灰色の世界に囚われた少女   作:ひばりの

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第26話

 ……――――!

 

 

 

 遠くから、誰かの声が聞こえる。

 

 すごく、懐かしい声で、優しい声。

 

 なのに、どうして、心は悲しみでいっぱいなんだろう。

 

 どうして、この声は届かなかったの――……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 とある村の、赤煉瓦の小さな家に、私は生まれた。

 

 とても貧しい家庭で、農業を営む父と、内職をする母と、そしてたった一人の姉と、家族四人でそれなりの生活を送っていた。

 

 村は特に過疎化が進んで、農業をする人たちは減っていく一方で、村には困窮が続いた。だから村の人たちも、お互いに助け合って生活を凌いでいた。

 

 手を引かれるままに姉に外へ連れ出された時、家の前で野菜の籠を持った母が、村の人にペコペコ頭を下げるところをよく見かけた。

 

 こんな普遍な生活が、当たり前のように続くんだと思ってた。

 

 ――――あの日までは――……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 空を見上げる。青い空に点々と白い雲が漂う。雲が流れるように風が吹く。

 

 そうすると、伸びた髪が躍るように空中をなびいて、風を感じられた。

 

 こんな風にぼんやりするのは日課だった。特にすることもないから。

 

「何してるの?」

 

 顔を上げると、こちらを覗き込む大きな瞳。蒼色の瞳が、空の色と被る。

 

「何も」

「そう?」

 

 あっさり答えると、こてんと首を傾げられた。何も話すことがないと思った私は、すぐに首を戻す。

 

 一瞬の沈黙の後、後ろで何を思ったのかは知らないけど、私の隣へとやって来てそこに腰を下ろした。今度はなんだろうと、横目で彼女を見る。

 

「目を離すといつもこうしてるよね。お母さんがお外にいるなら、みんなと遊びなさいって」

 

 ニコニコと笑う表情は、私の答えをじっと待っているようだ。

 

「こうしてる方が好き」

 

 正面に向き直ると、私は淡々と返す。

 

 そんな私を見て、隣でケラケラと笑う。

 

「――――は、変わってるね」

 

 なんて言うと、不意に立ち上がった。思わず私も視線を移す。

 

 そこには、そっと差し伸べられた手があった。

 

「行こう! おねえちゃんがついてるから」

 

 その笑顔が、大空を照らす花のように眩しかった。

 

 その手に誘われたら、嫌でも手を取るしかない。

 

 肩までの短い髪が、淡い香りを纏って揺らめく。心地のいい香りが、ベールを纏ったように空っぽだった心を安らかにしてくれる。

 

 その温かい手に導かれるままに、田畑一色の道を一緒に走っていく。

 

 私より少し背の高い背中を、いつも頼もしく思って、前だけを見つめるその姿は憧れで――

 

 

 

 私の、たった一人のおねえちゃんだった――……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 寒さが厳しくなる、冬半ばのこと。

 

 この日は特に、肌寒い日だった。

 

「残念です」

 

 白衣を着た男の人が、無機質な声を放った。なんて冷たい声なんだろう、と背筋が震えた。

 

 同時に、父の泣き叫ぶ声が鼓膜を突く。この時、こんなに取り乱した父を見たのは初めてだった。

 

 その向かいに正座をして座る私は、静かに涙を溜めながら、目の前の布団に横たわる冷たくなった身体を、呆然と見ていた。

 

「お母さんっ……」

 

 いつも無駄に元気に笑っている姉が、私の隣で、今日だけは顔を皺くちゃにしながら泣き崩れていた。

 

 母が、死んだ。

 

 もともと身体が弱くて、家から出ることも少なかったけれど、続く寒さに母の容態は急変して、すぐに医者を読んだけれど間に合わなかった。

 

 医者の肩にしがみつく父の姿を見て、私は虚しさしか感じられなかった。どうもがいても、この身体が再び温もりを宿すことはないとわかっている。やるせなかった。

 

 眠る母の顔を見れない私は、俯いて嗚咽を堪えるしかなかった。

 

 残された私たちは、これからどうなってしまうのだろう。

 

 運命を狂わすように、扉の閉まる音が冷えた空間に響いた。

 

 

 

 

 

 

 案の定、我が家の生活は一変した。

 

 一人消えてしまうだけでも、こんなに虚しいものなんだと思った。

 

 あれから父は、最愛の人を失くしたショックから仕事を一切しなくなった。無理もないと思う。もう家でおかえりと言う声も、料理を作って待ってくれる姿も見られないのだから。

 

 コップを片手に傷心に浸る父の背中を大目に見て、私と姉は学校へと通った。

 

