美しい毒虫   作:XP-79

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前編

 それがただ一つの手段よ。あいつがグレゴールだなんていう考えから離れようとしさえすればいいんだわ。

 そんなことをこんなに長い間信じていたことが、私達の本当の不幸だったんだわ。でも、あいつがグレゴールだなんていうことがどうしてありうるでしょう。

 もしあいつがグレゴールだったら、人間たちがこんな動物といっしょに暮らすことは不可能だって、とっくに見抜いていたでしょうし、自分から進んで出て行ってしまった事でしょう

                            

                     —————フランツ・カフカ「変身」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ————なんだよ、説明はしただろう。確かにそれは僕が描いた絵だ。でもクーパー・ユニオンに通う前の子供の落書きみたいなもので………納得の行く説明をしろって?これじゃあ不満だって言うのか。

 友達だからっていうだけじゃあ信じられないなんて、君はこれまでまともな友達が……いや、何でも無い。

 ああ、僕は君の友達だよ。まともかどうかは分からないけど、君がまだそう思ってくれているのなら。

 そうじゃない?でも君はなんでそんな顔を……ああ分かった。分かったから。

 君が凄く苦労してその絵を探し出した事はよく分かった。でも画家としては無名の僕の絵なんて安いものだっただろう。500ドル?ふぅん、結構高かったんだね。

 あの酒場にまだ飾ってあったのかい?………そうか、店主は消えてしまったのか……

 でも代々あの場所に立つ店に受け継がれていたなんて驚きだよ。とっくに捨てられていたと思った。

 ………別に話は逸らしていないよ。本当にさっき言った事が全てなんだ。………ああもう、分かったから、うん。まあ、そうだね。僕の言葉が足りなかった。

 一から話すよ。あんまり楽しい話じゃないかもしれないけど。

 長くなるかもしれない。君は僕たちの中でも一番忙しいだろうから、途中で飽きたら……だから、そんなつもりじゃないって。バッキーの事は、あれは僕が悪かったんだ。君の事も、バッキーの事も、僕はもっと信じるべきだった。

 ———君は責任感が強すぎる。前々から言おうと思っていたんだけれど………説教じゃない。褒めてるんだ。君は僕が知る人間の中でも3本の指に入る天才で、尊敬するべき器量を持っている。茶化すな。別に熱は無いよ。

 でもトニー、いいかい、……だから茶化すな。説教じゃない。いくら君が天才でも限界はあるんだ。これは事実だ。

 ハワードにも、アースキン博士にだって限界があった。結局ハワードは車を空に浮かべる未来を作ることは出来なかったし、アースキン博士だってレッドスカルを生み出してしまった。

 でもだからと言って彼らが尊敬するべき素晴らしい人である事に何ら変わりは無い。君だってそうだ。親を殺した奴に寛容であれというのは無茶な話だ……あれは僕のせいだったんだ。僕が……

 済まない、蒸し返すつもりは無いんだ。ただ君にこれ以上の負担は………しつこいなぁ。分かったよ。話すから。

 でも大した話じゃない。僕とバッキーの昔話っていうだけで。その絵を描いた経緯も君にとってみれば至極つまらない理由さ。

 お金が無かったんだよ。お金が欲しかったんだ。本当にそれだけさ。

 ………そう笑うなよ。

 君はそうやって笑うけど、でも当時の僕たちにとっては死活問題だったんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■  ■  ■ 

 

 

 

 

 

 夕方から降り出した小雨は小さな雹を含んでいた。

 スティーブは舗装の剥がれた路上に座って靴磨きの仕事をしていた。本日12人目の客の靴を磨き上げ、放り投げられたチップを顔面でキャッチした。コインは顔に貼りつくほど冷たかった。

 靴クリームで汚れた手で顔を拭うと雹が手に纏わりつく。途端に寒さを感じてコートを身体に引き寄せた。

 このまま仕事を続けると間違いなく風邪をひく。情けない程に虚弱な身体に溜息を吐き、仕事道具を纏めて歩き出した。

 ゴミ箱から拾ったコートはスティーブの身体には随分と大きい。幼児のお漏らしのような汚れをひっつけたコートの中に身体を埋めると、腐った野菜のような臭いがした。今の自分はゴミ箱に頭から突っ込んだ哀れなホームレスに見えるに違いない。

 そう思い、スティーブは背筋を鉄筋のように真っすぐに正した。腐った臭いはどうしようもないが、せめてみっともなくは見えないようにしたかった。

 

 歩みを進める度に、点滅する街灯の下を歩く人の影は段々と少なくなる。

 大通りから一本細い道に入り、さらに細い道に入る。街灯が少なくなると同時に埃臭さが立ち込める。降り始めていた雹は嫌がらせのように勢いを増していた。

 目的とする店は世間から隠れるように小さく、仄かな明かりを裏口に灯していた。

 

 この店に来るのは初めてではなかった。バッキーの母親がこの店でウェイトレスをしており、こっそり残飯を貰う事があったのだ。

 だがアメリカ全土に蔓延する不況がさらに悪化した頃から、バーンズ家の食事を賄うだけで手いっぱいの彼女から声がかかることは無かった。

 

 木製のドアを3度ノックする。

 勢いよくドアが開いた。あまりの勢いの良さに思わず後ずさる。

 明るい店内の光に照らされて、エレナ・バーンズが立っていた。バッキーの母親だ。

 ウェイトレスの制服は赤いスカートに白いシャツというありきたりなものだったが、豊満な体形のエレナが着ると妙にセクシーに見えた。まさか10を超える子供が居るとは思えない若々しい美貌に意地悪そうな笑みを浮かべて、エレナはドアの前に立っているスティーブを見下ろした。

「悪い子ねスティーブ。子供がこんな時間にこんな所に来るなんて」

 ぱちりとウィンクをしたエレナに、やっぱりバッキーは母親似なんだなあと思う。チャーミングな唇の形がそっくりだ。言っている内容とは裏腹に、エレナの口調にはスティーブを咎める鋭さはまるで無かった。

 

 スティーブとバッキーは家族ぐるみで仲が良い。未成年のスティーブが酒場に夜遊びに来るような子供ではない事をエレナはよく知っていた。そんな暇があれば少しでも長く靴磨きの仕事をするか、勉強をするか、絵を描いているような真面目な子供だ。

