大陸暦1930年11月22日
アメストリス東方地区リオール。
エリシアが目を覚ますと既に太陽は空高く舞い上がっていた。時計を見てはね起きる。既にお昼をまわっている。
軍人としては由々しき事態である。
「私は一体…」
飛び起きて洗面所に飛び込んだエリシアは鏡に映った自分を見て驚愕した。酷く疲れた顔の自分がそこにいたのだ。
《あ、そうか。昨日私…》
そこで昨日自分がしでかしてしまった事を思い出し青ざめる。確かに今は考えれば普通の精神状態ではなかった。それは認めざるおえない。
「エドワードさんとスヴァン、怒ってるだろうな」
エリシアはシャワーを浴びながらそう呟く。
《でもまさかまだ2日しかこのリオールの街に滞在してないなんて信じられないわ》
エドとの再会
グラマンとの出会い
そしてあの異形なるものと戦い
まだ2日しかこの街にいないのにもう何年もいるかのような気分になる。
それだけ昨日の出来事は衝撃だった。
シャワーを浴び髪型を整えたエリシアは下着姿のまま、ベットに腰を下ろし、息をついた。部屋に備え付けられている水差しからコップに水を入れると一口含む。
ふと昨日のヴァルニスの姿が目に浮かぶ。
「あなたは誰…」
顔も声も仕草も口調も何もかもがエリシアが大好きだった父親とダブる。
また会えばあの頃のように抱きついて来て頬ズリされると思っていた。だが、それを期待した自分が恥ずかしいとエリシアは思う
《もう一度会って話がしたい》
エリシアは率直にそう思った。そして一度湧き上がったその想いを止める事ができなくなっていた。
ジリリリリリリーーー
その時、そのエリシアの思考を遮るかのように電話のベルが部屋の中に鳴り響いた。エリシアはおもむろに立ち上がると受話器を取った。
「もしもし」
エリシアは気を取直して電話越しに声をかける。電話の主はホテルの従業員からであった。
『セントラルシティのヴァフリー・カインズ様より一般回線でお電話がかかっています。繋がれますか?』
業務的にそう告げる従業員の言葉にエリシアは少し考える。
ヴァフリー・カインズ准将。
エリシアの上官で軍内での医療錬金術の第一人者。数々の生体錬成の技術を編み出し、セントラルにこの人ありと言われている人物である。
エリシアはそんなカインズが一体自分に何の用だろうかと訝しむ。研究レポートとの催促だろうかなどと考えながらも通話を受けるしか選択肢はないとも分かっている。
「お願いします」
エリシアは電話口でそう伝える。
するとすぐに音声が切り替わった。
『やぁ、カインズだ。エリシア元気か?どうだ?東方の空気はうまいだろう?私も休暇を取って行ってみたいものだ』
陽気な声と笑えない冗談が突如として耳に飛び込んできた。思わずエリシアは受話器を耳から遠ざける。
《そうだ。こんな感じの人だった》
と改めて彼の性格を思い出しエリシアはその顔に苦笑いを浮かべる。
「はい。東方軍の力も借りながら何とかやっています。准将はお変わりありませんか?」
だが一方で、セントラルを出てからまだ2週間だが、それでも准将の声をエリシアは懐かしく感じる。
『ああ。ラモンとベティがよくやってくれているよ。生体錬成を応用した骨神経の再生術もある程度目処が立った。だが、大総統が寄越した君の代わりはクソの役にも立たん』
そう言って笑うカインズの声にエリシアは少し癒され、救われた気がした。
同僚と先輩の2人がカインズの指示でテキパキと動き、そしてカインズに怒鳴られ焦るハボック大尉の姿が目に浮かび、思わず口元が緩む。
『そう言えば変わったことはないか?』
カインズの問いにエリシアの表情が強張る。
電話越しでなければ何かありましたと顔に書いていて、すぐにカインズ准将にはバレていただろう。
だが、やはり昨日の事はまだ話さない方がいいとエリシアの頭の中で誰かが警鐘を鳴らす。もちろんエリシアもその声に従うつもりだ。
「いえ、特にありません。スム・ダム幹部の居場所はだいたい掴めましたので今、駐屯軍と作戦を練っているところです」
エリシアは慎重に言葉を選び、話題を自分の本任務の方に逸らす。我ながら普通に話せたとホッと意をついた。
『そうか。それが終われば戻ってこれるのか?』
「いえ、分かりません。私のこちらでの指揮官はスガサ・マークイン中佐ですし、この任務は大総統勅命ですから」
エリシアの返答にカインズは残念そうにため息を吐いた。
