第1話
一
壁面に設置された小型スクリーンに、わずかに老いの影が見える男が映し出されている。男は、つつましく贅のほどこされた椅子に座っており、そのウェスト・ショットの左腹部の辺りには、帝国公用語と旧同盟語による字幕が付されていた。男のいる場所は、彼の居住空間であるのか、その部屋の壁には旧帝国の軍服と、新帝国の軍服とが仲睦まじそうに並んでいた。
「私がリッテンハイム侯による“攻撃”を受けて重傷をおったとき、かの赤毛の提督があらわれたのです。彼は私の乗艦に——」
スクリーンという彼の独占する場において、コンラート・リンザーと名乗った男は、そう語っている。
その姿を、注視といかないまでも見つめる女性の姿があった。目立たないがたしかな気品を思わせる金髪と、和氏の璧という数千年前の故事をわざわざもちいてそのうつくしさをたたえられる、ブルーグリーンの瞳をもつ彼女は、新銀河帝国に居をかまえるものならば、だれもがその顔を知悉している。
ヒルダことヒルデガルド・フォン・ローエングラムは、コンラート・リンザーの饒舌を見ながら公事用の礼服に着かえ、そして執事の報告を聞くという、みっつの仕事を同時にこなしていた。そしてその聴覚と視覚から脳を刺激する情報のことごとくを、あますところなく把握しているのである。彼女の脳髄は、彼女自身が全盛と認める十数年前と、いささかも変わりがないように見える。しかし、皇妃ヒルデガルド・フォン・ローエングラムとして彼女を知った者はその限りではないが、皇妃となる前の彼女を——ヒルデガルド・フォン・マリーンドルフとしての彼女を知っているいくばくかの者にとっては、その刃のような鋭さにわずかな刃こぼれを、理性ではなく本能で悟ることもあった。
“獅子帝を想う”と題された連続のテレビプログラムは、故ジークフリード・キルヒアイス大公の章にさしかかるにあたり、銀河における視聴率を五割以上にのばしていた。これは民間の放送局が制作したもので、帝室や新銀河帝国政府は、取材は受けたが協賛や補助金等を施したわけではない。それなのに——このプロパガンダ性はどうしたものか、とヒルダは思った。むろん、ところどころに懐かしさを感じる情報はあるが、彼女がマリーンドルフの姓を名乗っていた頃の経験は、あらゆる点で、テレビプログラムで語られる情報を凌駕していた。
キルヒアイスがリッテンハイム侯を打倒する終末として、ガルミッシュ要塞を陥落させたところで、コンラート・リンザーの話は終わった。その頃、私はなにをしていただろうか。時の元帥からマリーンドルフ家の財産と栄達を公文書によって保障され、旧都オーディンにてその庇護者たるにふさわしい人物を待ち受けていたはずだ。その時の私には、不安など露もなかった。ただ騒がしい未来への期待と、自身の才覚とを両翼にして、銀河へと羽ばたきたい。その憧憬だけがあったのだ。
姿見に自らの全身をうつし、その頭の先からつま先までを確認する。そこには、いささかの服装に乱れのない、ヒルデガルド・フォン・ローエングラムの姿があった。しかし、いくら服を着かえたところで、彼女自身は獅子帝の皇妃と、新銀河帝国摂政という衣を脱ぐことはできないのだ。その衣は、銀河を圧すほどの重さで、彼女のヒルダとしての過去と内面を、たしかに疲弊させつつあった。
その疲労を思う時、彼女はかつての自身の庇護者であり、上司であり、そして夫であった青年の姿を脳裏に浮かべずにはいられない。神からの恩寵を一身に受けた絵画的美しさをもつ肢体、暁闇を切り裂く光条のごとき金髪、眼差しを受けた者を時に凍てつかせ、時に服させる蒼氷色の瞳。彼にしても、新銀河帝国初代皇帝ラインハルト・フォン・ローエングラムにしても、この疲労に頭を抱え、明るい過去と暗い未来の両方に心を砕いていたのだろうか。
いいえ、それは違う。彼女の自問は続く。あの方は、疲れではないべつのものによって蝕まれ、そして斃れたのだ。孤独という名の蛇によって。
しかし、私は孤独ではない。なぜなら——。
彼女の大脳を舞台とした議論に、解決によるものではない終止符を打ったのは、部屋の扉が叩かれる音だった。彼女は自分を呼ぶ声に返事をすると、最後にスクリーンを見やった。
ひとつの大きな石がある。それはだれかの墓で、それに刻まれている文字を、彼女は知っている。それはひとつの称号である。銀河において、ほかのだれもが手に入れることができなかった、みっつの称号の一つ。わが姉、わが妻、そして——わが友。
スクリーンには、変わらずに二つの言語による字幕が付され、故人の偉業がたたえられていた。その字幕の隙間から、供えられた花が見える。大きく開いた蘭と、彼の髪と同じ色のバラである。
彼の墓は、依然オーディンにある。ラインハルトの墓は、熟議の結果、首都星フェザーンに置かれていた。だから、ジークフリード・キルヒアイスの墓は、彼のための墓以外のなにものでもない。だれかによって手入れが施されているのか、墓石はかつてヒルダがそこを訪れた時のままであった。
スクリーンを消すのに、何の感慨もわかなかった。手にしたコントローラーをデスクに置き、ヒルダは立ち上がる。
部屋を出、長い廊下を歩く。後ろには、執事ほか数名の親衛隊が、彼女を凶弾から守護せんとしている。すくなくとも、からだの外からやってくる脅威に対しては、彼女は安心していた。自分の身を守るすべは教科書の通りおぼえており、そして親衛隊の実力は、前の親衛隊長のころからいささかも変わっていないのである。
廊下の先からは歓声が聞こえ、それは一歩すすむごとに大きくなってゆく。彼女が廊下の果てへと辿り着き、不意に開けた視界には、数万人の群衆が、さまざまに声をあげていた。
フェザーン中央公園の中心、新銀河帝国第一体育館は、首都星第一のスポーツ・イベントの祭場であり、ひるがえって銀河第一のイベント・スペースである。フライングボールの宇宙大会も開催されるこの施設の中央には、この二週間だけ特別なステージと立体スクリーンが置かれ、それを取り囲むように人々は声をあげていた。
宇宙艦隊のモジュールをもちいた仮想模擬艦隊会戦。今日から始まるイベントはそれである。競技者は、軍の未来を担う、新銀河帝国幼年学校と士官学校の今期卒業者である。幼年学校の部と士官学校の部にはそれぞれ一週間ずつが与えられ、全日程二週間のうち前半が幼年学校にあてがわれる。今日は、幼年学校の部の初日であり、ヒルダはその天覧のために出席したのだ。士官学校の部でも、それは同様であり、ヒルダは幼年学校の部の閉会式と、士官学校の部の開閉会式の、合計四回はここに足を運ぶ必要がある。
もっとも、彼女の関心は、こと幼年学校の部に払われていた。いや、彼女だけではない。旧銀河帝国と自由惑星同盟の滅亡、そして新銀河帝国の成立における動乱期を生きた軍人にとっては、この仮想会戦は、ある意味では待ちに待ったイベントであるかもしれないのだ。