 そんなスティーブがこうして酒場に来るなんて仲の良い友達に強引に誘われた以外の理由は無い。そしてスティーブと仲の良い友達といえば、頻繁に酒場に夜遊びに来るエレナの自慢の長男に違いなかった。

 スティーブに悪い遊びを教えるのはいつもバッキーの役目だった。

 

「ジムなら今日は居ないわよ。あの子ったら毎日どこかへふらふら出かけちゃってて」

「そうなんですか。なら少し待たせて貰ってもいいですか?」

「いいわよ。どうせうちのバカ息子がまた無理を言ったんでしょう。今度はこの店に飾る絵でも描くのかしら?」

 呆れたといった顔でミセス・バーンズは首を振った。苦笑いをする。図星だった。

 

 

 

 空前絶後の大不況がアメリカを襲っていた。仕事は減り、それに伴って治安は急激に悪化し、街全体が薄暗く変色したようだった。

 ロジャース家も世間同様に明日のパンすら危うい状況に陥っており、スティーブも家計の足しにするべく靴磨きのバイトをしていた。

 しかし病気のせいで長時間働くことのできないスティーブが稼げる金など高が知れていた。丸一日働いてもパンが2つ買えるかどうかといった金額しか稼げない。

 無理をして働いても結局は身体が悲鳴を上げて余分な薬代が増えるだけだと、長年の経験から分かっている。それに体育以外の成績は極めて優秀なスティーブが、学校をサボって長い時間靴を磨く事をサラは断固として許さなかった。

 そんなスティーブが唯一纏まった現金収入を得る手段はイラストだった。

 

 体が動かない時は勉強をしているか絵を描いていたスティーブに、行きつけのパン屋からビラを描く仕事をバッキーが持って来たのが始まりだった。

 受け取ったのは子供の駄賃のような金額であり、店としても大して期待していなかったのだろうが、初めてのイラストの仕事ということでスティーブは非常に力の入れたイラストを描いた。

 ビラというより映画のポスターめいたデザインのビラをパン屋の店主はいたく気に入り、とにかく町中に貼りまくった。それ見た近所の店が、うちの広告も書いてくれとスティーブに頼みに来るまでそう時間はかからなかった。

 そうしていつの間にか、ぽつぽつとだがスティーブはイラストの仕事をするようになった。

 

 今日もスティーブは「新しい仕事を見つけたから靴磨きのバイトが終わったら母さんの店に来いよ」とはしゃぐバッキーに半ば強制的に約束させられて、こうして夜に酒場の裏口扉を叩く羽目になっていたのだった。

 スティーブの表情から粗方の事情を察したエレナは、取り合えず入れば?と言って従業員用の待機スペースにスティーブを連行した。

「す、すみませんエレナさん。急に、」

「別にいいのよ。そもそも最近何かと物騒じゃない。近くでまた強盗殺人があったらしいわよ。なのにスティーブみたいな虚弱な美少年が一人で突っ立っているなんて危なすぎよ。もうちょっと危機感持ちなさい」

「………僕は男ですよ」

「知っているわ。スティーブは飛び切り綺麗な男の子よ。ブリュネットも嫌じゃないけど、たまにはスティーブやサラみたいな綺麗な金髪に憧れるのよね。ああ羨ましい。でもやっぱりブロンドは線の細い美人じゃなきゃ似合わないかしらね。あたしはブロンドに染めるにはちょっと体形がゴージャス過ぎるから」

 胸を揺らして歩くエレナの口は全く止まらない。この年代の女性の会話を止める事などまず不可能だと悟ったスティーブは、ああ、いえいえ、そうですね、の3つの返事を順番に使いながらスタッフルームの椅子に腰かけた。

 

 エレナとバッキーの話には奇妙な共通点があった。過度な自慢はなく、不用意に他人を貶すことはなく、長々しく続くわりに同じ話はしない。そして身振り手振りが派手であり、どんなに些細な事でもそれが世界で一番の大発見であるかのように話す。

 そして今日のエレナは何時にもまして声の抑揚が激しかった。テレビのタレントでもここまで勢いよく話続ける事は難しいだろう。

 そう会話が得手ではないスティーブもエレナの話に耳を傾け、適当に相槌を打っているだけで気分が軽くなった。これは一種の才能ではないかと思う。

 つい先日強盗に襲われた近所の家に警察が調査に入ったところ、ベッドの下からその向かい隣りの家の奥さんの下着が発見され、自宅で浮気をしたのかと怒り狂ったその家の妻が夫を刺し殺しかけるという別の事件が発生したという話題を聞きながら、スティーブは何度目か分からない相槌を打った。

 何故エレナは昼も夜も仕事をしていながらこんなにご近所の事を良く知っているのか。スーパーマン並の高性能な耳を持っているか、もしくはシャーロック・ホームズのようにストリートチルドレンのチームを率いていないと不可能な技だ。

 素晴らしい速度で次の話題に映ったエレナは一瞬会話を止め、天井を見上げて大きく息を吐いた。青灰色の瞳が大きく虚ろに見えた。

 

 陽気に会話をしているエレナが、その実は酷く疲れているのだとその一瞬の表情で分かった。スティーブに向かって陽気に話しているのは自分の気分を明るくするための虚勢だったのだ。一種の躁状態のようなものだ。

 横顔をよく見ると目の下にくっきりと濃い隈がある。化粧で誤魔化しているが顔色は青かった。

「エレナさん」

「なあに?」

「その、大丈夫ですか?お疲れでは」

「あら、心配してくれてるの?紳士になっちゃって」

 懐に手を伸ばし、エレナは煙草を取り出した。懐から靴磨きの仕事中に客の煙草に火をつけるためのマッチを取り出して、エレナが咥えた煙草に火を点ける。

 ありがと、と言ったエレナは深く息を吐きだした。

「まあそりゃあ昼は兵器工場で夜はウェイトレスってなるとちょっとキツいけど、大丈夫よ。ああ見えて意外にジムはしっかりしてるの。パンを貰ったり、野菜を貰ったりね。あの子は愛想がいいから」

 そう言ったエレナにスティーブは視線を彷徨わせた。

 

 バッキーがどうやってそういったものを手に入れているのか、スティーブは薄らと理解していた。しかしそれを彼の母親の前で口にする気は無かった。

 バッキーは健康で、人より足が速く、家族の口を養うためには少々の悪事を厭わない男だった。それが悪い事だとスティーブは知っていたが、彼を警察に突き出そうと思った事は一度も無かった。

