『架空の財閥を歴史に落とし込んでみる』外伝:あるコミューター航空会社   作:あさかぜ

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前史:調布飛行場

 東京23区から程近い調布飛行場、大阪市から程近い八尾空港、共に大都市から近いものの滑走路の短さ(調布:800m、八尾:1490m・1200m)からジェット機の離発着が不可能(※1)であり、プロペラ機とヘリコプターのみ運用されている。

 だが、調布も八尾も共に当初は民間用として、太平洋戦争前夜に軍用飛行場に転換され、防空の為に拡張された。八尾はほぼ現在の形に拡張され、調布も1000mと675mの2本の滑走路が整備された。当時の航空機の性能からこのぐらいの長さでも充分だっただろうが、同時期に存在した木更津や立川、柏は1000m以上の滑走路を有しており、特に柏は1500mと当時としては破格の長さを有していた。柏と調布は共に帝都防空の為の基地なので、もう少し長さがあっても不思議ではないのだが、松戸や羽田などの存在から大規模な拡張をする必要は無いと考えたのだろうか。そこの所は不明なので想像するしか無いが、何かの気まぐれで八尾並みに拡張されても不思議では無い筈である。

 

 これは、そうなった場合の世界の話である。

 

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 1942年4月18日、米海軍の空母「ホーネット」から飛び立ったB-25爆撃機16機による日本本土空襲が行われた。所謂「ドーリットル爆撃」であるが、これによって日本陸海軍は大混乱となった。詳しくは本編の『番外編:この世界の太平洋戦争②』に譲るが、この空襲で本格的な本土防空に着手する事となった。

 それに伴い、六大都市(※2)の防空の為、都市周辺に高射砲陣地や軍用飛行場の整備が急ピッチで行われた。調布飛行場の拡張と機能強化もこの一環で行われ、1500m滑走路と750m滑走路の整備が行われた。周辺の土地の収容も非常時という事でスムーズに行われ、1944年には完成した。

 滑走路の拡張が完了した頃に、米軍による本土爆撃が行われる様になった。空襲の起点が中国奥地の成都か狭いパラオの為、大規模な空襲が行われる事は稀であった。だが、それは防空用の設備が活用されなかった事を意味するものでは無く、何度か行われた武蔵野や立川などの軍事施設への空襲、帝都空襲を防ぐ為の出撃は行われた。

 米軍も、迎撃による被害を抑える為に、飛行場や高射砲陣地の攻撃を実施しており、調布も1度空襲を受けている。幸い、大きな被害を受ける事は無かったが、流れ弾が市街地に落ちて数十人の死者を出した。

 

 1945年6月5日に終戦を迎え、米軍を中心とした連合国軍が日本本土に駐留した。当初はGHQを通して占領統治を行い、軍備の全廃や財閥の徹底的な解体、工業設備の接収などを行う予定だったが、戦時中の米軍の損害の大きさとソ連との対立がその流れを変えた。当初の予定を予定通り行った場合、米軍が治安維持及び地域の防衛を行う必要があるが、肝心の米軍が先の大戦で大損害を受けてとてもでは無いが行えない状況の為、その代わりとなる戦力となると日本軍しか無かった。感情面では納得出来ない部分もあるが、日本軍の強さは先の大戦で実証済みであり、「親米」という枷を嵌め、充分な補給を与えれば、「太平洋の防波堤」としての役目を十二分に果たすと見られた。

 「ソ連との対立」によって、日本軍は存続する事となった。尤も、軍縮は連合国からの「要求」(という名の強制)によって行われ、予算不足から数年間は訓練にすら事欠く状態だった。

 また、米軍のコントロール下に置かれる事となり、日本各地に「占領下の防衛」を名目上の理由(実際は「日本軍の監視」)として米軍が駐留する事となった。関東では座間(元・陸軍士官学校)や朝霞(元・陸軍予科士官学校)、代々木(元・代々木練兵場)などが摂取され、調布も例外では無かった。

 

 当初の調布は、立川及び横田の予備基地として活用されたが、他の基地と比較すると活用されたとは言い難かった。滑走路は最長でも1500mであり、これは立川の2000m(実際は1500~1800m級)と比較して小さかった。横田よりは長かったが(1950年代まで1300m)、調布は宅地化が進みつつあったことから拡張が難しく、将来的には立川か拡張した横田に移転すると見られた。接収から10数年間は米軍用の水耕農園として活用され、軍用飛行場としての活用は殆どされなかった。

 軍用としては殆ど活用されなかったが、運用に余裕がある事から民間に解放された。当時、羽田は国際線が殆どであり、国内線が参入する余裕が無かった。その為、中小航空会社は調布に乗り入れる事となった。1950年代中頃から1960年代初頭は航空会社が勃興した時期であるが、どの会社も規模が小さく当時の日本にとって飛行機による移動は高嶺の花であり、採算が取れる事業では無かった。長崎航空(現・オリエンタルエアブリッジ)や中日本航空など独立を保った会社もあったが、後に日本航空(JAL)や全日本空輸(ANA)などに吸収された会社も多かった。

 その様な中で、調布を拠点に佐渡や八丈島など離島への路線を運航していたある航空会社が存在した。この会社はJALやANA、東亜国内航空(TDA)や日邦東西航空(NTA)に統合される事無く、コミューター航空会社として存続する事となる(NTAについては本編の『40話 昭和戦後④:中外グループ(3)』参照)。

 

 接収から10数年間は水耕農園及び事実上の民間飛行場として活用されたが、それが変化するのは1961年だった。1964年に東京オリンピックが開催される事となり、選手村及び会場の一部として代々木の在日米軍の住宅地「ワシントンハイツ」の用地が活用される事となった。その為、ワシントンハイツの返還が決定されたが、その代替地として調布が選ばれた。

 また、史実では実現しなかったキャンプ・ドレイク(朝霞)の返還も行われた(史実では1971年から段階的に返還)。駐留米軍は横田や百里に移転し、跡地は射撃や馬術などの競技場となり、この敷地は後に国防軍体育学校の施設(体育館、射撃場、野球場など)に活用された。

 余談だが、国防軍体育学校の野球部は社会人野球に所属しており、国防軍に所属している軍人・軍属で野球を行いたい人によって構成されている。本業は軍人の為、野球の練習はそこそこだが、軍人として鍛えられており、地区大会の上位に入る事はあるが優勝経験は無い。




※1:1500mの札幌飛行場(丘珠空港)でフジドリームエアラインズの定期便(使用機体は小型ジェット機のエンブラエル170)の実績がある為、八尾空港に限れば不可能ではない。しかし、伊丹空港や神戸空港との兼ね合いや騒音問題がある事から現実的ではない。
※2:当時の日本本土で人口が多かった東京・横浜・名古屋・京都・大阪・神戸の各市の事。札幌や福岡などの地方の中枢都市の台頭は1980年以降であり、それまでは都市人口順位の上位6位を独占していた。

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