 途中にも、近所の人と顔を合わせると、この上なく可哀想なものを見る視線を感じた。

 

 母親を亡くして可哀想な姉妹だ、とずっと後ろ指を指された。

 

 生前は母と仲良くしていたおばさんたちも、手の平を返すように私たちから距離を置いた。

 

 でも、学校に着けば、以前と変わらない生活があった。

 

 先生も同級生たちも、気を遣ってくれたのか、何も触れずに授業が始まる。

 

 けれど、それでも傷が癒えることもなくて。

 

 そんな時、隣にいてくれた人は姉だった。

 

「大丈夫。おねえちゃんがついてるからね」

 

 どんな時でも自分を犠牲にして笑っている姉の言葉が、胸に深く残った。

 

 私と違って、明るい姉にはいつも周りにたくさんの人たちがいた。みんな姉と楽しそうに輪を作って、その輪を遠くで見つめていた。

 

 姉とは正反対に、私は口下手だから。

 

 そんな姉の下に生まれた私は、誰とでも打ち解けられる姉を見て育ってきた。

 

 こんな自分に劣等感は感じたけれど、妹という肩書きのおかげで、みんなに慕われる姉に誰よりも愛されていることが優越感として、私を保っていられた。

 

 だから、いつも姉のそばで、ただじっとしていた。

 

 そうしていれば、何も問題ない。このぽっかり空いた穴も、おねえちゃんがなんとかしてくれると思っていた。

 

 けれど、現実は頭で考えるより、ずっと残酷なことだった。

 

「どこ行ってたんだッ!?」

 

 家に帰るなり、父の怒号が待っていた。

 

 強烈な酒の匂いが鼻を突く。

 

 あれ以来、父は荒れた。

 

 毎日のように酒に溺れ、仕事にも手をつけなくなった。

 

 そして、やり場のない憤りを、私たちに当たり散らした。

 

「学校だよ、お父さ……」

「うっせえ! 寄るな!!」

「キャアッ!」

 

 姉が怒鳴る父を宥めようと接すると、まるで蠅を払うように無下に扱われた。

 

「おねえちゃん!!」

 

 大人の拳に殴られて、床に蹲る姉のもとに駆け寄る。

 

「どいつもこいつも、俺を見下しやがって……!」

 

 これが理不尽なんだと、恐怖に直面する中でそう悟った。

 

 私たちが、何をしたというの? どうして、母を奪われなければならなかったの? 神様は、なんの気紛れで、私たち家族を選んだの?

 

 誰も答えなんてくれない。

 

 けれど、どんな理不尽も、姉は笑って受け止めた。

 

「大丈夫だよ。一番辛いのはお父さんだから、私たちががんばろう」

 

 いつだって、姉は気丈に明るく振る舞った。

 

 姉の強い意思とは裏腹に、父の暴力はさらに激しくなる一方だった。

 

 父の変化に、周りも次第に足音を立てていった。

 

「あそこの家…… 父親が……」

「まあ、可哀想に……」

「でも、母親があんなことに…… 仕方ないんじゃ……」

「うちはあんまり関わりたくは……」

「うちも……」

 

 いつからか、近所から孤立していった。

 

 学校でも、逃げる場所はなかった。

 

「見ろよ。あいつまた……」

 

 クラスメイトが指差す。教室の隅にじっとしている私を見て、みんながヒソヒソ噂を立てる。

 

 どんなに平然としていても、身体中に残る痣は隠しきれなかった。

 

 ただ、他人からの蔑むような視線に耐えるだけで精一杯。助けなんて誰も呼べない。信頼する姉さえも――

 

 姉は、私よりずっと酷かった。

 

 私が父に殴られると、自分のことよりも必死になってくれた。

 

 ――私をいくらでも殴っていいからッ!! お願いやめてッ!!

 

 姉の友人たちが、姉のその姿を見て、いつも心配していた。

 

 そして、隣にいる私を見て、どこか冷めた視線を投げつけた。

 

 だから私は、唯一の姉から離れられなかった。

 

 そうして父の家庭内暴力は、日に日にエスカレートした。

 

 誰も止められなかった。誰も止めてくれなかった。

 

 姉が父に足蹴にされる光景を、じっと堪えて眺めているしか出来なかった。

 

 耐えられなかった。

 

 でも、私に出来ることなんて何もない。

 

 余計なことをして、さらに姉を傷つけるんじゃないかと、そう思うと全てに目を逸らしたくなった。

 

 気がついたら、外に逃げていた。

 

 薄暗くなった夜の道に、人影は見えなくて、裸足で一人歩いていく。

 