 盗みは悪い事だが、家族のためにパンの欠片を盗む友人を警察に突き出すことが正しい事だとはとても思えなかった。

 

「それで今日は店のデッサンでもしにきたの?あんまり遅くなったらサラが心配するわよ」

 心配そうな口調のエレナにいえ、と返す。隠し事をしている後ろめたさを胸奥に押し込んでスティーブはただ愛想よく笑みを返した。

「今日はこのお店がどんな雰囲気なのかだけ知りたくて来たんです。どんな絵を描くかのイメージだけでも掴みたいと思って。お店に飾る絵を描くのは初めてですから」

「あらそう。でもここの店長はおおらかというか、適当な人だからあんまり気負わなくていわよ」

「そうなんですか。その、店長とはバッキーが直接話して仕事を持って来てくれたので僕はまだお顔も知らないんです」

「店長はいい人というか……変わった人よ。若々しいのか年寄り臭いのかよく分かんない人でね。ただ密造酒を造るのがめっぽう上手いの。あんまり怒らないし、冗談も上手いし。悪い人じゃあないわ。ほら、話をすれば……スタン!」

 スタン、と声を掛けられた男性はちょうど部屋に入ろうとしたところだった。白髪で顔に深い皺を刻んでいる老人だが、ぱっと笑った顔は少年のように明るい。深い色のサングラスがよく似合っている。スタンはやあ、と気安く手を上げた。

「エレナ。休憩かい?」

「ええ。スタン、こちらスティーブ。スティーブ・ロジャース。あなたがイラストの仕事を頼んだ若きイラストレーターよ」

「スティーブ・ロジャース君だね。バッキーに聞いたよ。君の描いたビラを何枚か見た。繊細だけど骨がある、ガッツのある良い絵だ」

「ありがとうございます、ミスター……」

「スタンで構わんよ。スタン・リーだ」

 快活に笑ったスタン・リーが差し出した手を握り返す。温かく、皮の厚い手だった。

 酒場の店長とは思えない分厚い掌の皮と太い指はまるで長年コミックでも描いているように使い込まれた手をしていた。

「好きなように描いておくれ。イカした絵を頼むよ」

「はい、頑張ります!」

 ぱんぱんと肩を叩いたスタンに、何となくスティーブはこの人が凄まじく良い人であるような気がした。

 バッキーからは「生き馬の目を抜くようなこの時代にあるまじきお人好し」とよく評されるスティーブだが、人を見る眼にはそれなりに自信があった。じっと人の目を見ればその人の性格や本性は大体分かるものだ。

 

 休憩室でスタンとは暫くイラストについて話をした。スタンはやはりコミックスを描くのが趣味のようで、どちらかと言うと今は酒場の経営よりもそちらの方に注力しているらしい。

 他にも役者をしていたり従軍経験があったりとスタンの話は面白く、尽きなかった。スティーブはエレナから渡されたビールで唇を濡らしながらスタンの話にこくこくと頷いた。

 子供のように顔を輝かせて話をするスタンと会話に合いの手を入れるのも滅法うまいエレナのおかげで、スティーブはコメディアンの掛け合いでも見ているような気分に陥った。相槌をうつ暇も無い。会話が上手い2人の間に放り込まれた口下手は嵐の中に身一つで投げられた幼児のように無力だ。

 従軍中に描いた強烈な時事漫画に同僚達が揃って笑い悶えたり、最初に手掛けたコミックスの主人公の脚本を考えるのに苦心したりというスタンの話に、エレナがどんな話を描いたのか丁度良いタイミングで問いかける。その話の内容にスティーブが笑い、素直な反応に気を良くしたスタンがさらにその次に発表した作品が全く売れなかった話をする。

 

 何時迄も続くように思えたコメディめいた会話は、しかしスタンが他に仕事があるからと言ってその場を去った事で終わった。

 名残惜しそうに手を振りながら「Excelsior!」と言って部屋を去ったスタンと入れ替わるように、今度はバッキーが豪勢な足音を鳴らしながら部屋に入った。

 古着らしく所々糸の解れたニッカーボッカーを履いた格好は、ギリギリ酒場に居てもそうおかしくはない年齢に見える。どう見ても未成年にしか見えないだろう自分との違いに少し拗ねてスティーブは唇を尖らせた。

「遅いぞバッキー」

「悪い悪い。ちょっと野暮用でさ」

 全く悪びれずに言うとバッキーはスティーブの腕を引いた。そのまま扉の向こうの、酔っぱらいの声が漏れ出て来る店内へと連れて行こうとする。

「ジム、あんまり遅くならない内に帰るのよ」

「分かってるよ母さん」

 ひらひらと手を振ったバッキーの返事は全く信用ならないものだとスティーブは知っていた。バッキーの「分かってる」は、「分かっているけれどその通りにするとは言っていない」という言葉の短縮形だ。

 

 

 

 店内に入るなり眩しい照明と、騒めかしい声と、ありとあらゆる食物がごったになった臭いがスティーブに襲い掛かった。特にアルコールの臭いが圧倒的に強い。酒瓶から揮発したアルコールの成分が空気中に溶けだしているようで、呼吸をするだけで酔いそうだ。

 さらに酔っぱらいの罵声やら笑い声やらが店内に響き渡り意識をかき回してくる。視界がぐるぐると回りそうだ。

 それでもしっかりと店内を見回すと、1階部分だけでもかなり広い店は2階まで続いており、中央部分は吹き抜けになっていた。円形の机と椅子が所狭しと並んでいる。

 

 痴話喧嘩で騒ぐ男女の横を通り過ぎながら、スティーブは酔いかけている自分を隠すためできるだけ澄ました表情を作り、手を引くバッキーに話しかけた。周囲の喧騒のせいでスティーブの声など囁き声程度にしか聞こえなかっただろうが、バッキーはスティーブが何を言いたいのか言われずともすぐに分かった。

「バッキー、まだ僕はこの店に飾る絵を描くとしか聞いていないんだけど、」

「ああ。ほら、あそこに飾る絵が欲しいんだってさ。この前まで店長が自分で描いた絵を飾ってたらしいんだけど、酔っぱらいに酒をぶっかけられて全部ダメになっちゃったらしい。それでまあ、どうせならデカい絵を飾ろうと思ったんだと」

