ぼくのかんがえたさいきょうにほんぐん――推参ス!
1937年、盧溝橋における日本軍と中国軍の衝突に端を発する日中全面戦争は、もはや戦争とは呼べぬ殲滅戦の形相を呈していた。
ドイツ式訓練を受けた中国軍は精強だったが、常勝無敗の無敵皇軍が相手では敵うはずも無かったのだ。
同年11月、5個師団総勢70000を動員した上海包囲戦で僅か2000に満たない陸戦隊に中国軍は敗退。
すぐさま反撃に転じた日本軍は敗走する中国軍を撃滅し、南京に迫った。
日本軍の猛攻を前に防衛線は瞬く間に突破され、12月8日に南京は包囲されてしまう――
◆
12月10日、日本軍の総攻撃が開始された。
空を覆い尽くす降伏勧告のビラに屈さず南京防衛軍は徹底抗戦を叫び、これを迎え撃つ。
しかし、2日と経たず中華門を防衛する第88師は壊滅し、突入は時間の問題となっていた。
その危機をチェン上士が知ったのは日本軍が紫金山を制圧し、太平門へ攻撃を開始した12日夕刻だった。
「なんだと…?」
「光華門も既に陥落したと……我々はどうすれ――」
最後まで言葉を紡ぐことなくチョウ上等兵の頭は、ヘルメットごと消失した。
悪態を噛み殺し、チェンは塹壕の影へ身を沈み込ませる。
上等兵を即死させたのは、日本軍の狙撃だ。
人体を消失せしめる一射を正確に命中させ、生命を刈り取る。
急場凌ぎに積んだ煉瓦と土嚢では、容易く貫通されて彼と同様の末路を迎えるだろう。
「チェン上士!」
「どうした、ユン上等兵」
「もう、弾がありません……補給はまだですか?」
「……まだだ」
24式重機関銃の射手を務めるユン上等兵に、チェンは歯切れの悪い答えしか持ち合わせていない。
太平門を守備する教導総隊の機関銃は、冷却水も弾薬も不足していた。
ユン上等兵の傍らには射手と弾薬手の骸が捨て置かれている。
太平門の陥落は近い──チェンは88式小銃を強く握り締める。
太平門にて響く銃声が散発的となり、南京城内からの銃声が耳に届き出した。
突如、訪れた静寂に皆が胸騒ぎを覚えていた。
この好機を日本軍が見逃すはずがない、と。
夕闇に沈む紫金山の日本軍陣地に天晴な旭日旗が1つ翻る。
1つ、また1つと旭日旗は数を増やし、チェンは時が来た事を悟った。
「陣地を放棄する……今の我々では突撃を阻止できない」
「しかし、死守命令が出ています」
タン二等兵は戦意に満ちた声で言うが、問答の時間すら惜しいチェンは黙殺し、後方の城壁までの道程を確認する。
気休めの戦車壕を越えれば、城壁下に造成された塹壕まで目算200mほど。
煉瓦と土嚢が城壁ほど積まれた城門前へは向かわない。
強固な防御は日本軍だけでなく友軍の後退も等しく阻む。
何より城壁下にはラインメタル社製の37㎜対戦車砲が配置されたトーチカがある。
この太平門最大の砲火力にチェンは期待していた。
「チェン上士!」
「止めはしない」
そう言って二等兵を突き放し、命綱である残弾を手早く確認する。
チェンは頭を消し飛ばされた小隊長の代理として抜擢された。
しかし、利口な兵士として死を受け入れるつもりはない。
これから数多の中国軍を屠ってきた突撃が始まる。
後退しなければ文字通り鏖殺される。
紫金山の夜戦から命辛々逃げ延びたチェンは、白兵戦において勝機が皆無であると知っていた。
「城壁まで後退する。24式は放棄、手榴弾を持てるだけ持て」
「了解」
物分かりの良い部下数名は頷くが、戦意旺盛な補充兵たちは得物を強く握るだけだった。
彼らの敢闘精神は称えるところだが、ここで全滅しては南京防衛軍の意味がない。
