美しい毒虫   作:XP-79

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後編

 

 

 バーンズ家の床を油彩絵具で汚すのは忍びなかったため、スティーブは下書きの後の作製は自室で進めた。

 油彩絵具独特の鼻にべっとりと糊を貼り付けるような臭いが部屋に充満していたが、絵具の臭いに慣れているスティーブは気にすることなく、バッキーだけがベッドの上で「服に臭いが付く」と文句を言っていた。そのバッキーにしても、文句を言うだけで部屋を出ていこうとする様子もない。

 なにしろ部屋の外は寒い。暖房なんていう気の利いたものはロジャース家にもバーンズ家にもなく、スティーブの私室に籠って温めたミルクを啜るのが一番快適なのだ。それにスティーブの部屋は画材やら本やらが大量に収納されているものの、部屋主の几帳面な性格のおかげでれほど狭くは感じなかった。

 それにバッキーは壁という壁にスティーブの絵が張られているこの部屋が好きだった。画鋲で適当に突き刺されて磔にされている絵は美術館に綺麗に飾られているような絵よりも圧倒的に近くにあり、スティーブという人間のリアルさを感じさせた。

 清廉で鮮やかな絵はスティーブの内面そのものだ。絵画について詳しくはないが、スティーブの絵を見ていると心がすっきりとする感じがする。純粋で、真っすぐな絵が多い。

 

 穏やかな心持でベッドに寝転がるバッキーの横で、しかしスティーブは眉間に深々と皺を刻んで舌打ちを繰り返していた。

 慣れた環境では筆が乗るかと思いきや、目の前に彼が居ない状況でステファンの姿を明確に描くとなると途端に困難さが増す。彼の魅力は目に見えない所にあった。彼の空気を表すためには単なる下書きと記憶だけでは足りなかった。

 

 下書きの絵から少しずつ進めながら、しかし途中でスティーブは筆を放り出した。

 俯いて唸り声を上げるとベッドの上で雑誌を読んでいたバッキーが呆れながら大丈夫かと声をかける。大丈夫じゃない、とスティーブは唸った。

「駄目だ……僕は駄目だ……彼の空気が表せない……」

「空気は透明だから絵に描けねえだろ」

「彼の視線が描けない………」

「呆けたおっさんの眼なんて丸書いてちょんでいいだろ」

「ピアノの上の彼の指のラインが描けない……」

「棒切れもってきて定規にしたらそれっぽくなるんじゃねえの?」

 あはは、と笑ったバッキーの頭に手刀を落とす。

 痛ってえ!と大して痛くも無い様子でバッキーは頭を庇った。

「そんなに適当に描ける訳無いだろ!」

「別に適当でいいじゃねえか!モデルが帰還兵の狂人で、飾るのはついこの前まで密造酒を売ってた元スピークイージーの安酒場だぞ!絵の具がもったいないくらいだ!」

「お前が学校から盗んだ絵の具だけどな!」

「黙って受け取ったお前が言うな!」

「大量にストックしてある癖に全く使う気配も無いんだからちょっと位別にいいだろ!」

「お前って潔癖なのか寛容なのか全く分かんねえよな!この前だって『自分は不正なんて絶対にやりません』みたいな澄ましたツラしてカードゲームでえげつないイカサマ連発して上級生から金を巻き上げてただろ!」

「あれは下級生から財布をカツアゲしたあいつらが悪い!」

「そりゃあ同感だ。でも巻き上げた金はカツアゲされた金額より多かったような気がするんだけどな!」

「あれは『カードゲームのような賭博は気軽にやってはいけませんよ』という勉強料だ!」

「そういう所マジで大好きだよもやし野郎!何時か詐欺罪で訴えられろ!」

「それよりお前がドジャースの試合を見るために観客席に金も払わず忍び込んでるところを捕まる方が早い!さも『親と一緒に来たんだけど間違えて外に出ちゃった』みたいなツラして堂々と入りやがって!」

「お前だって一緒に観に行ったじゃねえか!」

「お前に無理やり引きずられてな!」

「『バッキー、人間がタダで観戦するのは違法だ。でもこれだけ沢山の人が観客席に居れば子供が一人や二人増えても「あれ?妖精さんかな?」って思って貰えると思うんだ』って真顔で言ってたのを忘れたか!」

「それは忘れた。でも親切なおじさんがコーラとホットドックを奢ってくれたのは覚えてる」

「あれは美味かった。一見病弱で儚い美少年ってマジでお得な。いやマジでそうではあるんだけど、でもお前ホントマジ、精神が全然儚くねえ!」

「ありがとう」

「褒めてねえよ!」

 

 悪態をつきながらスティーブはむっすりと頬を膨らませて椅子に体を投げ出した。別にバッキーの言い草に怒っている訳では無い。こんな掛け合いは日常茶飯事だ。

 苛立っているのは自身の才能の無さに対してだった。

 

 仕上げ途中の絵を見上げる。絵画の中のステファンは神秘的だった。

 暗い背景の中に埋め込まれたアップライトピアノの前に座り、鍵盤に指を置いている。薄いシャツを羽織っているだけの丸い背中が絵の中に浮かんでいた。唇を引き結んでいる痩せた顔は宙を見上げている。ただそれだけだ。

 ただそれだけだというのに彼は非現実的な存在に見えた。少なくとも彼が見ているのは現実の向こうである事は確かだった。今にも消え入りそうな癖に、仄暗さが全身にべっとりと纏わりついている。

 

 ここまでは上手く描けた。問題はここからだ。しかしどうやって描けばよいのだろうか。

 イメージが湧かない。スティーブは頭を抱えた。これまでに無かった経験だった。

 バッキーは上手いと言ってくれるものの、実の所スティーブは自分の絵があまり好きではない。技量が未熟であるという以上に、全てが清潔で、単純な絵が多いのだ。すっきりとした印象の絵は、いくら見栄えが良くともすぐに忘れられてしまう程度に底が浅い。人間が持っている複雑さがまるで無いのだ。

 だからこそステファンの姿を描く事は自分のブレイクスルーに繋がると信じていた。

 

 このまま描き進めてもそれなりの作品にはなるだろうが、それなり程度で済ませるにはあまりにステファンの姿は美しかった。

 彼を題材に決めた自分自身でも予想していなかったが、普段は只の呆けた中年にしか見えないステファンは絵画の題材として見ると非常に優秀な素材だったのだ。このまま普段と同じように、ただ清潔なだけの風景として描いてしまうのはあまりに勿体ない。

 

 眉間に鉛筆でも挟めそうな溝を作って絵を睨むスティーブに、バッキーは「あーもー!」と叫んだ。そのまま勢いづけて立ち上がる。

「気分転換しよう!」

「………はぁ?」

 高らかな宣言に即座に返答ができなかった。しかしバッキーはめげずに声を張り上げる。

 この勢いのバッキーは止められない事をスティーブは知っていたために口を閉じた。

 バッキーはよく自分を「猪突猛進の正義感もやし野郎」と呼ぶが、バッキーも比較的猪突猛進だ。他人の話を聞きやしない。

「室内でぐだぐだ悩んでるから駄目なんだ!遊びに行って、気分を晴らして、それから描きゃあいい!人生に必要なのは遊びだ、パッションだ!断じて油彩絵具で痴呆老人を描く事じゃねえ!!」

 そうと決まれば!とバッキーはスティーブの手を取ってキャンバスの前から引き剥がすように立ち上がらせた。

 抵抗する間もなく立ち上げられたせいで手からパレット落ちて真っ逆さまにズボンにダイブした。ベージュ色のズボンがアメリカ国旗のようなカラーになってしまった。思わず見た人が眼を顰めるようなカラフルな原色ズボンだ。しかも絵の具の水分をすってズボンはタイツのように足に纏わりついており、非常に気持ち悪い。米神の血管が浮き上がる。

 正気でこんな国旗カラーのタイツを着て歩き回るような奴なんて居るわけが無い。居るとすればそれこそ精神病患者に違いない。

「とりあえず女の子に声をかけてデートに行こう!そんで何か食って、バーに行って、ベッドインして諸々全部吐き出しちまえ!」

「それよりズボン弁償しろこのクソ野郎!」

 

