「何これ? 『シンカンセンスゴイカタイアイス?』」
「あら、車内販売で売ってるアイスよ、知らないの?」
「車販は全然気にしてないからなぁ俺……」
移動中の車中で物を食べるということは、思い返しても殆どない。時間の都合で朝早くてゆっくり食べる暇がない時くらいのものだ。今日はもう夜も済ませているし、寝るまで何か口にすることもないと思っていたのだけれど。
「で、買ってくの? それ。小腹程度には丁度よさそうだけど」
「それじゃぁ、話のネタ程度にでも……」
18・19番線の中ほどにある売店は、グリーン車にも近いから、ふらっと寄るには確かに丁度いい。売店に入り、保冷庫の扉を開ければ、売店内部の冷房よりもひんやりとした、冷たい空気が流れてくる。今の時期はまだ熱帯夜続きだから、ふっと感じる局地的な冷たさが冷房よりも気持ちいい。
「すみません、アイス一つ」
「バニラじゃないのね……」
「甘すぎるのもどうかと思って。だから抹茶かなと」
「甘さは別にそう変わらないし、そもそも目当てはそれじゃないわよ、それ」
「甘いもの目当てじゃなければ、何が目当てなんだよ、これ」
「――読んで字の如く、かな」
そう口にする銀子ちゃんは、どことなく優しい表情をしていた。
夜も更け始めるぐらいの東京駅は、大阪に前日入りをしようとするビジネスマンが多く、また酒を片手に持つ人も多くて賑やかだ。
何より、カップルが多い。仕事で赴任してきたか大学が地元ではないのか、遠距離恋愛のカップルが別れを惜しむ光景があちらこちらで見られる。
とはいえ、そんな光景は流石に普通車の号車でばかりだ。それでも、遠巻きに見て、複数のカップルがその様子なところを見る辺り、風物詩と言える。
――あぁそうか。今の時期、大学はまだ夏休みだ。
ということは、恐らく視界に入るカップルの殆どが大学生なのだろう。平日であっても、バイトか何かで、今日で帰らなければいけない相手の、そのお見送り。それを再度一瞥してから、銀子ちゃんと共に車内清掃が終わり、折り返し準備の整った新幹線へと乗り込む。
さて、いつもは普通車なのだけれど、今回はたまの贅沢……ではなくて、銀子ちゃんの四段昇格で世間的にも大騒ぎだからこそ、トラブル防止としてのグリーン車だ。一応、俺と銀子ちゃんの祝勝のご褒美でもある。
西日本在住の他の棋士や連盟関係者は、みんなもう帰った後だ。俺は、本当は帝位戦の第二戦の準備のために早めに帰るべきだったのだろうけど、銀子ちゃんが心配で、何より傍にいたくて、数日東京に残って一緒に帰る道を選んだ。明石先生も、何かあった時に俺に任せると言ってくれていたし。
「うわぁ、本当にカチンコチンだ。スプーンが立つかも怪しいなぁ」
「ホームで買うからよ」
「車内の方がすぐに食べられるように柔らかいのか」
「逆よ。車内で買うとスプーンが刺さる前に折れるわ」
「そっち!? なんでそんなことに……」
「さぁ? 車内のは冷えてないとあっという間に溶けちゃうからじゃない?」
「何はともあれ少し溶かしてからにするか……」
手前のテーブルを降ろして、そこにアイスを置いておく。幸い、デッキに面した進行方向一番前の席を並びで取れたから、前の人のリクライニングを気にする必要はない。
グリーン車の座席は、普通車のそれより広々としている。造り自体がゆったりしているからこそ、隣にいてほしい人と、少しだけ間が離れたように感じてしまう。
だからこそ、俺はその右手を銀子ちゃんの方に向ける。銀子ちゃんも、その手を握ってくれるだろうと思って。
「あ、ちょっと待って」
だけど、その左手には、それより先にスマホが握られていた。そのままパシャリという機械音。
「ほら、例の……」
「あぁ……」
どことなく申し訳なさそうに口にする銀子ちゃんを前に、漫然とした感想しか出てこなかった。それは間違いなく『俺』だから、嫉妬とかそういうこともないのだけれど。
空銀子による、九頭竜八一の右手写真集。浮気されてるわけではないし、別にレパートリーを増やすのを止めようとは思わない。如何わしいこと……にまで使ってるのだろうか。知らない。流石にまだ聞けない。でも追々。
「それじゃぁ……今度こそ満喫、させて?」
そう銀子ちゃんが口にするが早いか、俺の右手が指先まで温かいものに包まれる。両手で俺の右手が包まれていると気付くのに、そう時間はかからなかった。
両手で俺の右手をニギニギしているだけかと思えば、銀子ちゃんの両手で弄ばれて、終いにはそれを自分の頬に持って行ってスリスリスリスリ。
「はぁ……幸せ……」
いや、俺も幸せです。卵肌? いやめっちゃ頬すべすべじゃん! 薄化粧はしてるっぽいけど、でも殆どちょっとの口紅だけだって言ってたよつまり素肌でこれだよ気持ちいいぐらいにすべすべだよ!
