大海を統べる   作:茂上軒二

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第2話

 

 カール・エドワルド・バイエルライン上級大将の艦隊は、予定されていた航路を順調に運行していた。各管区の綱紀に緩みはなく、新銀河帝国の統治はじゅうぶんに行われている。

 予定航路の前半は、旧自由惑星同盟領を通るというものであったが、そこでも問題はなく、バイエルラインはイゼルローン要塞がその視界に入った時、思わず胸をなでおろしてしまった。その後も巡航は進んでいて、フェザーン回廊の旧銀河帝国側の要塞、“三元帥の城”まで、残り二週間という行程だった。

 旗艦ニュルンベルグに付くふたりの幼年学校生には、たびたび驚かされることがあった。アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムは、その父と母を知悉しているぶんもあり、その優秀さには納得がいくのだが、もう一人、丸顔のフランク・ドレイク少年は、その優秀さに説明がつけられないだけ、驚きは何倍にもなった。

 しかし、アレクのそばにいるというだけで、ドレイク少年にあたえる影響は、計り知れないのかもしれない。アレクは常にドレイクの範としてあり、それに比肩しうる人物となるためには、ドレイクは研鑽を怠るわけにはいかないのだ。

 ドレイクの出自は、旧同盟首都星ハイネセンであるということもあり、幼年学校では相当綿密な調査を重ねていた。その結果、彼の出生は、新銀河帝国歴三年の五月であり、バーラト星系のある小さな有人惑星からハイネセンに向かう途上の、宇宙船内における小さな出来事だったらしい。妊婦の恒星間飛行の胎児にたいする影響はたびたび指摘されているが、民間ではその周知は徹底されていない。フランク・ドレイクの母も、それを知ってか知らずか、もしくはやむを得ない事情があったのかもしれない。ともかく、フランク・ドレイクの出生の記録はそのようであり、出生後一番初めに入った病院の所在地を、赤子の出生地とする法のために、彼はややこしい運命を歩んでいる。

 ドレイクの父はバーラト星系を拠点とする商人で、それなりの成功を収めている。その成功を測る指標の一つに、ドレイクの出生後に、ハイネセンが自由惑星都市の首都星であったころ、そのなかの中枢として栄えていたハイネセンポリスの一隅に、一軒家を購入した事実がある。息子の誕生後に、宇宙を飛び回る生活から脱し、腰を落ち着けたのだろう。

 これだけではドレイクが新銀河帝国軍幼年学校に入学してきた理由は見えてこないが、ここで新銀河帝国のドレイクに関する調査は終了している。考えてみれば、ハイネセンを始めとするバーラト星系の諸惑星は、共和自治政府のもとにあるといっても、その自治政府が新銀河帝国の承認のもとにあり、両者の関係は子と親のようなものであるから、ハイネセン出身者が新銀河帝国側の軍幼年学校に入学してきても不思議はないのである。むしろ、勢力図を考慮すると、より栄達をのぞむのなら、正しい選択とも思える。

 ここまではバイエルラインの彼自身の理性と合議したうえでの考察だが、彼の本能の意見を聞けば、ドレイクのその出自を理由に疑う必要はないと感じている。それどころか、将来的には新銀河帝国に必要な人材となりうることも考えられた。それだけ彼は秀才と言ってもよく、アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムはよき知己を得たと断言できる。

 平時の艦橋において二人に教えられることは、もうほとんどない。二人の少年は、バイエルラインの教示を吸収しつくし、そして知識に対して無限なまでの欲望を示している。それは好ましいことで、バイエルラインはその結果に満足していた。

 ただひとつ満足できないことがあるとすれば——バイエルラインは右手のコーヒーカップに眼を転じた。これはアレクが気を利かせて淹れてきてくれたもので、主君からそのようなものを受け取るのはわずかな引け目を感じたが、バイエルラインはありがたく頂戴した。彼はここでは幼年学校生として上等兵待遇であり、バイエルラインは司令官だからである。それはそうとして、このコーヒーの味はどういうことなのだろう。飲めないということはない。だが、上品な苦みと香りこそがこの飲料の利するところであるのに、その苦みを逆方向に引き立て、かつ香りを完全に消し去る技量に関して、アレクを上回る者はいないだろう。そう思わせるだけの違和感が、このコーヒーにはある。

 コーヒーの淹れ方は、幼年学校で学ぶものではないし、ニュルンベルグ艦内において師と仰ぐべきコーヒーの名手はいない。むしろそれは家庭において学ぶものであって、そこにはアレクの師になれる者はいなかったのだろうか。バイエルラインは、この事実に、微笑ましいまでの帝室の一面を見る。あるいは、無欠に見えるヒルデガルド・フォン・ローエングラムの、決して嘲笑されるべきではない欠点と言うべきか。

 カップ半分ほどのコーヒーを喉へ流し込み、嚥下していく違和を食道と胃に感じながら、バイエルラインは二人の少年を呼び寄せた。教えることはもうほとんどない。ただし、なおひとつだけ、彼には主張すべきことがあった。それは彼の誇りであるか、あるいはエゴイズムの一端であるかもしれない。しかし、無駄なものではないという確信が、銀河における最大の動乱期を生き抜いた彼にはあった。

 

 アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムは、この宇宙戦艦を好ましく思っていた。人員は能動的でありながら自律し、しかし過分なほど厳格ではない。行き届いた規律は艦内の清潔さとなってあらわれ、個々人の人格は活気となって現前する。なにより司令官バイエルライン上級大将は、元帥に最もちかいという評判に過不足なく応えるものであり、彼から教示されることはすべて理にかない、そして新鮮さと驚きに満ちていた。

 そんな彼から、ただちにフランク・ドレイクとともに艦橋へ来るよう、指令があった。フェザーンまではのこり二週間と少しであり、艦を離れる名残惜しさを自覚しつつある時分である。新しいことを教えてもらえるかもしれないという期待と、何か失敗をしていたのかもしれないという不安が、後者の方がわずかに優勢にあるという心持ではある。

 失敗と言えば、何だろうか。きょうの任務に特別なものはなく、それはすっかり手慣れたものであり、仕損じたということはないはずだ。あるいは、先ほど持って行ったコーヒーだろうか。あれはかなりうまく淹れられたはずであるが……。

 ニュルンベルクの艦橋は、背筋に粟が立つほどに緊張感に満ちていた。何かあったのだろうか。一年近い行程であったが、そのなかでこれほどの緊張感をたたえる一瞬はなかったはずである。

「ご安心ください、陛下。接敵などではございません」

 艦隊の司令官が、恭しく敬礼をして言った。

「こまります、閣下。私は上等兵です。陛下などと……」

「いいえ、ちがうのです、陛下。これより、私が艦隊に次の指令を出すまで、皇帝と臣下に戻らせていただきたいと思います。そのうえで、これから私がはたらくご無礼をお許しいただきたいのです」

 バイエルラインの眼光は鋭く、それは疑いようもなく、新銀河帝国における二万艦を率いる男のものだった。アレクは思わず息をのみ、そして冷静に言った。

「わかりました、バイエルライン上級大将」

 バイエルラインは微笑み、もう一度敬礼をした。

「陛下におうかがいいたします。率直におこたえいただきたいのです。このようなことをお聞きになったことはございませんか。『銀河最強の艦隊とは、ビッテンフェルト元帥ひきいる黒色槍騎兵艦隊である』と」

 取りつくろっていても仕方があるまい、とアレクは思う。バイエルラインの問いに、アレクは無礼を承知で頷いた。バイエルラインは再び微笑み、そしてすぐに上級大将のものへと表情を変えた。

「われわれは——旧ミッターマイヤー艦隊は、その評を聞くたびに、にがにがしく思っていたものです。いま、あえてこのように申し上げましょう。十数年前もいまも、銀河最強の艦隊とは、変わらずにわれわれであると」

 二万艦を率いる青年提督は、艦橋スクリーンに体を向けると、両腕を組んだ。

「全艦、最大戦速」

 艦内に緊張が走る。艦のコンソールに、乗組員たちの両手が目まぐるしく這いまわる。となりで、ドレイクが息をのむのが聞こえた。アレクは両脚のふるえを隠そうともせず、しかし艦橋スクリーンからは眼を逸らさなかった。

「陛下、これが、ミッターマイヤー主席元帥が“疾風ウォルフ”と呼ばれていたゆえんであり、そしてその薫陶を受けたわれわれが、みずからを銀河最強と定義する根拠でもあります」

 艦橋の照明が消え、空気はその温度を急速に落としていった。これは比喩ではない。じっさいに温度は落ちているのだ。アレクは寒さをおぼえ、緊張感によるものだけではないからだのふるえを感じた。

 バイエルラインは口を開かない。口を開かずとも、アレクには艦内がこうなった理由が説明できた。艦のエネルギーを、すべて動力部にまわしているのである。

 艦全体が、大きく揺れた。艦橋スクリーンが、数瞬漆黒に包まれ、そしてすぐに星々の輝きを映し出す。数瞬前とは違った星々の輝きを。

「バルス・ワープ、成功しました」

 オペレーターの声が聞こえる。今の一瞬で、とアレクは慄然とした。本来、ワープには慎重な計算が必要であり、細心の注意を払わなければ、亜空間に閉じ込められる。

「前方に小惑星」

 別のオペレーターの声。今度は、艦が大きく傾いた。水平維持装置まで、最低限の出力に抑えられているのである。

 よろめきかけて、アレクはバイエルラインを見た。彼は微動だにしておらず、依然艦橋スクリーンから眼をはなしていない。それどころか、

「ご無事ですか、陛下」

 と、アレクを気遣う余裕まで見せているのである。

 “神速にして、しかも理にかなう”とは、“疾風ウォルフ”の用兵を指して言う評価である。これはウォルフガング・ミッターマイヤー自身を賛美する言葉にほかならない。しかし、その用兵を可ならしめていたのは、麾下の艦隊によるものも大きいのである。アレクは眼前に広がるその事実に、それに気が付かなかった自身の狭さを恥じた。

 ミッターマイヤー艦隊の神髄とは、彼自身の用兵のたくみさのみにあるのではない。動力部にすべてのエネルギーを振り分け、それによって引き起こされるさまざまな現象のなかで、操艦を可能にする能力。度重なるバルス・ワープに耐えうる高度な計算能力、超高速においても小惑星のひとつすら見逃さない認識能力と判断力、低照度や低体温に対する順応能力および精神力、艦のゆれや傾斜に抗う筋力……。そのすべてを兼ね備え、有事においてもそれを実行できていたからこそ、“疾風ウォルフ”の用兵は可能となり、そして彼は新銀河帝国において主席元帥の地位を得るに至ったのである。