 

 

 

 

 

 

■  ■  ■

 

 

 

 

 

 

 

 結果として言うと、ナンパは失敗した。

 

 しかし気分転換には成功したようで、笑顔を浮かべるスティーブにバッキーはにんまりと笑った。ナンパが失敗した事はどうでもいい。本当の目的はスティーブの気を晴らす事にあったのだから。

 彼自身自覚はしていなかったようだが、ここ数日スティーブはステファンを描くためにかなり神経をすり減らしていた。身体的にはともかく精神的には常軌を逸する程のタフさを誇るスティーブが憔悴して項垂れる程なのだから相当だ。

 絵が上手く描けないからだと彼は言っているが、モデル代の代わりと言ってここ最近ステファンの介護を一手に担っている事も原因なのではないかとバッキーはいぶかしんでいた。

 

 彼は自分が正しいと思ったことをやり遂げるし、哀れな人を見捨てておけない。それはスティーブの美徳だろうが、病弱な彼にとって必ずしも良い結果になるとは限らない。

 彼がステファンの介護をしているのは、モデル代というのは単なる口実で、単に放って置けないからというのが理由だろう。

 そしてバーンズ家は彼が父の介護をしてくれているおかげで非常に助かっていた。ステファンの介護をするスティーブは思いやりに満ちていて、自力では排泄もままならないステファンの尊厳を十分に尊重する丁寧なものだった。

 しかしいくら助かっていても、バーンズ家の厄介者である父親が、母親やレベッカだけではなくスティーブの手も煩わせているという事実はバッキーの神経を苛立たせて止まない。

 

 毎日彼の体を拭き、軟膏を塗って、排泄物を処理し、飲み込みやすい食事を作るのは大変な手間だ。さらに突発的に走り出したり、叫び出したりする彼を宥める事は神経をすり減らす。

 これまでは母と自分、時折レベッカが父親の世話をしていたが、非常に面倒で、嫌な作業だった。

 彼の姿を見る度に神経がぞわぞわした。排泄した汚物に塗れた爛れた皮膚を拭く時などは背筋に鳥肌が立つ。あの潰れている顔に軟膏を塗る時などは指先に虫が這うような気色の悪さがあった。年頃の少女であるレベッカなどは自分よりもさらに嫌悪感があるだろう。

 しかしスティーブは自身が病弱で母親や看護師、医者に体を見せる事も、触られる事にも慣れていた。そのためかスティーブはステファンの世話をする事に全く抵抗がないようだった。嫌な顔を一つせずに彼の世話をするスティーブの姿は眩しいくらいに真摯だった。

 だからこそバッキーは、スティーブが彼の世話をする事は非常にありがたいながらも、嫌だった。

 こんなに正義感の強い優しい男が、あんな父親のために時間を取られるなんてあってはならない事ではないかと思っていた。

 

 

 

「なあバッキー、今日ってエレナさんは家にいるよな。ウェイトレスは休みの日だろう?」

「居るけど、どうした?」

「この前手袋貰っただろう?そのお礼がしたくて」

 ああ、とバッキーは思い出した。

 数日前にエレナが客から貰ったと言って部屋の隅に投げていた手袋を、彼女は使う様子も無かったのでスティーブに渡したのだ。

「別に気にしなくていいのに」

「気にするさ。母さんが凄い使いやすいって喜んでいたから。お金のかかるお礼は無理だけど、母さんがパイを焼いたんだ。良かったら今日持って行くよ」

「そりゃあ喜ぶ。サラのパイは美味いから」

 お世辞でも無く、サラの料理はどれも美味い。特にパイは絶品だ。思い出すだけで涎が出る。

 2人は1度ロジャース家に帰り、サラの手作りアップルパイを持ってバーンズ家に向かうこととした。

 

 サラから出来たてのパイを受け取り、「帰るのが遅くなるようだったらエレナに頼んで泊まらせて貰いなさいね」という言葉も貰ってバッキーはスティーブと連れ立って意気揚々と家への道を急いだ。

 夜通しスティーブと遊ぶ計画が頭の中に浮かんでいた。拾ったコミックスを回し読みしたり、学校の嫌いな教師の悪口を言ったり、クラスで一番可愛い子が誰に気があるのか予想したり、スティックボールの練習をしたりするのだ。

 コミックスはゴミ屑のように汚れているし、スティーブは教師の悪口を言うバッキーに「それは公平性を欠いている批評だ。教師は教師の立場があるのだから」と真面目腐った意見を言うだろうし、他人の恋愛模様に首を突っ込むのは紳士的でないと真っ当な意見しか寄越さないだろうが、それでもきっと楽しいだろう。

 何せ驚くほどスティーブとバッキーは気が合うので、ほとんど毎日顔を合わせているというのに話す事は尽きず、何を話しても面白かった。

 あの男が居る家で、というのは少し嫌だったが、夜になれば顔を見ることも無い。

 

 パイを手に帰る途中にスタンの店の近くを通った。時間は夕方近くだったが店内には既に客の姿が見える。大通りから外れているというのにそれなりに盛況なところを見るとスタンは商売上手なようだ。

 忙しく立ち回る店員の中にエレナの姿は無い。今頃ようやく兵器工場の仕事が終わって家に帰っている途中だろう。

 疲労がたたってか、最近のエレナは体調が悪いようだった。いつも何かに思い悩んでいるように目を伏せて、唇を強く引き結んでいた。陽気な彼女はそれでもバッキーやレベッカの前では明るく振る舞っているようだが、スティーブが居る時には時折沈んだ様子を見せた。

「エレナさん、もう帰ってるかな」

「兵器工場も忙しいらしいから分かんねえな」

「病院と兵器工場がここらじゃ一番忙しい仕事場だろうからね。最近はナチスが段々力をつけてきているし、近い内に戦争が起こりそうだ」

「冗談にしたって物騒だぜスティーブ。縁起でもねえ」

「冗談じゃないよ。アメリカはそうそう簡単には参戦しないだろうけど、でも………」

「大丈夫だって。それよりサラのパイって冷めても美味いかな。帰ったらフライパンでもう一回温めなおすか?」

「だったらアイスクリームも欲しいな。でも帰る前に溶けるか」

「寒いし大丈夫だろ」

 

 アイスクリームの路上販売に近寄る。こじんまりとしたトラックに据え付けられているカウンターには値段表が張られていた。それを見てスティーブは唸った。

 手持ちの金では少々足りない。隣のバッキーを見るとやはり唸っていた。悔しそうに爪を噛んでいる。罅割れた爪が痛々しい。

「………やっぱり止めておこうか。溶けたら大惨事だ」

「………そうだな」

 金がない、と認める事はお互いにそれなりの苦痛を伴う作業に違いなかった。その事をお互いよく知っていたので、何も言わずにその場を離れる。

 バッキーは惨めな思いに顔を俯かせていたが、スティーブはもう慣れたものだった。片親の貧困家庭という肩身が狭い環境でもスティーブは貧しさ自体を恥じる事は無かった。ただサラに申し訳ないだけだ。しかしバッキーはスティーブより余程貧しいという事実に苛立っているようだった。

 貧しさの原因が自身にあるスティーブとは違い、父親の存在がバーンズ家に暗い影をさしているからだろう。同年代の中でも際立って整っている顔を歪めてバッキーは悔しさを口にしないよう歯を噛み締めていた。

 

 そんなバッキーを一人の男がじっと見ている事に気が付いた。肩をつつくと、遅れてバッキーもその男の姿に気付いた。

 目を丸くしてこちらを見ている男性は、いかにも育ちが良さそうな、のほほんとした顔をしていた。動物図鑑で見た、呑気な顔で川に浮かんでいるビーバーにどことなく似ている。

 その隣には兵器工場での仕事の帰りらしく、汚れたコートと染みの付いたスカートを着た美しい女性が立っていた。薄汚れた格好も気にならないくらいの美人だ。それはエレナだった。素朴な格好をしていると更に若く見える。

