『架空の財閥を歴史に落とし込んでみる』外伝:あるコミューター航空会社   作:あさかぜ

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3話:コミューター航空の広がり・朝日航空の苦悩

 成田開港による余波によって、調布の発着枠に余裕が生じた。1980年から、AALは調布から東北・信越・北陸・近畿への便の整備を計画する様になる。これらは、TDA及びNTAからの譲渡であったり、交渉によって増加した発着枠を活用した事によって成立した。

 漸く、自由に航空路線を開設出来ると見られた矢先、2つの出来事から路線新設に慎重になった。それは、東北・上越新幹線の開業と新興コミューター航空会社の設立である。

 

 当時、東北・上越新幹線の開業間近であり(1982年6月23日に東北新幹線の大宮~盛岡が、同年11月15日に上越新幹線の大宮~新潟がそれぞれ開業)、開業した暁には新潟、仙台、花巻の各便は廃止に追い込まれると見られた。新潟は東側諸国の玄関口としての機能がある事からある程度は残ると思われるが、それでも増便はされないと見られた。

 

 1970年代後半から80年代に掛けて、日本各地でコミューター航空会社が整備された。1974年に国内の航空各社が出資して日本近距離航空(後のエアーニッポン。2012年にANAに合併)が設立されて近距離便の運航を開始し、1980年には長崎航空(現・オリエンタルエアブリッジ)が長崎壱岐便を開設して定期旅客輸送を再開した。1983年にはTDAと鹿児島県奄美地方の自治体と共同出資して日本エアコミューター(JAC)を設立するなど、各地で会社が設立され路線の整備が行われた。

 調布では、1978年に設立された新中央航空(NCA)が伊豆諸島への路線を開設した。1980年には佐渡への路線も開設し、AALと競合関係になった。

 

 この2つから、AALが取ったのは西への勢力拡大と買収だった。東及び北は新幹線の存在から増便しても勝ち目は無いのは明白であり、調布・八尾の発着枠は少ない事から買収して枠を確保したかった。そして、買収の為の資金は西武・セゾン両グループから出ており、この時の両グループは絶頂期にあり、資金面での問題は無かった。

 結果、1984年までに調布・八尾の両方に拠点を置くコミューター航空会社を買収して合併するか傘下に収めた。この頃にはTDA・NTAの調布・八尾発着便は消滅しており、この買収によって両空港の発着枠はAAL系列によって独占された。

 NCAは合併せず、調布と伊豆諸島を結ぶ路線に集中する事となった。その為、佐渡便は手放す事となったが、一方で保有機材の集中と増加によって本数を増やす事となった。

 NCAが手放した佐渡便は、1984年に同じく傘下に収めた旭伸航空(KOK)に譲渡された。傘下に収めた際、AALから調布便・八尾便を譲渡されたり、仙台便を開設するなど路線拡大に積極的となり、保有機材もMC-1、後にATR42などの大型ターボプロップ機を導入する様になる。

 AALが福岡・長崎に就航している事もあり、1982年に長崎航空(NAW)も傘下に入った。長崎から壱岐・対馬・五島列島への便の拡充が行われ、AALだけでなく他社との接続の強化が図られた。

 

 一方で、就航地にAAL系のコミューター航空会社の設立も行われた。複数の本拠地を持つ事による本体の負担の軽減と、地域に本社を置く事で利益を出しやすくする為である。これによって設立されたのが、隠岐・出雲を拠点とする山陰航空(SIA)と、福岡を拠点に壱岐・対馬・五島列島への路線を開設した筑紫航空(TKA)である。

 

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 西武がAALを通じて国内のコミューター航空会社を傘下に収めたが、西武としてはやはりジェット機による路線運航を行いたかった。コミューター航空ではどうしても拡張に限界があり、収益性は大手より低かった。

 しかし、運輸省によって羽田と伊丹の就航が禁止されており、未だに45/47体制(※)下である事から、幹線への自由な参入は不可能だった。成田と当時計画中の関西新空港(後の関西国際空港と神戸空港)を拠点としての参入は運輸省も認めた事から不可能では無かったが、都市部から遠い事から国内幹線は兎も角、コミューター路線には不適格だった。

 そもそも、45/47体制がある以上、自由な参入など出来る筈も無かった。運輸省の言葉は矛盾していたが、後にこの内容を利用する事となる。

 

 反対者が運輸省だけならコミューター路線から脱却する事も出来ただろうが、大手航空会社4社も反対した。手を付けられない又は付けたくない離島路線や赤字路線の引き受け先としてAALとその子会社の存在は大きく、AALがコミューター路線から脱却する事を認められなかった。

 仮にAALがコミューター路線から脱却する場合、AAL系列のコミューター航空会社各社を大手の傘下に鞍替えさせるか、現在運航中の全便を譲渡させるぐらいの事が必要になるが、羽田と伊丹に集約したい事と調布・八尾への進出のコストから、大手としては引き受けに消極的だった。後に45/47体制が終了すると、大手各社は国内線・国際線の充実に着手した為、尚更コミューター路線の引き受けをしたがらなくなった。

 

 その一方で、大手各社が子会社としてコミューター航空会社を設立する事が多くなり、AALとの連携が行われた。カウンターの共用や同一路線の場合は共同運航が行わるなど、グループの枠を超えての連携が多く見られた。「事実上の独占」という批判もあったが、無理な競争が行われなかった事、低コストでの本数の増加という航空会社のメリットが大きく続けられた。

 共同運航によって利用者の増加が見られたが、この動きは離島便やローカル線に限られ、幹線・準幹線では依然として独立した運行が行われた。AAL系列にとってはプラスだがAAL本体に限ればプラスとは言い難く、寧ろKOKやNAWなどの子会社に大手の影響力が入った事で、グループの統制が難しくなった。




※:国内航空会社の運行の割り当ての事。1970年(昭和45年)に閣議決定され、1972年(昭和47年)に運輸大臣によって通達された事から、この名称となった。規制の強制力の強さから「航空憲法」とも呼ばれる。この世界でも存在し、
・日本航空:国際線と国内幹線、国際貨物線
・全日本空輸:近距離国際線と国内幹線、国内準幹線
・東亜国内航空・日邦東西航空:国内幹線と国内準幹線、国内ローカル線
となった。1985年に廃止。

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