「はーぁっ、やっと落ち着いた……」
横になると、どっと疲れが出る。想定をしていた状況とかけ離れた空気感のせいで、勝手知ったる場所なのにあまりにも落ち着かなかった。
師匠の家に『泊まる』時は、客間としても使う居間で布団を敷いてそこに寝ることが多い。前回泊まった時もそれで、あの時は桂香さんが静かに入ってきて、銀子ちゃんに関する約束をしたんだっけ……。
だけど、今日は別だ。俺と銀子ちゃんが一番多感な時期を過ごした子供部屋。ずっと俺と銀子ちゃんで使ってた二段ベッド。この部屋の天井は恐らく俺の人生で将棋盤の次に見ている光景。銀子ちゃんと将棋を指す時。将棋の勉強をして転寝をしちゃった時。夜就寝する時。
だから、今日だけは『泊まる』のではなく『住んでる』感覚に戻る。二段ベッドも、今となっては、枕をギリギリまで寄せてやっと、俺の身長でなんとか膝を曲げずに身体を伸ばし切ることが出来るぐらいのサイズだ。
切っ掛けは、銀子ちゃんの要望だった。転機だからこそ、子供部屋の二段ベッドで寝たい。内弟子時代のように、将棋のことだけを考えて、寝るか食べるか風呂入るか以外はずっと将棋のことだけを考えていた、あの時のようにと。
勿論それは、暗に俺と一緒の部屋で寝たいということを示していた。そして師匠に、銀子ちゃんに手を出さないという条件付きでそれを認めてもらった。言い出したのが銀子ちゃんだったから、師匠も強くは言えなかったようだけど。
この天井、もとい底板を見上げるのはいつ以来だろう。多分この家を出て以来じゃないだろうか。数年経ってるとはいえ、その間に色々ありすぎて、十年ぶりぐらいにもなる錯覚をする。
ともあれ、本来はあいと天衣が今日使う予定だった部屋、もとい二段ベッドで、俺と銀子ちゃんが寝る。だから、この上の段には、これから――。
と、部屋に近づく誰かの足音で微睡から引き戻される。精神的な疲れもあったから、正直そのまま寝るつもりだった。
耳を澄ませて誰だかを把握しようとする。うん、間違いない。俺が見なくてもわかる足音。それは軽い弟子の足音。それともう一人。
――いち……。
不意に、部屋の空気が震えた。恐らく俺は寝てると踏んだのだろう、入る際の戸の音は全くしなかった。
だから、それはあくまで、あわよくばという願望を込めた確認。それはどこからか俺を呼ぶ声。
ふと目を開ける。そこには、美しい俺の彼女が、窓から漏れる月明かりに照らされて、しゃがむようにして俺を見下ろしていた。
「よかった、八一、まだ起きてた」
「あ……」
「どうしたの、そんな呆けた顔をして。夜で眠ければ当たり前かな。それとも私の顔に何か付いてる?」
俺は今、何を見たのだろう。就寝時だから、流石に今はカチューシャも雪の髪飾りも付けていない。
だから、それも相まって、今そうやって少し含んだように笑うその姿が。
「初めて会った時のような、そんな面影が見えたんだ、今」
口下手だったから、当時は初めて見た銀子ちゃんを『お化け』としか形容出来なかった。『妖精』とか『精霊』とか、まだそんな難しい単語は知らなかったから。
でも、彼女は妖精でも精霊でも、ましてやただのお化けでもない。空銀子という、昔から今に至るまで俺の一番大切な人。
「――どうだった?」
「すごく美しかった……かな」
「ありがと。八一のために、綺麗でいたの」
その一言に、ぎゅっと、胸が苦しくなる。ぼんやりと微かな月明かりに浮かび上がる銀子ちゃんが、そのまま光の中に溶けて行ってしまいそうに見えて。やっと通じたこの想いと共に、俺一人が置いてかれるように思えて。
「ね、ね、上がってきてよ。八一がよければ、少し話したいの」
そんな気持ちも露知らず、銀子ちゃんは俺をベッドの上段へと誘う。
「行ったら流石に狭くない?」
「桜ノ宮で広いベッドなのにピッタリくっついて寝てたこともあって何言ってるのよ」
あれはノーカンだと思う。あの時俺の意思はそこになかったし。大嫌いと言われてだいぶ傷心だったし。
「それに……今は……ね?」
あーもうみなまで言わなくていいですやっぱ可愛いなコンチクショウ。
――それに、手を伸ばしたら消えてしまいそうと思う相手を、この手の中に収めておくことが出来る。
「でも、今俺が寝てる下段でもよくない? 手間でしょ」
「何もわかってない……」
明らかにむくれられた。そういえば、いつもはむくれられる前に叩かれてたから、地味に貴重だこれ。
だけど、上段『じゃないと駄目な理由』が浮かばない。だって、上段で寝るのは、権利があって――。
