早朝の玉藻家、響き渡った甲高い乙女の悲鳴。
その声に驚き飛び起きた、玉藻家の主である女性が悲鳴の出所である愛息子の部屋へ駆け込み目の当たりにしたもの、ソレは。
「かあさん……僕、女の子になっちゃった……」
顔を蒼褪めさせて狐のような糸目を見開き、その眦には零れ落ちんばかりの涙を浮かべた少女の姿であった。
この家には自身と息子しか住んでいない筈なのに、突如現れた謎の少女に母である女性は狼狽し取り乱す……などと言う事は無かった。
何故なら、目の前で不安そうにその身を震わせている少女には愛息子の面影が強く残っており、息子が女性として生を受けたのならこんな外見なんだろうなと言える見た目をしていた事もある。
だがそれ以上に母親としての本能が告げていたのだ、目の前にいる少女は間違いなく己が胎を痛めて産んだ愛しい我が子なのだと。
「落ち着いて狐太郎、大丈夫だからね?」
自身のモノによく似た狐の耳をペタンと伏せさせ、怯える我が子を母は優しく抱きしめるとその頭を撫でて幼い頃は泣き虫だった息子をあやしていた時のように、慈しむようにその頭を撫でる。
今腕の中で震えている少女が少年だった頃も時々母はしようとするも、その時は恥ずかしがってすぐに逃げ出していたものだが、今はただ母の愛をなすがままに受け入れる。
「学校にはお母さんから言っておいてあげるから、何も心配しなくていいわ」
ね?と腕の中の我が子へと語り掛け、少女へと変貌してしまった狐太郎は小さく頷く。
かつての自分が跡形もなくなくなったかのような喪失感に怯え混乱していた、少年だった少女は無償の温もりを求めるかのようにただ母に縋りついていた。
そして、けして短くはない時間が過ぎて……狐太郎は漸く混乱を治めて母に縋りついていた手を放す。
「あ、そうだ、朝ごはん用意、しないと……」
「いいから、今日はお母さんが作るからゆっくりしなさい、ね?」
狐太郎が我を取り戻してまず最初に気付いたのは、日課となっている朝食の用意の事であった。
その事に思い至った狐太郎は、若干フラつきながらも半身を起こした状態から立ち上がろうとするも、母親に頭を撫でられてその所作をそっと止められる。
「何か食べたいモノある?」
「えっと……母さんの作った、味噌汁が飲みたい」
部屋から出る直前に振り返った母からの問いかけに、狐太郎はぼんやりとした声音で答えれば母は笑みと共にリクエストを受け付けて部屋の戸を静かに閉めて出ていく。
その様子を布団から半身を起こした姿勢のまま、呆けたように見送った狐太郎は半身を倒して布団へ身を委ねようとして……。
視線の先に、布で鏡面を覆い隠された備え付けてある大きな姿見を見つけた。
狐太郎は緩慢な動作で布団から這い出ると、普段は室内で薙刀術の型を確認する為に置いている姿見の前に立ち何度も深呼吸をしてから、その布を半ば乱暴にはぎ取る。
鏡に映し出されていたのは、今まで見慣れた己の姿の面影を残しつつ男性的な骨格から大きく変貌した、昨日までよりも更に母によく似た少女の姿だった。
狐太郎が震える手で、姿見へ手を伸ばせば鏡の中の豊かな胸で寝巻の胸元を膨らませ、臍を丸出しにしている少女が同じように鏡の中から狐太郎へ手を伸ばしてくる。
そして、その時になって狐太郎は鏡の中の少女のお尻からは毛並みの整ったふわふわとした尻尾が伸びている事に気付き、自身の目で背後を見てみればそこには鏡の中の少女がお尻から生やしているモノと全く同じ尻尾が存在していた。
昨日までは間違いなく少年だった狐太郎の胸に去来するのは、何故一晩でこのような事になったのかという疑問と親友の出久に何て言おうかという不安であった。
視線を姿見へ戻してみれば、鏡の中の少女もまた今にも泣き出しそうな不安に満ちた表情を浮かべており、頭から生えている狐耳はぺたんと倒れ……尻尾もまた意気消沈している感情を表現するかのように、だらんと垂れ下っている。
どうしよう、何て言おう、気味悪がられたり嫌われたりしないだろうか、という後ろ向きな感情が狐太郎の胸中を満たしていく。
一晩で大きく変貌してしまった狐太郎には、いつもの飄々とした余裕など欠片も残ってはおらず、ただ不安を晴らしたいという感情から枕元に置いたままにしていた未だに使い慣れないスマートフォンを手に取る。
そして、四苦八苦しながら出久へメールを送ろうとして、なんて書いて送れば良いのだという怯えが狐太郎の指を止める。
気が付けば時間は既に、中学校の始業時間を過ぎていた。
其の事も更に、変な内容を送って親友の気を揉ませるのではないかという気持ちと合わさるも、しかしこの不安を何とかしたい衝動が狐太郎のほっそりとした指をゆっくりと動かしていく。