 エレナはこちらに気が付いていないようで、眉尻を下げて俯いている。男性はエレナとバッキーを交互に見やってどうしようかと困っている様子だった。

 見かねたバッキーが近寄り、エレナの前に立った。普段は体中から陽気を発散しているようなエレナであるため気が付かなかったが、こうしてバッキーが並ぶと幾分かバッキーの方が身長が高い。顔を翳らせたエレナが実際よりも余計に小さく見えるせいかもしれない。

「母さん」

「……ジム?」

「仕事終わったのか……ここで何してるんだよ」

 スティーブは空気に走った電流に頬を引き攣らせて、バッキーの手を握り締めた。バッキーの視線はエレナの隣に立つ男に向かっていた。

 男は警戒心を湧き立たせているバッキーの視線を受けて柔和な笑みを浮かべた。エレナよりも少し年上だろうか。仕立ての良いスーツを着ていた。顔立ちは平凡ながら、温厚そうな丸い瞳が男の印象を柔らかくしていた。

 身体の脇に揃えた腕が緊張のあまりカチンコチンに固まっている。必死に浮かべているだろう笑みも緊張のあまり少し震えていた。

「このお坊ちゃんは誰だよ」

「スタンの店のお客さんよ。最近物騒だから家まで送ってくれるって」

「……じゃあもういいだろ。俺が母さんと一緒に帰る」

「ジム」

 窘めるようなエレナの口調にバッキーが苦し気に顔を歪めた。スティーブはバッキーの腕を強く握りしめた。そうしなければ、バッキーは今すぐに男に掴みかかりそうな気がした。

 しかし男は歯を剥き出しにして睨むバッキーに申し訳なさそうな顔をして、「いいんです、バーンズさん。失礼をしたのはこちらですから」と丁寧な口調で話した。

「いえ、貴方は何も、」

「このご時世ですから、初対面の人間に警戒するのは正しい。ジェームズ君、すまない。僕は本当にただ店の客というだけなんだ。君は不安に思っただろうけど、本当にそれだけだ」

「……そうかよ」

「そうだ。最近僕の近所が強盗に入られて、住人が2人殺されたんだ。それで今日は仕事の帰りにバーンズさんと偶然会って、家の方向が同じだから送って帰らせて欲しいと頼んだだけなんだ」

 バッキーがエレナを見ると、エレナは何の含みも無い真白い顔で頷いた。

「でも君を不安にさせたのは事実だから、良かったらアイスクリームを奢らせて貰えないだろうか。勿論、レベッカさんと、君の友人の分も」

 子供相手にでも逐一丁寧な口調で話すのはエレナにおもねっているのではなく、男の素のようにスティーブには見えた。彼の視線はエレナではなく、真っすぐバッキーに向いていた。

 その視線を受けてバッキーは喉を詰まらせたように一度黙った。エレナも男もせかさずにバッキーの言葉を待っている。

 拷問でも受けているようにバッキーは苦し気に喉を鳴らした。2人ともバッキーを見る眼が優しく、申し訳なさに満ちている事が逆に彼を深く苦しめている事に気付いているのだろうかとスティーブは思い、しかしこれは自分が口出しをしてよい問題ではないと分かっていたために言葉にはしなかった。

 バッキーはしばらくの沈黙の後に、ゆっくりと応えた。

「俺のは要らねえ。でも……」

 でも、とバッキーは瞳を揺らしながらスティーブを見た。

 その視線だけでバッキーが何を言いたいのか理解できた。

 

 レベッカは甘いものが好きだ。そしていつもお腹を空かせている。アイスクリームを持って帰ってやりたい。アップルパイに添えたらきっと美味しいだろう。

 でもそうしたら、この男が買ってくれたことも話さないといけないのだろうか。黙っていることも出来るけれど、自分がアイスクリームを買ったのだと嘘をつくのは嫌だ。

 母さんがアイスクリームを買ったと嘘をついてくれるだろうか。嘘をついたとして、この男の事をレベッカに黙っているのは良い事なのだろうか。

 母さんに親しい男が居る事をレベッカはどう思うだろうか。

 どうしたらいいんだ。母さんとレベッカのために、俺はどうしたらいい?

 こんなにバッキーが悩み、苦しんでいるのを見るのは久しぶりだった。自然とスティーブは2人の優しい視線からバッキーを守るために足を踏み出した。いつもバッキーが近所のガキ大将から自分を守ってくれるように、何でも無い仕草で。

 

「じゃあレベッカの分だけ買ってくれますか?僕たちが持って帰りますから」

 真っすぐに男を見上げる。男は近所の悪ガキ連中よりも弱っちく見えた。身長もまだ子供のバッキーとそう変わらない。体格だけでなく、おっとりとした雰囲気はきっと喧嘩なんて一度もした事がないと容易に察せられるものであり、男の裕福さが見て取れた。

「君は、」

「バッキーとレベッカの友人です。今日はバッキーの家に遊びに行くんです」

「この子はバッキーの親友で家族同然なのよ。夫とも仲が良いの」

 夫とも、とエレナは言葉を強調した。

 瞬きを数回繰り返した男は柔和な笑みをスティーブに向けた。

「そうなんだね。それじゃあレベッカさんの分を持って帰ってくれるかな」

 男はバッキーとスティーブにアイスクリームを進める事無く、1つだけを買ってスティーブに手渡した。

 2人の、特にバッキーの複雑な心情に配慮した紳士的な態度に見えた。

 しかしバッキーはスティーブがアイスクリームを受け取ったのを見て、弾けるように駆け出した。

 

 スティーブが後を必死についてきているらしい足音が聞こえたが、バッキーは珍しく、恐らく初めて、スティーブが後からついて来れないように全力で走った。あっという間にスティーブの足音は聞こえなくなった。

 疾走するバッキーを道行く人は怪訝な目で見たが、そんなものは気にしていられなかった。

 脳内がパニックになっていた。許容量を遙かに超えていた。溢れる混乱が口をついて漏れ出ていた。

「マジか、マジか、マジか」

 瞳の奥で先程見た光景を思い出す。エレナだった。自分の母親だ。

 

 エレナと男はただ隣り合って立っていただけだ。きっと男の言った通り、仕事帰りに一緒に歩いて帰っていただけなのだろう。何か後ろ暗い所があるような顔をエレナはしていなかった。

 ただ彼女は幸福そうに眼を細めていただけだ。いつもの、子供達を安心させるために浮かべている苦し気な笑みとは全く違う表情だった。

 あの笑みを見る度に、バッキーは死に際の鳥が痙攣する様を思い出した。高く飛んでいた鳥が寒さに負けて墜落し、最後のあがきのように痙攣して、死んでしまうのだ。

 死体を食い荒らす虫が湧く頃にはもう高く空を飛んでいた頃の面影など無くなってしまう。

 金に、夫に、子供に、彼女はいつだって苦しんで、足掻いている。その事をバッキーはよく知っていた。

 だからこそ、あんなに自然な笑みを浮かばせる相手がただの客などではないと嫌でも分かる。

 

「マジか、いや、マジかよ」

 あんな顔は見た事が無い。だが似たような表情は見た事があった。以前付き合っていた女の子に好きだよと言った時に、あんな顔をしていた。

 あまり美人とは言えない、真っ赤な頬にソバカスを散らせて「嬉しい」と返事をした彼女は、しかし目尻には「どうせ嘘でしょう?」という疑惑や諦観をこびり付かせていた。エレナの表情は彼女と少し似ていた。しかしエレナの表情は彼女よりもっと湿ったものだった。

 

 気が付いたら家に帰っていた。寂れた小さなマンションの前でバッキーはずるずると座り込んだ。全力で走ったせいで息が切れていた。

 ショックだった。母親に思い合う男が居るかもしれないという事にではない。

 母親が幸福を諦めようとしている事が何よりショックだった。男の隣に立ちながら、エレナは幸福そうな、しかし何も信じられないというような寂しい笑みを浮かべていた。

 

 

 

 

■  ■  ■

 

 

 

 

 