権利? ――あぁそうか。
「昔から『将棋で勝った方が上段で寝る』という約束だったでしょ。八一も私も勝ったんだから、それくらいいいじゃない」
「――今、俺も思い出したよ」
そうだ。それだったら俺が行かない理由がない。将棋に勝った権利としてのベッド上段。確かに、俺が帝位戦で勝って、銀子ちゃんがめでたく四段昇段出来たばかりの今日みたいな日には、二人で寝るにはぴったりだ。
「それじゃ……よいしょっと」
青年期の男の体重じゃ壊れないかな、と思いながら上った梯子は、記憶にあるより頑丈で、俺一人程度じゃ軋みもしない。
そして上った先のベッドに、先に横になっていた銀子ちゃんと向かい合うようにして、俺の身体を滑り込ませる。
「――やっぱり窮屈ね」
「誰が誘ったんですかねぇ!?」
「冗談よ。寧ろ狭くなった方が落ち着く……かな」
「――俺も」
幸せって、こういうことを言うんだろうなって思った。ただ、好きな人と密着してるだけ。それだけで、じんわりと内側から温まったような気持ちになる。
残暑が厳しくて、夜もまだそこそこに暑いから、薄い掛け布一枚を羽織るだけ。一枚で、俺と銀子ちゃんを包み込んでいると思うと、将棋盤の中のような、狭い宇宙に二人きりになっている心地を覚える。
「――やっぱり少し離れて」
「いや自分から呼び寄せといてなんでさ」
「その……私、ちょっと汗臭くない?」
「あぁ、そんなこと?」
「そそそ、そんなことはないでしょ! 乙女が一番気にするとこを! バカ! 頓死しろっ!」
「いやいやいやそうじゃなくて。直前まで風呂入ってたんだし、そんな特別汗臭いことはないかなって。それ言ったら、俺の方が先に風呂入ってたんだし、俺の方が匂わない?」
「そ、それは……八一が少し匂う分には……寧ろ……」
あーそうだった。この人匂いフェチだったよ。
そういや俺の匂いが付いたパーカー、流石に九ヶ月も経つと洗わなくても匂いどっか行ってると思うんだけどなぁ? その内暑さも消えるし、あのパーカー家で一枚羽織るには丁度いいんだけどなぁ? うん、夏物で着てたのを何か銀子ちゃんに渡してパーカーと取り換えてもらおうそうしよう。汚れ物を桂香さんに定期的に運んでもらわずとも、俺が直々に時折取り換えればいいだけだよね。
てか指先ってフェロモンというか匂いが出るところだったよねこの子匂いと同時に俺の右手好きだったよねつまり何この子俺の右手で顔面覆うようにしてそれで指先くんかくんかさせたらそれだけでなんというか絶頂しない大丈夫?
というか――。
「銀子ちゃんが俺の匂いを嗅いでるのに、俺が銀子ちゃんの匂いを嗅ぐのは駄目なんだ?」
「……だって、恥ずかしいじゃん……」
そりゃこっちもだよコノヤロウ。いやついでに俺の分の掛け布剥いでくしゃくしゃにして口元に持ってきて赤くなった顔隠すんじゃないよ自分勝手だなオイ。ってまさか早速嗅いでるんじゃないだろうなこの子。
ふぅとため息をつくと、それを見た銀子ちゃんが途端に優しい表情になる。
「ひとまず、お疲れ様」
「お疲れって……何が?」
「小童らへの報告」
「あぁ……」
そっちか、とは言えなかった。今のため息は銀子ちゃんが掛け布を取ってったことのもので。でも確かに疲れたのはそっちの所為が大きい。
それは今日一番覚悟していたこと。天衣までもを急遽呼び寄せた一門会議で、付き合い始めたことを含めた、各種報告を行ったのだ。
俺の帝位戦第一戦の勝ち。まずはお疲れ様。銀子ちゃんの四段昇段。おめでとう。銀子ちゃんの病気の再発疑惑。誰もが無言。付き合い始めた報告。――静寂。
騒がない弟子たちが怖かった。正確に言えば、天衣よりもある種落ち着き払っていたあいが怖かった。天衣は、あれがあったから驚きもなかったのだろうけど、内心穏やかではないだろう。そして師匠はずっと無言だった。
とにかく静かすぎたのだ。それが、却って緊張感を際立たせて、連日の疲労感と相まって疲れを増長させた。ひときわ明るい声を出す桂香さんが明らかに空回りしていて、俺も銀子ちゃんも何を口にすればいいのかわからなくて、俺と銀子ちゃんが認めてくださいと言って、土下座をして。ひとまずは答えを聞かずにお開きにはなったのだけど。
こうしてみると、散会後とはいえ、あの空気感の中、今日は俺と子供部屋で寝たいと師匠に言った銀子ちゃんの度胸も中々のものだと思う。俺が先に風呂に入る間――熱めに沸かして、俺とかが入った後に銀子ちゃんが入れば段々と温くなるという算段故のものだ――、仏頂面を貫く師匠から無理やり了解を取り付けたと聞いた時には流石に驚いた。