「小官は、ミッターマイヤー艦隊の大部分を受け継ぎ、おそれおおくも上級大将の地位をいただいております」

 予定されていた行程の半分の時間で“三元帥の城”に到着したバイエルラインは、その際にこのように語っている。

「声を大にしては申し上げられませんが、ミッターマイヤー艦隊こそが銀河最強であり、その強さを陛下に知っていただきたかったのです。これは、小官のささやかな誇りなものですから……」

 

 

 

 リビングと直結したキッチンから、軽やかな鼻唄と濃い魚介のかおりがただよってくる。そのどちらも彼は好ましく思っていたが、いまはそれらをたのしむ気にはなれない。この後にやってくる喜びと、それ以上の不安とを思い、彼は納税期におびえる農夫のように息を吐くと、手元の液晶端末に眼を移した。

 この農夫の名はウォルフガング・ミッターマイヤーと言い、本業は農地を耕すことではなく、銀河を統べる大帝国の全軍権を掌握することである。しかし彼にはもうひとつの仕事があり、それはある意味では農夫のそれとよく似ているかもしれない。新銀河帝国軍幼年学校という畑で、未来の優秀な軍人という作物を育て、それを社会にむけて出荷するのである。

 いま、彼は作物を収穫せんとしている。ことしのそれらの出来を問われれば、“極上である”と答えざるを得ない。彼がこの仕事に就いて以来、最高の収穫でもある。しかし、極上すぎる作物は、時としてその作物自体の概念を破壊してしまうものでもあるのかもしれない。

 彼は作物を育てるために、あらゆる肥料をまいたつもりであった。だが、まさか彼自身がその肥料になるとは思わなかったのである。そしてその肥料は、作物の種にやどる遺伝子を十全に引き出し、作物を極上よりもすぐれたものにしてしまった。

 彼がそのような評価をくだす作物は、まもなく、彼のもとに戻ってくる。そのことは、いまの彼にとって様々な意味を持ち過ぎているのであり、かつて敵軍に最も恐れていた男は、敵軍が抱いていた恐れをすべて合して数倍した程度のそれを自覚していた。

 ——漫然と液晶端末を眺めるなかで、彼は重大な見落としをした。それはそのような表象を研究することを専門とする者以外は気付けないように、あるいはよほどそのことに敏感なものでもない限り見つけることができないように、巧妙に隠されていた。今の状態の彼に、それに気付けというのはいささか酷な要求であるかもしれない。だが、それは、あの時代を生きた軍人ならば見落とすはずのない、見落としてはならない事項のはずであった。

 しかし、彼はそれに気付けなかった。といって、彼を責めることはできまい。いまの彼には、明日に放送されるテレビプログラムなどよりも、家庭の数十分先の一事件のほうが目下として重大な問題としてあったのである。つまり、彼はいま、あの時代を生き、銀河を蹂躙しつくした大艦隊の司令官などではなく、ただひとりの教師であり、そしてそれ以上に、ただひとりの父であったのだ。

「あなた、ちょっといらして」

 キッチンから、春の燕のさえずりが聞こえる。ミッターマイヤーはそのさえずりに反射的に立ち上がり、その発声者の方へ歩いていった。クリーム色の髪に、すみれ色の瞳。その燕こそが、悩める農夫のよき伴侶であり、極上の作物の母であった。

 エヴァンゼリン・ミッターマイヤーは、鍋一杯に煮詰まったブイヨン・フォンデュにスプーンを入れると、そのうちの少量をすくいとった。彼女のまとうエプロンは、ところどころに丁寧な修繕が施しており、彼女のエプロンへの愛着がうかがえる。それは彼女らの息子が初めて母に送ったプレゼントであり、エヴァはそれを生涯大事に使うと宣言していた。

「どう、おいしくできたかしら?」

 ミッターマイヤーは妻からスプーンを受け取ると、舌先でそれをなめた。

「きみの作るブイヨン・フォンデュは、いつだって絶品だよ」

 これは勘違いした貴公子が女性を口説く際に用いる台詞などではなく、彼自身の本心であった。彼は妻になんらかの思いを告げる場合、正直な感想以外の何も伝えることはできないのだ。

 そう、と妻は笑った。それだけで、ミッターマイヤーは救われるような気がした。

「あなた、ウォルフ」

 エヴァは、自身も彼女の夫が使用したスプーンで味見をした後で、鍋をかきまぜながら、その隣で立ち上る香気を吸い込んでいた男に言った。それはさえずりに似た声であったが、確かな意志を感じさせた。

「フェリックスのこと、お話しするの?」

 それだけで、ミッターマイヤーは妻が何を言おうとするのかを感じ取っていた。彼は蜂蜜色の頭を小さく振ると、料理の感想を告げた時のように言った。

「迷っている。どうすればいいのだろう……」

 この声には、“疾風ウォルフ”と言われた男の果断さはない。彼はいまひとりの少年の父であり、子育ての大きな岐路に立って悩んでいるのだ。

 彼の妻は、鍋を温める火を止めると、蓋をして、夫に向き直った。このように向かい合ってみると、初めて会った時と、その身長はまるで変っていない。少女のような面影を残しながら、老いと人生経験によって発される内面の美しさがそれと調和して、絶妙な均整を、目に見える部分にも表出させている。