幼年学校の部の仮想会戦では、二つのチームにそれぞれ一万艦があたえられ、チームリーダーには幼年学校の成績一位と二位がわかれる形で据えられる。それぞれのリーダーは、幼年学校最終学年の一年間を通して、同期生を選んで部隊を編成し、戦線を構築する。むろん、一兵卒まで生徒でかためるわけにはいかないから、チームリーダーを大将相当とし、その下に新銀河帝国の組織図にのっとった、体系的な組織を構築することになる。こうして、比較的じっさいの会戦に近い模擬演習が可能になるのだ。
ヒルデガルド・フォン・ローエングラムの座したとなりには、おさまりの悪い蜂蜜色の頭があった。帝国主席元帥をあらわす赤いマントは、この日のために新調したのか、やや彩度がつよく感じられた。
「元帥、シャツがはみでておいでですよ」
あわてて腰回りを確認した彼の名は、ウォルフガング・ミッターマイヤーといい、新銀河帝国が誇る才英の粋である。
「おたわむれを」
むろん品行方正で清廉な彼である。シャツはおろか、身だしなみには乱れひとつない。
かつて戦場でもっともおそれられ、そして勇気と不動の心を人のかたちにかたどった彼であっても、今日だけは凡庸なひとりに見える。
「エヴァ殿は、どちらへ?」
彼の夫人の姿がないので、ヒルダは凡人に問うた。彼は凡人らしく右手で頭をかくと、柔和にほほ笑んだ。
「妻は、家でこの模擬会戦を見るようです。いつ息子が帰ってくるかわからないから、と」
通常なら、この模擬会戦は一週間ちかく続く。初日からこれか、とヒルダは内心苦笑せざるをえない。
会場が沸いた。競技者の入場である。となりの凡人が、さらに背筋を伸ばすのが、はっきりとヒルダにはわかった。
三百人ほどの競技者の先頭には、艶やかな黒髪をたずさえた、青色の瞳をもつ精悍な青年が歩いている。彼の視線はこちらにむかって注がれており、それが果たして、自分に向けられているのか、彼の父のためのものなのか、ヒルダには知るすべがない。
とにかく、その少年——フェリックス・ミッターマイヤーの姿を見るとき、ヒルダは次の年の我が子を思わずにはいられない。来年は、あの子もあそこに立ち、そして私は凡人になる。
ヒルダは、そっと瞼を閉じた。ひとりの少年が、彼女の瞼裏に輪郭を結ぶ。顔こそ母によく似ているが、黄金の髪と蒼氷色の瞳には、たしかに獅子の遺伝子を感じさせる、至尊の少年。
アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラム。いまは遠く、銀河のどこかにいるだろう。来年には幼年学校を卒業し、そしてこの場に立つ。チームリーダーなぞでなくてもいい。ただ元気に、だれか友を連れて、そこに立ってくれればいい。
彼女は自らが凡人になってしまう前に眼を開け、開会スピーチのために立ち上がった。
二
ヒルデガルド・フォン・ローエングラムの開会スピーチが終わると、カール・エドワルド・バイエルライン上級大将艦隊旗艦ニュルンベルグの艦橋は、しばしのあいだ心地よいしじまにつつまれた。艦橋には、動力部その他操艦に必須となる諸機関に配されている乗員をのぞいた、すべての乗組員が整列している。成文化されたきまりはないものの、これは帝室のスピーチを拝聴する際におけるバイエルライン艦隊の通例となっていた。
整列者のなかには、バイエルライン付きの幼年学校の生徒も含まれており、この艦には二人が配属されている。この二人は、模擬会戦の中継を気にしながらも、バイエルライン上級大将の一挙手一投足にも眼を向けなければならないという、難事業の最中であった。じっさいに模擬会戦を行っているのは、彼らの一年年長者であり、憎悪の成分をごく微量にふくんだ敬愛を向けるべき相手であり、そして彼——アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムにとっては、得難い友であった。
ヒルダのスピーチの後、艦橋スクリーンには、いつものように艦前方にひろがる星海が映し出されていた。アレク様はその海に母のおもかげを探しているのではないか。バイエルラインは、少年の蒼氷色の瞳が、名状しがたい光をはなっているのを感じていた。
バイエルライン艦隊は、担当区をもたない遊撃艦隊であり、その任務は各管区の巡回警備にくわえ、区を担当する部隊の綱紀粛正にある。むろん、統一から十数年の新銀河帝国には、多少の反発はあるものの大きなほころびはない。しかし、その保たれた統制には“まだ”という副詞をつけるべきであり、未来においてさらにどのような接頭辞が付されるのか、バイエルラインには予測ができない。彼の任務は、その不吉な接頭辞を未然に取り除くことでもあるのだ。
明文化されたルールではないから、解散の号令もない。たいていは、各員が持ち場に戻るか、次の指示を出すので、整列はそれによって自然に解除される。幼年学校生に対しては後者なのだが、バイエルラインはそれが行えずにいた。スクリーンを凝視する蒼氷色の瞳。そしてそれが訴える言葉が、痛いほどにわかるからだ。母であるヒルデガルド・フォン・ローエングラムを呼ぶ訴えではない。むしろその瞳が映すはずであったのは、その後に模擬会戦を行う、フェリックス・ミッターマイヤーの姿であろう。ダークブラウンの髪に、大気圏上層の色をした瞳をもつ少年。バイエルラインは、彼の父に薫陶を受け、そして上級大将にまでのぼりつめたのである。彼も彼なりに、一万艦のモジュールの大軍を率いるわが師の息子が、気がかりであるのだ。
「フランク・ドレイク」
彼はもうひとりの幼年学校生に声をかけた。小気味よい返事がして、黒髪の少年が直立する。
「きみたちは、すでに昼食を終えただろうか?」
むろん、部下のタイムスケジュールを把握していない彼ではない。冗談の成分を多量にふくんだ問いかけであった。
「いえ、まだです」
「では、君たちにはこれより一時間の休息を与える」
「一時間後には、昼食の時間になりますが」
「そうだな。つまり、昼食の時間を一時間のばすと言っている」
ドレイク少年が敬礼をした。それに続いて、黄金の髪の少年が敬礼をする。バイエルラインはふたりの背中を視界の端で見送り、ニュルンベルグのシートの深く座り込んだ。
もし、スクリーンを凝視する少年が、アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムでなかったら。幼年学校の卒業と同時に、士官学校に進むでもなく、准尉となって赴任するでもなく、正式に皇帝の座に就く至尊の存在でなかったら。自分は、ドレイク少年の助力なしに指示を与えただろう。
ミッターマイヤー元帥が見たら、失望するにちがいない。バイエルラインは、自嘲によって自らの自尊心に傷をつけようと努めた。彼の師、ウォルフガング・ミッターマイヤーは、幼年学校校長として、また主席元帥として、アレクの幼年学校入学時、全校および全軍に彼を特別扱いしないように厳令を発した。それをじっさいに遵守するのは困難のきわみにあり、ことに彼の父をよく知る者にとっては苦行ですらあった。