「それなら僕じゃなくてプロに……」

「お前の絵を気に入ったんだってさ」

 たかだかビラやチラシに載せた小さなイラストだけを見てスタンは自分の何を評価したのだろうと、スティーブは心底疑問に思った。

 

 バッキーが指さしたのは壁沿いに1階へと上がる階段の途中の壁で、店で一番目立つ場所だった。

 一面の板張りの壁には年季の入った艶こそあれど聊か殺風景だ。確かにここに大きな絵を1枚か2枚飾れば店内の良いアクセントになるだろう。

 しかしそれにしたって、アートスクールも出ていないスティーブに任せるにはあまりに目立ちすぎる場所だった。ここに自分の描いた絵を飾るのかと思うと嬉しさ以上に緊張が強い。

「30号……いや40号は無いと小さすぎる……油彩でしかありえない。水彩じゃあ淡すぎる」

「スタン爺さんは適当で良いって言ってたぜ」

「良い訳が無い!店のど真ん中じゃないか!」

「大丈夫だって。あの爺さんここになんか、あの、何だっけ……なんかのコミックスのキャラクター描いてたぐらいだからさ。なんかあのタイツ着たヒーローの、ファンタスティックなんちゃらとかいう……」

「だとしてもだ。僕は仕事を任されたんだから、クライアントの要望にはちゃんと応えないと」

 生来の生真面目さを発揮してうんうんとデザインを考え始めたスティーブは、小さい身体をゆらゆらと左右に揺れながら店の中をうろちょろと動き回り始めた。

 

 スティーブは店の隅に移動したり、階段を昇ったりしながら絵の構成を考えているようだった。店の隅に置いてあるピアノを見たり、天井から吊るされている小さなシャンデリアを見たり、飾られている空のワインボトルを見たりして、ああでもないこうでもないと唸っている。

 いかにも華奢で病弱な子供が酒場をうろついていれば目立つに違いないのだが、生気に乏しいスティーブは驚くほどに気配が薄い。普段は高潔な精神を体現するように爛々と輝いている瞳が、店全体の雰囲気を掴むように捉え所なく揺れていればさらに気配が薄くなる。

 

 30分はそうしていただろうか。ようやくスティーブは椅子に腰を落ち着けた。その隣でバッキーは浮気をしただのしていないのだのと言い争う男女と、前の客が食べ残しまま置いて行ったチーズを肴に店の隅でビールをちびちびと飲んでいた。

 女のアソコの具合がガバガバ過ぎて自分のマグナムとマッチしないから浮気をしてもしょうがなかったのだと怒鳴る男の声がすぐ隣で破裂しているというのに、壁を睨むスティーブの表情は愚かな人間の罪を計量する天使のように真剣だった。

 こんな顔をしている時のスティーブに何を話しかけても、後で「え?お前なんか話してた?」としか言われない事は長い付き合いで知っていたために、バッキーは黙っていればそこらの俳優より端正な親友の横顔を眺めるに努めた。

 

 隣から聞こえてくる男女の沙汰も佳境に入っていた。

 とうとう4股している事を認めて居直るように胸を反らせた男に、キレた女が「手前のが小っせえんだよこのカス野郎!」と拳で男の鳩尾を殴ってダウンさせていた。女は机の上で獲物をしとめた狩猟民族のように雄たけびを上げて両手を上げた。

 店内は拍手喝采だった。大爆笑したスタンが笑い過ぎて床にひっくり返っていた。女の雄姿を讃えてジョッキを鳴らす音が原住民の太鼓のようにあちこちで響いていた。バッキーも口笛を吹いて女を讃えた。

 

「………うん、よし」

 右隣1mの所でひっくり返った男のズボンを下ろし実際のサイズを確かめている酔っぱらい達など見えていないのか、スティーブの表情は非常に凛々しい。虚弱な体躯のせいで気付かれにくいが、スティーブの容姿は宗教画の大天使のように神秘的なまでに整っている。ここが厳粛な雰囲気に満ちた教会なら非常に絵になる顔だろう。しかしここは今現在ブルックリンで最も下品で騒がしい場所に違いなかった。

 小さくも大きくも無いミドル級だと湧く店内の中で、スティーブだけが非人間めいて整った顔で何度も頷いてよし、と呟いていた。

 この友人が女性にモテないのは虚弱だからとか真面目過ぎるからだとかいう前に、このゴーイングマイウェイ過ぎる天然成分に最大の原因があるとバッキーは確信した。いくら正義感の強い高潔な性格であろうとも、絵画のように素晴らしい容姿を持とうとも、この天然マイウェイ成分が全てを台無しにしている。

 

「決まったか?」

「うん、大体のデザインは決まった」

「今更だけどミドル級のペニスを持つ獲物を仕留めたアマゾン族の女戦士の絵なんてどうだ。今日という日の良い記念になるぜ」

「どこからそんな奇妙なイメージが湧いて出て来たんだよ」

「スティーブ、もっと世界に目を向けて見ろ。その気になれば色んな光景が辺りには満ち溢れているんだ。お前はちょっと視野が狭すぎる」

「視野が広くてもアマゾン族の女戦士が獲物を仕留める光景なんてそうそう転がって無いと思うよ」

「いや、意外に転がってるぞ。具体的にはお前の横1m」

「何を言っているんだ……ピアノを弾く男性を描こうと思う」

「そりゃあ何で」

「何となく」

 30分以上も考えておいて何となくか、とは思ったものの、芸術的なセンスは乏しいと自覚のあるバッキーは「そうか」とだけ返答した。

 それに何となく、あの広い壁に黙ってピアノを弾く壮年の男性の絵があるとカッコ良いような気がしたのだ。騒がしい店に似合いのイメージだと思った。

 少しは落ち着け、という良いメッセージになるかもしれない。

 女にドナドナされて行く男の姿に十字架を切ったバッキーは、それじゃあ、と続いたスティーブの言葉に反応するのが少し遅れた。

「バッキー、お前の家のピアノを見せてくれ」

「……はあ?」

 思いがけない言葉に首を捻ると、スティーブは当然といった顔で肩を竦めた。

「だって営業中の店の中で絵を描く訳にはいかないだろ。邪魔過ぎる」

「じゃあ店を閉めてからでも……いや、早朝になるな。昼間は学校だし」

「だろ?」

 酒場が閉まっている時間帯はスティーブは学校に通っている。そしてバーンズ家にはピアノがあった。

 アップライトの古びたピアノは以前の住人が置いて行ったもので調律もしていないが、絵に描く分には何も問題ない。

 となると、残る問題は誰がピアノを弾くモデルになるかだった。バッキーはスティーブの絵のモデルになった事は幾度となくあるため、今回もそうかと軽く肩を竦めた。

「俺がモデルか?ピアノなんて習ったこともねえけど」

「いや、今回は駄目だ。酒場に飾るんだぞ。お前じゃ若すぎる。渋さが無い」

 当然と言った口調のスティーブに若干むっとしながらも、しかしバッキーは納得せざるを得なかった。もっと年を取った男の方が、この酒場を見下ろす位置に飾る絵には相応しいと自分でも思えた。

