オリジナルの白黒プリキュア 作:ソラ
床の間と仏壇が並ぶ和室に、ナツキの祖母の姿はあった。お膳を挟んで祖母の対面に、ナツキと雪原は並んで座っている。
雪原にとって『おばあさん』といえば、朗らかなイメージが強かったが、どうやらナツキの祖母はそういうタイプではなさそうだった。
第一印象からいえば、ちょっと怖そうかも、という感想をいだく。
ボブカットの髪には幾らか白い物が混じっているが、真っ直ぐに伸びた姿勢の良い正座や、張りのある肌艶からは、老いたりという感じは全くない。
静かに凛と佇む彼女を眺めていると、こういうおばあさんになりたいという憧憬が、雪原の胸をよぎった。
「──ってことでさ、雪原も空手やってみたいんだって」
祖母に雪原を紹介したナツキは、お膳の上からオレンジジュースのグラスをとり、一息に飲み干した。
雪原は、折角おばあさんが用意してくれたものだから、自分もジュースに口をつけた方がいいだろうか、いや、今このタイミングで飲むのは失礼かも、と僅かに思い悩む。
迷っていると、その様子を鋭敏に悟ったナツキの祖母は「遠慮しなくていい」と掌を差し出して、飲むように促した。自らも、湯呑みに淹れた緑茶を口にする。
雪原は頷き、いただきます、と断ってグラスをとった。緊張から意外と喉が渇いていたのか、とても美味しく感じた。
「雪原さん」
「はいっ!」急に呼びかけられて、変に大きな声で返事をしてしまう。
「そう畏まらなくていいよ。空手だけれど、やりたいというなら、教えよう」ナツキの祖母は穏やかに微笑んで、そう言った。
「あ、ありがとうございます。あの、月謝とかは……」
出来れば自分の小遣いで賄える料金ならありがたいと、雪原は上目遣いでナツキの祖母を見遣る。しかし、彼女は首を横に振った。
「月謝なんかいらないよ。今は趣味程度に孫に教えているだけだ。月謝を取るようなものでも無い」
「でも、それだと申し訳ないような……」
「いいんだよ、所詮は趣味だ。ただ、道着くらいは買った方がいいかもしれないね。勿論、最初は動きやすい服装ならなんでもいいが」
ナツキの祖母は湯呑みを干すと、立ち上がって襖の方へと歩いていく。すい、と襖を開けながら、「今日は見学していくといい」と雪原に言った。
道場に移動した雪原は、用意してもらった座布団の上に、膝を抱えて座っていた。
目の前では、空手着に着替えたナツキとその祖母が、無言で対峙している。
細く息を吐いて、ナツキが踏み込んだ。鋭い左の中段蹴りが、祖母の脇腹へと放たれる。しかし、それは右の手刀で打ち落とされた。ナツキの左足が、大きな音を立てて畳を踏みしめる。
中段蹴りが迎撃されることは予想済みだったようで、ナツキはすぐさま右の鉤打ちで顎先を狙う。けれどそれも、パンッと跳ね上げる形で払われて空を切った。
瞬間、祖母の右脚がナツキの左脚を払う。重心が乗っている脚を払われたナツキは、一瞬、宙に浮いた。
怖気を覚える浮遊感から、反射的に身体が受け身の姿勢をとった。顎を引き、身体を丸める。意識せずとも両腕が動き、床を叩いて落下の衝撃を柔らげた。
仰向けに寝転がるナツキが祖母を見遣れば、彼女は右の拳をナツキに向けて、残心の構えを見せている。
ナツキはグイッと脚を上げて、ネックスプリングで勢いよく跳ね起きた。
たったそれだけの攻防で、ナツキの呼吸は乱れていた。心臓が酸素を求めて激しく脈打つ。唇から吐息が細かく漏れた。
ナツキは既に肩で息をしているというのに、祖母は未だ、彫像のように微動だにせず、構えを崩していない。
せめて少しくらいは冷や汗をかかせたいと、ナツキは祖母に向かってがむしゃらに突き蹴りの連撃を放った。
その連撃は、雪原の目には、吹き荒れる暴風のように見えた。