バイエルラインは、主席元帥に直々に指名され、現在アレクを預かるに至っている。彼もまた、苦行をこなす修行僧のひとりであった。むろんアレクの成長を見守るのは至上のよろこびであったが、正しく成長させる責任は自分が負っている。そのことは、彼の精神を高揚させもしたが、同時に胃を痛めもした。
ともかく、と彼は艦橋スクリーンを見やった。フェザーンに帰投するまで、残り二か月である。それは、アレクと同じ艦でくらす時間と同値だった。
幼年学校生の部屋には、艦の外とつながる端末はない。あるのは、最もちかい位置にある士官との連絡用の通話機、司令官からの指示を流すスピーカー、そして個人用のベッド他許可された私物がいくつかである。ベッドは一人につきひとつがあてがわれており、この部屋には、通話機ひとつ、スピーカーひとつ、そして縦にならんだベッドふたつを小世界とするふたりの少年が生活している。
上のベッドに横たわるフランク・ドレイクは、寝相がひどく、ベッドがきしむことのない新しいものでよかったと下の住民であるアレクは思う。ふたりの少年は、突如与えられた休息を、完全に持て余していた。
「まったく、こんなことなら模擬会戦でも見せてくれればいいのによ」
ドレイクの悪態に、アレクは心の底で同意した。母の顔を見られたのはよかったが、それ以上に眼に焼き付けたいのはフェリックスの勇姿である。『獅子帝伝・序』と表題された書物を繰りながら、彼は一歳年長の友の、艶のあるダークブラウンの髪を思い出していた。そしてそれは、書物によって脳内に現前する映像よりも鮮明で、かつ魅力的だった。
上段で衣擦れの音がして、さかさまのドレイクの顔が現れた。彼は、体こそ幼年学校で鍛えられているが、どういうわけか顔は真円にちかい。彼を呼ぶのに、ほかの幼年学校生は名前ではなく、顔だちの特徴をもってするのは仕方のないことだと思える。しかし、いたって真面目であるのに、教官に“ばかにしているのか”と嫌疑をかけられたことがあるのは、彼の不幸を思って涙するしかない。
そんな丸顔のドレイク少年は、その血統につよい誇りを抱いていた。彼の家系図を、二千年ちかくさかのぼれば——その時代は人類がいまだ太陽系第三惑星にしばられていた——、ひとつの惑星のすべての海を手に入れ、無敵艦隊と呼ばれていた艦隊を打ち破った海賊へとつながる。そして、彼のより近い祖先は、アーレ・ハイネセンの“長征一万光年”の随行員であり、彼自身も惑星ハイネセンでうまれた。
しかしこの話は、生来のほら吹きである彼の性分もあって、ほとんどの者が信じていなかった。彼の祖先の来歴すら怪しむものもいて、それは以下のふたつの理由による。ひとつ、彼の家に伝わるもので、ハイネセンゆかりのものが何もないこと。ふたつ、現在惑星ハイネセンは、フレデリカ・グリーンヒル・ヤンを主席とする共和自治政府が治めており、そこは軍隊も保有していることから、ハイネセン出身者が新銀河帝国幼年学校に入学してくるのは道理に合わないこと。前者に関しては、数百年前の人物にゆかりのある品物など、平凡な小市民家庭にあるのは考えにくく、もしあったとしても博物館行であろうから、反論の余地は大いにある。しかし、後者に関してはなかなかの説得力をもち、そのことについて問われたドレイクは、珍しく何の言葉も持ちえなかった。ハイネセン出身の幼年学校生は、ドレイクがはじめてであるといううわさも聞いたことがある。
だが、彼の名誉のためでなく、自身の印象に基づく見解を述べれば、ドレイクの話は本当であるとアレクは思っていた。なぜなら、彼は彼の顔とその性分いがいのことでそしりを受けていたことはなかったし、なによりアレクが彼を好いていたからだ。フェリックス・ミッターマイヤーを先天的な友とするならば、フランク・ドレイクは後天的な友であった。アレクは、彼のほらによって、授業がないはずの教室で先生を待ったことが何度かある。それでも、アレクは自身がどういう存在かをよくわきまえていたから、自分にほらを吹けるドレイクをなにより貴重に思っていた。
ともかく、そんなドレイクの丸顔がさかさまにあらわれたので、アレクは噴き出る呼気を我慢できなかった。ドレイクはすこしばかり大げさに唇をとがらせてみる。
「なんだい、きみもおれの顔を笑う輩か」
アレクとドレイクの間に敬語はない。それはアレクが望んだことで、その願いにドレイクは過不足なくこたえている。
「きみの似顔絵を、コンパスで描いたことを思い出したんだ」
幼年学校で、一時期同級生の似顔絵を描くというのがブームになったことがあった。ドレイクの顔だけは、だれもうまく描くことができず、ついにアレクはコンパスを持ち出して彼の顔を描出しようと試みたのだ。結果としてその試行は大成功を見、めずらしくドレイクが腹を立てたのだった。三年ほど前の話であるから、すこし懐かしいような気もする。
「おまえ、輪郭だけじゃなく、顔のつくりまでコンパスで描きやがって」
「もう時効だよ」
丸顔がいたずらっぽく笑う。この顔をした数分後には、彼はいつも先生の拳骨をくらうのだ。
「なあ、探検しようぜ。いまはほかの乗組員も仕事中だ。きっとばれないよ」
暇を持て余したドレイクの考えそうなことなど、アレクはすでにわかっていたから、この申し出に驚いたわけではない。だが、暇なのはたしかな事実で、それをどうにかしたいとは思っていたから、その言葉は甘美なひびきをもっていた。
「だめだよ、ドレイク。中将以上の艦は、機密中の機密なんだから」
ちぇっ、とわざとらしく大きなため息をついて、ドレイクの顔が引っ込んだ。むろん、アレクが見たいと言えば、ほかの乗組員はそれを断ることは難しく、むしろすすんで見せようとする者まであらわれるだろう。ドレイクは知っているのだ。アレクが、彼のその肩書きによって他者の意思を捻じ曲げることを嫌うのを。
結局ふたりは与えられた休息を、惰眠をむさぼるか本を読むかで費やした。模擬会戦のようすは、なにも気にする必要はない。一万艦どうしの戦いは、ふつうならじわじわと続いていく。昨年も同じ模擬会戦があったが、それは一週間で決着がつかず、残った艦の多い方が勝者となっていた。
昼食を終え、午後の任務も滞りなく務めた。そして就寝の一時間ちかくまえ、バイエルラインのはからいにより、士官専用のクラブルームで、クリームたっぷりのコーヒーを飲んでいたふたりは、置かれていたスクリーンを通じて、驚くべき光景を目にする。
フェリックス・ミッターマイヤーが、大勝をもって模擬会戦を終了させたのである。
三
開会の式典の後、それぞれの職務を終えた元帥たちは、その日の夜、“獅子の泉”の高級士官用のクラブルームで、微量の酒とともにフェリックス・ミッターマイヤーの行進について語り合っていた。彼らはフェリックスの出自を知悉しており、少年の成長を、彼の親と同等に気にかけている。
「俺はあのすました態度が気に入らんな。もっと少年らしく、緊張を見せればいいものを」