「むかし、会議で、ビッテンフェルト元帥がおっしゃったことをおぼえていて?」

 忘れるはずがない、とミッターマイヤーは頷いた。

 フェリックスの処遇については、一度だけ会議が持たれたことがある。彼の父は新銀河帝国における唯一にして最大最高の反逆者であり、そしてミッターマイヤーの無二の友であった。その男と、ゴールデンバウム王朝の最後の実質権力者であるリヒテンラーデの縁者の子である。ローエングラム王朝にとっては、いくら親の罪が係累におよばないことを法で保障しているからといって、気にかけないわけにはいかない。

 会議の方向が、フェリックスの出自は公表しないというほうへ帰結しつつあるころ、フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト元帥が、その為人と用兵に見合った意見を述べた。

「結局のところ、ロイエンタールのせがれのことを伏せるというのは、ただおれたちの保身でしかない。いっそのこと、ジャーナリストどもを使って、フェリックスがやつの子であることを打ち明けたらどうだ。誇り高き帝国軍が、その自らのつまらん自尊心のために嘘をつき続けるなど、おれはそもそも納得していないのだ」

 ビッテンフェルトは、粗にして野だが卑ではなく、そして阿呆でもない。彼は彼なりの譲れない哲学があり、その短絡的とも見える思考は、しばしば答えへの最短経路を、無意識的にも導き出すのである。

 ミッターマイヤーは、その意見に対して、有力な反論を持ちえなかった。ただ、

「これは銀河帝国軍のためでもあるが、フェリックス自身のためでもある。いずれ公表はなされるだろう。だがそれがいまであるかという話をすべきだ。むろん、卿の言うことも、わからないわけではない」

 と、逃げの論法をしただけである。

「ふん。わかるだと。わかるとはなんだ。おれの言うことをわかっただけで、卿は自らの考えを変えるつもりなどないのだろう」

 ビッテンフェルトはそれだけを言い、以降は口を閉ざした。

 会議では、フェリックスの出自は伏せるという決定が導かれた。会議の様子は当然エヴァにも伝えられ、彼女はその長大な議事録のすべてに眼を通し、そして決定にしたがうことを決めた。

「いつかフェリックスにも知らせなければならない時が来ます。あなた、それがいまかを考えているのでしょう?」

 彼の人生の半分以上をともに過ごしてきた妻である。隠し事はできないし、彼の心理は手に取るように知られているのだ。夫の方は、妻の考えを、その半分以下もつかむことはできないのだが。

 ミッターマイヤーは蜂蜜色の頭を小さくゆらし、頷いた。助けを乞うように、彼は彼の最愛の妻の瞳を見た。そのすみれ色の瞳に、彼はどのように映っているのだろうか……。

「あなた、ウォルフ。あなたがフェリックスに真実をうちあけるのは、だれのためですか。フェリックスのためですか、それとも、あなたのためですか」

 ミッターマイヤーは、妻の瞳に映る自分の姿を探した。蜂蜜色の頭。ある。しかし、こんなにも小さなものであったのか。

「あなたがあなたのためにフェリックスに真実を伝えたいのならば、耐えるべきです。だって、あなたはあなたのためにそれを隠したのですから」

 彼女は、“疾風ウォルフ”の妻であった。決して農夫に嫁いだ子女ではない。彼女は新銀河帝国の宇宙艦隊のすべてを掌握するたった一人の男に、四半世紀ちかく連れ添った、ただひとりの女だった。

 すみれ色の瞳。この瞳の、あたたかい陽光に何度魅せられ、そして救われてきたのか。

 ミッターマイヤーは、静かに妻を抱擁した。それは言葉以上のものを持つ行為であって、それを上回る愛の表明を、彼は知らない。

「ウォルフ、でもね、私もフェリックスにそれを告げないことに賛成したのよ。だから、あなただけの悩みではないわ」

「そうだね、エヴァ。おれは勘違いしていた。これは、きっと家族の問題なんだ」

「ええ。宇宙には、たくさんの家族があるのよ。そのうちひとつくらい、私たちのような家族があってもいいわ、きっと」

 彼らはしばらくそうしていた。そこは男と女のふたりだけの踊り場であり、ふたりの好物の香りが満ちていて、スポットライトは彼らだけに注がれている……。

 その踊り場を、ただのキッチンへと回帰させたのは、ひとつの手が叩かれる音だった。

 彼らがキッチンへと戻り、そして自身を夫婦と再定義したとき、キッチンの戸口にはひとりの青年が立っていた。

「ご夫妻、火を消してからそうなさるのは結構なことですが、また私はおふたりの抱擁の間に風邪をひいてしまうところでしたよ」

 彼の名はハインリッヒ・ランベルツと言い、ロイエンタールの近侍としてその最期を看取った人物である。当時はまだ幼年学校生であったが、いまではりっぱに成人し、伴侶を得てミッターマイヤーとは別の家に住んでいる。幼年学校卒業後は軍から離れ、一般の市民学校を出て数学の教師になっていた。

「あら、ハインリッヒ。おかえりなさい」

 エヴァは彼の夫を押しのけると、ハインリッヒが手に持っていたコートを受け取った。

「ただいま戻りました、母上」

 ハインリッヒは、自分の母の記憶を持っているはずだが、エヴァのことは母と呼んでいた。むろん、ミッターマイヤーのことも父と言うが、まず先に話しかけるのはいつもエヴァに対してだった。