リズムよく放たれるナツキの打撃を、祖母は全て最小限の動きで払い、打ち落とし、捌き、避ける。孫の苛烈な挙動を、余裕を持って対処する彼女の身のこなしは、正に凪の海を思わせる。
雪原には二人の組手が、洗練された演武のように、とても格好良く見えた。
ナツキの空手は、風だ。どこまでも自由に吹く風。制限はなく、際限もなく、伸びやかに遊び回る旋風。ナツキのように動けたら、どれほど楽しいだろうか。
そして、それを全て受け流すおばあさんの技術からは、途方もなく長い研鑽を感じる。あのような境地に至るには、どれほどの時が必要だろうか。
この二人みたいになりたいと、雪原は深く思った。
ナツキの額に、祖母の手刀がペシッと入ったところで、組手は終わった。ふと、雪原の存在を思い出したナツキは、彼女の方へ顔を向ける。
雪原はポカンと口を半開きにして、感動した様子で拍手していた。
「どうだった?」ナツキは汗の滴る前髪を搔き上げて、雪原に問い掛ける。
「すごい、すごい!」
言葉が見つからないのか、頻りにただ、すごい、とだけ繰り返す。そんな反応をされると照れてしまう。ナツキは苦笑した。
「私も、私も見学だけじゃなくて、何か教えてもらえませんか?」
興奮して立ち上がった雪原の服装は、シンプルなロンティーに、アンクル丈のカジュアルパンツだった。とりあえず、動きにくい服というわけではない。
ナツキはちらりと祖母に目を向けた。祖母は柔らかに微笑み、頷いている。
「あんたが教えてあげなさい。他人に指導するのも、練習だ」
祖母にそう言われて、ナツキは少し考え込んだ。急に教えろと言われても、何から始めればいいのか、自分が祖母に教わり始めた時はどうだったか、と過去を思い返す。
数瞬考えたところで、ああ、最初は受け身だったな、と思い至った。
「じゃあ、受け身でもやる?」
「うん!」
自分が祖母に、「最初は受け身からだ」と言われた時は、がっかりして文句を言った覚えがあるけれど、雪原は嬉しそうに頷いている。
雪原は素直なヤツなんだな、とナツキは感心した。
「じゃあ、倉庫からマット持ってこないと」
「手伝うよ!」
道場の隣にある倉庫に、二人は向かう。その後ろ姿を眺めて、ナツキの祖母はそこはかとなく、嬉しそうな表情を浮かべていた。
孫に良き友人が出来そうな事を、心密かに喜んでいたのだ。
稽古を終えて雪原が帰宅したあと、ナツキと祖母は共に台所に立ち、夕食を作る。料理についても、小さい頃から祖母に仕込まれているナツキの腕は、小学生にしてはそれなりに見事なものだった。
メインであるハタハタの煮付けや、チキンと卵の野菜スープなどは祖母が作ったものだが、小鉢に盛られたバター仕立てのナス味噌炒めはナツキの手によるものだ。祖母の手は借りていない。
出来た料理を食卓に並べ終えたところで、タイミングよく母が帰宅してきた。
「美味しそうね、ナス味噌炒め」
帰宅した母は、いつもいの一番にナツキの作った料理を褒めてくれる。今日はこれを作ったなどという説明は特にしないのだが、母は娘の手料理がどれか、簡単に見抜く。
ナツキのレパートリーが祖母に比べて少ないという理由もあるが、多分これは、母の愛情のなせるワザなのだろう。彼女が娘の作った料理を当てられなかった事は、今まで一度もない。
レディーススーツのジャケットを脱ぎ、ハンガーにかけたあと、母は食卓についた。彼女は大抵、仕事着のまま夕食をとる。曰く、部屋着に着替えるのは面倒、とのこと。
ナツキと祖母も食卓につき、三人揃って、いただきます、と声を合わせた。
「二人とも、今日なにか良いことでもあった?」
柔らかく煮詰められたハタハタの身を箸でほぐしながら、母は二人の顔を交互に見遣って言った。
祖母は少しだけ口角を上げて、孫にそっと視線を向ける。
「なんでわかんの?」ナツキは不思議そうに、首を傾げた。