言葉のとげと表情とに格別の差があるのは、フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト元帥である。猛攻の将の黒色槍騎兵艦隊は健在で、いまもなお銀河最強の誉がたかい。彼のオレンジ色の頭髪はやや禿げ上がり、七元帥の中で十数年後の未来を一番憂いているのは彼であろう。
「これだけの大舞台で、緊張をしないはずがありますまい。それを隠し通したのはりっぱなものです」
ビッテンフェルトが声をかけるのは、この砂色の瞳をした青年である。ナイトハルト・ミュラー元帥は、この場にあつまった四人の元帥のなかでも年少で、また若々しい顔立ちもあって、ともすれば幼く見える。しかし、彼もまた銀河を統べる驍将のひとりであって、その守りに秀でた戦いぶりは“鉄壁”と評される。彼は短期で血の気の多いビッテンフェルトと対照的な人物でありながら、それゆえに反発もしないのである。
「しかし、父によく似ているものだ」
この言は、“芸術家提督”ことエルネスト・メックリンガーによるものである。この発言にはさまざまな感慨があり、その特殊性も彼は理解していたため、これは独語にちかく、だれの聴覚を刺激することもなかった。ただひとり、エルンスト・フォン・アイゼナッハ元帥を除いては。
“沈黙提督”の異名をもつ彼は、静かに白ワインのグラスをかたむけただけで、その視線は模擬会戦を中継するスクリーンに向けられていた。時刻は、フェザーン標準時でまだ十九時のすこし前である。
バイエルライン上級大将は、航行宙域に不安がないのを確認して、部下の半数に臨時で休息を許した。これは部下が欲していたわけではなく、彼自身の興味によるものである。しかし当の模擬会戦は、旧ミッターマイヤー艦隊の半数ちかくを受け継いだバイエルライン艦隊のほぼ全員の気に掛けるところで、一刻も早くワインとともにその中継を見たいというのが全員一致した本音であっただろう。
むろん、休息は交代しておこなわれるものであり、一刻も早い休息を得るために、定められたシフトをコイントスで勝手に変更する者もいた。これは後にバイエルラインから叱責を受けることになるのだが、それはまた別の話である。
ともかく、バイエルラインはフェザーン標準時と同期している艦内時間十九時をもって、自らもクラブルームへ足を運ぶことに決めていた。ふたりの少年も同行させる予定であり、それは彼のささやかな越権行為でもあるのだが、それを咎める者はいなかった。
ウォルフガング・ミッターマイヤーは、ヒルデガルド・フォン・ローエングラムが退出した後も会場に残り続け、自分が校長をつとめる幼年学校の生徒の活躍を見守っていた——というのは三流ジャーナリストの言で、おそらくそのジャーナリストはミッターマイヤーが相当のえこひいきをする人物であることを知らない。ミッターマイヤーの関心は、彼の息子の動作ひとつひとつに注がれており、それ以外はほぼ眼中になかった。
そのことを知っているのは、ミッターマイヤー自身と、その右に座るアウグスト・ザムエル・ワーレン元帥だけであっただろう。ワーレンは、職務の後にクラブルームではなくこちらに駆けつけていた。ワーレンは、士官学校の校長を務めており、今年度の幼年学校の卒業生の下見に来ていた。士官学校への進学は希望制だが、幼年学校を卒業したもののほとんどは進学を希望する。ワーレンにとっては、次に来る生徒にどのような者がいるのかを知る、いい機会であった。
ワーレンの好むアナログ時計の短針が七を刺したころ、彼の左手側から、嘆息に似た独語が聞こえてきたのを、ワーレンの耳殻はあまさずとらえていた。
「フェリックス、おまえ……」
声は、“疾風ウォルフ”のもので、それは十数年前の彼の全盛を思わせた。凡庸な父親の声ではない。間違いなく、銀河を蹂躙しつくした覇者のものである。ワーレンは、背筋の凍る思いがして、あわてて会場中央のスクリーンに眼を向けた。
このとき、ウォルフガング・ミッターマイヤーは、彼の息子の用兵と、その用兵によって示される心理的意図を正確に看破していた。そしてその意図を思う時、彼の脳裏にはひとりの青年の姿が、十数年の後になっても姿かたちのかわらない、フェリックスとおなじ髪の色、おなじ色の瞳とちがう色の瞳をもつ友の姿が、はっきりと結ばれている。その名と顔を知らぬものは、この宇宙にはいない。どの学校の歴史の教科書に、必ず載っている、新銀河帝国唯一の反逆者。オスカー・フォン・ロイエンタールは、ミッターマイヤーの脳髄の中で、彼にその傲岸な笑みを投げかけるのである。
ロイエンタール。ミッターマイヤーは、彼の名を、彼が生きていたときのように呼んでいた。あそこにいるのは、間違いなく卿の子である。フェリックスがミッターマイヤー家の息子と名乗るのは、彼の名誉ではなく、俺の名誉である。彼は、彼自身の才覚と努力によって、その父のきわみに手をかけたのだ。
勝敗は決した。艦運用が本格的になる前に、ミッターマイヤーは心のうちでそう断じた。このとき、宇宙でミッターマイヤーとおなじ境地にあったのは、彼とフェリックスを除いて、非公式に三名いたと伝えられる。共和自治政府の軍事指導者ユリアン・ミンツは、この中継を見ていなかったとされているから、じっさいはふたりである。そのふたりは、いま宇宙においてミッターマイヤーの弟子のもとではたらいているため、模擬会戦の会場内には、だれもいなかったことになる。
フェリックス麾下の艦隊は、大きく三部隊に分けられた。六千の中央艦隊、両翼二千ずつの左右艦隊である。中央艦隊は横隊を形成し、その後方に二千ずつが控える。天球上から鳥瞰すれば、全体的に横に広い陣形をつくりつつ、前進していた。
フェリックスの相手となったのは、ツェーザル・フォン・リッペという少年だった。彼は旧銀河帝国の首都星オーディンの出身であり、幼年学校において第二位の成績を有していた。学友フェリックス・ミッターマイヤーに刺激を受けながら、彼の才知の学友における第一の理解者でもあり、そしてそれに嫉妬するものでもあった。彼はごく自然に、どこかでこのダークブラウンの髪の同期生に勝ちたいと思っていた。そして、今回模擬会戦で司令官をつとめるという栄誉を得、フェリックスを打倒するために周到な準備を重ねてきた。彼の努力は涙ぐましいものであり、勝利の女神が同情して、彼に微笑みかけてもなんらおかしくないと思われた。
だが、彼の反対側に立つ少年は、浮気性の女神の寵愛をだれよりも受けており、少年の右腕に抱き着いた女神は、彼に接吻を求めんありさまであった。
ともかく、このときのツェーザル少年は、女神は自分についているものと誤認していた。フェリックスは兵力分散の愚を犯し、それも大隊とその遊撃ではなく、中規模の隊がみっつである。こちらは一万で一隊を形成しており、隊同士でむかいあった際の兵力は圧倒している。したがって、こちらは補給を十全におこなったうえで三連戦を挑めば、勝利は疑いない。