賢明な判断とは言えなかった。
しかし、チェンは説得に労力を割かない。
最早、一刻の猶予もないのだ。
日本軍の万歳突撃、それは死の具現化。
今に、あの喚声が──
≪天皇陛下万歳!≫
その咆哮は中国人の心魂を震撼させ、戦意を木端微塵に粉砕する。
天へと掲げられた無数の刃が瞬き、紫金山に帯青茶褐色の小山が旭日を背負って立つ。
あれこそ怨敵、不俱戴天の敵たる大日本帝国陸軍である。
「後退する、続け!」
号令へ呼応するかのように日本軍の姿が消える──否、太平門を目指し、吶喊していた。
その速度は騎兵を凌ぎ、さながら疾風の如く。
大通りを一直線に遮断する戦車壕を軽々越えて距離を詰める。
「走れ!」
塹壕から飛び出したチェンを追ってユン上等兵たちが続く。
陣地の放棄を決めた者は城壁へ、残る者は銃口を日本軍へ向けた。
太平門外の家屋は遮蔽とならぬよう焼き払われており、未だ火の燻る大通りを進む日本軍は標的同然。
幅広の横隊となれば狙わずとも当たるだろう。
しかし、その確信は夕闇より飛び出した姿を一目見れば根底から覆る。
彼の者は──中国人の背丈を超す3mの巨躯であった。
帯青茶褐色の戦甲冑を纏う姿は
しかし地まで届く両腕には鋭利な爪、夕日より紅い焔の宿る眼孔、天を衝く一対の角、形容するならば鬼。
チェンは限りない憎悪を込めて、その名を呼んだ。
「日本鬼子…!」
本来ならば鬼子とは聊斎志異に記された道士の魔物を指すもの。
しかし、迫り来る魑魅魍魎を指し示す時、その名の意味は大きく変容する。
日本鬼子とは、文字通り日本人が鬼の子孫であることを意味した。
古から日の本に棲まう鬼の血を引く戦闘民族、それが日本人である。
「撃て!」
恐慌が伝播するより早く決断できた者たちが銃火を放った。
チェンも我に帰り、トーチカへ向かって走る。
日本鬼子に殺到する小銃弾──それらは炒り豆のように弾けた。
高密度の十字砲火を以て始めて阻止攻撃たり得る。
203高地で編み出された戦術も機関銃無くして効果無し、小銃兵のみでは蹂躙を待つだけであった。
「化物め……」
ユン上等兵の絶望に満ちた声へ返す言葉はない。
その絶望を紫金山で経験したチェンには。
「来るなぁぁ!」
背中に押し寄せる聞くに堪えない悲鳴、そして散発的な銃声。
まるで小銃弾を苦とせず、日本鬼子は土嚢に爪を掛けて無造作に刃を振り抜く。
「ぎゃぁぁ!」
「ぐわっぁ!?」
人の背丈程もある刀身に撫でられた者は須らく死を迎える。
一太刀で稲穂を刈るように胴を両断し、構えた小銃ごと腕を断ち切った。
「う、腕がぁぁ──」
断末魔を上げた者も一拍遅れで首が飛ぶ。
振るわれる日本刀は百人斬りの殺人刀、日本軍の誇る最強の携行兵器である。
日本軍は銃火器を用いず人体を破壊する携行兵器をもつが故、無補給で万の中国人を抹殺できるのだ。
逃走する間もなく壕内の兵士は皆、日本刀の錆となった。
「チェン上士、突破された!」
「時間稼ぎにもならないかっ」
瞬く間に陣地は蹂躙され、動く影は人外のみ。
紅い双眼が塹壕の闇から太平門を窺う。
相対する教導総隊は知る由もないが太平門攻略を担う第16師団は、かの酒呑童子が棲まう京都で編成された師団。
並大抵の鬼ではなかった。
「くそっ応射しろ!」
次々と塹壕を越えて追い縋る日本鬼子へ否応なしに応戦を強いられる最後尾の1個小隊。
殿とは決死隊ならぬ必死隊であった。
それでも一矢報いるべく日本軍の急所を彼らは見出す。
