オリジナルの白黒プリキュア 作:ソラ
特別棟の裏地は、校舎によって西陽を遮られている。日も沈んでいない時間帯だというのに、光は殆ど差し込まず、辺りは薄暗かった。
佐浦は金網フェンスに背凭れて、底意地の悪い笑みを浮かべていた。周りには、いつも佐浦の周りを固めている女子グループの姿もある。彼女たちのグループは佐浦も含めて六人組の筈だが、今日はどういうわけか二人少なかった。彼女たちは例によって、右手にはお揃いの安っぽいブレスレットを着けている。
その顔触れの中には意外なことに、昨日佐浦と一悶着起こした井上もいた。どうやら無事に仲直りできたらしいが、そんなすぐに元通りの関係になるのなら、最初から揉め事など起こすなと、ナツキは思う。
靴はどこだと周囲を見回せば、フェンスの向こうに二足、無造作に転がっていた。
フェンスの向こう側には木が生い茂って鬱蒼とした森がある。木の葉のせいで日当たりの悪い地面は、一日中湿気を含んでいるので軽く泥濘んでいた。
適当に放り投げられたであろう靴には泥でもついていそうで、ナツキは苛立ちを覚えた。
「ちゃんと来たね。怖気付いて来ないかと思ったのに」佐浦が口を開く。
「別に、喧嘩しようってわけじゃないんだから、怖がることなんかないよ。ほら、さっさと靴返せよ。私はフェンスなんか登りたくないから、佐浦が責任もって取ってこいよな」
泰然とした様子でいうナツキに、佐浦の顳顬がぴくりと疼いた。
「喧嘩しようってわけじゃない? なに呑気な事ほざいてんのよ。今からあんたは、私にぶちのめされんのよ」
佐浦が、何かの合図のように腕を振り上げる。それと同時に、ナツキの隣から「きゃっ」という短い悲鳴が聴こえた。見れば、二人の女子に雪原が両腕を拘束されている。道理でいつもよりメンバーが二人少ないと思えば、どうやら何処かに身を潜めていたらしい。
「おい、雪原には手ぇ出すなよ」
「そいつもあとでぶん投げる。でもまずはテメエからだよ黒木野っ!」
佐浦は、柔道選手らしくない、ボクシングの真似事のようなファイティングポーズをとった。拳を固く握り、両手を顎の位置まで上げ、半身で構えている。
ナツキひとりならば逃げることもできたが、雪原が捕まえられているこの状況で、逃走を選択することは出来なかった。
「全く、しゃーねえな」
ナツキは腰を僅かに落として、中段で構えた。拳は作らず、軽く掌を開いている。
「黒木野さんっ!」
唐突に訪れた喧嘩の気配に、雪原が叫んだ。拘束から逃れようともがいているが、ガッチリと両腕を固められて外せそうにない。
相手からふっかけられて応じたかたちとはいえ、ナツキに喧嘩などしてほしくない雪原は、「逃げてっ、黒木さんっ!」ともう一度叫ぶ。彼女の腕を掴んでいる女子のひとりが、「うるさいなあ、あんたは黙ってなよ」と顔を顰めて言った。
「一人で逃げんのは、ちょっとね」ナツキは唇を尖らせて呟く。
「心配すんなよ。黒木野も雪原も、平等にぶちのめしてやるから」
佐浦はタタンッとリズムよく踏み出して、間合いを詰めてくる。構え自体はボクシングに似ていたが、そのステップワークは、まるで柔道の継ぎ足だった。おそらく彼女は、打撃系の格闘技の経験は全く無いのだろう。右手を身体の後ろに思い切り引いてから、力一杯殴りつけてくる。
そんな予備動作の大きいパンチは、ナツキにとっては解答を見ながらテストを受けるようなものだ。
ナツキは顔面に迫りくる右ストレートを左手で払い落とし、右の拳を佐浦の目元へと放った。
堪らず佐浦は、反射的に目を瞑る。しかし、予想した衝撃は一向に訪れない。一拍おいて目を開けると、距離を取って構えをといたナツキの姿が視界に映った。どうやら、当たる寸前で拳を引いたらしいと気づく。佐浦の頭に、さらに血が昇った。
「私の勝ちってことでいいか?」肩を竦めて、ナツキが言う。
