、実だったか。
「ん、なにが?」
「いや、なんだか顔色が悪いみたいに見えたから。佐浦さんと何かあった?」
「いや、別に大したことはないよ」
「んー、なら良いんだけど。黒木野さんと佐浦さんって、ちょっと相性悪い感じだよね」
女子同士の交友関係に明るくない田中だったが、佐浦がナツキを目の敵にしていることは、この一年間で察していた。
実際、いま目の前で行われたようなくだらない嫌がらせを、佐浦は度々ナツキに仕掛けていた。
「昔、ちょっと揉めたことがあってね。それ以来、あんな感じ」
「そうなんだ、でもまあ、もうクラス替えだもんね。来年は、二人は別々のクラスになるんじゃないかな」
「そうかな?」
「うん、先生ってそういうの意外と良く見てるっていうから、相性が良くない人は別クラスにすると思うよ」
「へえ、そういうもんなんだ」
そうなってほしいものだ、と少し思う。細々した嫌がらせなど相手にせず流してきたが、最近は辟易としてきたところもある。
別のクラスになれば、佐浦もわざわざこちらにちょっかいをかけてくることも無いだろう。
ただ、雪原とは来年も同じクラスになれたらいいな、とは願っていた。
「僕は、来年も黒木野さんと同じクラスになりたいと思ってるけど」面と向かって、捉えどころのない態度で田中は呟いた。
「はあ?」異性から、同じクラスになりたいなどと突然言われ、ナツキは目を白黒させる。
田中は爽やかに微笑みながら、「だって君、見てて飽きないから」と、本気とも冗談ともつかない口調で言った。
「あっそ」
なんだこいつ、意外と変な奴だったんだな、と、三学期の最終日に判明した、クラスメイトの風変わりなキャラクターに、ナツキは幾分頰を引きつらせた。