『架空の財閥を歴史に落とし込んでみる』外伝:あるコミューター航空会社   作:あさかぜ

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4話 バブル期の変革

 1985年、45/47体制は終了し、日系大手航空会社は自由な航路設定を行う事が可能になった。これに伴い、1986年3月にANAが長距離国際線であるロサンゼルス便・ワシントンDC便を開設し(※1)、同年にはTDAとNTAが近距離国際チャーター線の運航を開始した。その後、国際定期線にも参入する様になったが、社名が国際線に参入するには合わなかった為、1988年4月にTDAは「日本エアシステム(JAS)」に、翌年4月にはNTAが「日本インターナショナル航空(JIA)」にそれぞれ改名した。

 路線の設定は自由になったが、新規参入については未だに壁が高かった。多くの航空会社が希望してた羽田の発着枠が限界であり、拡張が完了するまで(1997年3月に3本目の滑走路の供用開始)は新規参入は事実上不可能だった。実際、新規参入したスカイマークエアラインズ(現・スカイマーク)と北海道国際航空(現・AIRDO)は1996年に設立し、就航開始は1998年だった。成田発着の国内線の運航が本格化するのはLCCが多数発足する2012年以降であり、この時は東京都心から遠い事から敬遠されていた。

 

 AALも、これを分かっていたからジェット化が難しい事を認識していた。将来的には成田と関西新空港(関西国際空港。1994年9月開港)を拠点にして就航する事も考えており、その為の構想も1988年から練られた。

 だが、当分はコミューター路線の運航で我慢する事となり、この構想は将来実現させる予定だった。この構想は実現する事は無かったが、それはまだ先の話であり当時の人には誰にも分らなかった。

 

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 1980年代から日本各地の地方空港の大型化が進み、地方路線のジェット化が進んだ。また、1980年代後半から1990年代は大手系のコミューター航空会社の設立が進み、AALの地盤の縮小とライバルの参入が問題となった。

 AALもこの問題に手を拱いていた訳では無く、MC-1の新型やDHC-8、ATR42などの新型機の導入や大手との接続改良などを行い、多少なりとも利用者の増加を図った。

 しかし、1回当たりの輸送量や所要時間では大手に敵わなかった。今までの主力路線である対馬や壱岐、佐渡などの日本海側の離島路線は国防目的から空港の整備とジェット機対応が早くから進められた(※2)。羽田は発着枠と小型機の乗り入れ禁止から増便は進んでいなかったものの、伊丹はプロペラ機枠を利用しての増便や大型プロペラ機の導入が行われるなどして競争が激化した。

 一番の稼ぎ頭である調布八尾線も、大手4社の運用機材の大型化(ボーイング747、ダグラスDC-10など)と高頻度化、東海道新幹線の高速化と増発によって、時間面や運賃面で競争相手として話にならなくなった。

 

 その為、1990年代には早くもAAL系のコミューター航空会社の内、離島路線を中心にサービスの向上と可能な限りの増便を行った。特に、調布からは佐渡、伊豆諸島便が、八尾からは佐渡、隠岐便が増便された。

 新路線の開設も行われ、1994年5月に開港した但馬飛行場に調布と八尾両方からの便を開設したり、高知便の開設も行われた。

 一方で、競争にならなくなった福岡、長崎などの九州便は廃止となり、経由便も全て直行便になった。調布八尾便も最盛期には8往復あったが、この改正で4往復と半減となった。

 また、九州への便が無くなった為、福岡を拠点とする筑紫航空(TKA)と長崎を拠点とする長崎航空(NAW)への影響力を維持する意味は薄れ、両社の株は地元の有力企業に売却して独立させた。就航先が同じ事、過当競争を防ぐ意味から2001年3月に両社は合併し、「オリエンタルエアブリッジ(ORC)」と改称する事となる。

 

 多少の体制の変化はあったものの、AALは引き続きコミューター航空会社としての道を歩み続ける事となった。地方路線におけるジェット化が進みつつあったものの、羽田・伊丹の発着枠の関係から大手系の増便は容易では無かった事が、AALの競争力が維持された理由だった。

 だが、バブル景気の終息による地方路線の需要減少によってAALの売り上げは減少しており、本体である西武・セゾン両グループの売り上げ減少や不動産価格の下落によって、両グループがAALの経営及び新興航空会社の設立に構う余裕が少なくなった。両グループの再建問題も浮上しており、AALの身売りや清算も検討される程の状態になっていた。




※1:史実では成田グアム線が最初だったが、この世界のANAは45/47体制下で近距離国際線が認められていた。それにより、体制下では台湾や韓国、サイパンやグアムへの国際線を運航していた。
※2:朝鮮戦争中に韓国軍が対馬に逃げ込んだ事、ソ連が南樺太と千島列島に核攻撃した事が理由。それらの地域における有事の際の拠点整備、中央と離島の連携強化から空港整備が進められ、ジェット機による就航や東京便・大阪便の整備でも特別枠が存在した。

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