「久しいな、ハインリッヒ。元気にしていたか?」

「はい。父上こそ、この前は青い顔をしておられたのに、お元気そうで」

 ワーレンと酒を飲み、酔いつぶれたところを地上車で迎えに来たのがハインリッヒだった。ミッターマイヤーはその時の酔いを思い出し、わずかに顔を上気させた。

「おまえに会いたかったのだよ、ハインリッヒ」

 わずかばかりの抵抗も、ハインリッヒの笑みによる無意識の残酷の前には意味がなかった。

 ハインリッヒが、妻の手伝いを始める。ミッターマイヤーの被保護者となり、幼年学校を卒業した後は、フェリックスの子育てを手伝いながら、エヴァと家事を分担していたのである。料理の腕もなかなかのもので、エヴァの手伝いをする分には全くの過不足がなかった。

 ミッターマイヤーは、すでに彼の領域ではなくなったキッチンから潔く撤退した。彼は引き際を心得ているのである。

 リビングの椅子に座ると、また期待と不安とが込み上げてきた。しかし、先ほどまでのおそろしさに似たものはない。期待を天秤の左に、不安を右に置いたとき、天秤は大きく左に傾斜している。

 玄関の戸が叩かれたら、だれよりもはやく、わが子を迎えに行ってやろう。まだあの子は、ロイエンタール家にはやらない。ひょっとしたら、いつまでもミッターマイヤー家のせがれのままでもいいのかもしれない。すくなくとも、今はそれでいい。

 エヴァが、彼の夫のためにコーヒーを淹れてきてくれていた。彼はそこにクリームをわずかに加え、その香気とともに一口をすすった。完璧な温度で、完璧に彼好みの濃さだった。

 玄関の戸が叩かれ、彼は立ち上がった。しかし、“疾風ウォルフ”の横を、野原の果てを目指すようにすり抜けていった燕がいて、彼は二番目に玄関に到着することになった。続いて、ハインリッヒも玄関にならぶ。

 戸が開かれる。大気圏上層の瞳に、ダークブラウンの髪。背丈は、すでに自分を越えていて、これからもその成長はしばらく続きそうだ。

「ただいま戻りました、母上」

 そう言ってフェリックスは、バラの花束を彼の母に渡した。

「あら、いい香りね」

 どのようにエヴァにプロポーズをしたのか、それを告げたおぼえはない。だが、フェリックスは、自分の母がバラに特別な思いを抱いていて、それを愛していることを知っている。

「おかえり、フェリックス」

 ハインリッヒが、フェリックスに抱き着いた。

「お久しぶりです、兄上」

 フェリックスは、ハインリッヒと自分に血のつながりがないことを知っている。それでも彼は、この十二歳年上の青年を兄と慕い、その数学の才の多くをハインリッヒに開花させてもらったのだった。

 二番目に着いたのに、自分の番が最後にまわってきた、とミッターマイヤーは思った。そのようなことを考えるのは情けないことかもしれないが、しかし彼はふたりの愛する息子を前にした父だった。

「……おかえり、フェリックス」

 彼は当初、父として、師としても威厳のある出迎えをしようとした。フェリックスを出迎える前はいつもそうしようと思うのだが、それが成功したことはない。いつでも妻の台詞を反復するように、月並みな言葉をかけるのがやっとなのだ。

「ただいま戻りました、父上」

 息子の返事も、月並みなものだった。ひとたび宇宙戦艦に乗れば、並ぶべき者のない男たちである。ひとりはそれを実績と経験によって証明し、もうひとりはそれを将来性と豊かな才能によって証明しようとしている。

 ミッターマイヤーは、フェリックスに二歩ほど歩み寄り、両手をささやかに広げた。息子の青い瞳が大きく開かれる。飛び込んでくる。大きくなった息子の頭に手を置く。それは宇宙における唯一の家族の、普遍的な父と子の姿だった。

 まだ、おれの手はフェリックスの頭に届く。ミッターマイヤーは思った。いつか、届かなくなる日が来るのだろうか。フェリックスは父を見下ろすようになるだろう。だが、それでいい。彼が自分の手が宇宙に届きうると錯覚し、この国を見下ろすようにならないかぎり。

 

 

 

 アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムが、半年以上におよぶ宙域訓練からフェザーンヘ帰投したのは、新帝国暦十七年十二月二十三日のことである。これは予定よりも一週間ほど早く、彼が侍従したカール・エドワルド・バイエルライン上級大将は、幼年学校の教育課程に沿わない行動をしたとして、敬愛すべき上官から叱責を受けた。

 一方で、その蜂蜜色の髪をもつ上官は、彼自身の誇りをアレクに示すことができたと、心の内ではバイエルラインをほめたい気持ちにもなっていた。しかし、彼はその気持ちを表出させることはなく、かつての直属の部下に、幼年学校校長としての立場から批判を加えたのである。

 バイエルラインは、幼年学校校長の執務室を出た後、軍務省へ参するように要請された。

「どのような御用でしょうか、軍務尚書」

 彼は眼の前におかれたコーヒーの香気を吸い込みながら、対面した銀髪の男を見据えた。かつての軍務省では、コーヒーのひとつも出なかったものだった。ここも変わったものだ……とバイエルラインは思うが、それは眼に見える部分だけの話であって、新帝国軍の脳髄とも言うべき内面はいささかの変化がない。すなわち、有能な人物が有能な人物を一糸の乱れもなく統率し、職務を遂行するというその実力は、新銀河帝国が設立された当初から、何も変わっていないのである。