そりゃぁ、機会が機会だから、このタイミングでなのはわかるし仕方ないけど、それでも前置きもなく話すのは勇者だよ……俺自身そのつもりじゃなかったし……。
そういや風呂を上がってから、一切合切弟子二人と桂香さんの姿を見てないんだよなぁ……。正直俺としても顔を合わせ辛いし、助かったというのも本音ではあるのだけど。
でも、やっと落ち着いて、こうして二人でいる時の静けさは苦痛じゃない。寧ろ、それが好きな人とならば、会話がない静けさでさえも楽しんでいられるように思えるものだろう。
そう、たとえば今みたいな――。
「そういえばさ、桂香さんがさ、八一と私が『したい』って言ったときに、最初キスより進んだものだと勘違いしててさ」
「ぶっ……!」
ちょっと待って、桂香さんにどういう話の流れでそんなこと言ってるんですか銀子さん。
「えっとさ、それ時系列順に説明してくれる?」
「えっとね――」
銀子ちゃんが、俺が『大人の封じ手』を所望した直後に桂香さんのところに駆け込んだこと。その時に友達という体で付き合い始めたことを話したこと。
とりあえず、桂香さんに話したという時と同じタイミングということはわかった。まぁ確かにそこ以外なかっただろうし。
で、それを踏まえて何か言うならば。
「銀子ちゃんさぁ……それは気が早すぎるというか、それ自分から封じ手した意味殆どないんじゃないかな……」
「で、でも……やっぱりその、やりすぎかもしれないとかって思うじゃん……」
「そりゃぁ、誰でもしてるとか普通だとか、俺だって世間一般からは疎い方だと思うから言えないけど……でも、自分からばらしに行くのもなぁ……」
「そ、それは……封じ手の糊が薄かったから……それで……」
「へぇ? だったら寧ろ大人の封じ手はした方がよかったんじゃないですかねぇ?」
「ううぅ……」
なんというか、ほんとこの子、昔から嘘つくのが下手だよなぁ。素直なのはいいことだし、初心なのは寧ろ燃えるもとい萌えるけど。でもどうにもその際の話しぶりを聞く限り。
「全く、どうしてこの子はこんな自己顕示欲が強く育っちゃったの……」
「……桂香さんっぽく言うのやめて」
わざとだよ。たまには年上ぶらせろ。
「というか、こうして見ると、俺の周りの女性、ある意味そういう人ばかりだなぁ……」
まぁそりゃ勝ち負けの世界に生きてるんだから、ある意味当然かもしれないけど。そうじゃない世界には接点が殆どないから、女性というものがそういうものなんじゃないかという錯覚まで起こす。
でも桂香さんを見てると、そうじゃない人もそりゃいるとわかるわけで。ほんと桂香さんは癒しだよ……。
「――突然右手を強く握らないでください」
「悪かったですね、桂香さんみたいに素直じゃなくて。どうせ私は自分にすら素直になれずに八一にも中々想いを伝えられなかったチキンですよ」
「そこは素直になってよ……」
いかんいかん、遠くの巨乳より近くの貧乳。というかある意味あいも天衣も近くの貧乳状態だな?
「――あの、指の骨折ろうと変な方向に曲げようとしないで」
「悪かったですね貧相な胸で」
「申し訳ございませんでした」
そしてそのまま無防備になっていた唇を奪う。そう近くの貧乳。近くの貧乳!
「うう……八一がどんどん変態になっていく……」
元から変態だよ。というか男なんてみんなそんなもんだよ。
そう口にしようかとしたところで、急に銀子ちゃんの目が暗闇でもわかるくらいに見開いた。
「というか! そういえば私の写真集めてたの! あれどうしてるのよ! エッチな気分になるとか言ってたけど、アレなことに使ってるんじゃないでしょうね!」
「使ってるよ悪かったね! あとあの後あいにばれて消させられたよコンチクショウ! まぁ桂香さんとの会話ログのとこにバックアップ取れたからどうにかなったけどさ! 手間だったけど!」
帰るまでに俺が撮った写真とネットの海から回収が難しいものだけでも桂香さんに断り入れて。会話ログに貼り付ける形でバックアップ取って。あいの尋問が終わってから回収をし直した。ほんと面倒だったよ! 銀子ちゃんのせいじゃないけど!
「というか写真集というなら! 俺の右手フォルダ! あれ銀子ちゃんこそどうしてるの!」
「うっ……!」
口を一文字に結んで、少しだけ睨みつけるような表情になっている。恥ずかしがりながらも逡巡しているらしいその表情の裏では、恐らく頭がフル回転していることだろう。
「ええ、思いっきり使ってるわよ! 悪い!?」
結果めっちゃ開き直った!