気に入らない、と佐浦は思った。気に入らない、余裕綽々の態度も、勝ち誇ったような物言いも、何より、パンチを当てなかったことが気に入らない。
「良いわけねえだろうがっ!」
佐浦は怒声を上げて、ナツキに襲いかかった。大振りのフックが空振る。ジャブも、ストレートも、全てのパンチが、時に躱され、時に払い落されて、ナツキには当たらない。
やがて息を切らした佐浦が攻勢を止めるまで、そう時間はかからなかった。彼女は荒い呼吸で胸を弾ませながら、ナツキを睨む。
「もういいだろ? 靴は自分で拾うから、あんたは帰っていいよ」呆れた調子で言うナツキの声が、佐浦にフラストレーションを募らせる。
「……あんた、なんか格闘技でもやってんの?」
「空手、習ってっけど」
ナツキの答えに、佐浦の口元が皮肉げに吊り上がった。
身のこなしから素人では無いことはすぐにわかったが、なるほど空手か。ならばと、佐浦はファイティングポーズを止め、ナツキに正対するように立って両腕を顔の前に掲げた。
空手に投げ技は無い。組んで投げてしまえば、自分の勝ちだ。
「まだやるのかよ」
「当然っ!」
佐浦はナツキに跳びかかり、組みつこうと手を伸ばす。その左手が、ナツキの右袖をとった。
ナツキは今日、長袖の開襟シャツを着ていた。しかも、袖口のボタンを留めていない。一度とられた袖は、振り解こうとしても容易には切れなかった。
佐浦は空いた右手で、奥襟を狙ってくる。
ナツキは残った左手で必死に払いのけるが、流石に組み手争いの攻防は佐浦の方に分がある。一瞬、相手の鳩尾に突きでも当てて距離を取ろうかという考えが浮かんだが、『暴力は嫌いだ』と言った雪原の顔が頭をよぎり、断念した。
佐浦の、奥襟狙いの右手が迫る。大振りで回り込むような軌道のそれに対し、ナツキはカチあげる形で左腕を振った。
しかし、佐浦の右手は器用に変化してナツキの左腕を避け、がら空きの前襟を掴んだ。
──しまった、取られたっ!
完全に不利な体勢で襟を取られたナツキは、冷や汗を流す。
「っしゃあ!」
佐浦は咆哮とともに、引き手と釣り手を自らの方へと引き上げながら、くるりとターンするように身体を反転させた。
──内股っ! 対処法はっ!
タイミングからいって、体捌きで躱すことはできない。次善の策として、ナツキは重心を落とし、両膝を締めた。
相手の脚を跳ね上げようと振るわれた佐浦の右脚が、ナツキの膝頭に当たって止まる。二人の身体が一拍、引き合うようになってグッと固まった。
膠着から先に抜け出したのは佐浦だ。柔道において、技をかけた方と耐える方では、かけた方が次の先手も取りやすい。
さらに言えば、佐浦は数々の大会で優勝している事を自慢しているだけあって、その足運びは俊敏にして流麗だった。体重をぶつけるように胸を合わせ、軽快なステップワークでナツキの右側に体を切り返す。
瞬間、佐浦の右脚が、ナツキの右脚を絡めとった。大外刈だ。
内股からの大外は、佐浦の最も得意としている連続技。投げ技を知らない空手家が相手なら、これで勝負あり……その筈だった。
佐浦も含めて勘違いしている人は多いが、実は空手にも投げ技はある。特に、大外刈のようなポピュラーな技は、しばしば組手などでも見られる。
もちろんナツキも、祖母から投げ技を教え込まれていた。その、返し技さえも。
佐浦に絡めとられた右脚は、すでに刈られて宙に浮いている。ナツキの上半身は後ろに反り返り、重心は背後へと傾いていた。最後に残った左足も、滑るように地面を離れる。
その場にいた誰もが、決まった、と思った。佐浦は言うまでもなく、雪原でさえ、ナツキが地に叩きつけられる映像を幻視した。
その時、ダンッ、と一際大きな音が響いた。
一瞬宙に浮いていたはずだったナツキの左足が、地面を強く踏みしめている。腰の左側を後ろに引きながら、瞬間的に重心を落とすと、ナツキの左脚は大地に根ざした大木のように、地面をグリップしていた。