「卿の航行記録についてです、バイエルライン上級大将」

 軍務尚書と上級大将。お互いの呼び方も変わったのだ、と名を呼ばれた提督は思った。決して親しい仲ではない。むしろ、バイエルラインはその経験から、軍務省とそこに名を連ねる者たちを忌避している面があった。だが、自分とは異なる思考と経歴と能力を持っているこの男については、どこか腹の底まで見てみたいという気がしていたのである。

彼の名を呼んだ男の名は、アントン・フェルナーと言った。新銀河帝国における四代目の軍務尚書である。

 初代の軍務尚書はパウル・フォン・オーベルシュタインであり、彼は新帝国歴三年に地球教徒のテロリズムによって亡くなった。

「あのオーベルシュタインが生きていたら、どのように陛下の国葬を行ったのだろうか」

 この言は、ウォルフガング・ミッターマイヤーのものであり、それは皇帝ラインハルト・フォン・ローエングラムが逝去した際、前例を見ない大帝国を築き上げたただ一人の男をどう葬るかについて、残った者たちが頭を悩ませていた時に発したものである。旧例はかつての銀河帝国にしかなく、それに倣うのは故人の望むところではないことは確実だった。

「オーベルシュタインのやつめ、軍務尚書ではなく典礼尚書であったなら、地球教徒に殺されることも、おれたちに殺されることもなかっただろうよ」

 この発言者は、名を言うまでもない。そして彼の恨み言は、生者の口から発されるには、その彩度を欠いていた。典礼尚書は、新銀河帝国が樹立された際にすでに廃止されていたのである。

 オーベルシュタインの葬儀に関する手腕は、その智謀に関する手腕よりも諸提督に高く評価され、声には出さないまでも必要とされていたものだった。皇帝ラインハルトの葬儀は、最終的には皇妃ヒルデガルド・フォン・ローエングラムが計画を練り、それを実行した。

 二代目の軍務尚書は、エルネスト・メックリンガーであり、その後はウルリッヒ・ケスラーであった。彼らは二代続けて帝国元帥を兼任することになり、これには権力集中の批判を免れなかった。彼らがいかに廉直で、己の位置するところのものを濫用することがないとわかっていても、国家的・政治的論理のなかでは、一人の人物が多くの権限を振るうことは好ましくないのである。

 メックリンガーとケスラーはそれぞれ四年ずつ軍務尚書を務めたが、それを補佐する人物はただの一度も変わらなかった。その人物こそがアントン・フェルナーであり、ケスラー軍務尚書兼任元帥の代にあたっては、フェルナーが職務のほとんどを担当していた。これは三代目の無能を示すのではなく、ケスラーの兼任している業務が憲兵総監であったことに由来する。彼は軍務尚書に就任する以前は、憲兵総監と首都防衛司令官を兼任していた。しかし、後者の職務こそ、皇帝ラインハルトの主席副官であったアルツール・フォン・シュトライトをもって継承することに成功したものの、前者に至っては未だ適任者が現れなかった。したがってケスラーは職務を辞するわけにもいかず、憲兵総監として元帥の肩書を背負ったままだったのである。このことから、ケスラーは軍務尚書としては十全に能力を発揮できないであろうことが予想され、その結果としてフェルナーに実権がうつされたのである。

 フェルナーが名実ともに軍務省を束ねることになったのは、新帝国暦十二年のことであり、これは多くの帝国幹部から望まれていたことであった。彼は最も近くで、最も長い間パウル・フォン・オーベルシュタインのそばにあり、そしてその後の二人の軍務尚書のもとで新しい軍務省のすがたを目撃してきた。フェルナー以上に軍務尚書の適任となる者はおらず、彼の経験も実力も、その職にあって最大限の活用を見られるであろうからである。

 事実、彼は過去二人の旧例を反対者もなく破り、その在任はまもなく六年目を迎える。新帝国軍の機能は、それを発揮する機会に恵まれることは稀になったものの、十数年前のそれよりも飛躍的に増している。フェルナーはかつての三人の軍務尚書を的確に批判し、それを改善へとつなげる名手だったのだ。

 なお、フェルナーに軍務尚書の職権が移譲されるにあたり、変更されたことのひとつに、軍務尚書の軍内における階級が廃止されたということがある。これは、元帥号が“獅子の泉の七元帥”の編成に伴って、その称号に課される職掌が再編されたことにその理由がある。フェルナーの前任者はどれも元帥に叙されていたが、純粋に軍務尚書だけを務めていた元帥はパウル・フォン・オーベルシュタインのみであった。

 フェルナーは、自らが元帥になるのを望むことはしなかった。むしろ、彼は軍務尚書に就任する直前までは大将であったが、それを返上し、軍務尚書の役に就いた。この理由を問われたフェルナーは、

「なに、文官も務めてみたかっただけですよ」

 と語ったという。これはおおやけにはされず、一部の者が伝説的に語り伝えているだけである。なお、フェルナーの階級返上の件については、摂政であるヒルダとの議論の上で決められたということも、まことしやかに語られていた。

 

「予定された航路は辿り、問題がなかったことは記録にあったはずです」

 しかし——軍務省に出頭する際の緊張には、何も変化がなかった。フェルナーが、オーベルシュタインほどの酷薄さを持っているわけではない。だが、ここで務める者の多くに、脳細胞の質と数とで、バイエルラインは敗北を喫しているのである。