 しかし自分が渋さの無い子供だと素直に認めるにはバッキーはまだ若すぎた。意図せずして不満と揶揄いを含んだ声が出る。

「何だよ。じゃあ父さんにでも頼むか?昔はピアノを弾けたみたいだしな。動くなって言ったら一日中あの男は動かないだろうし」

 あの顔面が半分潰れた父親を絵になどすればホラーにしかならないだろうとバッキーは鼻を鳴らした。

 しかし意外にもスティーブはバッキーの言葉にふむ、と頷いた。その仕草にバッキーの方が驚いて眉を跳ね上げた。

「そうだな……もしよろしければ、頼んでもいいかな」

「はぁ!?正気か?あんなキチガイを。絵とはいえあいつの顔を酒飲みながら見なきゃいけないなんて軽い拷問だろ!」

「潰れてるのは顔の半分だろ。正気さ、勿論」

 そう言ったスティーブは酷く真面目な顔をしていた。視線は絵を飾る壁の一点の上に注がれていた。

 

 

 

 

 

 

■  ■  ■

 

 

 

 バーンズ一家はルーマニアから親類を頼ってアメリカに移住してきた一家だった。

 ブカレストの戦いを経て、ようやく独立を勝ち取ったルーマニアからわざわざバーンズ一家がアメリカに移住してきた理由は、いつも俯き、虚空に向かってぶつぶつと独り言を呟き、時折火の付いたように泣き喚くバッキーの父親であるステファン・バーンズを見れば明らかだった。

 

 以前の彼は虫も殺せないような温厚な性格の持ち主で、親から受け継いだ小さなカフェを営んでいたらしい。お喋りは得意でなかった分ピアノを弾いて客を楽しませる人で、料理を作るのもコーヒーを淹れるのも上手かったとか。

 そして彼は万人が認める美男だったという。高い身長に彫りが深い顔立ちは、柔らかな雰囲気も相まって彼をこの上なく魅力的に見せていた。ピアノを弾くステファンの物憂げで繊細な横顔に釘付けになった女性のおかげでカフェは大繁盛だったとスティーブはエレナから聞いた。

 

 だが戦争に行ってから、ステファンは別人のように変わってしまった。

 

 彼は重症を負って戦争から帰ってきた。

 エレナとバッキー、そしてまだ物心も付かない長女のレベッカは彼の帰宅を心から喜んだ。

 しかしその喜びという感情を理解するだけの人間的な余裕を彼は失っていた。

 

 彼は全ての表情を忘れ去り、日中をまるで彫像のように身じろぎ一つしないままに過ごした。

 物音を耳にすると恐怖のあまり悲鳴を上げてすすり泣き、車のクラクションでも耳にしてしまったらパニックを起こして壁に頭を打ち付けた。そのためにまともに外を出歩く事さえ出来なかった。

 さらに彼は精神だけではなく、肉体にも酷い怪我を負っていた。美しかった顔の左半分は原型も残さず焼け爛れていた。

 どす黒い肉を露わにした顔の半分は無惨な瘢痕に覆われ、顎の開閉を困難にしていた。いつも涎を垂らしながらくぐもった声しか上げない彼は実年齢よりもずっと老けて見えた。まともな食事を摂取することもできず、乳幼児が食べるような離乳食を日に3回、誰かが口に流し込んでやらなければならなかった。

 彼の狂人のような有様はもしかすると脳にも怪我の範疇が及んでいるせいなのかもしれなかったが、いずれにせよ彼は元通りの温厚な青年に戻る様子は全く無かった。叫び声か呻き声以外を口にすることも無い彼は、存在するだけでバーンズ一家に陰鬱な影を落としていた。

 

 

 

 

 ステファンは呆けたような顔をして、スティーブに言われた通りアップライトピアノの前に座っていた。時折気まぐれに鍵盤の上に指を置く以外は丸一日中身動きしない彼をスケッチするのは比較的楽だった。

 ただ時折立ち上がって壁に頭を叩きつけたり、獣のように大声で叫んだりする事があった。道路から聞こえたクラクションや、隣部屋で響く怒鳴り声など誘因が明らかな場合もあったが、前触れ無く突如として自傷行為を始める場合もあり、全く予想ができなかった。

 いきなり暴れたステファンに、スティーブは彼の身体に触れないように毛布を被せた。視界が暗くなれば少しは落ち着くのか、彼は毛布の中で段々と落ち着きを取り戻し、再び口を閉じて彫像のように動かなくなるのだった。

 

 焼け爛れた左側の顔が見えないようにスティーブは右側の顔だけをキャンパスの上に描いた。怪我の無い側の顔だけを見れば、痩せこけた頬にも面影として残る端正な容姿も相まって、ステファンは宇宙の神秘を見定めようとしている修道士のように見えた。

 年齢に不釣り合いなほどの白髪を混じらせて、病的に白い肌に細かい皺を刻み、少し唇を開けた呆けた顔に淀んだ瞳を嵌め込んだ彼は現実を超越しているかのように周囲から浮いて見えた。ただ美しいだけの映画俳優より宙に視線を注ぐ彼の方がよっぽど絵になる存在であり、非現実めいた神聖ささえ纏っているようだった。

 

 

 彼を題材に絵を描くと決めた日からスティーブは学校から帰るとすぐにバーンズ家に向かい、只管に絵を描いていた。

 ステファンは一度もスティーブに話しかける事はなかったものの、過度にスティーブを恐れる様子も無かった。

 一見して虚弱体質で栄養失調気味の少年だと分かるスティーブの粗末な体格が幸いしたのだろう。扉の開閉の音にさえ怯えるステファンが、鉛筆を滑らせる音以外には物音を立てない、声を出さなければそこに居る事すら忘れられる生気に乏しいスティーブには恐れを抱く様子さえ見せなかった。

