第10話
一
暖炉の火が、みえざるものたちとたわむれていた。ゆらめくようなそのダンスは、不規則ながらも見る者の心をやすらげる。ちいさくもあたたかいその灯火のそばで、ヒルデガルド・フォン・ローエングラムはコーヒーの香りをたのしんでいた。眠気覚ましのために飲むのではない。クリームをたっぷりと入れたコーヒーを、両手でつつみこむようにして持つその動作は、みずからの全身をゆだねるべき眠りの神への、ささやかな祈りに似ていた。
「それで、ヒルダさま。わたし、きいてしまったんです」
部屋に満ちるものが暖炉の火のたてる音だけであったなら、その部屋は静謐と言ってよかった。しかし、それをうち破る女性がひとりいて、暖炉の音を伴奏に、五秒以上の休符をさしはさむことなく、話を続けるのである。
「"国とわたしと、どっちが大事なの"って」
「旦那さまは、何と?」
「"国家のなかには、きみも含まれているよ"、ですって!」
ふたりのあいだに、はじめて五秒以上の無音が流れた。こういうとき、それを破るのはヒルダの役割なのである。
「……それで?」
「わたし、うれしくなってしまって。かっこいいなあって」
絶えず変化する銀河のなかで、彼女だけが少女のままだった。姓のみが、"フォイエルバッハ"という、"なんだかえらそう"なものから、"ケスラー"という"途方もなくえらい"ものへと変わってしまったが。
マリーカ・ケスラーは、結婚ののちも摂政ヒルデガルドを内面からよく支え、ときには話し相手として、ときには世話係として、ほとんどの場合は幼帝の遊び相手としてつかえた。本人としては、"乳母のような役割"らしいのだが、アンネローゼがその役割を十分以上にはたしていたために、彼女のおさまる役は、幼帝アレクの遊び相手だったのである。幼帝の友がそばにいないとき、マリーカほどそれに適任な者はいなかった。彼女の幼さは、この方面についてはたいへんに貴重だった。
きのう、アンネローゼとともに、ジークフリード・キルヒアイスの墓参りからフェザーンに帰ったばかりである。ほんの数週間、フェザーンを留守にしただけで、ケスラー家には事件が絶えないようだ。そのほとんどの主犯はこの黒髪の少女で、元帥としてもどう思っているのか、ヒルダにはわからなかった。
「あまり、ケスラー元帥に迷惑をかけてはだめよ」
このことばが、自己矛盾の産物であることは、ヒルダも気がついていた。ケスラーにたいして激務を課しているのは、ほかでもなく自分であるのだから。ケスラーほどの男であれば、本来はよき家庭人としての役割をこなすことができていただろう。しかし、ヒルダの矛盾に気づかぬほど、マリーカは愚鈍ではない。ヒルダの葛藤も、すべて噛みしめ、飲みこんだうえで、彼女はなお幼くいられるのだ。
「でも、"きみがいるから帰って来られるのだよ"とも言ってくださるんですよ」
幸せそうに笑うマリーカをねたむことはなかった。あまりにみじかく、形式的かつ儀礼的であった自分の結婚生活にくらべたら、マリーカのそれははるかに長く充実したものだろう。みずからが得られなかったものにたいして、人はなんらかの黒い感情を抱くものであるが、ヒルダとマリーカの間には、そういったものは一切なかった。むしろ、ヒルダはマリーカの"惚気"をたのしみ、ウルリッヒ・ケスラーという空前の傑物の意外な一面を興味深く思っていたのである。
「ねえ、ヒルダさま」
テーブルに体をあずけたようにしながら、マリーカは言った。瞳のなかで、炎がちいさくゆらめいていた。
「ヒルダさまの旦那さまって、どんな方だったのですか?」
両手につつみこんでいるコーヒーは、まだ心地よくあたたかかった。カップを通じてその熱を感じながら、ヒルダはそっとふたつのまぶたを閉じる。暗闇のなか、テーブルの反対側に、金髪の青年が沈思の表情を浮かべている。記憶のなかの彼は、いつとこんな顔だった。
「とても、手のあたたかい方だったわ」
全身は透きとおるように白く、瞳は天空を凝縮したかのように蒼かった。あの金髪の青年が生身の人間であることを知る手がかりは、両の手のあたたかさだけであった。病に犯されて、すこしずつ血の気を失っていくなかでも、青年の手はあたたかかった。それが冷たくなっていくのを知ったとき、はじめてヒルダは、この青年が死ぬのだと理解したのである。