「んー、表情、かな? あと、そこはかとなく漂う雰囲気」
家族のつながりというものか、元々察しがいいのか、母は二人の変化によく気づく。
「友達、出来た」照れくさそうにそっぽを向き、微かに頰を赤らめて、ナツキは呟いた。
予期せぬナツキの言葉に、母の目が歓喜に輝く。
「へぇー、どんな子?」
「礼儀正しい、良い子だったよ。親御さんのお仕込みが良いんだろうね」
「あら、おばあちゃんはその子に会ったの? いいなぁ、わたしも会いたかった」
「空手を教えてほしいと頼まれた。孫以外の弟子は、久方ぶりだ」
祖母と母は、ナツキに友人が出来たことが嬉しいのか、楽しそうに話している。
「何組の子? 名前は?」母がナツキに訊く。
「同じクラス。学級委員やってる、雪原桃香って子」
「そう、ええやん。友情は大事にしなさいね」
ナツキは、「わかってるよ」と素っ気なく呟いて、ナス味噌炒めを口に放り込んだ。ナス全体に溶け込んだバターの風味が、優しい甘さを伴って口内に広がる。
今日の出来はいい感じだ、と内心で満足しつつ、にこにこと笑いかける母の視線を躱した。
柔和で暖かい母の目は、ナツキには妙に気恥ずかしくて、ちょっとだけ、居心地が悪い思いだった。
ナツキと雪原が、一緒に登校するようになったのは、その翌日からの事だ。二人で歩くと、変わりばえのない通学路が、途端に素敵な散歩道のように思えた。
昨日の雪原の稽古は、正直言ってつまらない受け身の反復に終始したというのに、彼女は嬉しそうに、楽しかったと話す。
今日は、正拳突きでも教えてあげるよといえば、雪原は目元を綻ばせて、放課後が待ち遠しいと笑った。
学校に着き、教室に入っても、雪原はナツキの隣から離れなかった。こんな風に、同年代の他人と長く話すという経験がないナツキは、こそばゆい思いを懐いていた。
けれど、悪い気分ではない。雪原の、ころころと変わる表情を眺めているだけでも、ふわふわと、心が弾む気がした。
そろそろチャイムが鳴るからと、雪原は少し離れた席に戻っていく。名残惜しいが、仕方ないだろう。次の休み時間を、これほど待ち侘びるのは初めてだった。
不意に、ガラリと教室の扉が開く。担任教師が入って来たのかと思ったが、姿を見せたのは不機嫌そうに顔を顰めている佐浦希美だった。
彼女は眉をひそめながら、ナツキを視線で射抜くように見た。言葉にせずとも、目元がその心情を語っている。
──これは、ちょっと、嫌われたかな。
扉をくぐってすぐの所で立ち止まった佐浦。彼女の検の篭った瞳は、ナツキがこれまでに向けられた事がない類いのものだった。
一触即発かという空気が、俄かに流れ出す。それまで、朝のゆったりとした喧騒に包まれていた教室内が、しんと静まり返る。
ただ、それはほんの数秒のことだった。静寂を破るチャイムの音が鳴り響くと、担任教師が現れた。
「佐浦さん、チャイム、鳴ってるわよ。席に、着きなさい」
多少おどつきながらではあるが、しっかり注意した担任教師に、ナツキは内心で拍手を送った。
常の通りなら反抗的な態度を見せたであろう佐浦も、なぜか、今日は大人しく自分の席へと向かう。
自分の言葉に素直に従ってくれた佐浦に、担任教師は大いに驚き、顔に喜色を浮かべている。ただ、ナツキにとっては佐浦のその態度は、嵐の前の静けさとしか思えなかった。
その日の授業は、何事もなく、スムーズに進んだ。
いつもなら、授業などお構い無しでべらべらと私語を口走る佐浦たちのグループが、妙に静かだったからだ。
授業中だけでなく休み時間も、佐浦を先頭にしてどこか教室の外へ出て行くので、一日中揉め事もなく穏やかに時間が過ぎていった。
雪原などは、「佐浦さんも、今までの行いを反省したのかも」と喜んでいたが、ナツキにはどうも、佐浦が自身の行いを省みているなどとは思えなかった。