日本鬼子は陣地を突破してから火点を包囲する知的な機動を見せていた。
つまり、魑魅魍魎の隊を統率する士官が存在するのだ。
「横隊中央の士官を狙え!」
照門の彼方に見える日本軍の士官は、ごく平凡な矮躯の男であった。
銃弾を受ければ容易く息絶える人に
1個小隊の銃口全てが士官を狙い撃つ──彼の者は人の範疇にない。
ただ日本刀を一閃、風切音が銃声を斬り裂く。
瞬きの後には10人の首が舞い、鮮烈な赤が吹き散らされていた。
悲鳴は一つとない。
帯青茶褐色の軍服を纏った人外は刀身の血を払って、骸の列を踏み越える。
かつて鬼と対等に渡り合い、時に討ち取ってきた者──侍。
入魂した一太刀に斬れぬ物無く、小銃兵を斬り、戦車を斬る。
銃火砲が全盛となった戦場に君臨する強者。
侍のみが日本鬼子を従えることを許された。
斬殺の間合から辛うじて脱していた下士が激情任せに躍り出て、銃剣の切先を突き出す。
「この化け物が──」
罵詈雑言ごと一刀両断。
それを振り返る暇などなく、チェンは息を切らして走る。
足を止めた勇敢な者から首と胴が泣き別れした。
刀と身一つの魑魅魍魎が成す横隊は大鎌、触れれば命を刈り取られる。
緊張と焦燥に苛まれながら太平門までチェンたちは駆けた。
「走れ、走れぇ!」
城壁の歩廊から尉官が必死に叫び、隣に座する24式重機関銃が猛然と火を噴く。
彼らは督戦任務を受けた第36師の兵士だったが、その銃口は日本軍へ向いていた。
逃亡兵の射殺などより目下の脅威を退けなくては、次は我が身である。
城壁に造成されたトーチカでも銃火が瞬く。
日本鬼子の突撃は衝撃力を失っておらず、チェンの背後にも地を蹴る重々しい足音が迫っていた。
目と鼻の先にあるトーチカには37㎜対戦車砲──魑魅魍魎へ照準を合わせる。
その射線上に身を晒していると悟ったチェンが背後へ叫ぶ。
「伏せろ!」
37mm対戦車砲の砲口に紅蓮が宿る。
遅れて砲声、必殺の徹甲弾が空を切った。
地に伏せたチェンの背を飛び越え、日本鬼子の右腕を捉える。
手甲と筋繊維が捻じ切られ、主の手から弾かれた日本刀が大地を穿つ。
然しもの鬼も対戦車砲を防ぐ手立てはない。
「やった! 右腕を吹き飛ばしたぞ!」
ユン上等兵が喜色を浮かべて言い、幾人かは歓声を上げる。
日本軍は着実に太平門へ接近していたが、日本鬼子に痛撃を加えた事実は兵士たちに勇気を与えた。
チェン1人を除いて。
「次弾急げ!」
届かないと知りながらチェンは叫び、膝撃ち姿勢をとって88式小銃を連射する。
命中した弾丸は全てが貫徹に至らない。
舌打ちを堪えて、弾盒から5発付クリップを取り出す。
たかが右腕1つ吹き飛ばしたところで、鬼が生き絶えるわけではない。
既に伸び出していた骨が手を形作り、筋繊維が包み込んで厚い表皮が覆う。
瞬きより早く、禍々しい鬼の手は再生した。
「くそっ不死身なのか!?」
「走れユン、後続が来る!」
ユン上等兵を連れ、眼前の塹壕に滑り込む。
ほぼ同時に砲声が轟き、徹甲弾が発射されたと知る。
ただ、砲弾が目標を砕く音は響かず、甲高い硬質な音が木霊した。
振り向いた先には、日本鬼子より前へ進み出た日本軍士官の姿。
「まさか、対戦車砲弾を」
「怯むな、小隊斉射!」
日本刀の射程外にある今が好機とチェンは判断した。
次々と銃列が火を噴き、眼前の敵へ殺到する。
侍は──正確な太刀筋で銃弾を斬り払った。
明鏡止水の境地から繰り出される絶技。
小銃弾、機関銃弾、対戦車砲弾も大和魂と呼応した日本刀は両断した。
「ば、馬鹿な!?」
