九
その二人が出会ったのは、まったくの偶然だった。
新帝国暦一五年一二月のある日のことである。ある惑星の酒場で乱闘騒ぎがあり、ひとりはそれに巻き込まれ、もうひとりはそれを眺めていた。
眺めている男はルーカス・クリーガーといった。かつて“泥の色”と揶揄された濃い茶髪の持ち主である。彼は酒場の隅から乱闘を眺めており、彼が憂慮していたのはその騒ぎがこちらに飛び火してくることで、期待しているのはこの隙に無銭飲食ができないかということだった。しかし、野次馬は酒場の中央から出入り口まで厚い壁をつくっており、その期待はかないそうにない。したがって、彼は騒ぎを傍観することによって退屈を紛らわせていたのである。
巻き込まれた黒髪の男の名前は、ウィル・メイヤーである。この乱闘において彼はむしろ被害者だった。そして乱闘騒ぎの原因となった、ほんのささいな火種を知っているふたりの人間のひとりだった。彼以外のもうひとりは、今ウィルに赤くはれた拳をかざしている。
五分ほど前のことである。静かにブランデーをなめいたウィルは、となりに座っていた、すでに十分すぎる酒精を身体にみなぎらせた中年の男に声をかけられた。
「宇宙暦七九九年のバーミリオン星域会戦における勝者はだれか」
それは多くの帝国国民にとって酒談義のテーブルに添えられる定番の肴のひとつだった。しかし、かつて自由惑星同盟と呼ばれていた宙域の、その心臓部であるバーラト星系で生まれたウィルにとっては、その肴はぶあついメニュー表の片隅にものるはずがないのである。彼は多くの同盟市民にとって同様にある人物の信奉者であったし、その人物がとった行動に完全な納得をせずに憎悪を蓄積させたひとりでもあった。
ウィルがその人物とであったのはいつであったか。正確な時間を、彼はおぼえていない。その人物も同様であろう。なぜなら、その時のウィル・メイヤーはまだ五歳で、父を戦争でうしなった悲しみの足かせを取りはらうことができずにいたからである。彼の祖母は同盟の滅亡を目の当たりにすることなくこの世を去ったのだが、その間際まで祖母が言いつづけたことがあった。
「ウィル、あなたはヤン・ウェンリー提督とおはなししたことがあるのですよ」
それに続く言葉を、ウィルは記憶していた。——あの時、まだ提督は准将だったかしら。いいえ、それよりも大事なふたつの称号があったわ。“エル・ファシルの英雄”、“アスターテの英雄”……。あの方が、あなたのパパの讐をうってくださるから……。
祖母は決して熱心な愛国者ではなかった。自由をたっとぶ同盟への卑劣なる侵略者にたいして、息子を殺害された恨みと、みずからを孤独にした哀しみをぶつけているだけなのである。その感情は、当時の同盟市民にはごく自然なものであった。
彼は十五歳の時に共和自治政府士官学校へ入学し、卒業と同時に軍籍に身を置いた。中尉となったいまは、休暇で一人旅を満喫していたところなのだ。たまたま立ち寄った酒場で、たまたまうまい酒と出会い、それを楽しんでいる最中に、たまたまとなりに座っていた男に話しかけられたのである。
かの中年の男の問いにたいして、ウィルは迷うことなく返答をした。
「バーミリオン星域会戦の勝者は、うたがいなくヤン・ウェンリーである」
男はその返答にたいし、冷笑をもってこたえた。
「じゃあ、なぜそのヤン・ウェンリーとやらは生きていないんだ? 戦争の勝者が生者でないなんて、そんなばかな話があるか」
濃いアルコールにみちた空気のなかで、何人かが男の言葉に同調した。ウィルは全霊の忍耐によっておのれのうちにわきでた怒りという火薬の爆発をおさえながら、バーミリオン星域会戦の推移とともに、彼がヤン・ウェンリーを勝者とみなす理由をのべた。それは理路が隊列を組んで見事な行進を見せた論であり、それに反するには相応の隊伍をならべた理論が必要なはずであった。しかし、男はそのような論をあやつる司令官などではなく、ふだんは肉屋をいとなむ、ごく平凡な小市民だった。
「それで、その空想小説は売れたのかい?」
