長い長い夢心地――――
そこにあったのは、美しくも残酷な灰色の世界。
全てを飲み込んでしまったその世界に、私という唯一の存在が異常に思える。
どこを見渡しても、人の姿一人も見えない。あれだけ緑に溢れていた村の面影すら消え失せてしまった。
生命のひとかけらも見えない――…… そんな背景に、ただ一人の私は、水と油のようにこの世界に交わることなく浮いた存在で――
どこからか吹く乾いた風が、灰をすくって運んでいくと、それが頬を掠る感触がゾッと背筋を凍らせた。
『どうしたんだい?』
――あの男の声が聞こえた。
まるで頭にあの男が潜んでいるかのように、虫唾が走るくらい近くでその声は聞こえる。
『全ては君が望んだことだろう?』
諭すように男の声は告げる。
そう―― 私が――……。
この景色を、全てを白紙にすることを、この世界に一人とどまることを望んだのは、偽りない私の意思だ。
あの日から―― 母を亡くした悲しみから、父から受ける暴力から、村の人たちの非難の目から、痛みを堪える日々から、光だったあの人を追い詰めてしまっていた事実から、絶望から―――― 何もかも逃げ出して、解き放たれたかった。
ごめんね、おねえちゃん――…… あなたを失望させてまで願ったことなのに……。
捨てきれない感情に、心がグチャグチャに掻き乱れる。
もう誰も傷つける人はいない。ここにいれば心はもう苦しまない。あの時の絶望的な日々に比べたら、なんて素晴らしいんだろう。
けれど、そんな世界は満ち足りているのかな――
じんわりと、視界がぼやけて、目が熱くなる――……。
『なんだか、悲しい……』
世界にぽつんと取り残されて、こんな私でも悲壮感を感じてしまう。
誰か、いなかったのかな……。
こんな私を、たった一人でも認めてくれる人が――――
――――――――アカネ…………。
視界も耳も塞いだ暗闇に閉じ込められた私の下に聞こえてきたのは、微かな声だった。
懐かしくて、優しい響きを奏でて、安心する。
何か―― 大切なことを忘れてしまっている気がする――……。
視界を開いても、そこには誰もいない。
けれど、たしかに声は聞こえる。
誰かを探しているの――?
誰を――……?
そんな期待を込めてみるけど、結局は無駄だと思ってしまう。
何度も思い知らされた。
世界に私は要らないと。
邪魔者が嫌われるのは自然なことだから。
この感覚も、きっといつか消えていくから、大丈夫――……。
「――――光は、いつもそばで見守ってくれています」
頭に声が響いた。
女の子のようだった。
そっと視界を開くと、すぐそこに見知らない女の子がいた。
灰色の単調な世界に、小さな女神が舞い降りてきたような、神秘的な輝きをまとった子だった。
微笑みを向けて、彼女は私に語りかける。
「世界は光に満ち溢れています。あなたはまだそれに気づいていないだけ――」
この世界にも光は在るんだと、藍色の瞳は荒んだ心に呼びかけてくる。
「どうか、忘れないでください。あなたのそばで光を与えてくれる人たちのことを―― あなたがいなくなって、悲しむ人たちがいることを……」
女の子の周りにあった神秘的な光が、私を包み込む。微かだけど、温かい――
世界が一変して、明るく見えるようだった。
…………――――――アカネ!
今度はちゃんと聞こえた。
あなたは、誰――?
――――アカネちゃん!
――――オイッ! クソチビ!
――――アカネちゃん……。
――――アカネちゃん!
――――はひ! アカネちゃん!
――――クフフ、お嬢さん。
――――アカネ、アカネ。
――――沢田茜……。
――――ちゃおッス。アカネ――
いろんな人の声が頭に流れてくる―― 不思議――……。
――アイツが呼んでるぞ。
最後に聞こえた声が呼びかけてくる。
心なしか頭がイライラする……。
アイツって、誰なのよ……。
――――ボスがお呼びだぜ。アカネ嬢。
今度はまたおじさんの声――……。
……みんな、知っているような気がする。
ボス――……。
――――アカネ…… アカネッ!
また、あの声だ。
どうして、思い出せないの……?
――――届いてくれッ……! 頼むッ…… 戻って来てくれ、アカネ……!
たくさんの声に混乱する頭に、いつしかの記憶が浮かんでくる。
あの人と…… 庭に咲いていた四つ葉のクローバーに、そっと願いを込めたんだ――――
この場所で、一緒にがんばろう。光をくれる人たちがいるから――
「ディーノ――――」
その名前が、自然と零れた。
忘れてしまっていた。光がいてくれたこと――……。
ディーノ――……。
忘れていて、ごめんね。
ありがとう。
優しい光をくれて―― それを教えてくれて――
それだけで、十分だよ。
だからね、不安な顔はもうやめて。
貴方は、ファミリーのボスでしょう?
――――さようなら、ディーノ――……。
「見ているかい、セピラよ」
灰色の雲のカーテンに覆われていた空に、次第に光が差す。その美しい蒼色を魅せる大空を見上げ、尊い友へと呼びかける。
「君が望んだ未来は、そう遠くないかもしれないよ――」
南向きに規則正しく並んだ窓から外を見れば、茜色の空が見える。もう夕暮れ時だ。こんな時間になるまで自分は布団に寝て、一体何をやっているのか。
――そこに、部屋の大扉が開く。
彼女が目を向けると、一人の男の姿が。いきなりのことに、頭が真っ白になる。そのまま男が入ってくると、鳶色の男の目と目が合った瞬間、手に力を込めて言った。
「…………誰――?」
その声色に警戒と明らかな恐怖心。空色の瞳に朱が混じり、睨むような目つきで彼女は男を見据える。
その言葉を浴びせられ、彼は一瞬表情が強張る。頭ではわかっているが、こうして突きつけられると胸に刺さる。
しかし、自分が物怖じしてはいけないと己を殺して、ベッドの上に小さくなっている少女へと歩み寄る。
最初はたしかに警戒されたが、ひたすら平常心を取り繕って、そして彼女が怯えないよう目線を合わせるようにそばへとしゃがむ。
「オレは、ディーノ」
そう言って笑えば、彼女の警戒も多少は緩くなったようだ。固まった表情を次第にほぐして、そっと彼の名前を唱える。
「ディーノ……?」
「ああ、そうだ。そしてお前は――」
名前を読んでくれたとこが素直に嬉しくて、ディーノはニカッと微笑む。
頷いた後、言葉を続けようとすると、意識とは裏腹に先の言葉が詰まる。
一度彼女から目を伏せると、息を整えてもう一度少女を正面から見つめる。
「アカネ」
少女の反応は、ある意味予想通りで、そして彼を落胆するもの。
それでも、また少女のそばで見守りたいと思ったから――
たとえその選択が愚かであっても、真実を彼女には告げないと決めた。そうして包み隠して、丸ごと少女を守ろう。
彷徨う少女の手をとり、そっと唇に重ねる。
「おかえり、アカネ――」
茜色の空の下――…… すれ違った記憶の中で、再び交わる二人の運命は残酷で儚く、美しく咲いた――――
これにて完結です!お疲れさまでした!