発射した弾丸は、敵を捉えることなく
侍は刀一振りにて敵弾を斬り払えねば、種子島蔓延る乱世の主役たり得なかった。
銃弾の初速が速くなれば、侍の一太刀もまた速くなるだけ。
その信じ難い光景に、誰もが次の言葉を紡げない。
兵士の戦意までもが一刀両断されてしまったのだ。
残心を取る日本軍士官は背後へ視線を走らせ、眉を顰めた。
憮然とした表情を浮かべ──戦場の真只中で踵を返す。
散発的な銃撃を斬り払い、果断的な足取りで立ち去った。
それに呼応して日本鬼子も1体、また1体と引き下がり、夕闇へ溶け消えていく。
後退したか──否、日本軍陣地から新たな影が現出した。
それは日本鬼子すら上回る巨影、6脚で地に立つ異形。
リベット接合された装甲に覆われた脚で砲塔を支え、緑と茶が複雑に入り組んだ迷彩を施されている。
「戦車、日本軍の戦車だ!」
「鉄牛じゃない……新型か!?」
「脚のある戦車なんて聞いたことがないぞ!」
1人の恐慌が壕内の兵士たちに次々と伝播する。
敵を知る者は戦闘力を恐れ、敵を知らぬ者は異形の姿を恐れた。
日本軍の誇る九七式中戦車、
機関銃陣地や対戦車砲を撃破し、歩兵の突撃を支援する歩兵直協戦車である。
上海包囲戦の要たるゼークトラインが容易く粉砕されたのは、地覇の火力支援による処が大きい。
「あれが日本軍の戦車…!」
チェンの知る戦車とは装甲兵団のイタリア製戦車であり、無限軌道を持たぬ6脚の戦車は異質に過ぎた。
37mm対戦車砲が本来の任務を果たすべく敵戦車へ射撃を開始する。
しかし、目標手前の地面を虚しく穿つ。
従来の戦車と全く異なる形態は距離感を狂わせる。
地覇は6脚を以て姿勢を安定──主砲を太平門へ向けた。
紫電が砲身を走り、砲口の前面に紋様が投影される。
紋様は変形を繰り返し、やがて士魂の文字を形作る。
たとえ原理が理解できずとも、発光する砲口は破壊を投射すると理解した。
「砲撃が来るぞぉぉ!」
「退避!」
閃光が紫金山を包んだ刹那、一筋の光芒が太平門を襲った。
阻塞を山と積み上げた城門は轟音を立てて溶解。
なおも止まらない光芒が城壁のトーチカを溶断していく。
積載された弾薬が次々と誘爆し、兵士は影すら残さず蒸発する。
時にしてみれば一瞬──太平門は壊滅した。
九七式五糎七戦車砲の射線上に生存者はない。
見上げた空に立ち昇る黒煙の塔は墓標の如く。
熱気の滞留する壕内に倒れ込んだチェンは譫言のように呟いた。
「水……」
蒸発こそしなかったが、熱量ばかりは防げず朦朧とした意識で水筒に手を伸ばす。
水筒が変形しなかったことに感謝し、一杯含む。
緩い水でも五臓六腑に染み渡るようだった。
「どうしようもない、か……」
諦観した呟きは至近に落下した城壁の一部に押し潰される。
トーチカごと基礎部を溶断された城壁が倒壊を始めたのだ。
構造材の多くが生存する兵士たちへと降り注ぐ。
迫り来る影を前にチェンは最期を悟り、重い瞼を下ろした。
◆◆◆
12月13日、首都南京は陥落した。
南京城の外周に配置された南京防衛軍は陣地死守を全うし全滅。
やむなく潰走した部隊は、多くが揚子江を渡河できず下関で殲滅された。
南京防衛軍に協力した南京市民300000人が抹殺され、日本軍によって錬成された250000人が南京の新たな市民となった。
開戦から1年と経たず首都が陥落、膨大な軍民の生命が喪われ、中国軍の戦意は完膚なきまで粉砕された。
蒋介石は徹底抗戦を訴えたが、中国人民による反攻作戦は1944年まで待たねばならなかった。