男の下卑た高笑いに、ついにウィルの火薬庫は爆発した。彼は男の言葉を買いたたき、そして男もウィルの乱売する挑発を買い占めた。このふたりを颶風の中心点として、小さな酒場は荒れに荒れた。騒動をきらう者は中心点から遠ざかり、また騒動を外から好むものはその中心には近づかないながらもそのまわりにたゆたい、内から好むものはみずから中心に殺到した。嵐は徐々に大きさを増していき、警察が出動する事態へなっていった。
ウィルは数人の男に袋叩きにされながらも、軍人の矜持が手を出すことを許さず、だが同盟市民としての意地が採算度外視の挑発を止めることを許さなかった。彼は軍人らしからぬボキャブラリーの豊富さによって、男たちの怒気を刺激したのである。
その光景を遠巻きに眺めていたルーカス・クリーガーは、次第に殴られている男の不屈さにたいして敬意を抱くようになった。殴られ、蹴られても、ヤン・ウェンリーが勝者であることを主張し続けていたのである。
「こいつはつかえるかもな……」
彼は呟き、となりの客が頼んだチップスをばれないように口におしこむと、飲むべきときを逃してぬるくなったラガーを右手に立ち上がった。
「おい、あんたやめときな」
まわりの客がルーカスを制止しようとしたが、それらに軽い笑顔をふりまくと、嵐の中心点へと近づいていった。そして、殴られて顔が二倍ほどにふくれあがった黒髪の男と眼をあわせると、彼への加害者のさびしい頭頂部に琥珀色の滝を落とした。
「外でやろうぜ。おれはこいつに加勢するが、文句はないよな?」
男の暴力に対する情熱を鎮静化したばかりか、髪の毛の先からしたたるラガーとともに男の火にさらなるガソリンを注いだようだった。男は非言語的な咆哮とも区別のつかない奇声をあげると、人だかりによってできた包囲網を突破していった。むろん、包囲網のほうから男の脱出路を開けたのだが。
男が酒場のほうを振り返ると——そこにはさっきまで情熱的な暴力をあたえていた男と、自分の頭に琥珀色の水をまいた男の姿が、すっかり消え去っていた。
路地を駈けながら、ウィル・メイヤーはアルコールでにぶった自分の脳を叱咤した。こいつはいったい、どうなってやがる? 身体じゅうが痛いのは殴られたり蹴られたりしたせいだとして、右手が痛いのはへんな男に腕をひかれているからだ。それにこいつ、とんでもなく足が速い!
彼は酒場の店主にたいして、店を荒らしたことと無銭飲食をはたらいたことを詫びねばならないのだが、そんなことは彼の思案の外にあった。ともかくも、彼は今の状況を整理することに脳細胞を集中させなければならず、それは酔いと身体の痛みとによって難事業になりつつあった。
「大丈夫だ。おれもあの店に金は払っていない」
この男は、おれの思考を読むことができるのか? ウィルは内的に作成した難事業のリストに、男の特別な能力を解明することを加えた。忙しい、と彼は思った。
「まあ、そろそろいいだろう」
ようやく男の手が離され、思わずウィルはその場に座りこんだ。激しくピストン運動をする自分の胸を見ながら、彼は長らく不足していた酸素をけんめいにとりこもうとした。
「あんたは?」
やっとの思いで出した言葉は、難事業のリストにおいて一番先頭にあった問いだった。
泥色の髪をもった男は、ルーカス・クリーガーと名乗った。どこか軽薄そうな感じのする男だが、自分を助けてくれたことはたしかなようだった。それに、とんでもなく足が速い。士官学校では運動能力でもかなり優秀な部類だったが、それでもついていくのもやっとというところである。
「まあ、まずは助けてやった礼をしてもらわんことにはな」
ルーカスがにやりと笑った。ウィルは自分の呼吸がようやく整ってきたことを確認して、からだの節々の痛みに耐えながら立ち上がった。
「危ないところを、助けてもらった。ありがとう」
「なにを勘違いしているんだ? おれは言葉なんて腹の足しにもならないものに興味はないのさ」
ウィルは自分の難事業リストが更新されたことを感じた。いや、そんな悠長なことを言ってはいられないかもしれない。彼の二三年間の人生経験が告げていた。
逃げられるか? いや、こいつの足の速さを見ただろう!