「いえ、問題はその過程と方法です。とくに、後半の二週間について」

 その一言で、バイエルラインはすべてを諒解した。彼は彼自身の誇りによってアレクに艦隊の最大戦速を見せたが、それは本来であれば必要のない資源を消費することになるのである。実は、最後の二週間の航行は、軍務省には詳細な報告をしていないのだった。フェルナーは、それを消費された燃料資源の項目から明らかにし、その説明を求めているのだった。

 だが、文書ではなく、対面をもってそれを求めたのは、フェルナーなりの気の遣い方なのかもしれない。彼はコーヒーを音を立てずに口に含み、その後でわずかにクリームを加えた。

 バイエルラインにとって、今の軍務省はかつてのものよりもいくぶん以上に好ましく、そしてフェルナーとの談義はたのしむべきものであった。一日に二度の叱責は恥ずべきことではあるが、そのどちらもが、バイエルラインには必要なものに思えた。

 

 “獅子の泉”の大会議場には、以下の人物とその参謀ほか、数人の上級大将が集まっていた。

 ウォルフガング・ミッターマイヤー主席元帥。

 ナイトハルト・ミュラー元帥。

 アウグスト・ザムエル・ワーレン元帥。

 フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト元帥。

 エルネスト・メックリンガー元帥。

 エルンスト・フォン・アイゼナッハ元帥。

 軍務尚書アントン・フェルナー。

 これら軍部における最高首脳陣が会議場の円卓を囲んでおり、その背後に彼らの参謀と、カール・エドワルド・バイエルライン上級大将を含む数名が座っていた。会議場の規模に比べて人数が極端に少ないのは、会議の機密性保持のためである。

彼らは、三名の人物を待っていた。

 まずは、国務尚書のユリウス・エルスハイマーである。彼は官僚としては短くない経歴を持っており、国務尚書に就任してまもなく四年目を迎えようとしている。

 国務尚書の職については、ヒルデガルド・フォン・ローエングラムの父であるフランツ・フォン・マリーンドルフが新銀河帝国における初代であるが、彼は娘の結婚に際しその職を辞そうとした。娘の結婚相手が皇帝であり、皇帝の義父としての自身の立場が強大になるのを避けるためである。彼は国家の運営論理と力学をわきまえ、それが破綻をきたさないように最大限の注意を払っていたので、抱くことも可能な野心とは無縁だった。

 国務尚書を辞すという彼の考えは、娘夫婦のもとにアレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムという世継ぎが生まれ、とりあえずローエングラム王朝の存続が確実であると諒解された際に、さらに強化された。ラインハルトの母は死に、父はいないものと同然とされたため、皇帝の死後アレクの係累は母と祖父としかいないのである。フランツ・フォン・マリーンドルフが国家を滅ぼす野心家でないことは万人が承知していることであるが、それでも彼は彼自身に、権力をあやつる発言力が備わるのを嫌ったのである。

 しかし、彼は皇帝の祖父である以上に権力者の父だった。摂政となった娘に請われ、“新帝国暦八年まで”という条件付きで国務尚書を務めあげた。彼はヒルデガルド・フォン・ローエングラムの政策に対する最大の理解者であり、批判者にもなり得た。だからこそヒルダの政策はことごとく成功をおさめ、新銀河帝国の安寧に大きく寄与していた。

 フランツは後任に廉直なウォルフガング・ミッターマイヤーを推したが、被推薦者はそれを固辞した。彼は軍人であり、いまさら文官にはなれないというのである。だが、フランツにはミッターマイヤーの意図が分かっていた。彼は、彼の息子が軍人として一人前になるまで、軍という組織から離れるわけにはいかないのである。フランツは人生のうえでも、親という立場のうえでも、ミッターマイヤーよりも長い経歴と確かな実績を持っているのだ。

 最終的に、二代国務尚書にはマインホフが就任し、彼は内閣書記長職を後任に譲った。マインホフは能力であれば初代国務尚書を大きく上回っていたかもしれない。だが、ヒルダの理解者としての力量は数段およばないものであった。それでも彼が国務尚書を務めた六年のうちに、政治や経済が一切の遅滞を見なかったのは、ヒルダと彼の力量とが激しい相剋を示さず、適度な調和と健全な対立を続けたからである。

 ユリウス・エルスハイマーは三代目の国務尚書であり、新帝国暦二年時点では新領土の総督府民事長官の地位にあった。彼は当時の新領土総督であったオスカー・フォン・ロイエンタールを補佐する立場にあり、あの反逆事件が集結し、総督が交代した後もその職にあった。

 彼が新領土を離れたのは新帝国暦四年のことである。新領土の一部であるバーラト星系が共和自治政府に移譲され、その整理をしたのちに、彼はフェザーンへと招聘されたのだった。——なお、その際に彼はフェザーンへの旅程を数日遅らせ、妻とともに惑星ウルヴァシーへ寄った。ここは、彼の妻の兄である故コルネリアス・ルッツ元帥が戦死した地であり、その墓参りを兼ねたのである。彼は義兄を敬愛していたし、主君への崇高な忠誠心を心から尊敬していたのだ。

 エルスハイマーはフェザーンでも能吏として活躍し、またルッツの義弟ということもあり諸提督との関係も良好だった。彼にはロイエンタール反逆事件を防ぐことができなかったという悔恨があったが、むしろそれを薪として自らの燃料とし、そして自らも新銀河帝国の薪になろうとした。

彼を国務尚書へと推したのは、その座が空となるたびに推挙されるウォルフガング・ミッターマイヤーであった。エルスハイマーはそれを聞いて煩悶した。彼には悔恨があり、さらに彼自身はその償いのために一人の役人としての生を全うしようとしていたからである。

