あの出来事のあと、流川さんはようやく自我を取り戻し、家まで送ると言ってくれた。迷惑だろうから遠慮しようかと思っていたが、恐怖の余韻が残っていた私は、結局その言葉に甘えてしまった。家に着くまでの間、私達は言葉を交わすことは無かったが、それでも隣を歩く流川さんの安心感がわずかに私を癒してくれた。
お互いに無言のまま、私は家にたどり着いた。お礼をいう前に流川さんは飛んで行ってしまった。最後に見た流川さんの顔は、苦悩に満ちたような表情だった。
「流川さん……」
シャワーを浴び、自室のベッドに倒れこんだ私は、シーツをぎゅっと握りしめ、呟いた。
男の子にしては細い体で私を助け、泣きながら抱きついてしまった私を突き放さずに優しく受け止めてくれた胸はとても大きかった。
「流川さん……」
会いたい。
会って話がしたい。もっと飛び方を教わりたい。一緒に空を飛びたい。
しかし、その前に
「お礼、言わなきゃ」
私はそう決意し、眠りについた。
夢を見ていた。
人のような形をした影が3つ、次第に鮮明になっていく。
2つの大きな影は小さい影を挟むように佇んでいる。
やがて色を帯びた小さい影が、私自身であることに気付く。2つの影によって身動きがとれず、そのまま呑み込むように伸びていった。
その瞬間、
突如として現れた一つの光。鮮やかな緑色に輝き、閃光となって2つの影に向かった。影は光に貫かれて塵へ化し、その光は私を優しく包み込むように広がっていった。包まれた光の中、どこからともなく声が聞こえる。
無事で、よかった
もっとその声を聞きたくて、手を伸ばす。
しかし、その手は何に触れることもなく、
私の意識は、暗闇へ落ちていった。
「………ん」
窓から差し込む朝日、鳥のさえずりが私の意識を呼び戻した。体を起こし、胸に手を当てる。深く息を吸い、ゆっくりと吐く。高まったままの鼓動を落ち着かせ、
「学校に行って、流川さんと話をしよう」
ベッドから降り、身を包んでいたパジャマを脱ぐ。制服に袖を通し、鞄を片手に部屋を出た。
「はぁ…はぁ…」
息を切らし、肩で呼吸をしながら、私は走る。
肺が苦しい。
体が酸素を欲している。
それでも、私は足を止めなかった。一秒でも早く流川さんに会いたい。会ってお礼を言いたい。
そういった思いが私の原動力になっている。
自然と足が軽くなり、更に加速する。電柱を一定の間隔で追い越し、町の景色を置き去りにして走り続ける。
「あっ、見えてきた!」
冷泉の校門前では昨日と同じく如月先生が立っていた。校門をくぐる生徒達が挨拶をする度、爽やかな笑顔で答えている。
「如月先生、おはようございます!」
私も同様に挨拶をする。先生は風になびく髪を手で押さえながら答える。
「あぁ、おはよう花宮。クラスには馴染めそうか?」
私は強く頷き、
「はい!皆さんとてもいい人ばかりです!」
「そうかそうか。今日も風術学の実技があるから、しっかり学ぶんだぞ」
「はい!」
それだけの短い会話をして、私は校舎へ入った。
「あれ?藍ちゃんと、杏花ちゃん?」
昇降口で靴を履き替えている二人を見かけ、声をかける。
「遥じゃーん。おはよー!」
「おはよう遥ちゃん。今日は流川くんと一緒じゃないの?」
隣で靴を履き替え、答える。
「お二人ともおはようございます。今日はまだ流川さんを見てなくて」
「あれ?でももう学校に来てるよ?」
流川さんの下駄箱を覗き、藍ちゃんはそう言った。
「流川くんにしては早いね。どーしたんだろ」
「…っ!」
流川さんが、いる。
そう意識した瞬間、緊張が走った。
「わ、私、流川さんに用事があるので先に行きます!」
「えっ、ちょ、ちょっと!遥!?」
真っ先に走り出した私を呼ぶ藍ちゃんの声が聞こえるが、それには目もくれずに一人、先に教室へ向かった。
「すぅーっ……、はぁーっ……」
深呼吸をし、逸る気持ちを押さえて教室のドアを開いた。
「る、流川さ……あれ?」
教室の中に入るが、そこに流川さんの姿は無く、数人のクラスメートが各々会話をしたり、ゲームをしたりしていた。
私は自分の席まで行き、椅子に腰を下ろす。隣の机を見ると、流川さんのバッグが横に掛けられている。
「はぁ……」
ため息をついて視線を落とす。
「……ん?」
そこで、私の机の中に何かがあることに気付く。それを手に取り、机の上に上げる。それは一枚の紙で、こう書かれていた。
話したいことがある。屋上に来て欲しい。
「これ…、流川さんの字…?」
確証は無いが、なんとなくそう思った。
私はすぐに教室を飛び足し、屋上へ向かった。
流川さんに会うために、流川さんと話をするために。
長く続く階段を一歩ずつ、上っていった。