 モデル代の代わりとしてスティーブはステファンの食事を作り、食べるのを手伝い、体を拭き、トイレに行かせた。トイレに失敗すれば糞尿を拭って下着を取り換えた。口角からぽたぽたと零れている涎を拭い、瘢痕になっている顔に軟膏を塗ったりもした。

 パニックを起こせばすぐに宥め、毛布の中から出ようとしないステファンに何時間も寄り添った。

 最初は見慣れない少年のスティーブに体を触られる度に体を震わせていたステファンも、サラ譲りの整った顔に微笑を浮かべて黙々と世話を焼くスティーブに直ぐに慣れた。

 

 むしろステファンはバッキーの方を恐れているようだった。バッキーが視界に入る度にステファンは体を固くして顔を背けた。

 バッキーの方もステファンを見る度に眉間に皺を寄せて、普段の気の良い青年とは思えない目つきでステファンを睨むのだった。

 

 

 

 

 下書きも佳境に入った頃、仕事の忙しいエレナがスティーブにバーンズ家の食事を作る様に頼んだ。サラも夜勤で家に居なかったため、スティーブは自分とバッキーとレベッカの分のシチューとサンドイッチを作る事に決めた。

 食料は貴重だ。エレナに託されたチーズの欠片と薄っぺらいハムを盗もうと左右から伸びて来る手を叩き落としながら、どう分量を嵩増しようかとスティーブは悩んだ。

 バッキーはもちろんの事、成長期のレベッカさえスティーブの1.3倍は食べる。比較的小食なサラと非常に小食な自分だけであれば目の前にあるチーズとハムに掌よりも小さいパンだけで問題無いのだが、彼らの胃袋はこれだけでは満足しない事は明らかだった。

 最終的におすそ分けで貰ったポテトをマッシュし、くず野菜で量を誤魔化したチキンスープも机の上に乗せた。机の上に作った料理を全て並べても侘しさは誤魔化しきれなかったが、誰も文句は言わなかった。

 

 しかしやはり2人には物足りない量だったらしく、スープの1滴まで舐め尽くしてなお2人は空腹そうな顔をしている。エレナは普段どうやって彼らを満足させているのかスティーブには全く想像もできなかった。

「スティーブ、それだけでいいのかよ」

「うん。これ以上は無理だ」

「私より食べて無いよスティーブ」

 心配そうにこちらを見る小さなレベッカに苦笑して頭を撫でた。小さい顔は可愛らしいが、少し痩せている。

「僕はそんなに食べなくても大丈夫なんだ。エコな体質なんだよ」

「でもご飯を食べないと死んじゃうのよ?」

「全く食べていない訳じゃないから。少ない食事でも死なない体質なんだよ。あんまりお腹も空かないんだ」

「いいなぁ。あたしいつもお腹が空いてるもの。ちょっとだけで満足できるならその方がいいのに」

 むう、とレベッカは口を尖らせた。

 健康な身体になりたいと無理して食べて吐いてしまい、さらに誤嚥したせいで肺炎に罹って死にかけたスティーブの過去を知っているバッキーは、何か言おうとぱくぱくと口を開閉し、結局は閉じた。

 

 

 ステファンの分のスープは野菜を潰して飲み込みやすくした。それとサンドイッチに使ったパンを使ってパン粥を作った。殆ど丸一日中動かないもののバッキーより高身長であり、パニックを起こせば疲れ果てるまで暴れる事もあるステファンの食事量はスティーブの2倍以上を必要とした。

 3人の食事が終わり、テーブルの上もバッキーとレベッカが片付け終わった頃にスティーブは部屋の隅に蹲るステファンにテーブルに座る様に言った。

 その言葉を聞くなりレベッカは自分の部屋に駆けて行った。レベッカは実父の半径3m以内に入るのを非常に嫌がった。

 

 一時期、仕事で忙しいエレナの代わりにバッキーとレベッカがステファンの世話を担当していた事もあったらしい。

 しかし突如として叫び、暴れ、糞尿を垂れ流す事もあるステファンの世話をするにはまだ少女と言って良い彼女にはあまりに酷だった。

 涎と尿と糞を垂れ流しながら動物のように甲高い叫び声を上げるステファンに「もう嫌!もう嫌!」と叫びながら濡れたタオルを叩きつけるレベッカを見つけたバッキーは、レベッカがステファンの介護をしなくて済むよう母親と話し合ったと言う。

 

 リビングの扉が勢いよく閉まると同時に、ステファンは非常にゆっくりとした動作でテーブルについた。

 抉れた頬から食事が垂れないように少し上を向いて貰って、口にゆっくりと食事を流す。誤嚥しないようスプーン1杯ずつ口に運ぶと、ステファンは咀嚼する事を忘れているようにそのまま喉に食事を流した。

 

 最後の一口を口に運ぶと、量が多すぎたのか、ステファンは飲み込めずに口の中にパン粥をぐちゅぐちゅと音を鳴らしながら咀嚼し続けた。しかしとうとう机の上に吐き出してしまった。

 ぼうっとした瞳でテーブルの上に吐き出されたパン粥を見るステファンの肩を撫でて、吐き出したパン粥を台ふきで拭う。そして汚れたステファンの服を見る。

 垂れたスープと粥にぽたぽたと口角から落ちる唾液が加わってシャツは酷く濡れていた。このままでは風邪をひくかもしれない。滅多に陽の光の下に出ないステファンはスティーブに負けず劣らずの虚弱体質だった。

