『架空の財閥を歴史に落とし込んでみる』外伝:あるコミューター航空会社   作:あさかぜ

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前史:調布飛行場②

 米軍住宅が代々木のワシントンハイツから調布飛行場西の「関東村」に移転したが、飛行場区画については早い段階から返還交渉が行われていた。「補助飛行場」として接収したが殆ど活用されなかった事、日本の航空会社の利用が殆どの事などから、返還しても問題無いとされた。

 交渉は関東村の移転後の1966年から行われ、翌年には「1969年に飛行場区画の日本への返還」が決定した。関東村については横田や百里との兼ね合いがある事から「1969年の返還は時期尚早」とされたが、後の交渉で「1974年に全面返還」が決定した。

 

 さて、米軍住宅が移転し将来的な日本への返還が決まった調布飛行場だが、中小航空会社が離発着している現状は変わらなかった。東京オリンピックの開催とそれに伴う海外旅行の自由化、機材の大型化によって、羽田空港の混雑は悪化した。国際線用の新空港の建設が検討されたのは1962年だが、場所が成田・三里塚に決定したのは1966年であり、移転時点では何処に建設するかが決定していなかった。

 新空港開港までは海外の玄関口は羽田となるが、そのしわ寄せが国内線の準幹線やローカル線の発着枠に来た。国際線や国内幹線の枠を開ける為に準幹線・ローカル線の枠が減らされ、プロペラ機が入る余裕が無くなった。

 その代替地として、調布が選ばれた。調布は東京都心から程近く、京王の飛田給と西調布、西武の多磨墓地前(現・多磨)など近隣の駅からバスが出ている事、YS-11クラスのプロペラ機の離発着が可能な滑走路を有している事から、一部の便が調布に移転してきた。

 これにより、東阪航空(THA)、日邦航空(NAW)、東亜航空(TAW)、日本国内航空(JDA)の4社の一部の便が調布発着となった。主に仙台経由札幌(丘珠)、八尾経由福岡などの経由便の発着が多かった。当初は深夜便も移転したが、市街地に近い事から反対が大きく、1年で羽田発着に戻った。

 

 1969年に羽田での小型機の離発着が禁止された事もあり、10数年は調布が東京における国内線第二の玄関口として活用される事となった。関東村の返還後は一部が新ターミナル用の敷地する事が検討されたが、1978年3月の成田開港によって大きく変化した。

 成田開港によって国際便の殆どが移転した。これにより、今まで国際線用の発着枠が国内線用に回された。

 また、1971年にTAWとJDAが合併して「東亜国内航空(TDA)」が、THAとNAWが合併して「日邦東西航空(NTA)」がそれぞれ成立し、路線の整理が進められた。合わせて、機材の大型化やジェット化なども進められたが、調布の滑走路の長さではジェット機に対応しておらず、これ以上の大型プロペラ機の導入も難しかった。

 成田開港に伴う羽田の発着枠に余裕が生じた事と機材の大型化によって、TDAとNTAの調布発着便の多くが羽田に戻った。成田開港後も少数の便が残っていたが、乗り継ぎの利便性の向上や人員の集約を理由に1980年までに撤退した。

 

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 大手航空会社2社が撤退した調布では、廃港の動きがあった。高度経済成長期以降、周辺地域の宅地化は急速に進み、飛行場周辺にも多くの住宅が立ち並んだ。その為、別の場所に移転する事が望まれた。

 移転先の候補地として、同じ東京都の横田基地、埼玉県の桶川飛行場、茨城県の百里基地の3か所だった。東京都及び周辺自治体は移転を希望したが、成田の建設で労力を使った政府に調布の代替地を建設する気は無かった。横田と百里は滑走路に余裕があるが、横田は在日米軍、百里は国防軍が使用しており、軍の使用が最優先される事から「余裕が無い」という回答を貰った。そもそも、横田も百里も東京都心から遠い為、移転した所で利用者が来る処か減少すると見られた。