彼は頭の中ですばやく計算を行った。その末に、三連戦でも兵力は十分であり、どのように補給をおこなえばいいのかの解を導き出した。その点で言えば、彼はなかなかに非凡な才をもつ戦術家で、また部下にとっても慕うべき指揮官でもあった。
ツェーザル少年は、全艦に紡錘陣形をとるように命じた。前方の六千の中央艦隊を突破し、背面攻撃を仕掛けるのである。その際、両翼の計四千が背面で待ち構えている可能性を考慮しなければならない。この危険を鑑みて、彼は作戦行動の前に偵察をだした。その結果、驚くべき報告を耳にする。左右両翼の二千は、中央艦隊から遠く離れた位置に布陣している——。
ツェーザル少年の決断は早い。稚拙な包囲作戦の途上にあるのかもしれないが、このまま全速で前進すれば、その両翼は間に合わない。彼は紡錘陣形のまま、突撃を指示した。一週間の時間があったが、そんなに時をかける必要はない。一日で決着をつける。そして、自分は模擬会戦の最短決着記録を打ち立てるのである。
彼は、自らの傍らに女神がいることを疑わなかった。疑う余地がなかった。おたがいの艦砲射程に入る一時間前、ツェーザル少年の補給構想は実現し、そして彼の理論的な説明によって彼の艦隊の士気は絶頂にあった。この時、フェザーン標準時は十九時を指している。
そしてその時は、“獅子の泉”では四人の元帥たちが、宇宙においては少年たちが、そして会場内においてはフェリックスの父とその僚友が、同時にスクリーンを注視していた。
ツェーザル・フォン・リッペ少年は、歴史に刻まれるであろう自分の名前を、心の中で唱えた。リッペという姓はあまり好きではなかったが、なかなかどうして、いいひびきをもっているものだ。
艦砲の射程圏内に入る直前、彼は仰々しく右手を挙げた。
「撃て!」
彼の精神は高揚し、そしてそれに応えるように艦砲から白銀の条光が発射される。相手からの応射もあったが、やはり六千の横隊ではうすい。無理なく眼の前の艦隊を突破して、そのまま背面攻撃に移り、勝敗を決する。その構想はここにきてだれの眼にも明らかで、そしてその成功も疑いないものに見える。
中央突破の最中にあって、それにしても、とツェーザル少年は思う。応射が軽すぎやしないか。そして、ぶつかる直前、横隊が小さくまとまるように見えたのは、気のせいであったのか。
その時、ツェーザル少年の眼に飛び込んできたのは、艦隊の砲撃によるものではない光の爆発であった。
四
“獅子の泉”は、工部尚書ブルーノ・フォン・シルヴァーベルヒが、その類まれなる才覚をもって設計構想を練り、そして建築計画を立てたものである。しかし彼は新帝国歴二年に地球教徒によるテロリズムによって夭逝し、その仕事は時の工部次官グルックに引き継がれた。シルヴァーベルヒの構想は大胆でありながら微に入り細を穿ったもので、グルックはそれを十全に理解するのに一年あまりを要した。その間に、“獅子の泉”を住まいとすべき皇帝ラインハルトは斃れ、建築計画は無期限的に延期された。
竣工が開始されたのは、ヒルデガルド・フォン・ローエングラムが、二代皇帝アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムの摂政として地位を確立した後で、その間の皇室の居住はフェザーン内の高級ホテルを転々としている。
新帝国歴五年には、帝室の居住部分が完成し、ヒルダとアレクはようやく安住の地を得た。いっぽうで彼女らは高級ホテルにおいても、その過剰な扱いに辟易していたから、さまざまな意味で腰を落ち着けることに成功したと言える。
シルヴァーベルヒの構想は、皇室の居住空間としての役割のみを“獅子の泉”に与えてはいない。彼の構想を端的にあらわすなら、“獅子の泉”は居住施設であり、政治施設であり、軍事施設でもある。帝室の居所と、政治中枢の役割を果たす会議室と軍事中枢の役割を果たす作戦指令室は等間隔で結ばれ、それは皇室の居所から徒歩で数分の圏内にある。さらに会議室と各省庁の事務室は至近の距離にあり、いっぽうの作戦指令室と軍事上必要な施設も背中合わせのようにしてある。この構造は、政治と軍事の両方を掌握する皇帝の役割を象徴的にあらわしたもので、かつ機能性にも富んでいるという、まさに皇帝ラインハルトが理想とした大建築物であった。
その軍事施設の一隅には、高級士官向けのクラブルームがあり、ここは特別な場合をのぞき、少将以上の士官が使用を許されていた。普段ならば、上下の垣根をこえるような談笑や諍いが聞こえる場であるが、この日は異様な緊張感をはらんでいた。
その緊張の中心には、四人の元帥がいる。新銀河帝国には七人の元帥がおり、ウォルフガング・ミッターマイヤー元帥を主席として、以下の六人には等分の権限が与えられる。ナイトハルト・ミュラー元帥、フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト元帥、エルネスト・メックリンガー元帥、エルンスト・フォン・アイゼナッハ元帥、アウグスト・ザムエル・ワーレン元帥、ウルリッヒ・ケスラー元帥の六名である。そのうち、ミッターマイヤーとワーレン、ケスラーを除いた四名がこの場に勢ぞろいしており、このようなシーンは新年の朝賀の儀以外には前例がない。そして、その四名はみな、スクリーンをきびしく眺めている。会場内にいるミッターマイヤーから遅れること数瞬にして、彼らはスクリーンに映る少年の深慮と遠謀の一端を解するに至った。
緊張の渦は、まだクラブルームを席巻している。その流れをせき止めたのは、どの元帥の声であったか。あるいは、新たに注文を受けたバーテンダーであったかもしれない。当時そこに居合わせた者は忘我の数瞬の途上にあり、アルコールの霧はその温度と拡散を急速におとしていた。
「おめでとう、フェリックス」
そのささやきを捉えたのは、その艦内でただ二人しかいなかった。アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムのとなりに座る彼の友と、その向かいに座っていた艦隊の司令官である。カール・エドワルド・バイエルライン上級大将は、思わずスクリーンから黄金の髪の少年に眼を移し、その真相を問いただしたい欲求に襲われた。彼とおなじ幼年学校の丸顔の少年も、小さく頷いている。この者たちは、モジュール艦隊の進む未来について何を見ているのか。
ツェーザル・フォン・リッペの艦隊は紡錘陣形を取り、フェリックス・ミッターマイヤーの中央艦隊を突破しつつある。犯しつつある艦隊の司令官は、理想的な補給構想を実現させ、犯されつつある艦隊の司令官は、兵力を分散し、幼稚な包囲攻撃を行おうとしたのであった。すこしでも軍事に造詣のある者ならば、必然的に前者が勝利の美酒をなみなみと注いだ杯を掲げる姿を想像するはずである。しかし、眼の前の少年たち——まだ自分の年齢の半分も生きていない青二才たちは、後者にたいして賛辞を送っている。