 スティーブはチェストから新しいシャツを取り、ステファンに服を脱ぐように言った。

 ステファンは不器用な手つきで服を引き剥がすように脱いだ。新しいシャツを手渡して着替えるように言うと不器用な手つきでシャツを引っ張る。

 幼子がするような拙い動きに苦笑してステファンを手伝うスティーブにバッキーは思い切り顔を顰めた。

「スティーブ、そんな事までしなくていい」

「でもこのままだったら寒いだろう」

「そいつはいい歳した男なんだから勝手に着替えるさ。赤ん坊じゃないんだ」

 シャツをスティーブから奪ったバッキーはそのままステファンに叩きつけた。ステファンは顔面に被さったシャツをそのままに、その場に座り込んでいた。

 身じろぎ一つしないステファンに舌打ちをしてシャツを奪い、バッキーは呆けたステファンの顔に歯を剥き出しにして怒鳴った。

「いい加減にしろよ糞野郎!他人に迷惑ばっかりかけやがって!」

 唾が顔に飛ぶ程の近さで怒鳴り声を叩きつけられたステファンは肩を震わせて頭を抱えた。がくがくと身体全体が痙攣するように震えていた。

 パニックだ、と気づいたスティーブは咄嗟にステファンにシャツを被せた。

「アー!ア゛ァぇえあ゛ぁ、アゥアァー!」

 傷ついた獣が唸るような叫び声を上げるステファンの耳をシャツで塞ぐ。焦点の合っていない目は細かく震えながら頭上に向いていた。天井を突き破って星が降って来ることを恐れているようだ、と思った。

 自分が傷つくのも構わず彼は無茶苦茶に手足を振り回した。床に手足が叩きつけられる音は近隣にも響く程に大きく響いた。きっとレベッカは自室で震えているだろう。

 ステファンの動きは死に直面した恐怖に追い立てられたものに違いなかった。枯れ木のような見た目に反する力でシャツの下で暴れまわる。

 

 どんな悲惨な目に遭えば元は温厚だった普通の男がこのような理性の無い狂人になってしまうのか、想像するのも恐ろしかった。

 スティーブが知っている悲惨さというものは、せいぜいが多数の人間に木の棒で殴られたり、女のように細い手足だと揶揄われたり、パンを横からかすめ取られたりするものだった。それらは勿論辛いものだが、正気を削ぎ落すような凄惨さは無い。

 そんな想像すら困難な程の恐怖を乗り越えて生きて還って来たステファンがスティーブは哀れでならなかった。

 

 ステファンは祖国のために戦争に向かい、戦い、勝って帰って来た。成すべき事を果たした英雄だ。

 だというのに今こうして祖国から遠く離れた異国で、全てを拒絶するように蹲って生きている。こんな現実はあまりに道理に合わない。

 しかし父親を責めるバッキーの苛立ちもまた理解できた。

 もしスティーブの父親がステファンのような姿と精神で戦地から帰って来たとして、スティーブは愚痴を一つも零さずに毎日微笑んで父親の面倒を見続けられるだろうか。

 そうしたいとは思う。そうするべきだとも思う。しかしそれが現実的には非常に困難だということは分かっている。

 最初は祖国のために戦った父を誇りに思い熱心に世話を焼いたとしても、何十年とそれを嫌な顔一つせずに続けられるとスティーブには断言ができなかった。

 

 だからこそ、スティーブはただステファンが哀れだった。彼が何も悪く無い事だけは明らかだったからだ。

「大丈夫です、ステファン。気にしないで」

 震えるステファンに声を掛けながらスティーブは視線でバッキーを責めた。鋭く貫くようなスティーブの視線にバッキーは歯を食いしばらせながら部屋を出て行った。

 

 

 バッキーが視界から居なくなると途端にステファンの身体の震えは治まりを見せた。肩を撫でると一瞬びくりとしたが、拒否するような仕草は見られなかったためにスティーブはそのままステファンの肩を抱き寄せた。

「大丈夫です、ステファン。大丈夫ですよ」

 あーあーという唸り声は治まらないものの、身体の震えは治まり、頭を護るように抱えていた両腕もゆるゆると外された。

 シャツを着せて、唇から垂れている唾液を拭う。抱きしめたステファンはスティーブよりよほど身長が高いというのに針金のように細い体躯で、食べたものは全て暴れるためのエネルギーになっているのではないかと思われた。サラが病気で寝込んだ自分にそうするように、スティーブは耳を驚かせないように低く優しい声を出した。

「御免なさい、一気に沢山食べさせようとしてしまって。次は失敗しないようにしますね」

 にこりと笑いかけるとステファンは強張っていた表情をゆっくりと解いた。

 再び呆けたような表情になり、スティーブから離れて体を引きずる様に部屋の隅に移動する。そこで傷ついた獣のように蹲り、ステファンは目を閉じた。

 寒くないようにと毛布を掛けると、拒絶するように突き返された。

 

 

 

 

 

 

■  ■  ■

 

 

 

 

 

 

「悪かった、スティーブ」

「謝るのは僕じゃないんじゃないか」

「……あいつに謝る事なんてない」

 下書きの済んだキャンバスを片手に夜道を歩く。小さな街頭がぽつぽつと瞬きながら深い夜を照らしている。空気は暗く、肌を焼くように冷たい。

 ぶっすりと唇を尖らせたバッキーはバツの悪そうに小石を蹴った。自分が悪いと分かっていて、しかしそれを認められないバッキーの仕草だった。

 

 バッキーは聡明な少年だ。ステファンは何も悪くない事を彼は理解している。

 しかしだからと言って感情がその理解に追いついているかというのは話が別だった。

 既に彼が理解している事をわざわざ口にするのは良い事なのか、一瞬スティーブは悩んだものの、しかしバッキーの沈黙は未だ言い足りないことを含んでいるようだった。彼の口を開く切っ掛けとするために、スティーブは思った通りの事を口にした。

 正論を口にする事は会話において常に最良の方法ではないが、自らの考え方を整理するために誰かに正論を言って貰う事は悪い手段ではないと知っていた。

「バッキー、彼は傷ついているだけだ。戦争が彼を傷つけたんだ。彼が望んでああなってしまった訳じゃない」

「………俺だって、俺だって頭じゃ分かっちゃいるよ」

 ざりざりと靴が石畳を蹴る。お互い靴は使い古しで、あちこちに穴が空いていた。舌打ちをしたバッキーは小石を蹴り飛ばいた。

「あいつは単なる被害者だってな。分かっちゃいるんだ………顔が見るも無残になっちまったのもあいつが望んで銃口に向かって突進したからっていう訳じゃない。単に銃弾も避けられない間抜け野郎だったっていうだけだ」

「銃弾を目視で確認してから避けられるような人間はいないよ」

「そりゃそうだけど……でも、でもさ、少なくとも正気のまま家に帰って来てくれる事ぐらいはできたはずだ。じゃないとおかしいだろ。他の帰還兵はわりかし正常だったのに。疲れた顔で戦争から帰って来て、出迎えた家族を見て「君たちが無事で良かった!戦争に行った甲斐があったよ!」って笑顔になるのが普通だろ」