「あら、ありがとうスティーブ。ごはん作ってくれたのね」

「ええ。簡単なものですけれど」

「とんでもない、ご馳走よ。スティーブの料理上手な所はサラに似たのねえ」

「おかわり!」

 勢いよくかきこんだレベッカは空の皿をスティーブに渡した。笑ってその皿にもう一杯チキンスープを注ぐ。

「口が汚れてるよレベッカ。ほら」

 盛大に汚れている口元を拭う。レベッカの「ありがとう」という言葉に思わず頬を緩ませた。エレナとステファンの容姿の良い所ばかりを集めたレベッカはとても愛らしい顔をしている。バッキーも「世界で一番可愛いレベッカ」と言いながら毎日頬にキスをする程の兄馬鹿だ。

 しかし今のバッキーはレベッカの存在すら視野に入っていなかった。表情は硬く、料理を口に運ぶ仕草も機械的で冷たい。理由は明らかだ。

 だがどう言葉をかけて良いのかスティーブには全く分からなかった。バッキーの悩みはスティーブにも計り知れないものだった。

 もしサラが誰か男性と隣り合って笑っているのを見てしまったら、自分は少しの寂しさを感じながらも心から祝福するだろう。父が死んで久しい。母が心から愛する新しいパートナーを得るのは喜ばしい事だ。

 しかしステファンはまだ生きているのだ。そしてきっと、エレナはまだステファンを愛している。その愛情が焚火の後に残った小さな残火のようなものだとしても、エレナはステファンを見捨てるような事はできないだろう。

 

 エレナは帰ってからずっと仏頂面のバッキーに「どうしたのよ珍しい」と言って笑ったが、バッキーは返事もしなかった。

 何かに酷く悩んでいる事はエレナにも分かっていただろうが、その悩みの内容までは分かっておらず、彼女は無表情のまま一言も発しないバッキーを気にせずチキンスープをステファンに飲ませていた。

 ステファンは口に含んだスープの半分以上を零しながらゆっくりと食事をした。スティーブがたどたどしい手つきで介助した時よりもずっとスムーズに食事は終わり、エレナは慣れた様子で涎を拭いた。

 

「あの、エレナさん、これを」

「あら。サラのパイね」

「お土産です」

 スティーブが差し出したパイにエレナは満面の笑みを浮かべた。

「美味しいのよねえ、サラの作ったものは何でも。特にパイは。同じように作ってもどうしても彼女と同じ味にはならないのよ」

「母さんはパイが得意ですから」

「ありがとうって伝えておいてくれる?」

「ええ、勿論」

 あの手袋のお礼に、とはスティーブは言わなかった。今ならなんとなく、あのいかにも高そうな手袋の出所が分かるような気がしたからだ。

 エレナと抱き合っていた男性は汚れの一つも無い流行りのトレンチコートを着ていた。くっきりとした顔立ちのエレナと並ぶと平凡な顔だったが、髪をきっちりとセットしていて肌は白く、肉体労働などの仕事はしていない事は明らかだった。エレナより少し年上のようだったが、苦労を知らない瑞々しい雰囲気のせいか少し若く見えた。

 

 胃が捻じれるような感じがする。目の前の穏やかな家庭の薄暗さを垣間見たような恐れがあった。どうしたらいいのか分からない。

 いや、いくら親友の親とはいってもエレナもステファンも他人なのだから首を突っ込むなんて無粋だとは分かっているが。

 しかしそうと割り切るにはエレナとステファンにスティーブは親しみを覚え過ぎていた。完全にあの光景を見なかった事にしてもよいのか。兄弟も同然のバッキーは今こうして悩んでいるというのに、自分はあっさりと忘れ去ってしまってよいのか。

 でも首を突っ込んだところで何になる。「浮気は駄目ですよエレナさん」とでも言うのか。何の権利があって。彼女の苦労も悩みも知らない癖に。

 

 

「スティーブ、眉間の皺が凄いよ」

「……そう?」

「うん。鉛筆が挟めそう」

「そっかあ」

「悩みがあったらあたしに言って?」

 おしゃまな口ぶりで喋りながらレベッカがこてんと首を傾げる。可愛らしい仕草に思わず頬が緩んだ。彼女を見ていると先天的な愛らしさはバーンズ家の一つの特徴ではないかと強く思う。

「別に大した事じゃないよ」

「分かった。絵の事でしょ。まだ書き終わって無いのね」

「うん………そうなんだ。中々進まなくて」

「でも下書きは終わったんでしょう?」

「下書きから完成させるまでの方が難しいし時間がかかるんだよ」

「それはスティーブが悩んでるから?」

「……そうかもしれない」

 聡い顔をして目を光らせたレベッカは、そうよ、と得意げに口角を上げた。

「悩んでる顔してるもの。絵の事だけじゃないでしょ」

「悩む事ばっかりだ」

「思春期ってやつね!」

「そうかな」

「先生が言っていたわ。情緒的な成長によるものだって。いっぱい成長してる最中だから苦しむのよ」

「それは、ちょっと違うかなぁ」

「違うの?」

「成長している感じがしないからね。成長すれば悩みに答えが出るとも思えない。僕は出来るだけ……よい判断をしたいと思っているけれど、身の程を弁えたいとも思っているから」

「身の程を弁えるなんてスティーブらしくないわ。押しつけがましいくらいに優しいのがスティーブなのに」

「僕の事をどう思ってるんだいレベッカ」

「身の程知らずのお人好し!」

 えいっとレベッカはスティーブの頬をつつき、ぱっと立ち上がった。頬をつつき返そうとしたスティーブの指は宙を切った。

「パイ美味しかったわ!アイスクリームも最高!サラおばさんにはお礼を言わなきゃね。今度遊びに行ってもいい?」

「勿論。母さんも喜ぶよ」

「じゃあ今度行くわ。パイの作り方を教えてもらわなきゃ。母さんの料理は大雑把だから、あんまり参考にならないのよね。スティーブの料理の方が美味しい位」

「僕はお菓子は作れないけどね」

「でもフレンチトーストは母さんよりスティーブの方が美味しいよ?」

「ありがとう」

「今日は泊っていくんでしょ?」

「………さあ」

 そのつもりだったが、バッキーの混乱具合を考えると今日は大人しく家に帰った方が良いような気がした。

 一人でゆっくり悩みたいかもしれない。バッキーとは兄弟同然とは言え、この家に暮らす者でない以上スティーブには踏み込めない領域がある。バッキーは陽気で豪胆な性質に見えるが、一度悩み始めると長く、鬱々とした思考回路に陥ってしまいやすい。

 初めての彼女と破局した時や、移民である事を原因にレベッカが虐められている事を知った時などは、バッキーは一人で悩む時間を欲した。学校にも行かずに外をぶらぶらとふらつき、家族ともクラスメートとも、スティーブでさえ避けて過ごした。

 そうして2、3日をかけて頭の中に固めた鬱々とした思考をスティーブに垂れ流すのが常だった。

 スティーブの役目は、出来る限りの客観性と正義感を持ってバッキーの地の底を這いずり回るように悲観的な思考回路を粉々に打ち砕く事だった。

 

「まだ決めていないんだ。いきなりでお邪魔かもしれないしね」

「あらそ。泊るんだったら早めに言ってね」

「泊れよ」

 さらりと言ったのはバッキーだった。食器を洗い終わったばかりなのか両手が酷く濡れている。

「その予定だったじゃねえか。それにもうこんな時間だし、家に帰るのも危ないだろ」

「女の子じゃあるまいし」

「強盗相手じゃ男も女も一緒だろ。コミックス読もうぜ。前貸したのの続きが出たんだ。グレイゴーストの続きが載ってる」

 先ほどまでの難しい顔を洗い流したようにバッキーは笑みを浮かべていた。しかしじっとその顔を見るとやけくそに開き直っているようにも見えた。

「……ご迷惑じゃなかったら」

「いつもの事だろ。シーツ取りに行って来る」

「頼む。僕はステファンさんを寝かせて来るから」

「あら、それじゃあついでに体を拭いてあげましょ。タオル取って来るわ」

 地面に座り込んでいるステファンを引っ張って起こし、スティーブはステファンの体重によろけながらも寝室へと連れて行った。エレナもホットタオルを作って寝室へと向かう。

 スティーブ用のシーツを取りに行くと、レベッカが「あたしも手伝う!」と言いながらついて来た。スティーブ用の枕を手にはしゃぐレベッカはにこにこと弾けるような笑顔を浮かべている。