さらにナツキは顎を引いて、腹筋に力を込める。襟を掴んでいる佐浦の右手が押し返された。
「なっ!」佐浦の表情が驚愕に歪む。
「おおぉっらあっ!」
気合いの声を上げたナツキが、右脚を後ろに振り上げた。佐浦の両脚は天に向けてそっくり返り、その身体は完全に浮遊している。
どさり、と佐浦は背中から地面に叩きつけられた。衝撃に息がつまり、ごほごほと咳き込む。
大外返し。これが柔道の試合ならば、あまりに見事なナツキの一本勝ちだった。
「あっ……悪り、つい。ごめん佐浦、大丈夫か?」
条件反射で投げ返してしまったナツキは、仰向けで咳き込む佐浦に、手を差し伸べた。
しかし佐浦は、その手を裏拳で払いのけると、地面に座り込んだままの体勢でナツキの膝を蹴りつけた。
「いてっ」
「調子、乗んなっ! 調子に乗るなよっ!」
佐浦は素早く立ち上がって、なおもナツキに拳を振るう。まさか投げ返されるなどとは想像もしていなかった佐浦の胸中は、屈辱感に占められていた。
もちろん、佐浦が誰かに投げられたのは、これが初めてではない。物心つく頃には柔道場に通っていたので、畳に背中をつけた経験など、百や二百ではきかない。
ただ、その相手はいつも、自分より大きな上級生や、大人たちだった。同級生の、しかも柔道選手でもない素人に、ここまで綺麗に投げられたことなど一度もない。
視界がぼやけるほどに、佐浦の怒りは頂点に達していた。
「ごめんってば、悪かったって!」
しかも、この期に及んで、まだナツキは殴り返してこない。謝罪の言葉を口にしながら、感情に任せて振るわれる佐浦の拳を、防ぎ続けている。
上品ぶったその態度が、とにかく気に食わなかった。投げられて地に横たわる自分に、手を差し伸べてくるなど、馬鹿にしているとしか思えない。殴り返せよ、殴り返してこいよ。これは喧嘩だ、喧嘩なんだぞ。
いつまでたっても喧嘩に乗ってこないナツキに、佐浦はパンチを打つのを止めて、俯きながら呟いた。
「……くせに……」
「あっ? なんだよ?」声が小さ過ぎて、ナツキには聴き取れなかった。
「育ちの悪い片親のくせにっ! お上品ぶってんじゃねえよっ! イラつくんだよ、殴り返してこいよっ!」
無遠慮な佐浦の言葉が、まるで弾丸の如く、ナツキの心を撃ち抜いた。じくじくとした痛みが、胸に拡がる。
ナツキの心の中で、ピンと張った紐が、ぶつりと千切れた。それを合図に、ふつふつと怒りの感情が湧き出してくる。
ナツキの父が既に亡くなっていることは、とくに隠しているわけではない。だから、クラスメイトの佐浦が知っていても、なんの不思議もない。
だが、面と向かって片親であることを揶揄されたのは、初めてだった。
触れられたくない傷跡を、指でなぞられたような不快感が、肌を粟立たせる。
瞬く間に鼓動が早くなり、眼の奥が熱くなった。まるで、全身の血流が眼底に集中していくような錯覚を覚えた。
ナツキは、母子家庭である自分を不幸だと思った事は一度もない。
夫を亡くしてから仕事に復帰した母は、毎日忙しそうにしていて、構ってもらえる時間は確かに少ないが、彼女から注がれる愛情を疑ったことなどない。
それに、自分の隣には、いつも祖母がいてくれた。厳格で実直な祖母の言動には、時に疲弊させられる事もあったが、おかげで寂しい想いなどしたことはない。
ナツキは、自身への誹りには、なんら痛痒を感じない。だが、育ちの悪い片親などという言葉を認めるわけにはいかなかった。
それは、ナツキの家族への罵倒だ。優しい母への、尊敬する祖母への、なにより、早世した父への、最低の嘲りだ。
ぎりぎりと、奥歯を噛み締める。爪が食い込むくらいに、拳を握り締める。
すると、全身から血の気が引いて、冷えていくような感覚がした。だが、怒りが冷めたわけではない。
冷たく、静かに、ナツキは激怒していた。
