……――――!
遠くから、誰かの声が聞こえる。
すごく、懐かしい声で、優しい声。
なのに、どうして、心は悲しみでいっぱいなんだろう。
どうして、この声は届かなかったの――……。
とある村の、赤煉瓦の小さな家に、私は生まれた。
とても貧しい家庭で、農業を営む父と、内職をする母と、そしてたった一人の姉と、家族四人でそれなりの生活を送っていた。
村は特に過疎化が進んで、農業をする人たちは減っていく一方で、村には困窮が続いた。だから村の人たちも、お互いに助け合って生活を凌いでいた。
手を引かれるままに姉に外へ連れ出された時、家の前で野菜の籠を持った母が、村の人にペコペコ頭を下げるところをよく見かけた。
こんな普遍な生活が、当たり前のように続くんだと思ってた。
――――あの日までは――……。
空を見上げる。青い空に点々と白い雲が漂う。雲が流れるように風が吹く。
そうすると、伸びた髪が躍るように空中をなびいて、風を感じられた。
こんな風にぼんやりするのは日課だった。特にすることもないから。
「何してるの?」
顔を上げると、こちらを覗き込む大きな瞳。蒼色の瞳が、空の色と被る。
「何も」
「そう?」
あっさり答えると、こてんと首を傾げられた。何も話すことがないと思った私は、すぐに首を戻す。
一瞬の沈黙の後、後ろで何を思ったのかは知らないけど、私の隣へとやって来てそこに腰を下ろした。今度はなんだろうと、横目で彼女を見る。
「目を離すといつもこうしてるよね。お母さんがお外にいるなら、みんなと遊びなさいって」
ニコニコと笑う表情は、私の答えをじっと待っているようだ。
「こうしてる方が好き」
正面に向き直ると、私は淡々と返す。
そんな私を見て、隣でケラケラと笑う。
「――――は、変わってるね」
なんて言うと、不意に立ち上がった。思わず私も視線を移す。
そこには、そっと差し伸べられた手があった。
「行こう! おねえちゃんがついてるから」
その笑顔が、大空を照らす花のように眩しかった。
その手に誘われたら、嫌でも手を取るしかない。
肩までの短い髪が、淡い香りを纏って揺らめく。心地のいい香りが、ベールを纏ったように空っぽだった心を安らかにしてくれる。
その温かい手に導かれるままに、田畑一色の道を一緒に走っていく。
私より少し背の高い背中を、いつも頼もしく思って、前だけを見つめるその姿は憧れで――
私の、たった一人のおねえちゃんだった――……。
寒さが厳しくなる、冬半ばのこと。
この日は特に、肌寒い日だった。
「残念です」
白衣を着た男の人が、無機質な声を放った。なんて冷たい声なんだろう、と背筋が震えた。
同時に、父の泣き叫ぶ声が鼓膜を突く。この時、こんなに取り乱した父を見たのは初めてだった。
その向かいに正座をして座る私は、静かに涙を溜めながら、目の前の布団に横たわる冷たくなった身体を、呆然と見ていた。
「お母さんっ……」
いつも無駄に元気に笑っている姉が、私の隣で、今日だけは顔を皺くちゃにしながら泣き崩れていた。
母が、死んだ。
もともと身体が弱くて、家から出ることも少なかったけれど、続く寒さに母の容態は急変して、すぐに医者を読んだけれど間に合わなかった。
医者の肩にしがみつく父の姿を見て、私は虚しさしか感じられなかった。どうもがいても、この身体が再び温もりを宿すことはないとわかっている。やるせなかった。
眠る母の顔を見れない私は、俯いて嗚咽を堪えるしかなかった。
残された私たちは、これからどうなってしまうのだろう。
運命を狂わすように、扉の閉まる音が冷えた空間に響いた。
案の定、我が家の生活は一変した。