爆発音がして、バイエルラインはスクリーンを見やった。スクリーンは光に包まれ、そしてクラブルームを静寂へと導いていった。
この模擬会戦におけるフェリックス・ミッターマイヤーの用兵意図を正確に理解していた者として挙げられるのは、新銀河帝国においては彼の父ウォルフガング・ミッターマイヤー、アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラム、そしてフランク・ドレイクの三名である。ここに、共和自治政府の軍事指導者ユリアン・ミンツが加わるのは、次の伝説による。
共和自治政府にたいする友好をしめす使者に指名されたある高級士官が、ユリアン・ミンツとおなじテーブルを囲み、ハイネセン産のブランデーをなめながら、その美酒の肴として、亜麻色の髪の青年に尋ねた。
「貴方は、Bの艦隊の司令官として、Aの艦隊を撃滅せしめるにはどうすればよいか」
その高級士官は卓上のペーパーナプキンに、胸ポケットにさしてあったペンを走らせ、艦隊の陣形を略式的に記した。両艦隊はそれぞれ一万艦。Aの艦隊は紡錘陣形を取り、Bの艦隊は中央艦隊と左右両翼に兵力を分散している。A艦隊はそのままB艦隊に突入せんとする様相で、こちらの両翼の部隊はその中央突破の迎撃に間に合わない。まさに、ツェーザル・フォン・リッペとフェリックス・ミッターマイヤーの模擬会戦をそのままに、それを若き軍事指導者をなかば試すように突き付けたのである。
ユリアン・ミンツは、その際にいくつかの質問をしたとされる。ひとつ、この戦いにおける戦術目標はなにか。ふたつ、この戦いにおける戦略目標はなにか。みっつ、これはどの星域における戦いで、そして各艦隊はどこから補給を受けているのか。よっつ……。
高級士官が答えたのは、ひとつめの質問だけである。戦術目標は、ただ敵艦隊を撃滅せしめることのみで、あとは自由に考えてしまって構わない。
ユリアン・ミンツは、このやり取りの後、自分はフェリックス・ミッターマイヤーの模擬会戦を見ていないことを白状した。そのはずである。なぜなら、共和自治政府にはこの模擬会戦の様子が中継されていなかったからだ。
亜麻色の髪の青年は、ベンチに座って日光浴をたのしむように、やわらかく微笑むと、こういった。そしてその言こそが、ユリアン・ミンツがフェリックス・ミッターマイヤーの用兵意図を看破していたと言われるゆえんである。
「私なら、中央艦隊をオート・パイロットで無人にし、かわりに機雷を満載します」
爆発が起こった時、アウグスト・ザムエル・ワーレンは反射的に立ち上がり、ウォルフガング・ミッターマイヤーは厳しい視線を、その立体スクリーンに注いでいた。
爆発はひとしきり続き、それがようやく霧散すると、ツェーザル・フォン・リッペ少年の艦隊はほぼ壊滅していた。残ったのは千に満たない数であり、ツェーザル艦隊の旗艦はその指揮能力を喪失している。そこに爆発の範囲外に布陣していたフェリックス・ミッターマイヤーの両翼二千ずつの艦隊が襲いかかる。あのあばずれ女をののしる時間すらツェーザル艦隊には与えられず、またたくまにフェリックスの勝利が決した。
会場内は、艦隊に満載された機雷の爆発以降、深く重い静寂につつまれている。人々はなにが起こったかわからないが、とにかくフェリックス・ミッターマイヤーの艦船モジュールが、四千ほど残っている状況があるという、言い換えれば、イコールの右側のみがわかっていて左側がまったく空欄にされた数式を見ているような状況にあった。場内のアナウンスを担当する者も、勝利者は決まっているであろうが、それをコールすることができずにいる。
この驚愕と忘我の奇妙な均衡のもとに揺れる静寂は、永遠に続くものと思われた。その均衡を崩す権利を、自らが有していると考える者がいなかったからだ。
ワーレンも、その権利を自覚しない者のひとりであったが、しかし、彼のとなりには、それを有しているばかりか強権的に発動すべき者がいる。一度そう考えてしまえば、それ以外にないと思われた。模擬会戦の開始直後から微動だにしない、赤いマントの男。かつて敵軍に最も恐れられた男の、その蜂蜜色の髪がゆれている。
ウォルフガング・ミッターマイヤーは、彼が責任を持つべき——生徒としても、親としても——少年が現出せしめた静寂を打ち破るため、また彼自身の思いを打ち明けるため、立ち上がった。
「新銀河帝国幼年学校校長、ウォルフガング・ミッターマイヤーである」
彼は彼の名と、幼年学校における役職以外を、衆目に対する惹句として用いなかった。彼のほかのささやかな役職は、赤いマントが悠然と物語っているからである。
「本模擬会戦はこれで終了とする。双方、よくたたかった。本日の振り返りほか、各自における反省等はおっておこなうものとする。この場はこれにて解散せよ」
数万人の安堵のため息によって、会場内の二酸化炭素濃度が刹那の上昇を見せた。ワーレンは、彼自身その濃度上昇に加担した者のひとりだが、彼のため息には安堵以外の成分が含まれている。彼もまた、“疾風ウォルフ”に数瞬遅れてフェリックス・ミッターマイヤーの思惑を洞察した者のひとりであったからである。彼は翌日からの僚友の苦労と、そして次週からの自らのそれとを思い、その緊張をため息によってやわらげようとしたのである。
半日前に入場したゲートから、生徒たちが退場していく。その最後のひとり、ダークブラウンの髪の少年が、こちらを見上げている。いや、彼の視線の先にはひとりしかいない。大気圏上層の色の瞳のなかには、さらにその上層の漆黒を蹂躙しつくした男の姿がある。その男の網膜にも、自らの無二の友とおなじ髪の少年が刻まれているはずだ。
ウォルフガング・ミッターマイヤーがマントを翻し、会場内から姿を消した。ワーレンはそのあとに続き、観衆の声が遠ざかったのを確認して、もう一度ため息をついた。
「血は争えんものだな、ワーレン」
廊下を歩きながら、ミッターマイヤーが言う。その背中には先ほどの覇気はない。小柄な背中が、さらに小さく見える。
「フェリックスは、間違いなくロイエンタールの子だ」
「ミッターマイヤー、それは……」
フェリックスの出自は、一応機密ということになっている。新銀河帝国唯一にして最大の反逆者の子を、当時のもうひとりの元帥が養っているなど、民間に知られたら軍部のスキャンダルとして報じられるであろうからである。
「あの子は——フェリックスは、反逆して見せたのだ。制度に、そしてこの模擬会戦の誤謬に。この模擬会戦にさしたる意味などないことを、その用兵によって暴いて見せたのだ……」
ワーレンは、ミッターマイヤーの横顔を瞥した。そこには、“疾風ウォルフ”の面影はない。あるのは、父として、師として、子どもの未来のために悩む男の徒労だった。
五