手の温かさと、銀子ちゃんのニヤけた表情に、こっちまで意識というか理性が飛びそうになる。可愛い。というかこんな表情人目に付く場所で出しちゃっていいの。――人目?
「銀子ちゃん……そろそろ……」
「ハッ……!?」
人目にもつくから、ということを言う前に、我に返ったらしい銀子ちゃんが傍と気付き、そしてばっと俺の右手を下す。勢いが付きすぎてひじ掛けに当たった。少し痛い。
「見られてない、わよね……?」
「通路挟んだ反対側のおじさんは早速アイマスクしてるから多分大丈夫……」
だけどまだ東京駅すら出てない車内だ、自席へ向かうために通路を通る人には見られていたかもわからない。18番線停車中で山側の席だから、ホームにいる人にガン見される心配はないけど、幾ら棋界でそれを察知されようとも、世間に関係性をまだ公表してない以上、無用なトラブルは避けたい。
そういうことを考えて落ち着くと、不意に、今後の不安が急に押し寄せてきた。今後の帝位戦の対策。遂に耳にしてしまった俺の関東でのあだ名。銀子ちゃんとの関係。――再発した銀子ちゃんの病気。
そうだ、銀子ちゃんの病気に関して、明石先生に聞けなかったことはいっぱいある。俺が知らないこと。銀子ちゃんですら知らないこと。明石先生でもわからないこと。
「胸は……大丈夫?」
だからまずは、また見るかもしれない悪夢の可能性を尋ねてしまう。
「それはどの意味? 肋骨? 心臓? ――胸?」
「胸って、今そっちの胸の話なわけないでしょ」
「さぁ? 巨乳好きの誰かさんのことだからわからないし?」
「ロリコンと詰っておきながら巨乳好きって……」
「はいはい。昔から桂香さんの胸ガン見してたのは知ってるから。それで?」
「そりゃぁ……流石に、心臓……」
「そうね……」
封じ手を開けてから。少し回り道だったけど、一応月夜見坂さんのバイクで会場まで戻って取材を受けて、ホテルで財布だ携帯だ荷物だを受け取ってから病院へ直行した。その頃には取り急ぎの処置は終わっていた。
肋骨は、あの直後に病院に担ぎ込まれてすぐに手術で治したと聞いた。肺にも影響はなかったらしい。だからまずは『また同じことが起こり得てしまうのか』が気になって仕方がない。
「明石先生には、三段リーグの鬼勝負の緊張が、昔倒れた時以上の緊張をもたらしたから……って言われた」
肺の状態を確認するためにレントゲンを撮って、肋骨の回復のためにバストバンドを巻いて。開胸手術をせずにバストバンドで済んでるということは、肺には問題がなかったのだろう。
それよりも心臓だ。八年ぶりに一時停止した心臓は、銀子ちゃんのそれが完治していなかったことを如実に示していた。
「だから、暫くは、その一局の勝ち負けで人生を左右する程の緊張はないだろうけど、十二分に気を付けてって。深く読みを入れて、そして勝てると思った一瞬こそ、一番危ないって」
鏡洲さんとの鬼勝負。勝った方が昇段。お互いギリギリであることがわかる棋譜――鏡洲さんに感想戦がてら見せてもらった――。状況と盤面、それらが絡み合った状態なら、緊張は最高潮に達するのも無理はない話だ。
でもそれは、体力的、もとい病気的な面で、現状銀子ちゃんがタイトル戦に出れるような状況にはなれない、なってはいけないということを、暗に示していた。
竜王位奪取後、十一連敗した俺が言える立場にはないけれど、三段リーグ程ではないとはいえ、タイトル奪取か順位戦最終盤でもなければ余程の緊張にまではならない。かといって、そもそもの話で、プロになれば恥ずかしい将棋は指せない。