一人消えてしまうだけでも、こんなに虚しいものなんだと思った。
あれから父は、最愛の人を失くしたショックから仕事を一切しなくなった。無理もないと思う。もう家でおかえりと言う声も、料理を作って待ってくれる姿も見られないのだから。
コップを片手に傷心に浸る父の背中を大目に見て、私と姉は学校へと通った。
途中にも、近所の人と顔を合わせると、この上なく可哀想なものを見る視線を感じた。
母親を亡くして可哀想な姉妹だ、とずっと後ろ指を指された。
生前は母と仲良くしていたおばさんたちも、手の平を返すように私たちから距離を置いた。
でも、学校に着けば、以前と変わらない生活があった。
先生も同級生たちも、気を遣ってくれたのか、何も触れずに授業が始まる。
けれど、それでも傷が癒えることもなくて。
そんな時、隣にいてくれた人は姉だった。
「大丈夫。おねえちゃんがついてるからね」
どんな時でも自分を犠牲にして笑っている姉の言葉が、胸に深く残った。
私と違って、明るい姉にはいつも周りにたくさんの人たちがいた。みんな姉と楽しそうに輪を作って、その輪を遠くで見つめていた。
姉とは正反対に、私は口下手だから。
そんな姉の下に生まれた私は、誰とでも打ち解けられる姉を見て育ってきた。
こんな自分に劣等感は感じたけれど、妹という肩書きのおかげで、みんなに慕われる姉に誰よりも愛されていることが優越感として、私を保っていられた。
だから、いつも姉のそばで、ただじっとしていた。
そうしていれば、何も問題ない。このぽっかり空いた穴も、おねえちゃんがなんとかしてくれると思っていた。
けれど、現実は頭で考えるより、ずっと残酷なことだった。
「どこ行ってたんだッ!?」
家に帰るなり、父の怒号が待っていた。
強烈な酒の匂いが鼻を突く。
あれ以来、父は荒れた。
毎日のように酒に溺れ、仕事にも手をつけなくなった。
そして、やり場のない憤りを、私たちに当たり散らした。
「学校だよ、お父さ……」
「うっせえ! 寄るな!!」
「キャアッ!」
姉が怒鳴る父を宥めようと接すると、まるで蠅を払うように無下に扱われた。
「おねえちゃん!!」
大人の拳に殴られて、床に蹲る姉のもとに駆け寄る。
「どいつもこいつも、俺を見下しやがって……!」
これが理不尽なんだと、恐怖に直面する中でそう悟った。
私たちが、何をしたというの? どうして、母を奪われなければならなかったの? 神様は、なんの気紛れで、私たち家族を選んだの?
誰も答えなんてくれない。
けれど、どんな理不尽も、姉は笑って受け止めた。
「大丈夫だよ。一番辛いのはお父さんだから、私たちががんばろう」
いつだって、姉は気丈に明るく振る舞った。
姉の強い意思とは裏腹に、父の暴力はさらに激しくなる一方だった。
父の変化に、周りも次第に足音を立てていった。
「あそこの家…… 父親が……」
「まあ、可哀想に……」
「でも、母親があんなことに…… 仕方ないんじゃ……」
「うちはあんまり関わりたくは……」
「うちも……」
いつからか、近所から孤立していった。
学校でも、逃げる場所はなかった。
「見ろよ。あいつまた……」
クラスメイトが指差す。教室の隅にじっとしている私を見て、みんながヒソヒソ噂を立てる。
どんなに平然としていても、身体中に残る痣は隠しきれなかった。
ただ、他人からの蔑むような視線に耐えるだけで精一杯。助けなんて誰も呼べない。信頼する姉さえも――
姉は、私よりずっと酷かった。
私が父に殴られると、自分のことよりも必死になってくれた。
――私をいくらでも殴っていいからッ!! お願いやめてッ!!