華美すぎるものを病的に排除し続けた結果、残ったものは高級ホテルから購入したベッドひとつ、マホガニー製のデスクと椅子、そしてマリーンドルフを名乗っていたときから使っていた化粧台だけであった。それだけがこの部屋を構成する原子たちであり、ヒルデガルド・フォン・ローエングラムの居住空間だった。
“獅子の泉”は、フェザーンの他の建築物とくらべて大きいだけであって、旧銀河帝国の王宮と比較して、政治施設や軍事施設をふくめても、その百分の一に満たない規模である。それだけでも彼女には十分すぎるほどであり、それ以上のものは望まなかった。
彼女の部屋に、夫をしのばせるものは少ない。ラインハルト・フォン・ローエングラムはみずからの偶像化を嫌い、自身を描いた絵画や彫刻、銅像その他のいっさいに興味を示さなかった。その暗黙の弾圧によって、彼が憎んだ旧銀河帝国のどの皇帝とも違う歴史を刻んでいる。
ゴールデンバウム王朝——。いまや歴史上の存在となったその名を、ヒルダは痛烈に意識せざるを得ない。つくづく、歴史というものは過去と現在とを対話させるなかで語るべきものであり、歴史を考えるという行為は、無限に拡大していく現在と未来とに思いを馳せる行為なのだ。
ヒルダは、ラインハルトの部下として、妻としての数年間を、いまでもつぶさに思い返すことができた。そしてそれ以上に、アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムの母親として、摂政として生きた十数年を思い出すことができる。はじめの数年間は、ゴールデンバウム王朝の旧弊を打破することだけを考えればよかった。それが革新であり、良き政治と定義することができた。銀河における人々の経済活動は活発となり、銀河は発展を続けている。しかし、ゴールデンバウム王朝の刷新に成功した今、革新と進歩とはなにかという壁がある。いまの政治を続けることは、単なるシステムの保守点検である。システムにほころびが出ないように、故障が生まれないよう、ただそれだけを考えることなのだ。ラインハルトであれば、銀河にさらなる推進力を与えることができたかもしれない。新銀河帝国は、その革新性によって支えられ、正当性を付与されてきたのである。
いまの銀河は、平和である。その平和を疑う者はいない。大きな武力叛乱は十年近くおきていないし、犯罪率は毎年過去最低を記録している。ヒルデガルド・フォン・ローエングラムを未来の人間が評価する場合、まず悪評は書かれず、それどころか彼女を賛美するサーガが歌われるであろうことは、彼女を取り巻く人間ならば確信をもつことができた。
黄金樹は倒れた。そののちに枝をのばし、葉を広げた緑の森は、たしかに美しく見える。しかし、その黄金樹から吸い出される養分がなくなったとき、その森は地下茎から腐り始め、やがて枯れ木に満ちていく。その枯れ木が不要になったとき、それらは燃え、そして新たな森が育つ——。それが何年後のことなのか、ヒルダにはわからない。しかし、このままでは、そうなる未来は避けることはできないだろう。
歴史に問いかければ、必ず返ってくる答えがある。滅びなかった国家はない。ただしみずから滅びを希求した国家もない。すべての国家は栄達をねがい、そしてそのねがいのために滅びていったのだ。ならば、栄達をのぞまなければどうか。国家が国家の栄達をのぞまなくなったならば、それを国家とは言うまい。
窓の外には、フェザーンの日の出がある。その日の出は、いまのヒルダにとっては眩しすぎた。それでも、彼女は地平線を見つめる。その輪郭の向こうには空があり、そのさらに向こうには果てしない銀河があり、そしてそのなかにはわが子がいる。元気にしているだろうか、と問うても、答えは返ってこない。一年の宇宙行で、背はどれだけ伸びたのだろう。宇宙は重力がないから、背が伸びやすいというけれど。食事はきちんと摂っているかしら。苦手なチシャのサラダがでて、上官に見つからないように友にあげてはいないかしら……。
摂政としての自分と、母親としての自分は、交互にやってくる。今は、そのどちらもがヒルダを孤独にさせた。どちらかの仮面を——できれば前者の仮面を、できるだけ早く、彼女は取り払ってしまいたかった。
新銀河帝国軍幼年学校のある一室では、昨日に続いて超長時間的な会議が行われている。幼年学校校長として、ウォルフガング・ミッターマイヤーもそこに同席し、そのとなりには士官学校校長のアウグスト・ザムエル・ワーレンがいる。
士官学校は、幼年学校よりも年長の生徒が在籍するが、軍における重要度は幼年学校の方が上であり、したがってミッターマイヤーが校長を務めることになっている。
幼年学校を卒業してそのまま軍へ入隊した場合、階級は准尉となり、その数か月後には少尉への昇格が約束されている。士官学校卒業後は少尉として入隊できるが、より年少で少尉に昇進できるため、幼年学校と士官学校のどちらかのみに在籍した者では、幼年学校在籍経験者の方が優遇されていることになる。最も理想的な軍への入隊方法が、幼年学校から士官学校へ入学し、大過なく卒業することである。また、幼年学校卒業者は、士官学校への入学の難度が下げられ、自動的に入学するわけではないが、ほぼ問題なくそれが可能であるということになっていた。
臨席した両校の校長をはじめ、主だった教員たちは、みな同様に眉をしかめている。議題はただのひとつであり、それは模擬会戦におけるフェリックス・ミッターマイヤーの、その勝利の方法であった。
「フェリックスの勝利を認めるべきではない」
とする主張もなかにはあった。模擬会戦は、幼年学校で習熟した技術を、より実践にちかいかたちで試行するものであり、そこにただ純粋な勝利は求められていないからである。本来の目的を遂行したのは、むしろツェーザル・フォン・リッペの方であり、奇策によって敗れたとはいえ、彼の戦術的判断と、それを支える補給構想は、教員たちを満足させるものだった。
別方面の意見もまた存在する。
「フェリックスの作戦構想の見事さは、その結果における人的資源の節約にある」
フェリックスの配置した中央艦隊六千には、人員がだれひとりいなかった。六千艦すべてがオート・パイロットによって操作されていたのである。すなわち、六千艦という物的資源の浪費だけで戦闘を終了させたのだ。
しかも、それは無線を利用した遠隔操作ではない。事前にすべての動きが決定されていたのである。ここには、フェリックスがいかに戦闘を予測し、鳥瞰的に戦場を把握していたのか、その能力があらわれているというのである。じっさい、ツェーザル少年はフェリックスの読み通りの作戦行動を行い、そして悪魔的な未来予知能力によって支えられた奇策を避けることができなかった。
議論は紛糾していた。彼らの主張にはどれも義があり、完全に否定されることはほとんどなかった。幾度目かの小休止を終えて、完全に意見の出尽くした彼らは、その上座にすわる蜂蜜色の髪の男が口を開くのを待った。
ミッターマイヤーは、その視線を感じると、だれにも悟られない程度の息を吐いた。彼もまた、悩める者のひとりであり、しかし彼には決定の義務があった。