「八一の顔と右手が写ってる写真見てパーカー嗅ぎながらアレなことすることもあるわよ! そうすれば八一に包まれたような心地で気持ちよくなれるんだもん!」
「そこまで聞いてないよどういう反応すりゃいいの!? あとパーカーは流石にそろそろ返して! かわりにおかず用に何か着てたもの持ってくるから!」
「なんで八一が着てたのそんなことに使ってるって知ってるのよ!」
「今自分が何喋ってるのかすらも理解してないの!?」
「ふにゃ!? ――うにゃあああああっ!」
「ちょっ、じたばたしな、あだっ!」
「痛っ!」
これは額同士だ。銀子ちゃんもかなり興奮してたから、お陰で勢いよくぶつけられた。
それよりも、額同士がぶつかるということは、今の視界は――。
「あ……」
銀子ちゃんの顔が赤い。多分俺も真っ赤だろう。
「えっと……」
きれいな顔だな、とまずは思った。幼い頃から、比喩ではなく育つ過程をほぼ全部知ってて、そしてこうも美しく成長した。今は可愛いと綺麗の間ぐらいだろうか。そのどちらにも取れる美少女は、とてもではないが三日で飽きるようなことはない。
静止画と化した視界には、ただただ一番愛してる人のポートレートしか写りこまない。そしていつしかその瞳に吸い込まれる。
「――熱い……」
あの時は二つの天の川に挟まれていた。今いるのは掛け布一枚の小さな宇宙。その中心で、二つの恒星だけがずっと浮かんでいる。
きっと、ここからやるべきことは一つなのだろう。他の人がどうなのかはわからないけど、『流れ』というものがあるなら、今この状況を言うのだろうと。
そして今だけは、言葉なんてなくとも、それを見れば伝わる。目は口程に、いや口よりも物を言っている。
あぁ、わかるさ。これは視線が雄弁に語っている。『私はいつでもいいよ』と。
「――流石に、それ以上はやめておこうよ」
そう俺が口にすると、明らかに銀子ちゃんは落胆の表情を見せた。
「――どうして?」
「理由は幾つかあるけど……まず一つ、いくら寝静まっているとはいえ、お手洗いとかで誰かが起きてばれないともわからない。一つ、まだ昨日の今日というにも近い銀子ちゃんの心臓に負担はかけられない。一つ。俺の方が必要なものを用意出来てない」
そこで一拍置く。一応現状の確認をしておかないと、何を言い出すかわからない。
「子供今出来ちゃうのは、心臓のことを抜きにしても、流石に大変でしょ?」
「いいよ……寧ろ今すぐにでも欲しいし、高校やめて子供出来ればずっと八一と一緒にいられる……」
「いや……あのさ……可愛すぎるこというのやめて……だからそういうことじゃないんだって……」
現状の追認、失敗。最初に来る大前提からひっくり返そうとしないでよ……。
「じゃぁもう一つ。暫くは、銀子ちゃんとの蜜月の時間を、可能な限り二人きりで過ごしたい」
そう口にすると、明らかに銀子ちゃんの顔が真っ赤に染まる。
「バカ……そんなのずるいよ……それ言われちゃったら、何も言い返せないじゃん……」
もじもじと、何かを夢見るように表情を変えて、その旅に幸せそうな顔をする。きっと頭の中で、俺と様々なことをしているのだろう。
あぁ。そうだよ。そりゃどこかで子供は欲しいけど。でも想いがやっと通じ合ったんだから。まずは二人きりで幸せな時間を過ごしたいんだよ。
「でも……しちゃえば……ラブホ泊まるだけであぁだったんだから……きっと絶好調になるのに……」
「いやその誘いは反則でしょ……将棋を人質に取られちゃ……」
「無理には大丈夫だよ……。でも……いつでも抱いていいからね……? それとも誘った方がいい……?」
「それは……マジで衝動的にやっちゃう奴だから……」
「今でもいいのに……」
「今はとにかくしない……せめて今日だけは……」
今日だけは、今日だけは、今日だけは。あれ、さっきより意志薄弱になってないか、俺?
それにしても、数日経てば、銀子ちゃん誕生日なんだよなぁ……。16歳になるってことは、女性なら結婚出来る年齢なんだよなぁ……俺も結婚出来る年齢になったし、そっかぁ、やろうと思えばあと数日で銀子ちゃんと合法的に籍を入れられるのかぁ……そっかぁ……。
――あれ? 銀子ちゃんと結婚したとして? 物理的な問題って何かあったっけ?
周囲の反応。師匠や弟子は置いといて、あまり話さないけど、空家からは俺のことを信任してもらってると聞いてるし、多分反対はされない。俺の両親にはもう寧ろあいさつに行ったようなものだし。
お金。うん、当面は何も問題ないね。俺も銀子ちゃんも、下手すりゃ現時点で一般的な中年世代よりお金がある。流石にそんなことはないだろうけど、銀子ちゃんの病気絡みで支払いが増える中二人揃って突然収入が途絶えることがあっても、預金を降ろせば物理的に揃って頓死ということにはならない。
家。もう銀子ちゃんが買ってる。しかも一括払い。ワンルームといえどもある程度の広さもあるし、二人で暮らす程度なら十分だろう。子供が出来れば考え直す必要はあるだろうが。セキュリティとかのことを考えれば俺が住む賃貸アパートよりそっちの方がいいだろう。
銀子ちゃんの進退。高校に行ってるのは、あくまで行かない場合のメディア等での時間の取られ方だから、家族が出来るという状況ならそれこそ育休的に休んでもらって高校も辞めて、その間は俺がとにかく収入が入るように動き回ればいい。
――あれぇ? 弟子以外の殆どの問題が解決しちゃったぞ?