信じることができなかったのだ。"死ぬかもしれない"という表現から、推量の意味をとるのは用意ではなかった。それがはじめて推定にかわってから、確信、そして事実へとかわっていくのに時間はかからなかった。
死ぬのね、この人は。最後にヒルダへおとずれた感情。それはあきらめだった。 政治を輔佐するものから、主導するものへ。その変化を、自分は受け入れざるを得なかった。
「すてきな方だったんですね」
マリーカは、テーブルに頬杖をつくようにして、ヒルダのことばを待っていた。彼女の微笑のまえには、いかなることも些末で、しかしたのしいもののように思えてくる。
「ええ」
ほほ笑みかける。それは、疑ったことがなかったからだ。あの青年以上に"すてきな方"は、全宇宙を、もしくは人類の歴史をさかのぼって探してみても、見つかるはずはないだろうと確信できた。
「なにか、だれにも話したことのない秘密とか、あるんですか?」
「秘密?」
「そうです。旦那さまとの、お惚気みたいな話です」
秘蔵のいたずらをいままさに実行しつつある少女のように、マリーカは笑った。
マリーカのいたずらにたいして、律儀にこたえる義務を、ヒルダは負っていない。マリーカの口の堅さというものは信用できぬものではなかったが、それでも、こたえてあげてもいいものだろうか、とヒルダは逡巡してしまった。
その迷いをかえりみることなく、彼女の明晰な頭脳は、数年間の日々を丁寧になぞりはじめる。それは銀河の果てに存在をたしかに主張する星たちのように熱く、ひややかで、危うく、そして美しかった。
金髪の青年は、ヒルダの庇護者だった。それが上官にかわり、至尊の皇帝へとかわった。しかしそれは青年が最後に手にいれた称号ではない。彼はのちに夫となり、はてには父となった。
そう――彼は父になった。ヒルダがそう感じたのは、一通の手紙を受け取ったからだった。それはたったひとつの積み荷をのせた宇宙船である。積み荷は、新たに生まれる男児の名であり、宇宙船の名を示すように、あることばが書かれていたのだった。
その宇宙船の名は、"ヒルダへ"というものだった。直接名前を呼ばれたことはおおくない。だが、黄金の髪をいただくひとりの男が、愛する妻にむけた大切な贈り物をとどける宇宙船に、そのことばを選んだのである。
「……おしえてあげない」
沈黙はわずかであったにちがいない。マリーカはそれを待ったごほうびを期待して、わくわくしたような顔を浮かべていたが、すぐにそれは怒った少女のものにかわった。だが、それもすぐにもとのほほえみにかわる。その変化を促したのは、ヒルダ自身のほほえみだった。
「ヒルダさま、とてもいいお顔をしておいでですね」
皮肉の成分を一ミクロンも含まないその論評は、その発言者がマリーカでなければできなかっただろう。
「そうかしら?」
「そうです。とてもいいお方だったのですね」
マリーカは、そう言って"つまんないの"とおおげさに椅子によりかかって見せた。小気味良い音をたて、椅子がわずかにゆれる。
「愚痴のひとつでも聞けるかと思ったのに」
「愚痴?」
「そうです。"結婚して損した"とか、"もっと楽に結婚生活を楽しむはずだったのに"とか。そういうのを期待してるんですよ、みんな」
本心でないのはあきらかで、マリーカのことばには嫌味が全くなかった。ヒルダはそっとほほえんで、
「みんなって?」
と、いたずらをし返してみせた。ふたりは、ただ友だちだった昔に戻っているのである。
「それは、みんなですよ」
「たとえば?」
「わたしとか」
「たったひとりしかいないなら、みんななんて使わないわ」
「あ、ひどい、ヒルダさま。そんなにからかって」
「いいから、おっしゃい」
「わたしの負けです、ヒルダさま。愚痴とか、ぜんぜん期待してません」
「あら、あなた、私にうそをついたのね」
「もう、ちがいますよ」
ふたりの笑い声が、暖炉の光もゆらしたようだった。その声が大きかっただけに、薪がはぜる音によってひきたてられた沈黙もまた、ひときわ大きくなる。あまりに大きな沈黙は、人をセンチメンタリズムの隷属者にさせてしまうらしかった。
「わたし、心配だったんですよ。ほんとうは、ご結婚そのものを後悔なさっているのではないかって」