今後銀子ちゃんは、これまでとは別の緊張を強いられることになる。病気を公表したところで、それにかこつけて不戦勝を狙う人も現れうるだろう。それまでに完治していて欲しい、というのは、再発してしまった以上、あまりにも甘い考えが過ぎる。
俺がタイトルを総なめにしたい欲はあるが、それはそれとして、これから先、銀子ちゃんにも八大タイトルの何れかを奪取してほしい。だけどその時の緊張感は、きっとまた銀子ちゃんを苦しめるはずだ。誰のせいでもなく、自身にかかるプレッシャーが一番の原因として。
そしてそれは俺にすら重圧がかかってくる。いつか二人で指すだろう公式戦に、本気で挑んできて欲しい。だけどその本気は銀子ちゃんを殺してしまうかもしれない。そしてそうなれば、今度は俺が生きていられるように思えない。
あの時のように。目の前で飛び降りるかもわからないあの緊張と、いざそうなった際に感じただろう絶望と。また、その内同じ思いをしなければならないのか。
「銀子ちゃんが生きてないなら、この世界に価値はない……よなぁ……」
そうポツリと漏れた本音に、明らかに銀子ちゃんが慌てたかのような表情をする。
「そ、そんなことはないでしょ!? そりゃぁそれくらい思ってくれるのは嬉しいと思う気持ちもあるけど、あれだけ棋力があって、周りにも恵まれてる八一が――」
「東尋坊」
「――何よ突然」
「飛び降りてたら。――後を追ったよ、俺は」
「――それ、本当……?」
「それくらい、ずっと銀子ちゃんしか見てなかったから」
「嘘、でしょ……?」
「そんなドッキリ、嘘でも面白くないんだよなぁ」
銀子ちゃんには爆弾発言だっただろう。でも俺にとっては当然の摂理なんだ。
確かに、あの時は俺も必死だった。焦燥するずっと好きな子に懇願されて、俺も冷静さを失っていたのは事実だ。
空銀子の大切な人になれなくても、空銀子に九頭竜八一が刻み付けられますようにって。それだけは常に願っていたからこそ、あんな思いはもうしたくない。――したくないのに。
「それくらい俺は銀子ちゃんしか見てない……って言ったら、駄目かな?」
「ずるいよ……そんなこと言われたら……将棋と八一のためだけにしか生きていられなくなっちゃう……」
「それでいいよ。また死にたいって言い出さなければね」
「うん……それはもう大丈夫だから……」
だから今は、それだけ。銀子ちゃんが倒れてそのまま、ということがあれば、後を追うかもしれないということは伏せつつ。
そんな会話をしていたら、いつしか窓の外は静止画ではなく夜景の動画と化していた。大阪まで一直線に延びる鉄路を、香車が左右を見ず突っ込んでいくかの如く闇の中を滑っていく。
ふと、先程見た、カップルらの別れの光景を思い出した。夜の新幹線。今日のお別れをするカップル。その二つが、俺たちが生まれる前にやっていたキャンペーンに結び付く。
「シンデレラエクスプレス、か……」
「何それ」
「東京駅を新大阪行きの最終の新幹線が出る時に使っていた、遠距離恋愛のカップルがテーマの昔やってたキャンペーン。丁度、時間的にもそれくらいの時間だったなーって」
大阪と東京とで離れて暮らすカップルなら、どちらかがどちらかの元へ毎週末のように出かけて会いたくなるものだろう、ということはわかる。そして一度出会えばギリギリまで別れを惜しむものだ。師匠の家のテレビ番組か何かで、懐かしいCMだったか、そんなものとして流れているのを見た記憶があるのだけど、銀子ちゃんは覚えていなかったらしい。