「フェリックスは四千艦を残し、ツェーザルは全滅した。その事実に対し異論のある者はいるか?」
幼年学校校長の言に、手を挙げて反抗する者はいない。その事実だけは疑いようがないからである。むしろ、この議論は勝利者に対し、その資格を与えるか否かが分かれ目であるのだ。
「もし、この模擬会戦がなかったとして、フェリックスの主席卒業に対し、異論のある者は?」
これも手は挙がらない。フェリックスが幼年学校でおさめた成績は、その十数年の歴史のなかでも頭一つ抜き出たものであって、彼がウォルフガング・ミッターマイヤーの子息であることを鑑みて、成績を厳しくつけようとしても、それは決して覆るものではなかった。
「……ここは、昨年の例にならうとしよう。戦闘終了時点で、残存艦数の多い方を勝者とする。おおやけにはそれを発表し、会戦の細かい反省については、幼年学校で行う。次週からは士官学校の部が始まるが、それは模擬会戦の趣旨をよく話したうえで行うというのはどうだ?」
ここまで歯切れの悪い“疾風ウォルフ”ははじめてだ、ととなりにすわるワーレンは思う。彼は“疾風ウォルフ”の家庭での姿を知らないがゆえにその感慨を抱くのだが、これは戦場でのミッターマイヤーをよく知る者ならば、だれもが抱いたものであっただろう。
会議は無難な着地を見せた。戦闘の細かい振り返りだけならば、それは教員たちの本業であるから、比較的容易に行える。
散会となった議場で、ミッターマイヤーは眉間のしわを指でかるく伸ばした。
「ワーレン、このあと、ワインでも付き合ってくれないか?」
「奥方の元へは帰らなくてもいいのか?」
「遅くなる、と伝えてある」
ミッターマイヤーの愛妻家ぶりは、軍内部でも評判となっている。
「奥方の前では、やつは子猫だ」
とは、フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルトの言であるが、それは周囲の提督たちの苦笑を買った。ビッテンフェルト自身は、家庭に関しては徹底した秘密主義であり、その事実をミッターマイヤーに突かれると、戦場でも見たことのない撤退を見せたのである。
「戦術の教科書に載せたいくらいだ」
そう独語したのはエルネスト・メックリンガーであったか、ミッターマイヤーであったか、ワーレンは憶えていない。おそらく、酔いが聴覚と大脳をつなぐ小径にふたをして、だれもそれを記憶することはなかっただろう。
“獅子の泉”の高級士官用クラブルームは空いていて、ほとんど貸し切りと言ってもよかった。それは彼らにとって好都合だったようで、二人は最も眺めのいい席を確保しながら、ザワークラウトとヴルストという古典的な肴を注文した。
「ワーレン、卿は正直なところ、どう見る?」
四一〇年物を開けるべき時ではないので、ごく普通の高級ワインを飲みながら、ミッターマイヤーが言った。
「無難なところに落ち着いたのではないか?」
「そうではない。フェリックスのあの用兵についてだ」
艦隊に機雷を満載するというのは、ワーレンの見知っているなかでは、これで二度目の戦術である。
……それは、旧帝国歴四八九年のことである。第一次ラグナロック作戦において、ラインハルト・フォン・ローエングラムは、オスカー・フォン・ロイエンタールにイゼルローン要塞の攻略を指示した。そこでの戦闘の一つに、ヘルムート・レンネンカンプが旧同盟の策略にはまり、二千艦ほどの犠牲を出したことがあった。その戦闘を、ワーレンはフェリックスの用兵から想起しなかったわけではない。
ワーレンは、そのことをミッターマイヤーに打ち明けた。ミッターマイヤーは小さく頷くと、その蜂蜜色の頭をゆらした。
「たしかにそうだ。そうなのだが、フェリックスの用兵は、ただそれだけではない」
「模擬会戦の、誤謬というやつか?」
そうだ、とミッターマイヤーは小さく嘆息した。
模擬会戦の誤謬、それは、局地的な戦術的勝利などただの一つの意味ももたないということである。むしろ重要なのは戦略的な優位をいかに確保するかであって、戦闘というものはそれがじっさいに行われるまえに、ほぼ決着がついているものである。
「フェリックスは、われわれに、その戦略的勝利の重要性を自覚せよ、と言っている」
「……考えすぎではないのか?」
蜂蜜色の頭が振られる。
「おれにはわかる。おれは、あの子の親をだれよりも知っているからな」
ワーレンの脳裏にも、ひとりの男が像を結んでいた。その髪、その両目。忘れうるはずもない金銀妖瞳が、不敵な笑みを投げかけてくる。
「おれはな、ワーレン。思わずにはいわれぬのだ。あの子の父の遺伝子を、あの子の右目が、黒く染まってしまうのを」
ミッターマイヤーは続けた。それは友が押し付けてきた宿題を、うらみごとを述べながらこなす子どもにも見える。なぜかそのさまを笑うことができず、ワーレンはいつもより多くの量の赤い液体を口に含んだ。
「あの子が浮かび上がらせたのは、おれたちの驕りなのだ。いまのおれたちに、戦略的な敗北はない、という驕りをな」
ようやく、ワーレンにも見えてくるものがあった。ミッターマイヤーは、おそれているのだ。かつて自らが討った友と同じ道を、フェリックスが歩むのを。模擬会戦がただ戦術的作戦能力を問うているのは、新帝国に比肩しうる戦略構想を練ることのできる主体が、銀河において存在しないからである。それは、新帝国に住む人間ならば抱くはずのない懸念である。この大帝国がたおれるはずがない。その驕りこそ、フェリックスの用兵が暴いたものだったのだ。
なぜフェリックスはそれを暴くことができたのか? その不吉な疑問について、ワーレンは解をあたえることができない。
「ミッターマイヤー、卿はあの男について最もよく知る男であるはずだ」
ワーレンの言葉に、ミッターマイヤーは頷いた。
「ならば、思い出すべきではないかな。おれたちは、やつほどうまく発音できない言葉があることを」
ミッターマイヤーの眼がひらかれる。ワーレンの頭の中に居座る、金銀妖瞳の男の声が聞こえた。
“わが皇帝”。ミッターマイヤーは、何度か独語すると、ワインを一息に飲み干した。
「あの子の発音を聞いたことは?」
「毎年聞いている。年々うまくなってきているが、まだまだおれたちのほうがうまいな」
“わが皇帝”。あの言葉は、皇帝ラインハルトに対する敬愛と忠誠の表象である。ロイエンタールは、だれよりも皇帝ラインハルトを認め、彼の中で信仰すべき偶像を作り上げていた。だからこそ彼は叛したのだ。矮小な者たちに侵されるべきではない、自らの誇りと皇帝ラインハルトの誇りとを守るために。
「今夜は飲もう、ミッターマイヤー。中年の男が二人酔いつぶれたところで、宇宙は滅びたりせんよ」
フェザーンの夜は更けていく。いまは、酔いの波にひたっていよう、とワーレンは思った。その波音が亡き僚友への恨みだったとして、それを咎めるものはいないのだから。