 

 この妹はいたくスティーブになついていた。それこそ実の兄である自分よりもスティーブの方に纏わりついているくらいだ。

 嫉妬する気持ちが無くは無いが、それ以上に2人の姿を見ていると、もしかしたらスティーブが本当に家族になる可能性が頭の中で跳ねまわってしょうがなかった。それはくすぐったくも嬉しい可能性だった。

「スティーブって良い人よね。頭は頑固だけど、あんなに優しい人クラスにはいやしないわ」

「レベッカは見る眼があるな」

「誰にだって分かるわよ」

「それが不思議な事に分からない女の方が多いんだよ。あんなに良い奴なのに」

「良い人っていう事はみんな分かってると思うよ。でもそれとこれとは別。あたしだってスティーブと付き合うのは嫌だもん」

「え、どうして」

「良い人だから。だからずーっと傍にいるのは疲れるもん」

 おしゃまなレベッカの言葉で頭の中で跳ねまわっていた可能性がぱあんと無惨に弾けた。可能性を殺す的確な一撃だった。

 しかしそれでも、とバッキーは諦め悪くぼそぼそと呟く。スティーブが弟になったらきっと楽しいだろうし、妹も幸せになる。あの生真面目で勤勉で優しい男は、浮気なんてすることも無く妻をこの上なく大事にするに決まっているからだ。

「いや、でもさぁ……あいつマジで面白い奴だし」

「そういうのは友達で十分。付き合うってなったら、スティーブはあたしには手に負えない。ステフにはもっと強くて自立してる女性の方がいいのよ」

 でも、とレベッカは唇を尖らせた。

「でもあたし、スティーブみたいなお父さんが欲しかったなぁ」

 その言葉にバッキーは息を詰めた。

 諦観がレベッカの声に染みついていた。まだレベッカは10代の半ばにも到達していない。だというのにレベッカは実の父が二度と元に戻る事はないと理解していて、その状況に甘んじるという諦めに浸っていた。

 なんていうことだ。バッキーは涙の膜が瞳を覆うのを感じた。レベッカは俯いてこちらを見もしない。

「お父さんがスティーブなら……」

「レベッカ」

 声は静かに震えていた。ぽんぽんと小さな肩を撫でる。小さい身体は簡単に潰れてしまいそうな程に薄かった。

 

 

 

 

 

 ■  ■  ■

 

 

 散々にはしゃいで疲れたレベッカをベッドに寝かしつけ、スティーブは薄暗い部屋で横になった。バーンズ家に泊まる時スティーブはバッキーとベッドを共有して寝る。圧死しそうに狭いが、今日のように寒い夜には近い位置に人の熱があるのは少し有難かった。

 何があったのか、一緒に遊んでいたレベッカははしゃいでいたもののどことなく寂しそうな顔をしていた。バッキーも少し影のある顔つきだった。

 まさかバッキーがレベッカにあの男の事を話したとは思えない。バーンズ家は貧しく、ギリギリの淵の上にある。レベッカが沈んでいるのもしょうがない事だろう。

「スティーブ」

「何?」

「今日はありがとな」

「何だよ急に」

 時間は既に深夜だ。カーテンを閉めた灯りの付いていない部屋は暗い。しかしシーツの擦れる音でバッキーが体を起こしたのが分かった。

「あのな、俺、何が正しいのかまだよく分かんねえ」

「バッキー……」

「でも母さんと話し合う必要があると思う……母さんとレベッカには幸せになってほしいから」

 バッキーの声はくぐもって震えていた。顔を両手で覆っているのだろう。

 ずっと夕方から悩んでいたに違いない。そうして出した答えにスティーブは頷いた。

「そうした方が良い。でも、ステファンさんは」

「離婚して、施設に放り込むなりなんなりすればいい。あいつに囚われ続ける必要は母さんにもレベッカにも無い」

「施設は難しい。戦争の後遺症で苦しんでいる人が優先的に入所できるようになってるから……その、」

「分かってる。俺達は移民で、あの男はアメリカのための戦争で傷を負った訳じゃない。場合によってはルーマニアに返す事になるかもしれない」

 それも難しいぞ、とは言えなかった。一度アメリカの国籍を得た人間がまた祖国に戻って国籍を手に入れ直し、さらに障碍者施設に親族を入れるのが可能であるのかは分からない。長期間バーンズ家は祖国から離れていたのだ。

 それが不可能であるのなら、ステファンはどうすればよいのか。しかしそれを今バッキーに問いかけるのは酷だ。まだバッキーは子供で、エレナが父親以外の男を愛する可能性を許容するだけでも称賛に値するのだ。

「バッキー、僕に出来る事があれば何でも言ってくれ」

「……ああ。頼むよ親友」

「任せろ。まだ絵も完成していない事だしな」

 にやっとバッキーが笑ったような気がした。その時、ガシャアァンという音が鳴り響いた。

 

 バッキーはばっと立ち上がって部屋の明かりをつけた。狭い部屋が照らされる。この部屋は何も変わりがない。

 ただ近い場所から悲鳴が響いた。エレナの悲鳴だ。

「母さん!?」

 弾けるように駆け出したバッキーの後に続いてスティーブも走り出す。廊下の途中でシャツを羽織ったのレベッカが蒼白な顔をして部屋から顔を出していた。恐怖で丸くなった目を震わせている。

「レベッカ、大丈夫か!?」  

「うん、あたしは大丈夫。ステフ、今、」

「部屋から出ちゃ駄目だ!内側から鍵をかけて、」

「でも今、お母さんの、」

 ぎゃあっ、という呻き声が上がる。スティーブはすぐさま走り出した。躊躇いながらもレベッカが後ろから付いて来る気配を感じたが、無理やりに部屋に押し込めるのは自分の力では難しいだろう。

 

 悲鳴の源は居間だった。

 ナイフを持った男が窓ガラスを踏みつけながら立っていた。ステファンと同じ位の長身で、横幅はその4倍はある大男だ。持っているナイフには血が付いている。その前には、ステファンを背中に護るエレナが立ち塞がっていた。

 エレナは脇腹から血を流しながらも歯を噛み締めて男を睨んでいた。男はエレナの視線など気にしてないように低く轟く声を発した。割れた窓から入る風のうねりと混じり、男の声は部屋に冷たく響いた。

「金を出せ。今すぐにだ」

「強盗するにしたってもうちょっとセンスのある事を言ったらどうなの!?」

「挑発するな母さん、おい、金は渡すから大人しくしてくれよ」

 バッキーが自分を落ち着かせるように深呼吸を繰り返しながら男と母親を交互に見る。男はああ、と暴れる様子も無く返事をした。ただし手の中で閃くナイフは真っすぐにエレナに向かっているままだった。

「大人しく金を持ってくりゃあ出て行くさ。余計な事をしなけりゃな」

「ああ分かってる。分かってるさ。金を持って来るから待ってろよ」

 寝室に向かったバッキーの背中を睨み、男はナイフの切っ先を脅すように上下に揺らした。

「動くなよ、お前も、そこのガキもだ」

「……貴方が僕たちを攻撃しなければ、僕たちも動きません。貴方も、早く逃げないと困るでしょう。今の物音で人が集まるかもしれない」

「その通りだ。そのまま動かず、金を渡してくれりゃあ俺だって無駄に人殺しなんてしなくて済む」

「黙れこの糞野郎!」

「……そこのお嬢さんは分かってねえようだけどな」

 歯を剥き出しにして肩を怒らせるエレナが、いきなりナイフを持っている男にとびかかったりしないだろうかと気を揉みながらスティーブはバッキーが金を持って来るのを待った。