何を書けば良いのか、感情も思考もまとまらない狐太郎はただ指が動くままに、慣れない操作に苦しみながら文章を書いては消し、書いては消し……。
最終的に、ただ一言だけを書いて自分が信じる最高のヒーローへメールを送る。
『たすけて』と。
スマートフォンからは、メールが送信された事を示す電子音が静かな部屋の中に鳴り響く。
あんな内容で良かったのかと、狐太郎は澱んだ胸中を抱えたまま一人苦悩を抱え、やっぱり気にしないでとメールを送ろうとした時。
母から朝食の準備が出来たと呼びかけが、狐太郎の大きくなった耳に届いた。
とりあえずスマートフォンを、まるで問題を先送りするかのように布団の上へ狐太郎は放り投げ、重い足取りで部屋から出ていった。
狐太郎の母が用意してくれた朝食は、普段作っている狐太郎の味付けとは異なってはいたものの正に文字通りの母の味である食事を口へと運び。
母から話しかけられるたびに反応を返しながら食べ終えた狐太郎を前に、母は二人分のお茶を用意してから口を開いた。
「狐太郎、落ち着いて聞いてね? 間違いなく貴方には個性が発現したとみて間違いないと思うわ」
母からの言葉に、狐太郎はお茶を啜りながら狐耳だけを動かして反応を示す。
確かに個性の発現は心から望んでいた、しかしこのような形など少年だった狐太郎は欠片も望んではいなかった。
「何で性別まで変わったのかは、お母さんかお婆さんに聞かないと断言できないけど……お母さんにもある『稲荷』の個性が、女性にしか出ない事が多分関係してると思うの」
母から告げられた言葉にお茶を啜っていた狐太郎の動きが止まる。
狐太郎の脳裏に蘇るのは、お盆や正月に母の実家である祖母の家へ行ったときに出会った親戚の女性達が皆、狐耳や尻尾を生やしていた光景だった。
その中に母や親戚の女性達のような耳や尻尾を生やした男性が居たかと言われれば、一人も居なかったと狐太郎は記憶から断言できる。
親戚にいる男性達は個性からか多種多様な姿や見た目をしている事もあれど、狐っぽい男性は居なかったのだ。
「でも、母さん……確かに医者は、僕は無個性の骨の形してるって、言ってたよね……?」
「ええ、あの時の診断書も残しているけど間違いないわ、だから詳しくは本家に戻らないとダメかもしれないわね……」
今の時代、医者で受ける診断で個性の有無を決定づける一つの診断が存在している。
ソレは、足の小指に関節が『二つ』存在するか否か、というモノで……母の足の小指には二つ関節が存在せず、狐太郎の足の小指には二つ関節が存在していた。
そして、彼……だった狐太郎の大事な親友で幼馴染の緑谷出久もまた、同様の診断結果を下されている。
だからこそ、狐太郎は半ばあきらめながらもそれでも親友から離れたくない一心で、自分にも個性が発現する可能性があると言い聞かせて日々を過ごしてきていたのだ。
「これから僕は、どうしたら……」
「……狐太郎、これだけは覚えていて。どんな事になってもね、貴方は私とあの人の大事な……命よりも大事な子供なのよ」
湯呑をテーブルへ置き、顔を俯かせて呟いた狐太郎の様子に母は沈痛そうな表情を浮かべ、席を立つと俯く我が子の頭を掻き抱いて母の想いを告げる。
母の抱擁で昏い感情は和らぐも、しかし晴れ切らない狐太郎は小さく頷く事しか出来なかった。
「服とか、色々と必要なものはお母さんの方で用意しておくから、今日は部屋でゆっくりしてなさい」
「うん、わかった……」
服と言う単語に、狐太郎はそういえば今までの服とか着れないんだな、ということを実感しながらとぼとぼと自室へと戻る。
そして、ぼんやりとした思考のまま布団へと潜り込もうとして、放り投げたままにしていたスマートフォンに気付く。
「ああそうだ、いずちゃんにめーる出したままだったや」
のろのろとスマートフォンを拾い上げ、画面を確認すれば大量の通知が届いていた事に狐太郎は気付く。
その全てが、親友である出久からの狐太郎の安否を気遣う内容で……。
一番新しいメールの文面は、心配だからすぐに行くというメールだった。
「え……?」
その内容を見て、時計へ視線を向けてみればまだお昼前の授業の真っただ中な時間であった。
まさか、そんな、などと狐太郎が考えた次の瞬間に家のチャイムが鳴る。
「はーい、どなたー?」
来客への応対に出たのは、性転換してしまった息子の為に色々な手続きの確認や服の準備をしていた彼の母親であった。
彼女はこんな時に誰かしらなどと思いながらインターフォンに映し出された来客をカメラを通して確認すれば、そこに映っていたのは彼女も良く知っている愛息子の親友である少年の姿だった。