「どうすればいいんだ?」
ウィルは、慎重に言葉を選んだ。体内にまわったアルコールは、こういう肝心な時はきちんとどこかに消えてくれる。冷静になりつつある脳には問題がなさそうだった。懸念があるとすれば、さっきまで暴力の風雨をあびつづけたこの身体だけだ。しかし、それが一番大きな障壁なのであるが。
「もちろん、そのからださ」
聴覚の刺激に脊髄が反射して、ウィルの両足を歩幅いっぱいに動かした。だが、すぐに襟首をつかまれて、彼の脊髄の徒労は無為におわった。
「勘違いをするな。おれのためにはたらいてほしいと言っているんだ」
ルーカスの口から発されることばの羅列が理解できず、ウィルはルーカスの顔を見ようとした。
だが、彼の眼に映ったのは、またしても自分にたいして振り下ろされる拳だった。
一〇
どれほど経済が発達し、文明が成熟をむかえたとしても、普遍的な真理というものは変わりがない。だれかを愛し、幸福な生活を営むことを人々が永遠不変の是とするように。それはひとつの技術においても同様である。宇宙の隅々を見通す望遠鏡が開発されたとて、だれもそれを手放そうとはしなかった。人々がまだ地球というちいさな惑星の、小さな文明にとじこめられていた時代に生まれ、以降歴史の表舞台から決して消えることのなかった技術――すなわち、紙である。
その植物繊維の結合体の年齢は四〇〇〇歳近くにならんとしている。だが、人々はその老人の酷使をやめなかった。どれほど技術が無制限に発達し、物理的な保存や永続性の点にかんして、個別にそれを凌駕するなんらかが現れても、それらを総合的に鑑みた時、情報伝達手段において、紙の完全な代替となるものはついぞ現れなかったのである。さらに、紙という媒体が消失しなかったことで、手紙という文化は人々の感心を遠ざけることはなかったし、したがって郵便屋という職業も、衰退こそあれ滅亡をまぬかれたのである。
しかし、郵便屋の性格は、その運営主体の面で大きな変化を果たしている。地球時代にはまだ国家によって運営されていたそれは、西暦二〇〇〇年を前後として市民の手にゆだねられたのである。その事実は、郵便の権力における不干渉を示したのだ。人々は自分の郵便の秘密が国家によっておかされたなら、抵抗することが法によって保障されていた。その諒解は、人々の活動域が宇宙に移っても変化がなく、むろん新銀河帝国においても同様であった。すなわち、暴力革命を望むものにとって、傍受されかねない電子媒体による通信は忌避すべきであり、郵便はいまだ主力的通信手段であったのである。
銀河中にあまねく張り巡らされた郵便網は、銀河の端から端までの通信を可能にする。ただし、それには物理的に多大な時間と費用がかかる。前者に関しては、その策略が遠謀であればあるほど問題にはならない。そして後者については——その郵便屋という職業者が暴力革命的思想をもつならば、これまた問題にならないのである。
郵便網全域を支配することは不可能である。したがって主要な複数の星域を確保することが肝要になるのだが、かれらは辺境の星域などを拠点に定めなかった。それはかれらの合理性と智謀と無謀の大なるを示すものであったのだが、とかく暴力革命家たちがその中心に据えたのは、イゼルローン要塞とその周辺諸星域であったのだ。
銀河系全体を天球上から俯瞰したとき、西側に旧自由惑星同盟、東側には旧銀河帝国が置かれる。そのふたつの領域をつなぐふたつの回廊であるイゼルローン回廊とフェザーン回廊は、北南にならぶようにふたつの架橋となる。そのうちの北側であるイゼルローン回廊と、それを支配するかのごとく鎮座されるイゼルローン要塞は、かつて両国の間でいくつもの戦争の舞台となった。それを奪わんとする側と、守らんとする側が散っていった末にうまれた屍は、新帝国暦三年から十四年近い平和のなかで、幾度かの清掃作戦が決行され、いまではほとんど見ることはなくなった。しかし、目に見えるかたちが失われたと言っても、その歴史までは消えることがない。それは、ここに散った兵士たちの遺族の記憶も同様であるのだが。