「この手紙をおぼえているか?」

 ミッターマイヤーはエルスハイマーを国務尚書へと推薦した後、自身の執務室へとエルスハイマーを招き、秘蔵のワインを並べた。その三十センチ上空で、一通の手紙が示される。それは、ロイエンタールがミッターマイヤーに送った、最後の手紙であった。

 その最後の手紙には、エルスハイマーの忠義の証明が書かれていた。

「忘れるはずがございません」

 彼はあふれ出る涙をそのままに、手紙を濡らし、そしてワインにもその一滴をこぼした。それが美酒の香気を立ち上らせ、一瞬にして、彼を国務尚書へと変えたのである。

 国務尚書となったエルスハイマーは、その能力を十全に発揮し、ヒルダを支え続けた。彼の的確な指示と斬新な着眼による施策は次々と功を奏し、

「まるで名射手だな」

 という評価を、主席元帥から得るに至ったのであった。

 

「それにしても、時間がかかっておりますな」

 エルスハイマーが到着し、残る二人を待つ会議場の中で、エルネスト・メックリンガー元帥が声を発した。軍務尚書も歴任した彼の言葉は重いひびきがあり、それはこの会議の主題が重要な事項であることを予感させた。

 残る二人のうち、一人はむろんヒルデガルド・フォン・ローエングラムである。摂政としての彼女は、どんなささいな会議にも必ず参加することになっていた。それは公的な規則というよりも彼女が自らに課した命題であって、それによって前例をつくろうという意図は、多くの者が畏れをともなった賛美を行うものである。

 もう一人については、これは運命的な何かを思うしかない。カール・エドワルド・バイエルライン上級大将が先日叱責を受けた原因が、アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムの出席を可ならしめた理由にもなったからである。本来の行程通りにバイエルラインが航行を行っていれば、アレクはこの会議には間に合わなかったのだ。

 ラインハルト・フォン・ローエングラムの面影を十分に感じさせるアレクの存在は、それだけで集まった人間を高揚させた。だから、この会議にはその議題以上のものがあるのである。

 このような時、最も先に体と口が動くのは、フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト元帥である。彼は戦場に遅参することを何よりの恥と見なす男であるのだ。

「おい、バイエルライン。卿のおかげで陛下が出席あそばされるが、なぜあんなことをしたんだ?」

 バイエルラインは、ビッテンフェルトの左後方に座っていた。真後ろには参謀長オイゲン大将が座っており、その咳ばらいを右耳に捉えながら、バイエルラインは説明した。

「恐れながら、陛下に、宇宙最速を知っていただきたいと思いまして……」

「ほう、それは良い考えだ。おれも陛下に宇宙最強を知っていただかねばならん」

 その一言で、ビッテンフェルトが戦いに飢えていることが全員の諒解するところとなった。彼の破壊衝動は、皇帝ラインハルト亡き後、十四年の時によっても打ち破られることがなかったのである。

 バイエルラインは曖昧に苦笑すると、再び咳払いが右の聴覚を刺激するのを感じた。

「みな、私語はつつしんでくれ。間もなくヒルダ様とアレク様がいらっしゃる」

 ミッターマイヤーの声は、広い議場でもよくひびいた。

 数分の後に、議場のドアが開かれ、ヒルダとアレクが入ってきた。全員が起立し、敬礼をする。二人は、そのまま円卓についた。その背後には、黄金獅子旗がかけられている。

 バイエルラインは、そのアレクの姿に、眼を奪われていた。巨大な黄金の獅子の前に座るただ一人の少年は、その蒼氷色の瞳が放つ光を議場に回遊させている。それが、獅子の放つ光のように見えるのである。その少年は、いまだ会議での公的な発言を許されていない。だが、その姿は間違いなく言葉以上のなにかを放っており、それは自らの内に由来するものであった。

「昨日、ケスラー元帥よりある報告を受け、その続きを、先ほどまで聞いていました」

 ヒルダの透き通るような声がして、バイエルラインは正気に戻った。

 ウルリッヒ・ケスラーは、この議場にはいない。彼は憲兵隊の一部とともに、この一か月ほどフェザーンを留守にしており、その間の本隊は別の人物が率いている。ケスラーには単独行動権が与えられており、殺害以外の超法規的措置を取ることが許されている。これは一般には極秘の事項であって、しかもその行使には憲兵総監の責任が伴う。ケスラーを糾弾するのは別の部署の役割であり、その危うい均衡のなかで彼は強烈な自制心をもって行動していた。

「内容は……。いえ、ここでは、どこから報告を受けたのかをまずお伝えすべきでしょうね」

 ヒルダの眼に、刹那のかげりが見えた。

「ケスラー元帥がいらっしゃるのは、惑星ヴェスターラント。いまからお話しすべきことは、あの惑星で起きた出来事です」

 ——議場の空気の温度が急降下を見せた。十数年前の惨劇を知らない者は、この議場にはいない。それどころか、ほとんどがそれに居合わせた者であって、それぞれの脳髄にはその惑星名が血文字で刻まれている。

 惑星ヴェスターラント。リップシュタット戦役において、ブラウンシュヴァイク公による熱核兵器が落とされた地である。そして、皇帝ラインハルト・フォン・ローエングラムの生涯における楔となり、半身と魂とを蝕む病の源となった大地……。

 

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