夏祭りの日、銀子ちゃんが少しの時間を割いてでも俺を尋ねてきてくれた時。飛び上がるほど嬉しかったし、そして離したくないと思った。だから、きっとあのカップルたちは、そのような気持ちだったのだろう。
大丈夫、午前零時になった瞬間に魔法は解けない。それはそれとして、意地悪な継母もいないし、熱した鉄製の靴もない。ただ、白雪姫がここにいるだけ。
にしても、シンデレラ、か……。
「急に疲れた顔したわね」
「あぁ、いやちょっとね……」
今日はまだいい。帰る頃には日付も既に変わるぐらいだから何もする余裕はないし、俺は俺のアパートへ、銀子ちゃんは自宅、もとい実家へ帰ることにしている。銀子ちゃんを送るぐらいはするけど。
で、その翌日は、天衣も呼び寄せて清滝一門会議を開くことにしている。で、そこで話す内容はまぁ色々あるわけだけど、やっぱり――。
「弟子になぁ……銀子ちゃんとの関係性をなぁ……」
「しっかりしなさいよ、『娘さんを俺にください』って師匠に頭下げるんでしょ?」
「言う相手が間違ってるよねそれ!? って、そうそう、ご両親には伝えたの?」
「それとなく、かな。八一のことは昔から知ってるわけだし、明確な反対とかはなかったわよ。好きなようにしなさい、的な感じではあったけど」
ひとまずはそれでいい。反対はされてないというだけでまずは十分だ。
銀子ちゃん曰く、桂香さんはずっと応援してくれてたらしいから気にしなくてもいいだろう。問題は師匠だ。明確に駄目と言われることもないような気はするが、かといって全力で後押ししてくれるようにも思えない。正直どう転ぶかわからなくて、それが一番の不安材料だ。
まぁ多分、師匠が真っ先に口にしそうなのは『お前らにはまだ早い』といったところか。賛成も反対もせず、ただ関係性が時期尚早であると。ここは桂香さんに追撃をお願いして、どうにかしてもらうしかない。
そして、弟子二人は。
「小童は、まぁそうね、ずっと悩んでたもんね。黒い小童はどうするの」
「いや、それなんだけどさ……」
今、俺の周りでシンデレラと言われて連想するのは一人しかいない。だからこそ、その後のことを考えるだけで疲れた顔になったわけで。
ひとまず、状況をありのままに、且つ銀子ちゃんにはわかりやすく伝えるとするならば。
「――封じ手された」
「はぁっ?」
「不意打ちだったんだ……俺も迂闊だったんだけどさ」
隠すつもりはなかったけど、ひとまず喋るしかない。今となれば、多少怒られても、ブッ叩かれることはないだろうから。それでも口から出る罪の味は、こうしてゆっくり咀嚼して、初めて重いものだと感じる。
「『あの夜』、黒い小童のことを尋ねて、前途多難すぎるって、私が言ったこと、覚えてる? その通りになったでしょ?」
「返す言葉もございません……」
そして全容を聞いた銀子ちゃんのコメントがそれだった。
「それじゃぁ、その忌々しい記憶は私が上塗りしてあげようかしら」
「忌々しいって……流石にそれ言っちゃうと失礼だからなぁ」
「何よ、嬉しかったっていう訳!?」
「そうじゃなくて! でも、この場にいないからといって弟子を悪く言うような人間にはなりたくないし……」
「そんなんだから付け入る隙を与えるのよ……八一、モテるんだから……」
「いやそんなことはないでしょ……って、弟子二人からそんな感じになってちゃ説得力ないかぁ……」
「そうよ、今すぐ私のために頓死しなさい」
「相変わらず俺には人権ないねぇ!」
「女性初のプロ棋士になったのよ? ほらほらもっと褒め称えなさいよ」
「俺だって必死こいて帝位戦戦ってるんだけどねぇ!?」