ヒルダもまた、暖炉の薪が奏でる不規則な音色に、感傷の念をゆすぶられたひとりであった。後悔、ということばが、渦のようにさまざまな情感をからめとっていく。だが、ヒルダの小宇宙に広がる大洋は、その渦の存在すらも許容していたのだった。
「後悔しているのかも」
マリーカが息をのんだ。それは帝室のスキャンダルを眼の前にしたハイエナの動作ではない。彼女は、全生涯をかけて友人でありたいと思う麗人の、いままでだれのものにもならなかった心のうちをさらけだされた思いだったのだ。
「でもね、マリーカ。私はたぶん、あの方と結婚しなくても、後悔をしていたと思うの」
火のはぜる音。そろそろ、薪を足さなくては。いや、そのまえに、眠りの神にささげる祈りが届くだろうか。
「だから、私は、どっちがより刺激的で、甘美なのかを考えるのよ」
コーヒーの最後のひとくちを飲み、ヒルダは笑った。それにさそわれて、マリーカも笑う。いささか彼女のものにしてはぎこちないのは、さっきの緊張を引きずっているからだろうか。
「よかったです、ヒルダさま。ほんとうに……」
ラインハルト・フォン・ローエングラムとの結婚について思いを馳せるとき、その述懐に後悔の成分は一ミリグラムも含まれてはいない。それは信念にも似た認識だった。あの方との結婚を、後悔してはいけない。すこしでもその疑念を抱いてしまえば、生まれてきたわが子を否定することにもなるのだ。
だが、いまの地位と境遇とに疲弊しているのも、また事実だった。その疲弊を肉体的要因と精神的要因とに区別するのならば、その大きな比重を占めているのは後者である。その憤懣を、だれかにたいしてもらすことは、ヒルダにはできなかった。むろん、それはマリーカにたいしても。彼女ならそれを受け容れてくれることは疑いないものの、だからといってみずからがその呪縛から逃れることもできはしないのだ。
さまざまな感情は、波のように日々のなかで繰り返される。まったくおなじに見えるそれは、ひとつひとつが質的にも量的にも違いがあるのだ。そして時には、暴風とともに岩をも削り、またおだやかになってゆく。
あの子がおとなになるまで。わが子へ権力が完全に委譲されたのなら、この苦しみは消え去るのだろうか。だが、それはわが子へ苦しみをそのまま押しつけることではないのか。それは、あまりにも無責任ではないのか。責任と権力が一局へ集中してしまっているがゆえに、専制政治であるがゆえに、自分はこんなにまで悩むのだろう。
マリーカが、ヒルダの肩をやさしくたたいた。きっと、葛藤が瞳に出てしまっていたのだろう。
「わたし、そろそろ眠りますね。あしたは、シェフにお願いしてヒルダさまの好きなものを作っていただきますわ」
マリーカは、ヒルダの内面における葛や藤の絡まりをほぐすこともしなければ、むりやりにちぎることもしない。彼女はただそばにいて、ヒルダがみずからその蔓草のなかから歩みだしてくるのを待っていてくれるのだ。
「ありがとう、マリーカ。またあした、アレクとも遊んであげてね」
食器を下げはじめたマリーカに、ヒルダは言った。マリーカはおとなの女性らしく柔和にほほえむと、ヒルダの良い夜を祈ることばを残して退出した。
ひとりになった部屋に、暖炉の音だけが満ちていた。
ヒルダは、しばらく暖炉の火を見つめ、それから薪を一本足した。火は半瞬だけちいさくなり、そしてまた新たな薪へ食らいついて大きくなった。
二
親愛なる主兼友人に良き夜の来訪を祈ると、マリーカ・ケスラーはみずからにあてがわれた部屋へむかうために、“獅子の泉”の廊下を歩きはじめた。日付は、すでに変わっている。深夜帯においては低照度のままたもたれているあかりは心もとなかったが、勝手知ったる道を歩くには不自由を感じなかった。巡回のために歩いている者がいないのは、“獅子の泉”の警備システムがこれ以上ないほどに信頼できるものであることの証左だった。
静かな廊下で、彼女はふと、自分の部屋への最短経路から逸れた。すこしだけ回り道をしようと思ったのである。たとえそれが短きものであったとしても、寄り道は旅の華である。彼女が一目でも見たいと思ったものは、ふたりの少年の寝顔だった。
アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムが惑星フェザーンに帰ってきたときのことである。だれよりも先に迎えに行き、からだを抱き上げてその帰還を喜んだマリーカの腕の中で、少年は、
「フェリックスに会いたい」
と言ったのである。親心ならぬ乳母心を傷つけられた思いのしたマリーカであったが、主の願いよりも自分の心を優先させるわけにもいかない。彼女は少年を抱き上げたままくるくるとまわり、束の間の独占をたのしんでから、すぐに少年の欲求を満たそうとした。少年が待ち望んでいた相手は、母親とともにアレクの迎えに来ていたのである。
マリーカの腕のなかで、アレクはそれを発見したようだった。彼女がゆっくりと地面におろすと、少年は一目散に駆けだした。そのまま一歳年長の黒髪の少年に抱きつき、そのままこう言った。
「“わが友”」
それは熟練の職人によってつくられた金管楽器のもののように、美しい音色だった。音に深みはないが、それはこれから何度もその音を出していくにしたがって増していくだろう。
「どうされたのですか?」
黒髪の少年は困惑し、それ以上に周囲の者もみな困惑していた。それはマリーカとて同様である。オーディンへ行くまえまでは、アレクは黒髪の少年のことを名で呼んでいたはずである。それが、いまでは称号によって呼ぶようになっているのだ。
その真相を知る者は、ただふたりしかいなかった。少年の母と、その伯母である。マリーカはふたりから簡単に話をきき、そして彼が宇宙船の中で、伯母からその発音の手ほどきを受けていたということを知ったのだった。
それから、アレクは友の着ていた服のすそを手放そうとしなかった。母親がいくら言っても聞かないので、しかたなく一日だけではアレクの好きにさせてやろうということになったのである。アレクは何度もフェリックス・ミッターマイヤーのことをその称号で呼び、フェリックスに返事をさせた。
「フラウ・ミッターマイヤー。今晩、フェリックスくんをお借りしても?」
「ええ、もちろん構いません。あの子もきっとよろこびますわ」
ふたりの少年の母親はにこやかに挨拶をかわし、そうしてフェリックスの“お泊まり”が決定したのである。
そんなふたりがどんな寝顔をしているのか、マリーカは気になってしまった。彼女としても、ふたりの美しい少年の乳母であり、姉であり、年長の友のような立場を、存分に利用してやろうという気持ちになっていたのだ。もちろん、そこには“お世話”という大義名分もある。もし毛布が落ちていたら、かけなおして差し上げよう、などと考えていたのである。年少の男の子の寝相というのは、どんな生まれであっても芸術的にすぎるのだ。
アレクの部屋を視界に入れたとき、彼女はその違和に気が付いた。部屋のドアが、わずかに開いている――。マリーカは瞬時に最悪の状況を想定し、叫び声をあげる準備をしながら、忍び足でドアに近づいた。まさか、警備システムが破られたのか?
そっとドアの隙間から部屋のなかを見渡す。ベッドのそばにあるランプはついていて、それだけでふたりがいないことがわかった。ふたり以外の不埒者の存在も、そこには感じられない。マリーカはすばやくドアを開けて中に入ってゆく。やはり、ふたりはいない。
「そんな、まさか……」
誘拐? しかし、部屋に暴れたり、争ったりした形跡はなかった。あらかじめ計画されていたかのように整然とした空間のなかで、マリーカはクローゼットのなかを見てみる。そこで、彼女はようやく安心した。いつもクローゼットにかけてあるはずのカーディガンがなかったのである。ならば、ふたりがいなくなった原因は、ふたり以外の他者によるものではない。
カーテンがあけられた窓からは、美しい星空が見えている。きっと、ふたりの少年は、この星空が奏でる歌声にさそわれて、それがもっともよくきこえる場所で寝転んでいるのだろう。ふたりにとって、その歌声は子守唄などではなく、宇宙へと赴くみずからを鼓舞してくれる行進曲なのだ。
マリーカは、ランプのあかりを消した。それは彼女の足跡を残すようなものだった。それで、あの聡明なふたりならば、きっと、自分たちの小冒険が完全なる秘密のままに終わらなかったことに気が付くだろう。マリーカはふたりを叱るつもりはなかったが、完璧な成功体験のままに終わらせておくつもりもまたなかった。“次はもっとうまくやりなさいね”、と彼女は伝えようとしたのである。