 桶川も東京都心から近いと言える場所では無い上、本田技研工業(ホンダ)の私有地である事から、拡張するにはホンダとも交渉する必要があった。後に埼玉空港として拡張される事となるが(埼玉空港については、本編の『番外編:この世界の日本の航空関係』参照)、この時のホンダは本格的な空港に拡張する気が無かった為、桶川移転案も破棄された。

 

 移転予定地全てから拒否された為、調布はそのままとなった。東京都及び周辺自治体は廃港を求めたが、政府は代替地の用意が出来ないとして、両者の議論は並行線となった。議論は10年以上に及び、後に航空機の技術革新による騒音の減少、東京からの近さ故の利便性の高さなどから、地方便の参入希望は多かった。これらの要因から、廃港より存続の方が利益は大きいと判断され、1992年に正式に存続が決定した。

 存続に合わせて、調布の管理・運営が国から東京都に移管された。これに伴い、調布飛行場は「東京都営調布空港(通称・調布空港)」と改称され、「調布空港」の名称は通称から正式名称になった。

 

 尚、調布の移転候補地のその後だが、桶川は前述の通りである。

 横田は、周辺の宅地化が進んだ事による騒音問題とその解決の為に百里に集約する事となり、2004年に廃止された。跡地には、公園や防災センター、ショッピングモール、総合運動場などが整備される事となった。

 百里は、国防軍と在日米軍の双方が置かれている。周辺の宅地化が進んでいない事から大規模な拡張が行われ、2800m滑走路3本を有する関東最大の空軍基地となった。

 

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 存続が決定した調布では、ターミナルビルの建て替えが行われた。建て替え前のターミナルビルは1966年に完成したものであり、築25年以上が経過していた。あちこちで老朽化が進んでおり、機材の故障も頻発していた。また、返還された関東村跡地の再開発もあった為、それらと連動させて新ターミナルビルの建設が行われた。

 1993年、新ターミナルビルの設計が完了した。設計案は1年前に募集されたが、条件として「簡素」・「建設費用が安価」・「将来的な拡張が容易」・「バリアフリー対応」などがあった。1995年から建設が始まり、合わせてターミナル前に小規模なバスターミナルの併設工事が行われた。小規模な事から工事は早く進み、翌年には新ターミナルビルの使用が開始された。

 

 新ターミナルの利用開始当初、機材の初期トラブルに見舞われたものの、今までの問題だった老朽化は解消された。トイレの汚さや売店の小ささなどから敬遠されていたが、それら改善された事で利用者が微増した。

 また、当初の意図する所では無かったが、カフェと屋上展望台を設置した事で、地域住民の集会場や観光スポットとしての利用も見られた。

 

 2020年現在、調布からは伊豆諸島の5つの空港(大島、三宅島、八丈島、神津島、新島)、佐渡、庄内、能登、但馬、八尾、南紀白浜の11路線を運航している。住宅地に近い事から1日の発着回数が64回(32往復分)に限定されている為、殆どの路線が2~3往復となっている。かつては40回しか認められなかったが、利用者の増加や就航先からの増便の希望が多かった為、段階を経て増やされた。

 東京からの直行便が出来た事で、但馬の利用者は増加した。ジェット機で無い事から時間は掛かるが(但馬の滑走路は1200m)、東京への直行便には変わらなかった。但馬としては羽田に就航出来ない以上、調布との繋がりを重要視した。

 他の就航空港も同様で、ジェット機の就航は出来なくても東京と直接繋がるメリットは大きく、路線の維持に注力している。また、観光利用の増加の為、PRが行われたり、調布空港で就航先の物産展が開かれるなどしている。

 

 羽田の発着枠増加、埼玉へのアクセスの向上などがあるが、調布は都心との近さやプロペラ機しか離発着出来ない空港に就航出来るという利点がある。それがある為、今後も存続する事となる。


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