そこまで思って、自分のアホさ加減に絶望した。いやいやなんだよ銀子ちゃんに高校中退迫るって。早くから子供産んで欲しいって。そもそも子供とワンルームは両立しねぇ! なのに銀子ちゃんはさっきから将棋を捨てろとか言わない限り俺が望んだことをなんでもやってくれそうなことを言い始めてる!
「八一、どうしたの? そんな変に苦悶の表情っぽいもの浮かべて」
そんな感じで内心のたうち回っていれば、そりゃそんなことも言われる。目の前で百面相でもしてれば尚更だ。
「いや、まぁ……ちょっと銀子ちゃんとの幸せな妄想してた……」
嘘はついてない。あくまでそこにあるのは幸せだ。十二年ずっと一緒に育った相手と永遠を誓った直後の、ありふれた幸せな風景。さっき銀子ちゃんがしていたであろう想像の追想。
それにしても、こうしてみると我ながら似た者同士だよなぁって思う。結局考えることとかやることとかどこまでも似るんだもん。よく、お互いが持たないものを持つ相手に惹かれるとはいうけど、俺たちはお互いだけが持ってるものが、限りなく同じだから惹かれたところはあるよな、うん。
てか、一番大切な人と、関係とかは今すぐには持たなくとも、籍だけ入れるというのは、それはそれでありなのかなぁ……両家両親に認めてもらってるようなものだし。うん、でもその前に師匠にぶん殴られるわ。
ナニかしたい……でも我慢……あれ、そういえば、結局。
「俺はあの時あいにナニをされたんだ……?」
「待って何それ、聞いとかなきゃいけない気がするのだけど」
「あぁうん、えっと……あれは帝位戦挑決の後色々終わらせて帰ってからだったんだけど……」
疲れて爆睡。起きたら目の前に裸ワイシャツの内弟子。着てたものは気付けば全とっかえ。
それら一連の流れを聞いた銀子ちゃんは。
「――やっぱり浮気してたんだ」
そう、ボソリと呟いた。
「まぁ……疲れてたというのはわかるし、そんな状況を想像もしないだろうけど……彼女としては気分はよくないかな……」
「不可抗力……っていうのは言い訳だよなぁ……ごめん……」
「でもあの小童、そこまでするのね……小学生が寝てる八一を一式着替えさせるなんて、普通に大変でしょうに」
「とにかく、俺も何されたか本当にわかってないんだよ。変なことはされてないとは思うけど……」
「わからないわよ。下着はどうだったの?」
「えっと……」
どうだったっけ。汗臭くない自分の身体と、一式着替えられた衣服でそこまで気が回ってなかった。寧ろそれが一番重要だ。
あの時は全身さっぱりしてて、蒸れるようなところは一ヶ所もなかった。というより、汚れ物を運ぶあいの手に……思い出した……やっぱりそうだ……あいの手にそれは握られていた……!
「――取り換えられてた……」
「っ――」
つまり。ひとまず確実なこととして。
俺のナニが。
女子小学生に見らてれた。
「うわあああ、ごめん、本当にごめん……!」
思わず目をつぶって来たる衝撃に備える。銀子ちゃんなら、苛立ちでどこか殴るだろうから。
だけど、衝撃が中々来なくて、おかしいなと思って、うっすらと目を開ける。
そしてそこには、赤くなって涙目になる銀子ちゃんの姿があった。
「え……えっ、え!? 泣くの!?」
「――だってぇ」
今だけは、明らかに幼児退行してた。こんな銀子ちゃんの声聞いたのはいつ以来だろう。
「八一の裸なんて、私もずっとご無沙汰なのに、小童に先を越されるなんて……」
前回の竜王戦第四戦の千日手判断の時は、銀子ちゃんの前で浴衣が脱げて頓死しろと言われたもんだ。だけどあの時も下着は履いてたわけで、ナニまで銀子ちゃんに晒したわけではない。
だけど、結果論とはいえ、実力行使となれば話は別だ。俺だって想定してなかったけど、恋敵――自分からこういうのはどうにもムズムズする――に先を越されては、確かにショックなのも無理はない。
うぅ……どうやって機嫌取ろう……同じようになんて言ったらそれこそセクハラだし……。いやでも銀子ちゃんシたいとも言ってるから拒絶はされないだろうけど、そしたら今度は俺の決意が鈍るし……。
「――あ」
すると、唐突に、銀子ちゃんが何かを思い出したかのような声を上げる。
「小童で思い出したけど……そういえば……八一と小童との約束って、どうなったのか知らない……」
「約束? 何かあったっけ?」
「その……小童が中学卒業までに女流タイトル取れなかったら……」
「――あー……」
今の今まで完全に忘れていた。あいとのというか、あいのお母さんと、あいの研修会試験後に交わした約束。そういえばそんな話になってたわ。あれから色々ありすぎた。