 このまま自分はどこへ向かっていくんだろう。そんなことをぼんやり考えて、足が進んでいく。

 

 もう、どうにもならないと思った。

 

 こんな苦痛が、いつまで続くんだろう。もう涙も枯れていた。

 

「どこへ行くのかな? お嬢さん」

 

 暗闇の先から、声が聞こえた。

 

 いつの間にか、そこに人がいた。

 

 こんな時間に人がいることも驚きだけど、薄っすら見えるその人の格好が、この辺りの田舎風景に浮いて異色だった。

 

「……誰」

 

 絞り出した声が、夜の田園に虫の音のように響く。

 

 男は飄々と答えた。

 

「しがない旅人だよ。あるものを求めて世界を回っているのさ」

 

 旅人だと告げる男の身なりは、とてもそうは見えなかったけれど、私が疑う間に男は間髪入れず言い放った。

 

「私も、愛するものを失い、生きる意味だったものも奪われた、悲しき生命だ」

 

 仮面の下から表情は窺えないけれど、男の声はどこか真実味があった。

 

 だから、思わず反応していた。

 

「何が言いたいの?」

「よければ、君の力になりたいと思う」

 

 一目見て、ピエロのようだと思った。この男も、道化のように仮面を被って人を欺くのが得意なのだろう。

 

「共に、この世界を壊さないか――?」

 

 

 

 

 

 

 

 夜も更けた頃に、私はようやく家に帰ってきた。

 

 冷え切った家の中は、やけに静かで寝静まっていた。

 

 あの後、姉は大丈夫だったかと、奥の部屋へと様子を見にいく。

 

 途中、父のいびきが聞こえた。どうやらもう寝ているらしい。少し安堵した。

 

 そうして、奥の部屋を覗き込んだ。

 

 部屋は暗いけれど、窓からの月明かりがなんとか視界を開けてくれる。

 

 そこに、見慣れた人影があった。

 

「お、ねえ…… ちゃん……」

 

 待っていたのは、(むご)い現実。

 

 嘘だと、言ってほしかった。

 

 どうして神様はいつも裏切るんだろう。

 

「嫌だ……」

 

 天井から首を吊る頭は、内臓を吐き出して、いつも笑っていたあの面影は、どこにもなかった。

 

「嫌…… なんで、どうして……」

 

 血走る眼が、どんな思いで最後を迎えたかなんて、想像も出来なかった。

 

 その目の淵に、ひっそり溜まった涙の意味も。

 

 床に落ちていた紙には、姉からの最後のメッセージがあった。

 

 

 

 ――――ごめんね。

 

 

「おねえちゃ…… ぁ、イヤアアアァァァぁぁああああッ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 私は特別なんだと、自惚れていた。

 

 自ら何かをしなくても、おねえちゃんがそばにいたから。自分は恵まれた存在なんだと、そうやって言い聞かせて、逃げて、蓋を開ければ何もこの手にはなかった。

 

 おねえちゃんがいたから、私は私でいられた――

 

 最初から長い夢だったように、周りの景色は一変した。

 

「――あんたのせいだッ! あんたがいたから、あの子はずっと苦しんで……」

 

 姉を失った友人たちは、揃ってやるせなさを噛み締めて、私を恨んだ。

 

「どうして、あの子だけが……」

 

 姉が苦しむ姿を、そばで見てきたんだろう。私の前では、いつも笑っていた。おねえちゃんとして、精一杯がんばってくれていたんだと、今になってやっと気づく。

 

「――人殺し」

「お前が死ねばよかったんだ」

 

 全てが姉を亡くして、否定的な目で私を見る。

 

 その目には、滲み出る殺意があったと思う。

 

「消えろ」

 

 

 

 

 おねえちゃんを失って、私は―― 何――……?

 

 

 全てを悟って、もう引き返せないことに悲しみだけが膨らんでいく。

 

 ただ、もう解放されたかった。

 

 それは、望んではいけなかったこと?

 

 

 

 

 

 男の声が、記憶の断片に蘇る。

 

 

『君が望むなら、力を与えよう』

 

 

 

 

 

 ――――それなら、私は望む。世界を変えて。このドロドロに腐った心を解放してくれるような、まっさらな世界を私に見せて――……。

 

 

 

 さようなら、おねえちゃん――――……。

 

 




ついに物語の中枢に触れましたね。
ギャグの中にシリアスが組み込まれてるのが好きなのですが、がっつりシリアスは難しいですね。シリアルが書きたいですね。

もう少しお話は続くので胃がもたれない程度にお楽しみください。
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