彼女が時折ナツキに向ける、怒りの感情が込められた視線からは、明確な悪意を感じた。
ナツキは物心ついた頃から、他人の持つ悪意に敏感な子供だった。
ナツキが周囲の子供たちに馴染めないのは、空手の稽古が忙しかったからという理由も勿論あったが、それ以上に、相手の心にある小さな悪意をさとり、知らず知らずの内に避けるような態度をとってしまう所為でもあった。
幼い子供というものは素直で無邪気だが、それ故に、些細なことで小さな悪意を懐き易い。相手にとって少し思い通りにならない言動をナツキがとると、途端にこちらに対して負の感情を持つ。
ナツキは、そういう負の感情が放つ剣呑な空気が人一倍苦手だった。
母は単に、人見知りが激しいだけだろうと考えていたようだが、幼いナツキに友人が出来なかったのは、悪意を向けられるくらいなら、最初から深い人付き合いなどしないほうがマシだと思っていたからだ。
それなりに成長して、十歳になった今では、小さな悪意くらいは受け流せるようになっていたが、今日の佐浦から向けられるそれは、どうも今までのものとは度合いが異なる。
鎌首をもたげるように、暗い予感がナツキの胸中を占めていた。
「帰ろう、黒木野さん」放課後、ランドセルを背負った雪原が、ナツキを誘う。「今日はね、着替え、ちゃんと持ってきたんだよ」
雪原の手には、チェック柄の手提げカバンがあった。隅には、可愛らしくデフォルメされたウサギのキャラクターが刺繍されている。
昨日の今日で空手着を用意できたとは思えないので、中身は多分、体操服か何かだろう。
仲良くお喋りしながら、揃って教室をあとにする。
エントランスで、靴を履き替えようと下駄箱の小さなトビラを開いたところで、ナツキは残念な事実に気づいた。
──あらら、靴隠しとは、古典的だね。
下駄箱に、靴はなかった。証拠もないのに疑うのはあまり良くないことだろうが、十中八九犯人は佐浦だろう。くだらない嫌がらせに、俄かに嫌気がさした。
「黒木野さん……私の靴が、なくなってる」
「あれ、雪原も? 私もないや」
「黒木野さんもないんだ……あの、靴の代わりに、こんな紙が入ってたんだけど」
雪原が差し出した紙を受け取り、さっと目を走らせる。子供が書いたとすぐにわかる稚拙な字で、『クツはあずかった。返してほしければ、特別とうのウラに来い。』と記されている。
「靴は預かったって……誘拐のつもりかよ」げんなりしながら、ナツキは呟いた。
「どうしよう、黒木野さん。先生に相談する?」
「んー、先生っつってもなあ」
こういう場合、まず相談すべきは担任教師だろう。しかし、あの頼りにならない担任に話しても、どうなるものでもない。かといって、別の教師に言いつけるのも、担任のメンツを潰すことになるので憚られる。
受け持ちのクラスの揉め事も解決出来ないのか、と担任が他の教師から責められるのは、ナツキの本意ではなかった。
頼りないとは思っていても、基本的に善良な担任のことを、嫌っているわけではない。
「とりあえず、パッと行って、私らで取り返そう」ナツキは、雪原と共に特別棟の裏に向かった。
特別棟は、理科室や視聴覚室、図画工作室などがある校舎だ。
クラスの教室がある校舎から、渡り廊下を挟んで南側に建っている。放課後に、特別棟に用がある教師や生徒はほとんど居ないので、その校舎裏ともなれば人目は全くないと言っていい。
面倒なことにならなければいいけれど、とナツキは心配しながら、渡り廊下を歩いた。
「特別棟の裏って、砂地だよな。上靴よごれんのヤダなあ」下履きを取られたのだから仕方ないとはいえ、ナツキは上靴のまま外を歩くのは嫌いだった。
「あとで洗わないとね」雪原も、憂鬱な様子で言う。
ふたりは揃って、吐息とともに不満を洩らすように、大きなため息をついた。