確かに、銀子ちゃんはこれから道なき道を進もうとしている。名人がいつしか口にした、舗装された高速道路を走れたからというのは、きっと俺にも当てはまる。だから、確かに銀子ちゃんをとにかく祝ってあげたいと思うのは事実だ。それはそれとして、帝位戦第一戦に勝ったことへのご褒美が欲しいのはやまやまではあるんだけど。
さて、なんとかして機嫌を取りたい……あ、そうだ。
「招待券は、まだ持ってる?」
「確か実家に届いてたはずよ。使う当てとか考えてなかったけど……」
「じゃぁさ、電話で空いてるか聞いてみるからさ、そこで誕生日ディナーでもしない? まぁ今年は日曜日だし、仏滅でもないし、空いてるかどうかはわからないけど、駄目元で」
「へぇ、彼女に届いた招待券を当てにして私の機嫌を取ろうとしてるんだ? 結構図々しいわね?」
ばれてる。ばれるか。
「いやでも、銀子ちゃんを祝いたいのは本当だから! それでおあつらえ向きのがあるなら! ね!?」
「まぁ何れにしても、多分八一は直接は関係ないから、私が連絡入れないと意味ないと思うわよ」
「うっ……それじゃぁ予約だけは銀子ちゃんにしてもらうとして、当日のプランは……」
「流石、私の引き立て役ね」
「それはちょっとひでぇな!?」
「冗談よ。でも、当日エスコートはしてくれるんでしょ?」
「そりゃぁ、勿論」
「うん……それじゃぁ、期待してる」
よし、デートの取り付け完了。天衣を踏み台にするような申し訳なさもあるが、こればかりは女王戦の結果ということにしておいてほしい。
数日後に迫った銀子ちゃんの誕生日は日曜で、恐らく高校がないことをいいことに大量の取材が入るだろう。でも、夜遅くまで引き留められることはないはずだ。そうなりそうなら先約があると言って抜ければいいだけだし。
そんなことを考えていると、くいくいと、右手が引っ張られる感覚があった。
「――で、小童には、結局言ったの?」
「言えてない。でも、薄々勘付いてる気もする。だから、明日まとめて話すさ。そのために一門会議を師匠にお願いしたんだから」
期限を決めてしまえば、あとは腹を括るだけだ。散々括ったはずなのに、未だに足りてない。
「まだってことは、やっぱりまだ可能性を捨てることが惜しいんだ」
「そんなことないから!」
「わかってるわよ。私だって、桂香さんにちょっと話した時、ほんとに緊張したもん……」
そうだよなぁ。ずっと知ってる人に、関係性が変わったと伝えるのって、そりゃぁ緊張するよな――って。
「ってあれ、桂香さんもう知ってるの?」
「私の友達、って設定で話したから、多分大丈夫だと思うんだけど……」
いやそれ絶対ばれてる奴ですやん。銀子ちゃんが桂香さんに隠し事なんて出来るわけないのは、昔から二人を知る全員の共通認識だ。
「そっかー、その『友達』に春が来たんだなー」
「……なんかその時の桂香さんと口調も雰囲気も似ててむかつくんだけど」
「いやいやだったらそれはただの偶然だって」
ちょっとだけ嘘をつく。実際どうだったかはわからない。だけど、その二人なら、まずそんな感じになるだろうという確証がある。その二人と家族だから。
「で、その『友達』の恋人は誰なのかなー?」
「っ……」
明らかに銀子ちゃんが固まる気配がする。ちょっと意地悪かな。好きな子をいじりたくなるのは当然の摂理だよね。
「その『友達』は、知り合いも多くて、彼女に立候補したいっていう声も多いの。だけど、取られたくない……ずっと私だけを見ててほしい……」
「――えーっと」
今度は俺が詰まる番だった。なんだそれ。その返しは想定してないぞ。