特徴的なボサボサの髪の毛を、汗まみれの額に張り付けて肩で息をしている少年は、軽く息を整えるとインターフォン越しに口を開く。
「すいません急な訪問、こーちゃんがメールで助けを求めてたから、気が気でなくて……」
時折咽ながらも言葉を紡ぐ少年の様子に、狐太郎の母はすぐに解錠すると少年を家の中へ招き入れる。
引っ越したばかりで友達が上手く作れなかった愛息子が親友として、とても大事にしていた目の前にいる少年は狐太郎の母にとっても恩人であり大事な存在であった。
故にこそ、彼に娘となってしまった息子の心の支えになってほしい、そう願ってしまう。
「あの子なら今、自分の部屋に居るわ……どんな姿に変わっていたとしても、どうかあの子の友達で居てちょうだい……」
泣きそうな顔で自身へと語り掛ける親友の母親の様子に、出久は一体親友である狐太郎に何が起きたのかと思いながらも力強く頷き。
何度も足を運んだ親友の部屋の前まで、その足を運ぶ。
「こーちゃん、体調は大丈夫?」
「その声……いずちゃん?」
部屋の扉の前から、中にいるであろう親友へ語り掛ける出久。
返って来た声音は、知っている親友の声よりも幾らか高く……まるで少女のような声をしていた。
「うん……あはは、体調は平気、かな」
「そう、なら良かったよ。学校は急に風邪引いたって主張して早退してきたよ……入っていい?」
力なく笑う部屋の中からの声に、何かしらの要因で親友の心が打ちのめされたと出久は察した。
そして、部屋の中へ入って良いか引き戸へ手をかけようとして。
「入らないで!」
強く拒絶する叫びが部屋の中から響き、引き戸へ伸びていた出久の手が止まる。
「あ、ごめん……違うんだいずちゃん、凄く、姿が変わっちゃって。嫌われたく、ないんだ」
たどたどしい、喉に言葉をつっかえるように部屋の中の親友が出久へと告げる。
普段から考えられない親友の様子に、出久は戸惑いながらも彼がそうなった要因を口元へ手を当てながら思考する。
突然姿が変わってしまうと言うのは、今の時代そう珍しい物でもない話なのだ。
小さい頃は普通の子供の外見だったのに、成長するにつれて個性の影響で文字通りの異形へと変貌した事例には事欠かないのだから。
それらの事例を出久は今まで調べ、自身でまとめてきた知識から思い至ると大きく深呼吸して口を開く。
「こーちゃん、個性が発現したの?」
出久の問いかけに対する返答は、無言。
しかし、その無言がどんな言葉よりも雄弁に問いかけに対して肯定を示していた。
「だったら心配しないでこーちゃん、僕は君がどんな姿になっていても君の親友だ!」
同じ無個性同士、そんな親友が突然個性を得た事に出久自身が思わないところがないわけではない。
だがそれ以上に彼は嬉しかった、大事な親友が個性を得た事が。
部屋の中の狐太郎が、息を呑み動揺したのを出久は感覚で確信すると。
畳みかけるように、想いの丈を叫ぶ。
「君は僕にメールで言ったよね、『たすけて』って」
「だから、僕は君にこう言うよ」
出久は大きく息を吸い、胸を張って心から尊敬するナンバーワンヒーロー。
オールマイトが如き不敵な笑みを浮かべながら、叫ぶ。
「僕が、来た!!」
目標にしているヒーローには届かない声量に迫力、だけれども。
部屋の中に居る存在が信じるただ一人のヒーローの言葉は確かに、その心に響いた。
ソレは、勢いよく内側から開けられた引き戸が強く証明していて。
「いずちゃぁぁぁぁぁん!」
「ファーーーーーーーーーーー!?」
目から滂沱のごとき涙を流しながら、勢いよく飛びつき抱き着いてきた狐耳尻尾の美少女の強い抱擁が。
部屋の中の主、かつて少年だった狐太郎の心を照らし開いたのだ。
「僕、僕、不安で、怖くて……!」
「あば、あばばばばばばばばばばばばば」
抱き着いたまま泣きじゃくる狐太郎、だが出久はそれどころではなかった。
緑谷出久という少年は、近しい異性など母親か親友の母親ぐらいしかおらず、学校でも同級生女子からは冷笑されている存在なのである。
その上、多感な中学二年生男子である彼が見目麗しい上に抱き着いてる事で強く主張している、大きくて柔らかい胸や女体の感触に冷静を保てるのかと言えば……。
わき目もふらず泣きじゃくる、男だったはずの現在美少女な親友に抱き着かれ、盛大に大混乱状態なのであった。
出久君、人格否定やら努力否定やらが雨あられのように降り注いできたから序盤めっちゃうじうじボーイだったけどさ。
そんな彼が、少しの切っ掛けであんなにでっかく強くなれたんだよね。
という事は、一人でも肯定してくれる友達がいたらイケメン力跳ね上がるんじゃない?