「まさか忘れてたっていうの?」
「うんそのまさかなんだけど……」
「ちょっと! じゃぁどうなったかも覚えてないっていうの!?」
「あぁいや、そうじゃなくて、単純にその話、ご破算というか、なくなったものだとばかり……昨年の竜王戦の時点で……」
そう。あいのご両親と俺とで相土下座までして観衆も大勢いたというのに、以降話題にも上がらず俺でも忘れてたぐらいだから、正直覚えてる人がいると思ってもいなかった。
というより、あいのお母さんと竜王戦の時に末永くとお願いされたのは、師弟としての繋がりを認めてもらったものだとばかり思ってて。
「だからね? 俺としては、そういう話題が竜王戦の時点でも、隆さん――あいのお父さんがこっち来て話した時にもその話題が出なかった時点で、立ち消えになったのかなぁって思ったわけよ。銀子ちゃんもその場で話聞いてたからわかるよね?」
で、前回の女王戦第二戦をひな鶴で引き受けてくださった時も、お母さんとあいがここで再会するのは、あい自身のタイトル戦をここで行う時、と言ってたし、中学卒業までのタイトルの話も、中学卒業してもタイトル取るまでは実家の敷地を踏ませないということだと思ってた、のだけど……。
「でもなぁ、確かに正式にそれを取り下げたというのは一言も交わしてないんだよなぁ……そういや曖昧なままだなぁ……」
というか、あいのあの様子を見るに、それに気付いて、中学卒業までという約束が立ち消えてないとわかったら、『タイトルなんていりません! 私はそれよりししょーとの関係を優先させます!』とでも平気で言いかねない……うんいやちょっと本当に言いそうだなこれ……。
「え? じゃぁつまり何? 八一はその気がなくとも? あの小童と婚約させられる可能性がまだあるってこと……?」
「――そうなる、ね……」
つまり俺には弟子という名の許嫁(仮)がいるのに幼馴染の年下の女の子と想いを通じ合わせちゃったってことなんだねーうわぁーシャルちゃんもびっくりだよ☆
いや、よくないそれはよくない。あいのことだからなりふり構わずなってきたらその約束を振りかざしてということもありえそうだしでもそれはあいに取ってもよくないし何より俺たちが嬉しくないし――。
そんなことを考えていると、突然右腕全体がぎゅっと銀子ちゃんの両腕で抱きかかえられた。当たる胸の辺りが固いのは貧乳――じゃなくて肋骨保護用のバストパッドか。
「やだよぉ……八一は私のだよぉ……やっと振り向いてくれたんだもん……離したくないよぉ……」
そしてそのまま、俺の右首筋が甘い痺れに覆われる。
「っ……!?」
それは多分五秒程度だったのだろう。でも俺には一時間ぐらいにも感じられた。
首筋に、唇の形をした痺れが残っている。跡が付いてるかどうかは聞けなかった。多分聞くまでもない。
「――八一は私のだもん」
あ、これはヤバい。不意打ちでそんな可愛いことを言われたら、なんというか、別の意味で意識が飛びそうになる。というか既に飛びかけてる。
そこには年下の姉の姿はどこにもなかった。ただ、俺のことを好きでいてくれる年下の幼馴染の姿だ。銀子ちゃんの素がこれなのはそりゃ知ってるけど、このタイミングで出さなくたって。
庇護欲なんてもんじゃない。一周回って滅茶苦茶にしたい。アレなことをしなくても、ただただ夜が明けるまでずっと抱きしめていたい。
「八一は私を好いてくれてるんだよね……?」
「う、うん……」
「じゃぁ、何があっても私をもらってくれる……? 乱暴で、がさつで、八一の匂いと右手が好きで、友達なんてまともにいないような、こんな私でも……?」
待って待って待って。そんな上目遣いでお願いなんてしないで。
というか持たない! 理性!
「や、八一……そんな目をぎゅっと瞑ってどうしたの……?」
思わず自分の体に敷いていた左手で頭を押さえる。誰であっても悩み事があると頭痛の種になるのだけど、これは悩むというか、あれだ、悩殺だ。
「――銀子ちゃんはさぁ……自分の可愛さにまずは気付いてよぉ……」
「かわっ……!?」
「いやないと思うけどさ! それをさ! 他の人の前でやってごらんよ! 全員が全員『オチる』ぞ!? それをさ、右腕抱きしめられながら! 目の前で上目遣いでやられてごらんよ! 抑え込むのが限界だから!」
「――八一に対してだけだもん」
「だからそういう嬉しいことまずは言わんといて!」
あぁもう、こんな可愛い子がこんなこと言ってくれるとか男冥利に尽きるけど!