銀子ちゃんの言う通り、仮に俺がその気になるとするのなら、銀子ちゃんじゃなくても相手はいるのだろう。他の人まではわからないけど、まずは弟子がそういうのなら。
あいなら、自身のこなすべきことを全て完璧にこなした上で、俺の生活を一から十まで支えてくれるのだろう。天衣なら、俺と似た棋風だ、俺と切磋琢磨して常にいい状態に持ってきながらも、あい同様献身的に俺を支えてくれるのだろう。
だけど、それでも。心のどこかで、そうじゃない、それじゃずっと満たされないって自分らしき誰かが叫び続けているんだ。弟子の恋心が、自分に向けられてると気付いた時から、ずっと。
「――やっぱり、銀子ちゃんじゃないと、駄目なんだよな」
だから、結局は、そこに落ち着いてしまう。何があっても。
「場所考えなさいよ……バカ……」
おっと、口から漏れていた。でも、もう我慢しなくてもいいんだよな。気持ちを押し殺さなくても、いいんだよな――。
少し気持ちの整理が出来たところで、ふと、この状況を思い返してみる。前にグリーン車に乗ったのは一年前だった。あの時は、釈迦堂先生の元を訪れて、歩夢と研究会をして、――銀子ちゃんがドレスを着ていたんだ。
――あれから一年以上経ってるのか……。
今でもあのドレス自体は持っているようだし、前回の竜王防衛時の就位式の時のドレスと併せて、拝み倒せば着てくれるんじゃないだろうか。二人きりの時なら着てくれるよね! そうじゃなけりゃ桜ノ宮でデンジャラス・ビーストなんてしてくれないだろうし、それより恥ずかしいということはないだろう……多分。
そうだ、あの時は、その帰りにあれやったんだ。
「八一……久々に――」
――やりたい。やりたい!
隣で、昔と変わらず、無邪気にそう言う声が聞こえるような気がして。
――うん、きっと同じ気持ちだよ。
「8四歩」
だから、今度は俺から。前回は銀子ちゃんが先攻だったから、今日は俺から。
息を呑む音が聞こえた。それは、過去と今が一列に繋がる瞬間。その一列は、誰にも邪魔されない二人だけの軌跡、というと臭いけど。
「あ、俺先攻じゃ駄目だった? それとも――」
「ううん、違うの」
それは、正に穏やかな声が漏れたというべき息遣いだった。
「同じこと考えてたのが……嬉しかった」
「うん……」
「関係が変わっても、やること変わらないよね、私達」
「別にそれでいいじゃん。変えたいとこは変えて、必要がなければそのままでいい」
「それもそうね……」
今だけは、正方形の枠内で、十字に組まれた世界に二人だけだ。この世界は、少なくとも新幹線の車中では、誰にも邪魔されることはない。
正直、疲れは溜まっている。だから、出来るとこまででいい。
「早指し……十五秒でいい……?」
「じゃぁそれで……」
「2六歩……」
「8五歩……」
単調な符号は、ぽつぽつと口にするだけだと、段々頭がぼんやりとしてくる。夜も程々な時間と、小刻みな揺れによって、睡魔が段々と忍び寄ってくる。
定跡さえ辿るのもままならない。えっと、さっきまで相掛け銀の形勢で、今は、あれ、えっと、左右の金動かしてなかったっけ……。
「十五秒経ったよ……私の勝ちでいいのかな……」
俺が最後に聞いたのは、そんな自身も眠そうな銀子ちゃんの囁きだった。
――いいよ、勝ちで。今だけは――。
がやがやというざわめきで意識を取り戻した。窓の外は他よりも見覚えのある夜景が広がっていて、それだけでもう終点が近いということがわかる。
そのままぼんやりしていると、終着の到着放送が流れた。それを境に、降りる準備をする乗客らのざわめきが段々と大きくなっていく。俺たちもぼちぼち支度を始めなければならない。