『早く戻ってきてくれ。君がいないと研究が先に進まないんだよ。私からも大総統に進言しておこう』
カインズ准将がそこまで自分を認めてくれている事にエリシアは素直に喜んだ。やはり自分は軍人より研究者の方が向いていると思う。
《そうか。分かった。くれぐれも無理はするなよ》
しばらく世間話に華を咲かせたのち、カインズ准将はそう締めくくると電話を切った。
少し気持ちが楽になったとエリシアは思う。
《あの男のことは後でエドワードさんに相談しよう》
エリシアはそう前向きに考えると急いで支度を済ませ、部屋を出る。スヴァンとエドの部屋をノックするがもちろん返答はない。
諦めてエリシアはホテルのロビーに向かうことにした。
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同刻
アメストリス国セントラルシティ
第5研究所 執務室
「そうか。わかった。くれぐれも無理をするなよ」
そう言ってカインズは受話器を置いた。
椅子の背にもたれ大きく息を吐く。
茶色の髪を耳上まで刈り上げた短髪に日に焼けた肌からは研究者よりも軍人という言葉の方が似合う。
カインズ立ち上がると白衣を手に取り羽織る。
切れ長な瞳が壁際に立てかけられた数々の賞状やトロフィーを捉える。
全てカインズが成し遂げた功績である。
生体錬成。
錬金術の禁忌とされる人体錬成とはまた異なる医療用錬金術の総称とされている。この世界での第一人者は結晶の錬金術師ティム・マルコーである。
彼は今東方のイシュヴァール地方で病院長を務める傍ら、医療錬金術の進歩のために教鞭を振るっている。その門下生は既に軍にも研究所にも多数いる。
当のカインズ自身も軍人の肩書きを持ちながらマルコーに5年師事し、国家錬金術師の資格を得た。
彼の二つ名は“硬糸”
国家錬金術師の資格を取った後はその後は軍に戻り、数々の功績を残すと第五研究所の所長にまで登りつめた。
彼の研究成果は数多に渡り、臓器細胞からその機能の再生、神経細胞の再生と数々の功績を残し、今やヴァフリー・カインズという名を知らないものはアメストリスにはいない。
また軍の狗という国家錬金術師に対する世間の印象を決定的に変えたのも彼であった。
それだけ彼の編み出した技術と理論は当時も今も錬金術の医療への応用に限界を感じさせない。
カインズは賞状やトロフィーを誇らしげに見つめると、その脇に置かれた写真立てに視線を移した。
そこには若き日のカインズを囲むように若い女性と2人の子どもが映っている。
カインズは写真を一瞥すると部屋を後にした。
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同刻
アメストリス東方地区リオールの街
駐屯軍司令部。
街の中心部から外れた郊外に東方司令部リオール駐屯軍司の基地がある。
もともとレト教団が持ち主だった土地をリオール事件の暴動の折に接収し、そこに駐屯軍司令部を作った。敷地は広大でイーストシティの東方司令部よりも大きい。その南東部にこの簡易テントを使った商店街のような場所があり、その中央に黒紫色に輝く教会がある。
そこを東方軍は司令部としている。
エリシアはそこでエドとスヴァンの姿を探している。
ホテルのロビーにそう2人からの書き置きが残されていたのである。エリシアはホテルを出ると一直線にこの司令部を訪れたのだ。
エリシアは駐屯軍内部の賑やかさに驚いた。
駐屯軍基地内部では軍人たちの活気に溢れている。真面目に鍛錬を続けるもの、数多の教本の山に囲まれ、勉強をしているもの、腕っ節を競い合うもの。
その行動は皆バラバラでここの指揮官は自由な風土なのだろうと察する。軍内の規律はその指揮官の色がより濃く反映されるものであるとも聞く。
「エリシア・ヒューズ少佐」
そんな雑踏を歩いているとエリシアは自分の名を呼ぶ声を耳にする。彼女自身、駐屯軍には知り合いはいないはずと不思議に思いながら辺りを見回す。
「ライオネット・ブラックフィールド将軍」
エリシアは雑踏の中の食堂と思しき場所で自分に向かって手を挙げている青年士官の存在に驚き、思わずその名を呟く。
ライオネットはエリシアを手招きする。
正直ここにいるはずのない緑髪の将軍がなぜここにいるのか不思議でならない。
「どうして将軍がこちらに?」
エリシアはライオネットのもとに寄るとそう尋ねた。