姉の友人たちが、姉のその姿を見て、いつも心配していた。
そして、隣にいる私を見て、どこか冷めた視線を投げつけた。
だから私は、唯一の姉から離れられなかった。
そうして父の家庭内暴力は、日に日にエスカレートした。
誰も止められなかった。誰も止めてくれなかった。
姉が父に足蹴にされる光景を、じっと堪えて眺めているしか出来なかった。
耐えられなかった。
でも、私に出来ることなんて何もない。
余計なことをして、さらに姉を傷つけるんじゃないかと、そう思うと全てに目を逸らしたくなった。
気がついたら、外に逃げていた。
薄暗くなった夜の道に、人影は見えなくて、裸足で一人歩いていく。
このまま自分はどこへ向かっていくんだろう。そんなことをぼんやり考えて、足が進んでいく。
もう、どうにもならないと思った。
こんな苦痛が、いつまで続くんだろう。もう涙も枯れていた。
「どこへ行くのかな? お嬢さん」
暗闇の先から、声が聞こえた。
いつの間にか、そこに人がいた。
こんな時間に人がいることも驚きだけど、薄っすら見えるその人の格好が、この辺りの田舎風景に浮いて異色だった。
「……誰」
絞り出した声が、夜の田園に虫の音のように響く。
男は飄々と答えた。
「しがない旅人だよ。あるものを求めて世界を回っているのさ」
旅人だと告げる男の身なりは、とてもそうは見えなかったけれど、私が疑う間に男は間髪入れず言い放った。
「私も、愛するものを失い、生きる意味だったものも奪われた、悲しき生命だ」
仮面の下から表情は窺えないけれど、男の声はどこか真実味があった。
だから、思わず反応していた。
「何が言いたいの?」
「よければ、君の力になりたいと思う」
一目見て、ピエロのようだと思った。この男も、道化のように仮面を被って人を欺くのが得意なのだろう。
「共に、この世界を壊さないか――?」
夜も更けた頃に、私はようやく家に帰ってきた。
冷え切った家の中は、やけに静かで寝静まっていた。
あの後、姉は大丈夫だったかと、奥の部屋へと様子を見にいく。
途中、父のいびきが聞こえた。どうやらもう寝ているらしい。少し安堵した。
そうして、奥の部屋を覗き込んだ。
部屋は暗いけれど、窓からの月明かりがなんとか視界を開けてくれる。
そこに、見慣れた人影があった。
「お、ねえ…… ちゃん……」
待っていたのは、
嘘だと、言ってほしかった。
どうして神様はいつも裏切るんだろう。
「嫌だ……」
天井から首を吊る頭は、内臓を吐き出して、いつも笑っていたあの面影は、どこにもなかった。
「嫌…… なんで、どうして……」
血走る眼が、どんな思いで最後を迎えたかなんて、想像も出来なかった。
その目の淵に、ひっそり溜まった涙の意味も。
床に落ちていた紙には、姉からの最後のメッセージがあった。
――――ごめんね。
「おねえちゃ…… ぁ、イヤアアアァァァぁぁああああッ!!」
私は特別なんだと、自惚れていた。
自ら何かをしなくても、おねえちゃんがそばにいたから。自分は恵まれた存在なんだと、そうやって言い聞かせて、逃げて、蓋を開ければ何もこの手にはなかった。
おねえちゃんがいたから、私は私でいられた――
最初から長い夢だったように、周りの景色は一変した。
「――あんたのせいだッ! あんたがいたから、あの子はずっと苦しんで……」
姉を失った友人たちは、揃ってやるせなさを噛み締めて、私を恨んだ。
「どうして、あの子だけが……」
姉が苦しむ姿を、そばで見てきたんだろう。私の前では、いつも笑っていた。おねえちゃんとして、精一杯がんばってくれていたんだと、今になってやっと気づく。
「――人殺し」
「お前が死ねばよかったんだ」
全てが姉を亡くして、否定的な目で私を見る。
その目には、滲み出る殺意があったと思う。
「消えろ」
おねえちゃんを失って、私は―― 何――……?
全てを悟って、もう引き返せないことに悲しみだけが膨らんでいく。
ただ、もう解放されたかった。
それは、望んではいけなかったこと?
男の声が、記憶の断片に蘇る。
『君が望むなら、力を与えよう』
――――それなら、私は望む。世界を変えて。このドロドロに腐った心を解放してくれるような、まっさらな世界を私に見せて――……。
さようなら、おねえちゃん――――……。
ついに物語の中枢に触れましたね。
ギャグの中にシリアスが組み込まれてるのが好きなのですが、がっつりシリアスは難しいですね。シリアルが書きたいですね。
もう少しお話は続くので胃がもたれない程度にお楽しみください。