でも、言いたいことはそうじゃないんだ。可愛いから好きになったんじゃないんだ。
「銀子ちゃんは……別に俺のこと、イケメンとは思ってないでしょ?」
「八一はかっこいいよ?」
「真顔で言わないでよ照れるから! でもそうじゃなくて! じゃぁとりあえず贔屓目を抜いて!」
「うーん、世間一般的には普通、ということを言いたいんだよね? まぁそうなのかなぁ」
「――まぁ、そういうことという感じかな。銀子ちゃんはネットでも散々可愛いとかなんだとか言われてるから、自分が可愛いというのは、なんというか認めざるを得ないと思うんだけどさ。でも、銀子ちゃんはさ。顔で俺のこと好きになったわけじゃないでしょ。――ないよね?」
「うん。顔も好きだけど、私は八一の全部が好きだから」
うん。嬉しいけどもうスルーしよう。話が進まない。
「俺だってさ。銀子ちゃんが可愛いから好きになったわけじゃない。家族として銀子ちゃんが好きで、幼馴染として好きで、直して欲しいとこもあるにはあるけど、それもひっくるめて好きになったから。たまたまその彼女が、世界で一番美しい白雪姫だったんだ。とにかく、俺は銀子ちゃんの全てが好き。銀子ちゃんは欠点と思うようなところも好き。ちょっと変わったところも見てみたいとは思うけど、まずはそのままの銀子ちゃんでいてほしい」
――うん。よく考えると俺も銀子ちゃんと同じこと言ってるわ。まぁ、でも、ともあれ。
「銀子ちゃんが嫌と言わない限りは、俺は銀子ちゃんの全てをもらっていきたいです。それだけは本当」
これだけは誰にも譲れない。
「それでさ。楽しみをさ、一つずつ取っておいてさ。それを銀子ちゃんと一緒に、ね? 俺はそうしたいなぁって思うから。だからさ、まずは昨日話したディナーを楽しみたいなって……それじゃ、駄目?」
そこまで口にすると、嬉し恥ずかしそうに、銀子ちゃんが目を軽く伏せる。
「――生きる理由がまた増えちゃったな……」
「いいんだよそれで。理由なんていっぱいあった方がいい」
「ふーん、私がいなければ生きてる意味などないと言った人が何か言ってますねー?」
「そ、それは……確かに間違いじゃないけど……でもそれは銀子ちゃんが殺してっていうから……」
「私こそ、八一のこと言えないなぁ……」
不意に、静寂が訪れる。もう月は回り込んでしまったのか、それとも雲に隠れたのか、部屋の照度はないに等しい。だから、僅かな視界に見える、銀子ちゃんの安心しきった表情以外は、銀子ちゃんの温もりしか感じない。
「――早く二人で囲みたいよね。公式戦」
「うん……」
「どっちが早いかな? タイトル戦の予選かな? 順位戦かな?」
「順位戦は……兄弟弟子同士の対決はどこでもありうるけど、そうなるとストレートで銀子ちゃんが昇段したとしても、俺がどこかで足踏みする必要が出てくるからなぁ……」
そんなの、いつになるかもわからない。だけど、五万局指してもまだ足りないんだ。
順位戦で、銀子ちゃんと当たりたい。これは素直な本音だ。だけどそれは、別の対局幾つかで負ける必要があるという意味でもある。
棋士たるもの、勝ちに貪欲であれ。いや、棋士でなくとも勝負師はそういうものだろう。
銀子ちゃんとやりたいことが多すぎる。それでも、結局はここに集約されるのだ。二人だけの公式戦をしたいと。
だから、タイトル戦のどこかで当たれるように。出来ればタイトル戦自体とか挑決とか、そういう場所で。そしていつかは二人でタイトルを奪い合いたい。
「ねぇ……私ね……夢があるの……」
段々と眠気が襲ってくる。ゆっくりと、二人して夢へと溶けていく。
「うん……どんな……?」
「えっとね……それはね……お嫁さんなんだ……」
「前にも言ってたよね……いつだっけ……」
「八一が蔵王先生と当たる時のだよ……蔵王先生には負けちゃったから、覚えてないかな……」
そっか……言ってたな……。あの時は不意に見せてくれた笑顔にあまりにもドキドキして、本当に惚れ直すぐらいだったよなぁ……。
「それでね……八一のお嫁さんになってね……生まれた子供とみんなで将棋を指すの……。八一は二人欲しいって言ってたけど……男の子も女の子も万遍なく、その上で四人は欲しいんだ……」
「そっか……それは大変だね……俺も銀子ちゃんも養えるように頑張らなきゃね……」
「ねぇ……師匠に怒られちゃうかな……タイトルより、お嫁さんの夢を優先したいって言ったら……」
そうだね……すごい剣幕で怒られるだろうね……破門ですらあり得るかもね……。
「でも……私はね……それでも八一の傍にいたいんだ……ずっとずっと、これからも……」
そっか……嬉しいよ……。
俺も……ずっと……死ぬまで君のこと、を……。
「私……どこかで将棋と八一の二択を迫られても、それで、も……八一、を――」
何やら、温かいものを感じて、微睡からが覚めた。目を開けると、まず視界に入るのは、耳まで真っ赤になっている銀子ちゃんの顔。
あぁそうだ、昨日は銀子ちゃんが横になってるベッド上段に俺も横になって、話をしてる内に寝ちゃったんだ。だけど、横にいたまま寝て、それだけで耳まで真っ赤なのはどうにもおかしいことは、寝起きのまだ回らない頭でもわかる。
耳まで真っ赤……温かいもの……あぁ、それってつまり……。
「一昨日の、お返し……」
――成程ね。眠りについてた竜王は、白雪姫のキスで目を覚ましましたと。
でもどうせなら。俺の欲求をというのなら。
「舌入れてくれるともっと嬉しいかな……」
半分寝ぼけてたけど、でも少しだけ顔を出した我儘の自制を効かせたくなくて、素直にお願いが口から出る。
「しょ、しょうがにゃいにゃ……しゅこしだけ……」
あぁもう、やる前から舌ったらずで意識しまくりで可愛いなぁ!