感情を心の底に沈めながら、ただ、目の前の相手を叩きのめすことだけを考えていた。
「構えろよ、佐浦」
「あぁっ? なんだよ急に。ははっ、怒ったのか。キレちゃったわけ? 片親って言われんの、そんなに嫌だった?」
佐浦の嘲笑混じりの声音が、頭の奥まで響いた。
ナツキは深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。そうしなければ、叫び出しそうだった。
「先に謝っとくよ、ごめんな佐浦。今から私が振るうのは、ただの暴力だ。あんたを懲らしめようとか、更生させようとか、そういう気は全くない」
「ごちゃごちゃうっせえんだよ。もう勝った気でいんのか? そういうトコがイラつくんだっての」
「むかついたから、あんたを叩きのめす。ただそれだけだ」ナツキは既に、佐浦の言葉を聴いていなかった。
風を切り裂く鋭さで放たれたナツキの順突きが、佐浦の顔面を捉えた。鼻っ面を打たれた佐浦の脳裏に、真っ白な火花が散る。ほとんど間をおかず、次は逆突きが左頬にめり込んだ。ぐちゃり、と気味の悪い音を立てながら、顔の肉が歪む。
「あ、うぇ?」意味をなさない声が、佐浦の口から洩れる。
「せいっやあぁっ!」ナツキは更に、右の中段蹴りを放った。佐浦は咄嗟に左腕でガードするが、衝撃を受けとめきれず、横に倒れ込む。蹴りを受けた腕には痺れが走り、その威力はガードの上から肋骨にまで届いていた。
佐浦は地面に両手をつきながら、ナツキの顔を見上げる。その表情は、まるで感情が読めなかった。
「立てよ」
ナツキの声に、怒りの色は見えない。しかし、それだけに恐ろしかった。佐浦は生まれて初めて、他人からの暴力に恐怖を覚えていた。
「立てっつってんだろうがっ!」
ナツキは突然、声を荒らげた。急な怒声に、佐浦は「ひっ」と息を飲むような悲鳴を零す。いつのまにか、彼女の頰は涙で濡れている。
いきなり訪れた佐浦のピンチを救おうと、彼女の友人たちは、全員でナツキに向かって組み付いた。
まだ怒りが晴れていないナツキは、ひとり、またひとりと、力任せに振り払う。怒気で視界が狭まっているナツキには、地に這いつくばっている佐浦しか見えていなかった。
しつこく右腕にしがみついている女の拘束を外そうと、ナツキはその女の手首の急所に、左手の親指をねじ込んだ。
女の「痛いっ!」という悲痛な声を聴いて、ナツキは反射的に彼女の方へ視線を向ける。そこには、眼に涙を溜めて、悲しそうに自分を見つめる雪原の顔があった。
「あ……」間抜けな声が、ナツキの口から零れた。
「やめて、黒木野さん。これ以上は、もう、ダメだよ」
雪原の眼から、溜まっていた涙があふれ出す。彼女の頰を伝う雫が、ナツキの頭を冷やしていく。
冷静になって周囲を見遣れば、佐浦の友人たちが、怯えた瞳を自分に向けていた。
佐浦は俯いたまま、嗚咽を洩らしている。
「あの、雪原……」ナツキの声は、震えていた。
「私……先生、呼んでくるね」
そう言い残して走り去った雪原の背中を、ナツキは呆然と見送った。暴力は嫌いだと、彼女は言っていた。
怒りに任せて力を振るった自分は、やはり、彼女に嫌われてしまったのだろう。
自分の人生で、初めてできた友人だったのに。いつか、親友と呼べるかもしれない人だったのに。こんなことで、こんな喧嘩なんかで、嫌われるなんて。
顔を伏せてすすり泣く佐浦に、無性に腹が立った。
──泣くなよ佐浦。私だって、泣きたい気分なんだ。
ナツキは不意に、空を見上げた。今にも雨を降らせそうなどんよりとした雲が、校舎裏の、狭い空一面に広がっている。
どうせなら、今すぐに降り出してくれればいいと思いながら空を睨んでいると、ポツリ、と水滴が額に落ちてきた。
人前で泣くのは嫌いだったけれど、雨が誤魔化してくれることを期待して、一筋だけ、涙を流した。