 しかしエレナも、近くにレベッカがいる状況で無茶をするつもりは無いらしく、口汚く強盗犯を罵りはしても掴みかかる様子は無かった。非常に運の良い事に強盗犯はエレナの罵りを気にするような気の短い男ではないようで、至って冷静にナイフをこちらに向けたまま微動だにしない。

 

 ここ最近連続している強盗の犯人はこの男だろうか。そうだとすると、この男は殺人を犯す事に微塵も躊躇はしないだろう。何しろ既に強盗殺人を数件行っている。

 しかし誰も殺さずに金銭だけを盗んでいる事もあったことから、金を差し出せば大人しく逃げ帰る可能性も高いように思われた。

 金は貴重だが、命に代わるほどのものではない。

 

「おい、金だ。これを持ってさっさと帰れよ」

 戻って来たバッキーが男の足元に小さな袋を投げた。ナイフを持ったまま男は袋を拾い上げ、中を見て「少なすぎる」と徐に呟いた。

「他に金目のものは」

「ねえよ。うちは貧乏なんだ」

 肩を竦めたバッキーに男は目を細めた。バッキーの服は古着で、薄汚れている。嘘でない事は明らかだ。

 しかしエレナに視線を向けた強盗犯は眉間に皺を寄せた。

「その指輪は」

 ナイフでエレナを指さす。エレナの左手の薬指には飾り気のない指輪が嵌っていた。

「これは結婚指輪なのよ!」

「だからどうした」

「渡せないわ!渡せる訳がないじゃない!」

「指を切り落として奪ってもいいんだぞ、こっちは。大人しく渡せ。そっちのお嬢さんがどうなってもいいのか?」

「………エレナさん」

 この場に居るのがバッキーとスティーブだけならば、もしかすると無茶ができたかもしれない。現に強盗犯に好き勝手にされている状況にスティーブは腹が煮えくり返りそうだった。圧倒的に不利な状況であっても自らの正義のためならば躊躇なく戦い、絶対に負けを認めないのがスティーブの在り方だった。

 しかしここにはエレナとステファンと、何よりレベッカが居た。レベッカは薄いシャツだけを纏ってその場でがくがくと震えていた。この大柄な男ならば5歩でレベッカの元までたどり着くだろうという位置だ。

 スティーブの言葉にエレナは悔しそうに唇を噛んだが、しかしゆっくりと薬指から指輪を抜き取った。

 年代物の指輪は、しかし丁寧に手入れされているおかげでぴかぴかと輝いて見えた。薄暗い室内でも分かる程に輝く指輪に、エレナがどれだけ気を配って毎日手入れをしていたのかがよく分かる。

「ステファンのおばあ様から貰ったのよ。おばあ様から託されて……」

「早く渡せ」

 ぎりり、とエレナが歯を食いしばる音が聞こえた。唇からは血が滲んでいた。

 ゆっくりと男に向かって指輪を握り締めている手を向ける。男が指輪を受け取ろうと手を伸ばした。

 

 そこでステファンが叫んだ。パニック発作だ。

 

 窓ガラスが割れる音。いきなり家に入って来た見知らぬ大男。叫び声と血の匂い。ピリピリとした空気。

 そしてエレナから流れる血。全てが合わさってとうとうステファンの許容量を超えたのだ。

 ぎゃああああああ!と大声で叫ぶステファンの声は近隣にまで轟いただろう。人間というより獣の断末魔のような叫び声だった。ステファンの叫び声に慣れたスティーブでさえ、一瞬身体が強張る程の声だった。

「黙れ!」

 近所にまで響く大声を喚き散らすステファンに男は怒鳴ったが、その声にさらにパニックを深めたステファンはさらに大きな声で叫ぶ。生命力を磨り潰して吐き出すような声に、レベッカは顔を蒼白にしてその場に崩れ落ちた。

 バッキーがステファンを抑えようとするも、リミッターが完全に外れた勢いで床に手足を叩きつけるステファンの動きは人間とは思えない程に滅茶苦茶だった。聞き分けの無い幼児よりも遙かに凶悪で、狂乱するケダモノのようだった。

 ぱかりと空いた口から舌を零れさせて唾液をまき散らす様は強盗犯にも恐怖を与えたらしく、震えながら男はナイフを振り上げた。

「黙れ、黙れこのキチガイ!」

「止めて!」

 エレナはステファンの前に立ち、刃の先が彼に届かないように両腕を広げた。強盗犯が振り下したナイフはエレナの肩に深々と突き刺さった。

 

 強盗犯は舌打ちしてナイフを抜いた。ナイフは肩の関節に突き刺さったらしく、抜いた瞬間に骨が削れるような音がした。血の付いたナイフを強盗犯はさらに振り上げる。

 その瞬間にバッキーは椅子を強盗犯に向かって投げつけた。顔面にぶち当たり、その場に倒れる。鼻血を噴出しながら「このガキ!」と叫ぶ男の腕に今度はスティーブが掴みかかった。

 ナイフを振り回す悪ガキならブルックリンの路地に幾らでもたむろしている。そういう連中は、ナイフを持っていることで他の子供よりも強くなったような錯覚をしている。その錯覚を目覚めさせるための対処法をスティーブは身体で覚えていた。だるだるによれていた服の袖を引っ張って掌まで覆い、ナイフの刃をひっつかんで思い切り引っ張ったのだ。

 鼻骨が折れてしまっただろう男はナイフを握る力が若干緩んでいた。それに生気と気配が極端に薄いスティーブの存在に、彼が自分の腕に掴みかかるまで気づかなかったこともあるだろう。スティーブは男からナイフを奪って部屋の隅まで放り投げた。

 男は舌打ちしてナイフの方向に駆けだそうとしたが、バッキーがもう一つ椅子を男に向かって投げつけた事で足を止めざるを得なかった。今度は顔面には当たらなかったものの、男の腕を強かに打ち付けた。

「出ていけ!出て行けよ!」

 椅子の次にフライパンを持ったバッキー、息を荒くしながら手近にあった料理酒の瓶を掴むスティーブ、足元にある僅かな金の入っている袋、部屋の隅まで投げ飛ばされたナイフ、エレナが握り締める大して価値もなさそうに見える古びた指輪。そして近所まで轟く大声を上げ続けるステファン。

 それらを順に見回した男は、悪態をついて足元の袋を掴み窓から出て行った。

 

 

 

 

 男が居なくなった後、沈黙が家を覆っていた。

 誰も言葉を発する気力が無かった。バッキーは口を閉じて、目を冷ややかに光らせながらその場に立っている。レベッカはぽろぽろと涙を流しながら蹲まって、叫び続けるステファンから少しでも距離を取ろうと体を蠢かせていた。緊張で感じていなかった痛みが唐突に襲い掛かってきたのだろう、エレナは呻きながらその場に倒れた。

 スティーブは慌ててエレナに駆け寄った。一目見るだけでも傷が深い事が分かる。単なる威嚇だったのだろう脇腹の傷は浅いが、肩の傷口からはピンク色の肉が見えていた。

「エレナさん、すぐに病院に」

「お金が無いから無理よ……包帯を取ってきてちょうだい。押さえておけば」

「無茶ですよ!こんなに血が……」

「あの男に頼ればいいんだ」

 バッキーの口調は淡々としており、その分異様さが際立っていた。感情の一切を押し殺し、無理やりに飲み込んでいるようだった。

 バッキーは部屋の隅に投げ飛ばされていたナイフを拾ってステファンに近寄った。あまりに冷やかな顔だった。これまでスティーブが見た事の無い表情をしていた。

 同時にその顔は決意に満ちていた。決意とは、善悪ではない強烈な意志だ。スティーブはバッキーが何をしようとしているか悟った。

 

 暴れ続けているステファンは両手足から血を流していた。痛々しいまでに赤く腫れあがっている手足を見てバッキーは眉間に深々と皺を寄せた。

「……あんただって、苦しいかもしんないけどな」

 バッキーはナイフをステファンに向けた。エレナは咄嗟にステファンを庇おうとしたが、暴れるステファンはエレナを部屋の端まで突き飛ばした。壁にナイフで貫かれた肩を打ち付けたエレナは呻いてその場に倒れた。