目隠し将棋は、どこまで指していただろうか。いつもなら、目隠し将棋をしていれば眠気なんてなくなってしまうのに、それにすらならなかったということは、俺も余程疲れていたらしい。
恋人繋ぎで、ぎゅっと固く握られた右手の先を追うと、すやすやと寝息を立てる銀子ちゃんの姿があった。さてどうしよう。ずっと眺めていたい欲はあるけれども、生憎ここは車中だ。もうすぐ降りなければならないから、どこかで起こさなければならない。
ふと、一つの考えが浮かぶ。少しはしたないかもわからないけど、そんなの、可愛い銀子ちゃんがいけないんだ。少し頬をいじっても、目覚める気配のない銀子ちゃんが悪いんだ。
「これくらいは許されるよな――」
だって、白雪姫は、王子のキスで目覚めるものなのだから。
「もう着くよ、銀子ちゃん」
ぼんやりと、だけど頬を赤らめて目を覚ました銀子ちゃんが俺を見つめている。可愛い……。
「……不意打ちは反則……」
「でも時間がないから、ね?」
「そうだけど……でもどうせならもっとちゃんとした時に……」
こうして見ると、ほんとこんな可愛い子が俺の彼女なんだよなぁ……。
自業自得な面もあるけど、時折暴力もふるわれて、だけどそれは照れ隠しの裏返しであるということがわかってて。今は、銀子ちゃんも苦しんでたことを知ったからこそ包み込んであげたくて。だからこれはきっと雪解けだ。
一体溶かされたのはどちらなのだろう。多分俺も溶かされた。銀子ちゃんも溶けた。溶けた結果がこれだ。望む位置にはまだ遠いかもしれないけれど、手を放していても同じ道を歩いていたんだ、ゆっくりとまた一緒に歩いていけばいい。
溶ける――あれ、そういえば――。
「八一! アイス! アイス!」
「――おおっと!」
完全に今の今まで存在を忘れていた。恐る恐る蓋を開けると、冷たかった残滓もない、緑色の液体が、列車が走る振動でゆらゆらと揺れている。
「うわぁ……ドロドロね……」
あのカチコチだった姿が見る影もない。溶けたアイスは甘すぎるだろうけど、かといってただ捨てるのも忍びない。
でも、今だけ頭を覚ますにはこれは丁度いいかもしれない。そう思った俺は、中身を一瞥だけして、そのまま中身を喉の奥まで流し込む。
「えええっ、甘すぎないの!?」
「まぁ、小腹程度にはこれくらいでいいよ。それより降りる準備しなきゃ」
確かに甘ったるいのは否めない。だけど、多分外野が見るこの状況は、溶けたアイスと同じくらい甘ったるく見えるだろうから。だから甘んじてそれを受け入れよう……甘味だけに。
でも、それでいい。人から嫉妬されるようにも見える状況に身を置けるようになったことが、今は一番嬉しい。そう考えている内に、新幹線は他よりひときわ明るいホームへと滑り込む。
「着いちゃったね……」
「ま、焦ることはないよ。他の人が全員降りてからでいいさ」
時間も遅いから、人によっては終電の時間を気にする状況だ。そういう人は先に行かせて、その心配まではない俺たちはゆっくり降りればいい。乗り換えがあるとはいえ、二駅程度なら終電がすぐに行くこともない。
そうして車内に俺たちだけが残されようかとした時、一つの考えが浮かんだ。それは、一年前にもやったこと。あの時は銀子ちゃんが履く靴に慣れてなくて。今はただの俺のちょっとした欲。
またいつか、同じことを人前――というより俺たちを知るいっぱいの人の前で出来るように。そう思いながら。
「それじゃぁ、お手をどうぞ。お姫様」
「――馬鹿」