静かに部屋を出ると、規則的な足音がこちらに向かってきていた。
「あら、主席元帥閣下」
思いのほか大きな声が出て、マリーカは手で口をおさえた。そういえば、叫び声をあげる準備をしていたのである。蜂蜜色の頭髪をいただいた男は、苦笑いをして、
「これは、フラウ・ケスラー」
と声量をおさえて言った。
「どうされたのですか?」
こんな時間に、主席元帥が“獅子の泉”にいることは珍しかった。
「すこし、軍の人事にかんする話し合いが長引きまして」
アレクサンデル・ジークフリードは、皇帝である以上、新銀河帝国軍の統帥者である。しかし、それに責任と遂行の能力がないため、それらの役割は摂政であるヒルダにあずけられていた。だがヒルダも軍事的には素人に等しく、結局はウォルフガング・ミッターマイヤー主席元帥がその役割を一手に引き受けているのだった。
「それはたいへんでしたね」
「ええ、それで、心身が疲弊すると、わが子の寝顔が見たくなるものでしてな」
弁解するように言って、主席元帥は頭をかいた。宇宙一の傑物のやさしい家庭人の側面が見えて、思わずマリーカは笑ったが、しかし、このまま彼が少年たちの寝室に向かうと、ふたりの小冒険が露見してしまう。そうすれば、叱責を受けるのはフェリックスのほうである。マリーカには、ふたりの少年が、どういうやり取りの末に現在の状況に至ったのか、手に取るようにわかるのだ。
「フラウ・ケスラーは、どうされたのですか? 陛下のご寝室から出られてきましたが……」
マリーカはめまぐるしく頭を回転させた。主席元帥を部屋に向かわせず、納得して帰っていただくにはどうすればいいのか。
「それが、主席元帥閣下」
必要以上に声をひそめ、ミッターマイヤーに耳打ちするように言った。
「わたしも、ちょっとおふたりのお顔を見てみたくなって、この部屋のまえまで来たのですが、そうしたらランプがつきっぱなしだったことに気付いてしまったんです」
「なんと。それはフェリックスの教育がなっていませんでしたね。わずかとはいえ、エネルギーの無駄は非難されるべきです」
「いえ、おふたりはまだ起きていらっしゃったんです。お泊りする子どもの心理ですわ、閣下」
ミッターマイヤーは、あごに手を当て、考えるような仕草をした。
「ふむ、なるほど。それで、フラウ・ケスラーはふたりを寝かしつけてくださったのですね」
「はい、そうです。三〇分以上もかかってしまいました」
「そうだったのですね。いや、これは失礼を。せっかく寝かしつけてくださったのに、それを無下にするようなまねはできません」
「ありがとうございます、閣下」
踵を返そうとするミッターマイヤーを見て、内心で深く胸をなでおろしながら、マリーカは言った。
「とても仲のよさそうな、きれいな寝顔でいらっしゃいましたよ」
ミッターマイヤーがちいさく微笑む。やはり、それはやさしげな家庭人の顔だった。
惑星フェザーンは、緑化された帝都を一歩外に出ると、そこには荒涼とした大地が広がっている。大地と星空とがまじわる一本の直線。それはとなりあう惑星と宇宙の境目だった。凝視する。みずからの視線が、惑星と宇宙のどちらに注がれているのか、フェリックス・ミッターマイヤーにはわからなかった。交互に行き来しているようにも、どちらか一方に注がれているようにも、それは感じられる。惑星と宇宙の境目は、まだ彼にとっては現実と憧憬の狭間だった。
彼のとなりには、黄金の髪をいただく少年がいる。少年はフェリックスの服のすそをつかみ、フェザーンの夜のなかで寒さに身をふるわせていた。外に出よう、と言ったのは少年のほうだった。少年のからだのふるえは、小冒険を申し出た者と帰還を申し出る者とが同一になるのも遠くないことであることを示しているようにみえる。
現実と憧憬の果てを眺めるフェリックスのよこがおを、アレクサンデル・ジークフリードが凝視している。少年にとっては、大地の果てや、その向こうに広がる銀河よりも、そばにいるたったひとりの友のほうが、現実と憧憬に満ちていたのである。
「ねえ、フェリックス。どこを見ているの?」