 ナイフを持つ手が震えている。この部屋で今、最も苦しんでいるのはバッキーだ。

 スティーブはバッキーのために、バッキーの前に立ち塞がった。哀れなステファンのためではない。これ以上バッキーが苦しむのを見ていたくなかった。

 バッキーは心優しく、聡明な親友なのだ。彼が苦しむ必要なんてあるわけが無かった。もっと他に方法がある筈だ。もっと他に、誰もが幸福になれる方法が。 

 自分の言葉ながらその言葉はスティーブの頭の中で空々しく響いた。

「止めるんだバッキー」

「お前さえ居なかったら、皆幸福なんだ。お前さえ……何にもできない、お前さえ居なくなってくれれば」

 スティーブの肩越しに、バッキーの視線は暴れ続けるステファンに注がれていた。

 血を吐くような声にステファンはびくりと怯えたようにして動きを止めた。普段と同じように呆けた顔つきで、ナイフとバッキーを交互に見る。

「お前が居なくなってくれさえすればいいんだ、お前さえ、お前さえ!!」

 叫んだバッキーにステファンは肩を震わせるも、パニックを起こすことはなかった。

 

 むしろステファンは叫ぶことを止め、暴れる事も止めてゆったりと立ち上がった。

 誰かに手を引いて貰わず、自分の意思でステファンが立ち上がるのを見たのは初めてだった。

 ステファンはおずおずとバッキーに近寄った。ナイフを持つバッキーの手を指先でなぞる。まるで正気に戻ったような仕草に驚いたバッキーはナイフを取り落とした。

 

 地面に落ちたナイフを拾って、ステファンはふらふらと歩く。

 ふと視線に映ったピアノの前にステファンは座り、折れそうな程に細い指を鍵盤の上に置いた。それはスティーブが絵に描いているポーズそのものだった。

 彼の瞳はこれまでと同じように宙を見据えていた。何も変わらず、彼の空気は神聖で神秘的なままだった。ドファ、ミファラドファファ、ミレドファ……

 

 手慰みのように鍵盤を弄ったステファンは立ち上がり、ぽかんとしているバッキーと、地面に倒れて呻くエレナと、怯えて蹲っているレベッカを見回した。彼はまるで修行僧のように全てのしがらみから解き放たれた顔をしていた。

 一度深く頷き、透明な視線を瞬かせる。

 そのままナイフを持って、ステファンは割れた窓から外に出て行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 スティーブが絵を仕上げたのは、ステファンの遺体が発見されてから2週間後の事だった。

 絵を完成させるにあたり、スティーブはステファンの潰れた方の顔も絵に描き加えた。まるで化け物のような醜い顔は穏やかな表情をして現実の向こうを見上げていた。しかしそれでも完成した絵は下書きの時点での神秘的な美しさを欠いていた。

 完成した絵を見るとスタンは何も言葉を発さずに深く頷き、酒場の一番目立つところに飾った。

 

 エレナはそれから2年後に、あの優し気な顔をしていた男性と結婚した。男は真面目な銀行員で、夫婦仲は生涯良好だったらしい。

 エレナは男との間に2人の子供を産んだものの、1人は兵士になりベトナム戦争で死んだ。もう一人は新聞記者になり3人の子供を作って7年前に胃癌で死んだ。子供達は今も生きている。

 

 結婚を機にウェイトレスの仕事を辞めるまで、スタンの店に飾っていたスティーブの絵をエレナは何度も見つめていた。

 

 

 

 ステファンの死因は失血死だった。左腕と両足、胴体には何十という切り傷が刻まれており、ステファンの遺体は人目から隠れるように路地裏に捨てられていた。

 強盗犯はバーンズ家を襲ってから3日後に逮捕され、強盗容疑については全面的に認めたものの、ステファンの殺害は否定した。

 証拠はなく、またステファンは金目の物を一切持っていなかったことからステファン殺害に関しての男への容疑は取り消された。

 ステファンは通りすがりの愉快犯に殺害されたのではと警察は疑っていたが、その犯人は結局見つからなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■  ■  ■

 

 

 

 

 

 

「————まだこの絵があったんだな」

 長々しい会議がようやく終わり、一息つこうと廊下を歩いていたバッキーは飾られていた絵を前に足を止めた。

 それは80年前にスティーブが描いた絵だった。まさか、と思ったが、しっかりと端にはスティーブのサインが描かれている。芸術家としては無名のスティーブの絵の複製が作られている訳も無く、これは確かにあの大恐慌の最中にスティーブが僅かな金のために描いた絵に違いなかった。

 あの頃はスティーブの絵は上手いと思っていたが、こうして今しっかりと見ると技量の拙さが分かる。

 あれからクーパー・ユニオンに通い、貧困のために中退するまで絵を学び続けた後のスティーブの作品と比べるといかにも幼稚で、構図も雑だ。さらに長年煙草とアルコールに晒されたせいでべっとりと黄色いヤニが染みついており、元に何が描かれていたのかも判別できない程に擦り切れている。

 しかしピアノを弾く男の瞳だけは未だに煌々と輝いていた。その絵を見てサムは感嘆するように息を吐きだした。

「良い絵だよな。知ってんのか?」

「もう何が描いてるかも分かんないだろ。スティーブがガキの頃に描いた絵だよ。まだ現存してるとは思わなかった」

「これってキャップが描いた絵だったのかよ。マジか、子供の頃から絵が上手かったんだな。かなり掠れてるけど分かるぜ。ピアノとイケメンだろ?俺にちょっと似てる」

「んな訳あるか」

 軽口を叩くサムを小突くと陽気に笑って、「訓練はあと1時間後だぞ」と言われた。

「知ってる。何だよ、サボるとでも思ってるのか?」

「割と思ってる。この前だってエージェントの一人をナンパしてて遅れただろうが!」

「あれは俺がナンパされたんだ。不可抗力だろ」

「お前がこんな奴だって知ってたらワカンダに永遠に冷凍するようスティーブに頼んでたかもしれねえよ」

「ひっでえな、相棒だろ」

 そう笑って返事をしながら、冷凍される前に見たサムの顔を思い出す。自分が冷凍でもされるような悲痛な顔をしていた。あの頃の自分はすっぱりと処分された方がきっとアベンジャーズにとって良かっただろうに、だ。

 キャプテン・アメリカの名前を得る男というのは、揃ってこうも心優しく、寛容でなくてはならないのか。

 存在しない方が良いと分かっているような人間を、ここまで神秘的に、美しく描けるような清廉な心を持っていないと成れないのか。

 スティーブが自分に盾を渡さなかったのは全く英断だったと深く思う。自分にそんな心理的余裕が無かったとか、世論が許さなかったとかいう以上に、自分にキャプテン・アメリカの素養は欠片も無かったのだ。

 ヒドラに洗脳される前から父親を貧困のために殺そうとした自分には、全くもって無理な話だ。

「この絵はいつから飾られていたんだ。前まで無かったような気がするんだけどな」

「確かシビルウォーでごたごたしてた頃にスタークが買い求めたとか何とか……キャップが描いた絵だったから買ったんだろうな。キャップへの遺産の一部だったんだけど、昨日ここに寄付されたんだ」

「あいつが?」

「ああ………どうせ自分も長くはないからって」

 そう言ったサムの顔は、何でも無いというような顔を取り繕っているのが明らか過ぎて、逆に滑稽に見えた。そして自分も同じような顔をしているに違いなかった。

 

 

 

 

 

 バッキーはスティーブと一緒に暮らしていた。

 北極海で眠っていた時間を含めればもう200を超える年月を掻い潜ったスティーブの肉体は、血清のおかげでまだ動いてはいる。しかし昔の隆々とした筋肉は失われ、まさか昔はキャプテン・アメリカと呼ばれる人物だったとは思えない痩せた一人の老人になっていた。むしろ骨と皮のみの棒切れのような姿は、大昔の虚弱な子供だったスティーブの方を思い出させた。