イゼルローン回廊をはさんで、アスターテとアムリッツァのふたつの星域を結ぶ航路は、暴力革命家たちにA‐A航路ないしA‐A郵便網と呼ばれていた。イゼルローン回廊周辺の星域は大きな会戦の舞台となることが幾度もあったが、とりわけこの二つにかんしては、ある金髪の若者の踏み台となったことで、人々の大脳の最表層に近い部分に記憶されているだろう。
なぜこの地域を根拠地として選んだか。ある豪雨の夜、ルーカス・クリーガーなる泥色の髪の青年が家にやってきて語ったことを、フランシス・ドゥランは鮮明に記憶している。ルーカスの名を知るまで、フランシスは一介の郵便局員にすぎず、彼の人生は、アムリッツァ星域の小さな惑星にとじこめられ、家族と妻子の遺影に花をたむけ続けるだけのルーティーンにとどまっていただろう。
まだ帝国暦に“新”という形容句がつく前、フランシスは軍人となることを潔しとせず、たまたま求人のあった郵便局に勤め始めた。郵便局員の収入は、同一惑星むけ郵便と、他惑星むけ郵便とで異なる。前者の収入はすくなく、老いた両親と妻、そして生まれたばかりの乳児を支えるには不足していた。したがって彼は、ごく自然に惑星間郵便の業務に親しみ、そして一家を養うに足る収入を得るに至ったのである。
ある日、彼は大きな仕事を得ていた。彼の生涯でも二、三度しか経験のない、当時の首都星オーディンに向けた郵便である。長期間の拘束になるものの収入はよく、彼はだれよりも熱心にその仕事を志望した。基本的に、長期的な航行には危険が伴う。しかし、彼は軍からもスカウトがあったほどに宇宙船の操舵がうまく、技術面での航行の不安はなかった。宇宙海賊の出現についても、各惑星とオーディンを結ぶ航路は厳重な警備がしかれるし、また郵便は金にはなりえない。したがって憂慮の必要はない。考えられうる最後の可能性――すなわち、外敵の侵攻についても、彼は特に憂うべきことはないと判断していた。
アスターテ星域におけるラインハルト・フォン・ローエングラム上級大将の大勝によって、同盟軍はその数を減らし、時を置かずに攻勢をかけてくるであろうことは予測しがたく、なにより自由惑星同盟と銀河帝国の間にはあのイゼルローン要塞がある。イゼルローン要塞! それは自由惑星同盟にほどちかいアムリッツァ星域の唯一にして最大の防波堤であり、あの漆黒の球体があるかぎり宇宙のこちら側の安全は保障されているのである。
フランシスはたしかな打算とともにアムリッツァ星域を離れた。たよりのない太陽は彼にとって慣れ親しんだもので、不吉の予兆など一切を感じることがなかったのである。
オーディンまで残り一週間という行程のさなか、彼はオーディンへむかって航行中の全船舶にたいし、至近の惑星に立ち寄るべしという指令を受けた。この手の命令は軍によって幾度となく発令されてきたものであったが、通信の節々に感じられる通信手の狼狽ぶりには、さすがに違和感を禁じえなかった。錯綜する通信のなかで、彼は民間船にしてはほぼ最速といっていいほど、その情報を手に入れるに至ったのである。
「イゼルローン要塞陥落!」
フランシスが信じるものは、眼の前にある札束と、通帳に記されたゼロの数のみである。妻のベッドでの愛の告白も、はじめて聞いたときは疑ったほどだ。そんな彼は、当然のようにその情報の真偽を疑ってかかった。しかし、手に入る言説も、立ち寄った惑星の宇宙港内部における官吏の落ち着きのなさも、すべてがある単一の情報を是とすればつじつまが合うのである。彼は確信した。イゼルローン要塞が、あのどんな洪水にも顔色を一つも変えずに耐え抜いてきた虚空の防波堤が、矮小なる叛徒どもの手に落ちたのだと。