「彼は普通の状態では帰れなかったんだ。他の兵士よりも酷い目に遭ったんだから。生きて還ってくるだけで精一杯だったんだ。彼の責任じゃない」

「そうだ———だから俺はあいつが嫌いなんだ」

「どうして」

「まだ生きてるからだ。せめて死んでりゃ良かったんだ」

 歯噛みをしながらバッキーは深い声色で唸った。鼻を鳴らして分厚いコートを手繰り寄せて首を覆う。バッキーのコートもスティーブと同じ位に汚れていた。耐えがたい寒さが街一体を覆っていた。

「少しでも理性が残っているのなら、あいつは今からでも自ら死を選ぶべきだ」

「………バッキー、それは良くない考えだ」

「母さんが可哀想だ。レベッカも。あいつのせいで余計な負担がある。あいつの顔の治療のために金がかかっているし、パンだってシャツだってタダじゃないんだ。愛情だけで何とかなる問題じゃない」

 

 絞り出すようなバッキーの言葉にスティーブは黙らざるを得なかった。

 何故ならば、バッキーの言葉はスティーブにも当てはまるものだった。サラの事を思うのならば、スティーブは今すぐ目の前に生えている街路樹にロープをかけて自分の首を吊ってしまった方が良いなんて、言われなくても分かっていた。

 

 自分の母親、サラ・ロジャースは美しい金髪と澄んだ碧眼を持つ美女だ。性格も心優しく気が利いて、少し会話するだけで誰もが彼女を好きにならざるを得ない。さらに他人の機嫌を取るばかりの女性ではなく、しっかりとした強い意思を持つ芯のある女性だ。年齢はまだ30代半ばであり、容姿はさらに10は若く見える。

 息子としての多少の贔屓目を除いても、まるで天使のような人だと常々思う。

 病気がちの自分さえ居なければ、きっと母はすぐに良い人を見つけて再婚できるだろう。看護士なんていうハードな仕事はさっさと辞めて家で夫を支え、子供を産み育てる生活の方がずっと穏やかで負担が少ないに違いない。

 これまでそう考えた事が無い訳では無かった。むしろ体を壊してベッドに入り込む度に自分が生まれて来た意味についてスティーブは何度も頭の中で考え、そうして結局は何も無いという結論に達してしまうのだった。

 そうしてその度に自分の細い首に埋まっている頸動脈を薄い皮の上から指でなぞり、キッチンにある包丁でそれを切断する事が可能かどうかを検討していた。

 

 だがその検討は、自分がサラのために死んでしまうとして、それはサラの幸福に繋がるのだろうかという疑問にいつだって直結していた。

 スティーブはサラに心から愛されているという実感があった。

 もし父親がステファンのような負傷兵として帰還したとして、献身的に介護できると断言できない自分に対し、サラは本当に愚痴の一つも零さずに病弱で何の役にも立たない自分の面倒を見てくれている。

 毎日太陽のような笑顔をスティーブのためだけに浮かばせて、「あなたがいるおかげで頑張れるの」と言いながら毎日スティーブの額にキスをするのだ。サラは本当に、時々ふと茫然としてしまうくらいに自分を愛している。

 サラにとって目に見える生きる意味があるとすれば、それは自分自身だろう。その確信が未だスティーブをこの世に留めていた。

 

 そしてエレナはきっとまだステファンを愛している。ならばステファンには生きる意味があるのではないか。

 たとえ一人で食事をする事すらできなくとも、そこにいるだけで愛を感じさせてくれるような存在に価値が無いとは誰にも言えない。

 

 だがスティーブはステファンの存在による負担を直接実感する立場にあるバーンズ家の人間ではなかった。だから自分には彼らの問題に口を出す権利は無い。

 それにバッキーの苦悩は愛だの生きる意味だのという目に見えない価値では解決できないものだ。アメリカを襲う前代未聞の大不況に翻弄されている状況で、パンやシャツに交換できない彼の存在価値について説いても何の解決策にもならない。

 

 黙ったスティーブに何を思ったのか、バッキーは「悪かった」と言って口を閉じた。

 

 古びたアパートメントにあるロジャース家の前までたどり着いた時、バッキーは一つの包みを突き出した。

「やるよ。俺にはサイズが小さいから」

 包みは簡素な紙袋だった。受け取り、中身を見ると一対の手袋が入っていた。手の甲にしつこくない程度に細かな刺繍が施されていて、手首には温かそうなファーと小さなビジューがついている。高価な物である事は一目で分かった。靴磨きの仕事で手に入る金を何か月分合わせれば買えるのか見当もつかない。

「こんなの貰えないよ」

「いいから。母さんが客から貰ったらしいけどおんなじようなの持ってるから使わねえって言うし。そんな大人っぽいのレベッカにはまだ早いだろ。サラにあげたらいい」

 そう言われると、確かに母にこのデザインの手袋はとても似合うように思えた。それに毎日の仕事で母の手が擦り切れて赤くなっている事をスティーブはよく知っていた。彼女は一度も辛そうな顔をスティーブに見せたことはないが、たまに肌が裂けて血が出ては汚れたタオルで拭っている彼女の姿を見る事があった。

 袋をぎゅうと握り締めてスティーブは今にも崩れそうな笑みを浮かべた。

「ありがとう、バッキー」

「別に。家に転がってただけだから気にすんなよ」

 じゃあな、と手を振って帰っていくバッキーに、スティーブはごめん、と言葉をかけた。振り返ったバッキーはバツが悪そうに唇を尖らせていた。

「僕が口に出すべき問題じゃなかった事は分かってる。余計な事を言った」

「気にすんなって。俺だって……お前が正しい事は分かってる」

「うん」

「言っておくけどお前は滅茶苦茶いい奴だし、お前みたいなのがこれからのアメリカには滅茶苦茶必要だからな。そこんとこ忘れんなよ」

「うん」

「……マジで分かってんのかよ」

「分かってるよ」

 少なくとも、バッキーが本心からそう思っている事は分かっていた。事実はどうあれ。

 透明な表情で微笑むスティーブにバッキーは少し眉間に皺を寄せて、「最近強盗が多いから、気を付けろよ」と言って帰って行った。

 

 その背中を見送った後に自宅の玄関を開けながら、それにしてもこんなに高価そうな手袋をウェイトレスにぽんと渡すような客がいるのだろうかとスティーブは不思議に思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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