 施設に入れた方がずっと楽だということは分かっている。自分にとって……そしてもしかしたらスティーブにとっても。しかしスティーブと離れる事などバッキーには考えられなかった。

 もう長くはないという事が明らかである以上、その最後の瞬間に立ち会えない可能性はほんの少しも許せなかったのだ。

 

 家政婦や訪問介護を金に飽かせて雇い、さらにスティーブの寿命を一瞬でも伸ばすために医療器具も買いあさった。一般家庭であれば家計が木っ端微塵に粉砕する程の出費だったが、バッキーは微塵も躊躇する事無くスティーブの安全と延命のために金を湯水のようにつぎ込んだ。

 なにしろあの時とは違い、バッキーには十分な収入があった。さらに何故かトニーの遺産の一部がスティーブに流れており、全て合わせるとそこらのセレブなど太刀打ちできない程の金額にまでなった。

 トニーが何を思ってスティーブに財産分与をしたのか分からないが、きっとあの男はスティーブが金に困る様を死んでも見たくなかったに違いない。正義のためなら泥水を啜ってでもヴィジランテとして活動するスティーブの本質を彼は理解していたのだろう。

 その為に遺産を赤の他人であるスティーブに明け渡すのはやり過ぎではと思ったが、トニーとスティーブの両方と付き合いの長い他のアベンジャーズのメンバーは全く驚いた顔をしていなかった。自分とは違う方向で、あの男のスティーブへの入れ込みようは凄かったらしい。

 確かにシビルウォーの騒ぎの後に、スティーブが描いたからという理由だけであの絵をアメリカ中捜し回って買い求めたというのだから相当だ。もしあの戦争の後もトニーが生きていたらバッキーは彼をストーカーとして訴えていたかもしれない。

 

 家に帰るとバッキーはまずスティーブの自室へ向かった。

 スティーブはベッドの上で上体だけを起こしてスケッチをしていた。バイタルを計測するコードがスティーブの腕に纏わりついているが、彼は気にする様子も無く澄んだ青い瞳を一心に紙の上に注いでいる。

「ただいま」

「……ああ、お帰りバッキー」

 紙の上から視線を動かさずにスティーブはおざなりに返事を返した。どうやら絵を描く事に集中していたいらしい。シーツの上に大量の鉛筆や消しゴムを放り投げて、次々と持ち替えながら絵を描き進めている。

 生真面目で掃除好きのスティーブだが、絵を描いている時だけは例外だ。平気でパレットをそこらへんに投げたり、消しゴムの消しカスを散らしたりする。今もシーツの上には消しカスが散らばっていた。

 ここまで集中するのは久しぶりだなと苦笑して、バッキーはどれどれと絵を覗き込んだ。

 

 碌にベッドから起き上がれない身体になってしまった……いや、身体に戻ってしまったスティーブは、しかし昔のように熱い正義感をむやみやたらに振り回す以前とは全く違う、穏やかな男になっていた。思い通りに動かない苛立つことも無く、ただ年経ても美しい顔で穏やかに微笑む。

 まるで悟り切った僧のように神々しい顔だとバッキーは思い、その微笑みを見る度にじりじりと焼けるような焦燥を感じた。それはこのまま消えて行ってしまいそうな美しさだった。

 だからこそバッキーはスティーブが何かに熱中する事を喜んだ。それがアベンジャーズの相談役でも、絵を描く事でも、慈善事業でも、何でも良かった。彼が現実世界に留まって何かをする熱意を忘れないでいてくれれば何でも良かったのだ。

 

 段々と眠る時間が長くなれば、バッキーはベッドの上でも絵が描けるようにベッドヘッドに絵を描くための用具を入れる棚を備え付けた。

 絵具でシーツが汚れても良いし、寝室に絵具の臭いが染みついても一向に構わないから欲しいものが有るなら何でも言って欲しいと何度もスティーブに言った。懇願めいた口調だと自分でも思っているが、それが功を奏したのかスティーブは一日の殆どをベッドの上で過ごすようになっても、まだ絵を描く習慣を続けている。

 

 

 覗き込んだ見た絵は先程アベンジャーズの本拠地で見た絵とあまりによく似ていた。

 しかし構図はあの絵よりももっと精密で、線の一本一本に迷いが無い。まだ下書きの段階だというのに既に圧倒的な存在感があった。その絵にバッキーはダリの最高傑作と呼ばれるパン籠に似た感触を覚えた。

 居るのは男と、ピアノだけだ。しかしぞっとした。その絵はこちらに向かって何かを叫んでいたのだ。男は口を閉じて上を見上げているだけだというのに、その瞳はあまりに多くの事を語っていた。

 その男の顔はまだ詳細に描かれていなかった。顔の半分が潰れているかどうかも分からない。

 

 しかしもしかしたらその顔は、ステファンではなく———

 

 そうまで想像してバッキーは叫びたくなった。違うと言いたかった。

 あれは自分が間違っていたんだ。ステファンを殺すべきでは……いや、どうなのだろう。

 あれは正しい行いだったのだろうか。自ら死を選んだステファンは、息子にナイフを向けられるような事は全くしていなかった。

 彼はただ哀れだっただけだ。ただ誰かの手を借りなければ生きていけない男だった。そして彼が居たせいで自分達の生活が苦しかったこともまた事実だ。

 だが彼があの時死んでいなければ、自分はもしかしたら兵士にならなかったかもしれない。あの男を養っていたエレナを置いて一人戦場に行くという選択は難しかっただろう。普通の会社員にでもなって、誰も殺さずに生きていたかもしれない。そうすればウィンター・ソルジャーが生まれることはなかった。

 だがエレナが産んだ自分の異父兄弟の子孫は今もまだ生きている。彼らは元気に、明日を向いている。

 ————正しいとは、何なのだろうか。

 あれからもう何十年も経ったと言うのに、未だにバッキーはその答えを見つけられていない。

 

 絵に目が釘付けになり、再び冷凍したかのように動きを止めたバッキーを視界の端に認めて、スティーブは小さく呟いた。

「バッキー、お前は間違ってはいなかったよ。それは間違いない」

 

 スティーブの声が酷く遠くから聞こえるようだった。短く、早く息をするバッキーに気付いてとうとう紙から視線を上げたスティーブは、優しく微笑んでバッキーの頭を撫でた。優しい手つきだった。

 黒い髪を梳く乾いた指は細かった。まるであの時、鍵盤を不器用に叩いたステファンのような指だった。誰かの助けが無ければ生きていけないだろう弱弱しい指をしていた。

 

「ただ、今ならもっと、上手く描けるような気がするんだ。だからもう一度描こうと思った。それだけだよ」 

 

 スティーブ、スティーブ。

 そう呻きながらバッキーは細いスティーブに抱き着いた。涙を流す。自分の半分の厚さもない胸に頬を擦り寄せた。心臓の音がよく聞こえた。

 ああ、まだ生きている。だから大丈夫だ。しかし永遠には続かない。

 

 スティーブ、俺達はお前に生きていて欲しいんだ。それだけでお前には価値があるんだ。それだけは絶対に正しいと言えるんだ。

 

 そう伝えようとしたが、嗚咽が次々と零れるので難しかった。

 息が整うのを待ちながら、絵の中の男の顔がスティーブと同じ顔でないことをバッキーは一心に祈った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ———なるほど身体全体に痛みがあったが、それもだんだん弱くなっていき、最後にはすっかり消えるだろう、と思われた。柔らかいほこりにすっかり被われている背中の腐ったりんごと炎症を起こしている部分とは、ほとんど感じられなかった。

 感動と愛情とをこめて家族のことを考えた。

 自分が消えてしまわなければならないのだという彼の考えは、おそらく妹の意見よりももっと決定的なものだった。

 こんなふうに空虚なみちたりたもの思いの状態を続けていたが、ついに棟の時計が朝の三時を打った。

 窓の外ではあたりが明るくなり始めたのを彼はまだ感じた。

 それから、頭が意に反してすっかりがくりと沈んだ。

 彼の鼻孔からは最後の息がもれて出ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 劇終

 


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