アレクは、フェリックスの定まらぬ視点を見て取り、問うた。
「あの、一本の線を見ています、陛下」
アレクはまだ地平線という言葉を知らないだろう、という配慮だった。フェリックスもまだ幼いが、アレクのために早熟でなければならなかったのである。彼はその年齢に比してあまりある知識を、すでに身につけていた。
フェリックスは、アレクの左手をとって、地平線に指をむけさせた。その指さきは冷たかった。
「あの、一本の線から上が、宇宙。下が、私たちの星です」
地平線をなぞるように、指を動かす。アレクは、じっとその指さきの向こうを見ていた。
「じゃあ、フェリックス。まっすぐあの線へ歩いていけば、ぼくたちは宇宙に行けるのかな」
「それは、できません」
「どうして?」
惑星は球体だから、大地の果てへ歩けどもあるのは大地である、と言ったところで、アレクがそれを理解できるかも、信じてくれるかもわからない。それに、フェリックス自身も、その直線にむかって歩き出したこともないのだ。はたして、本当に惑星が球体であるのか、自分はこの眼でたしかめたわけでもないのである。
「宇宙へいくためには、宇宙船が必要だからです」
いささかはぐらかした答えではあるが、今のアレクにはそれで十分であった。アレクは左手をフェリックスにあずけながら、ちいさくうなずいた。
「そっか、じゃあ、よかった」
フェリックスの熱が移ったのか、アレクの指さきがあたたかさを増してくる。それはとても頼もしいようにも感じられた。
手を放す。アレクの左手は、束の間、みずからの意志で直線のうえにあったが、やがてゆっくりとおろされていった。
「なぜです、陛下?」
フェリックスはほほえみ、アレクの返事を待った。このような、知的生産とは無縁とも思えるやりとりを、彼は好んでいたのである。
「だって、宇宙船にのらなきゃ、フェリックスは宇宙へ行っちゃわないってことでしょう?」
虚をつかれた思いがして、彼は息を止めた。少年のまなざしは、こちらへ向けられている。その蒼氷色の瞳は、どこからともなく届いたかすかな光を、強烈に照り返していた。その光に耐え切れず、フェリックスは眼をそらす。そらした視線の先には、現在と未来とを区分する直線があった。
「いつまでも、そばにいてよ、“わが友”」
大地と銀河、現実と憧憬、現在と未来……一心にフェリックスを見つめる蒼氷色のまなざしをうけながら、彼の視線は両者のあいだをゆれうごいていた。たかが一本の直線。しかし、それを越えることが、どれだけの意味をもってしまうのか。
もう一度、アレクへと向き直る。少年のまなざしは、微動だにしていなかった。はぐらかすことは、赦されるはずもなかった。
ここには、父のように助言をあたえてくれる者もおらず、むろん相談すべき相手もいない。すべては自分の意志のうえで決定されなければいけなかった。しかも、かつてないほどの迅速さで。
地平線を思い出す。そこに答えはなかった。それはどちらかの狭間であったから。
「はい、陛下」
フェリックスはその言葉に本心をのせることができなかった。アレクはそれに気が付いただろうか。本当は、気が付いてほしかった。そのことばの空虚さに、自分のまなざしの先にあるものに。嘘だ、と問いただしてくれるのなら、どれほど楽なことか……。
しかし――アレクは笑った。渇ききったのどが冷たい水で潤されたように、きょう一番の、輝くほどの笑顔で。
「ありがとう、フェリックス」
自分ではない、フェリックス・ミッターマイヤーというひとりの少年が、微笑みかけている。本当の自分はそれより半歩だけうしろにいて、地平線に向かって、その上方で無限に広がる漆黒をながめているはずだった。
ミッターマイヤーという姓を享けたこと、アレクサンデル・ジークフリードの友であること。それは、自分を縛り付ける鎖なのか。
地平線。大地と漆黒。夜明けは、まだ先のことだった。
「そろそろ帰ろう」
からだを震わせたアレクが、フェリックスの腕をつかんだ。手は、再び冷たくなっているようだった。アレクが風邪を引いては、父に叱られるのはむろん自分のほうだ。
おれは、自由でありたいのかもしれない――。
そう思って、最後にもう一度、地平線へ眼をやった。その下方と上方と、どちらを眺めていたのか、フェリックスにはわからなかった。