その事実を認めた時、彼の脳髄に浮かんだのは、老いた両親と妻子の顔だった。自由惑星同盟を発生源とした洪水は、ちかい将来に間違いなく押し寄せる。その波濤の手が真っ先に伸びるのはどこか。彼が生まれ、育ち、妻と子を手にした星域にほかならない。
いますぐにアムリッツァにむけて舵を切り、保管庫にある手紙をすべて廃棄して、かわりに家族を乗せて逃げ去りたかった。だが、彼の操る船は、オーディンへ向かう目的の確認を終え、その確実性が証明されると、帝国軍の“庇護”という監視のもと、それまでの半分以下の船足で目的地へと向かわざるを得なかったのである。
オーディンへ到着したフランシスは、アムリッツァへと送られる郵便を回収しなければならなかった。そしてそれにはいつもの数倍の時間がかかった。後年、彼はこの無駄な時間の原因を知ることになる。イゼルローン要塞は、ヤン・ウェンリーなるものの奇策によって陥落し、それは内部から混乱を生じさせられたうえでの出来事だったのである。帝国は、これも滑稽なことであるのだが、オーディンから出ていく情報とオーディンへ入ってくる情報のすべてを管理しようとしていたのだ。“非常事態”という名目のもと、郵便物はほとんどすべて内容が明らかにされ、あやしげなものは差出人も含めて検閲の対象となった。
フランシスがかぎりないいらだちをおぼえてオーディンを発ったのは、宇宙暦七九六年、旧帝国暦四八七年八月二〇日である。それは、自由惑星同盟の宇宙港から、三千万の将兵が銀河帝国へむけて飛び立つ、まさに二日前であった。このとき、フランシスの頭脳は、一刻もはやくアムリッツァの家族のもとへむかうという難事業に取りかかりきりであり、大戦争を前に急転する社会情勢に洞察をくわえる精神的猶予はもはやなく、また時間的猶予もなかった。彼は、家族とおなじくほの暗い太陽を見上げるべく、茫漠たる星海へ乗り出したのである。
……フランシスはもちうるすべての才幹と能力、そして財をもちい、労力的にも金銭的にも帳簿に赤字を刻みながら、最短のルートを駈けた。故郷の星へのこり一週間、彼の乗る宇宙船に備え付けられた望遠鏡が、なつかしむべきたよりのない太陽をかすかにとらえたとき、——望遠鏡ではなく、宇宙船の丸窓から――見えたのは、フランシスが向かう先から逆行してきた数千隻の軍艦である。その側面には、誇り高き帝国軍の紋章が刻まれていた。
一週間後、彼が故郷ではじめに目撃したものは、宇宙港ではためく三色旗であった。それはまごうことなく、彼と彼の家族が自由惑星同盟の被支配民になったことを示していた。フランシスはその日の職務をすべて放り出し、おそらく人生最大の速度で家族のもとへと走った。彼がふたつめに目撃したものは、“戦時の習い”という不文律に沿って殺されたという、彼の妻の姿だった。それだけではない。おそらく彼女を守ろうとしたのであろう、彼の両親も大怪我を負っていた。そして二日後にはそろってヴァルハラに旅立ったのである。
フランシスは完全な自失を経験した。彼は深い迷宮のうちにいた。その妻と両親を喪った恨みの鋭槍をだれにたいしてむけるべきか。かれらの命をうばった同盟軍か、それとも――。
しかし、彼にはまだ守るべき子供がいた。妻の面影を半分、自分と両親の面影をもう半分に残すその赤子は、なんとしても守り切らなければならない。だが、物資は完全に同盟軍の支給にたよっている。宇宙港に同盟旗がはためいて以来、物資が満足に届いたことなどないのだが。彼がその旗に見慣れ、それまでの帝国軍旗ていどに親しみをおぼえはじめたころ、支給される物資が極端に少なくなってきた。彼は自分の食べるものにも困窮しながら、なんとか赤子の世話を続けた。しかし、女神のなんと無慈悲なことだろうか。みるみるうちに赤子は衰弱していき、その年の十月十日に死亡した。
ラインハルト・フォン・ローエングラム元帥率いる銀河帝国軍が、アムリッツァ星域に同盟軍との最後の戦端をひらき、それをほとんど徹底的といっていいほどに撃滅する数日前である。