そして、目を閉じてその時を待つ。うーん、自分からまな板の鯉になりにいくのは、悪いもんではないな……。
だけど、いつまで経ってもその時が訪れない。このまま目を閉じてると二度寝してしまいそうだ。
ぼんやりと目を開ける。すると、大目を開けた銀子ちゃんが固まっていた。
「あ、あ、あ……」
顔面蒼白の銀子ちゃんというのは、それはそれは貴重なものだ。だけどこの状況、なんだろう、現時点で背筋を冷たいものが流れる心地がする。
恐る恐る背後を確認しようと首を反対側に回す。
そしてそこには。
「朝からお盛んなことねぇ……?」
青筋を立てた桂香さんが仁王立ちしていた。
「若いっていいわよねえええええええええっ!」
「えええええそっち!?」
思わずがばっと起き上がる。やましいこととかって話を言うのかと思ったらその方向性は予想外だよ!
というか桂香さんずっと来たような気配なかったよ! ってことはこれ最初から全部見られてたよ!
「ち、違うの! 八一と私はプラトニック! やましいことはまだ何もしてない!」
「そんな嘘はいらないわよおおおおおおっ! 『まだ』という時点でする気満々でしょおおおおおおおっ!」
「ほんとだよおおおおおおっ!」
あぁもう、俺が昨日誓った今日はしないというのはなんだったんだ!
そして。桂香さんが絶叫する程の状況になれば、騒ぎを聞きつけて誰かしらが来るのもまた当然なわけで。
「あ、あなたたち……致してたわけ……? お楽しみだったってこと……?」
「ししょう……? 昨晩はお楽しみだったんですか……? その状況で何もしてないとか言いませんよね……言えませんよね……? 弟子がいる一つ屋根の下でナニをしてたんですか……?」
そうだよそりゃあいがいるのは当然だし今日に限って天衣もいるからそんなことにもなるよね一門会議でどうせ来るなら天衣は今日は学校休んで記録係すると事後報告されたしそりゃ泊まるよそんでこの二人俺好きらしいよその上でこの状況見られたよ!
「というかせんせい? 空銀子に何されてたわけ!?」
天衣が指差す先は……あ、俺の右首筋ってことは……つまりそこって……銀子ちゃんがつけたキスマーク……。
「ふーん……? ししょーはあい達が寝静まってる傍でそんなことをしてたんですか……? 人の気も知らないでその上でその仕打ちですかいい御身分ですね……?」
視線に震えていると、そろりそろりと、だけど、すぐに動けるような態勢を後ろで整えていた。それに俺が気付いた時にはもう遅い。
「あっ、学校! 急がないと遅れちゃう!」
「あっ待って、置いてかないで!」
顔がとにかく真っ赤になってた銀子ちゃんは、こうして棒読みの台詞を残して俺を置いて子供部屋から脱出した。
それにしても見事な走りだ。二段ベッド上段からの鮮やかな飛び降り。心臓が悪いと感じさせない爽快なスパート。それら一つ一つの動作が華麗そのもので――じゃなくて。というかバストパッドしてる時のあの動き大丈夫なの肋骨ずれないの?
「銀子ちゃんはね~? 学校がなければメディアとかがあるからね~? 学校ある時は行った方がいいけどね~? でも八一くんはね? 今日一日ぐらいは大丈夫だよね~?」
今大事なのは、こっち。
「あと……今の銀子ちゃんの走りっぷりで、そんなことがないということだけはわかったから」
「じゃ、じゃぁ、許してくれても……」
「だけど諦めなさいよ? 私はよくても、あとの二人は……ね?」
いや、正直桂香さんも怖いんですけど慈母のように見せかけて何か笑顔が怖いんですけど覚えがないよこれ銀子ちゃんのせいでしょ銀子ちゃん何したの!
そして弟子二人は色々な感情を含んだだけどどことなく蔑んでる視線やめてちゃんと説明するからあーもう!
結局、この数日でわかったことは、俺も銀子ちゃんもお互いの元を死ぬまで離れる気がないということだけだった。
そりゃ、二人きりの公式戦が本当に出来るのかとか、そもそもどちらかが死んだら遺された方はどちらも後を追いそうとか、色々と不安なことはあるけど。
でも、二人一緒にいられるなら、どこまでも歩いて行けるから。
まぁまずは、この魔女裁判を生き抜けられれば、ね?