民衆に歓呼のうちにむかえられる帝国軍宇宙艦隊と、宇宙港にふたたびはためくこととなった帝国軍旗を見上げながら、フランシスはその心的鋭槍をかまえた。彼の脳裏には、アムリッツァを捨てて逆行していく帝国軍艦の姿があった。そして、妻の亡骸と、両親の亡骸と、わが子の亡骸と——。彼のかまえた槍は、本来石突とよばれる場所にも刃をほどこしたものであった。すなわち、彼の恨みは、銀河帝国にも、自由惑星同盟にもむけられたのである。とりわけ、彼は立体TVに映し出されるある青年の姿を、明確に敵と認識するようになった。すべては、あの男が行った作戦が淵源であったのだ……。
「赦してなるものか、ラインハルト・フォン・ローエングラム」
一一
ひとりの人間の行動をひとつの颶風のようなものとするならば、それには絶え間のない潜熱の供給が必要である。生命維持活動であれば、食事があればよい。労働であれば、その意欲があればよい。だが、それが革命であるとするならば、どうか。革命という、爆発と拡散をともなうエネルギーの奔流。ルーカス・クリーガーは、あるふたつのうちいずれもがあれば、と思う。
ひとつは、行動を喚起させる感情がほっするカロリーを、定期的に供給することである。時間という絶対者がもたらす癒しは、どんなに強い感情であっても、一条の水流がやがて谷を刻むように、ゆっくりと、しかし確実に破壊させていくものだ。つまり、その絶対者による支配にあらがうために、その感情を想起させてやるのだ。特に、それが恨みという負の情動であるならば、かれらの臥す場所はけっしてあたたかなベッドではなく、時としてみずからの背をも傷つけかねない薪の上であるということを、語り続けなければならない。
もうひとつは、革命が活動者のライフ・サイクルを構成する鎖の一輪となることである。活動が生活と乖離してはいけない。完全な趣味となってもいけない。革命が生活を支えることはなく、革命を支えるのが生活であるのだから。
ルーカスにとって、フランシス・ドゥランはひとつのモデルとなるべき存在であり、また通信という、活動の一切を支える最も重要な一因を担っている。これは、ルーカスがその商業活動のさなかに見つけてきた点と点とをつなげ、加速度的にルーカスたちの歩みを進ませているのだった。
銀河全域に、革命の土壌はある。国が建つときというのは、多かれ少なかれ、人が死ぬ。人には家族がおり、友人がおり、恋人がいる。ひとりの死が一〇人の心に影を落とすとすると、数千万の死は数億の影を落とすことになる。ルーカスの役割は、その影を縫いながら、影の創造者に――かれらにとっての死神をたばねる冥界の王に、かれらが叛すための一足を促すことだった。
新銀河帝国は、かつての人類の歴史に類を見ない屍血と山河に浮かぶ巨大な船だった。その船は、ひとつひとつの建材と水夫とが、忠誠というつよい結合によって手をとり、屍血にあって不沈をほこっている。人々は、その甲板で朱い波にゆられながら、みずからを乗せた船が、いつかそのおぞましい海域をぬけ、美しく澄みわたった海原へとたどり着くものであると信じている。ただ信じているだけだ。はたして、一〇年近く血は流れなかった。今だけだ、とルーカスは思う。みずからを過信する過剰に巨大な船は、その処女航海の道先に、氷山の群れが待ち受けているものとは考えないものである。
ルーカスは、旧銀河帝国の僻地に生まれた。豊かでも貧しくもない惑星の、富裕でも貧乏でもない家庭のひとり息子。それが彼だった。彼のひとつだけ他とことなる、尋常の範疇でははかりきれないであろう点は、彼のこの世のすべてにむけるまなざしが、おもしろさという極彩色の色彩をつねに求めていた点である。それに関していえば、彼の境遇は完全なモノクロであった。
そんな彼の目の前にあらわれたのは、黄金の髪をもつ、彼と同年齢の若者だった。その若者は、またたくまに“老朽船ゴールデンバウム号”の舵を奪い、そして船そのものを壊し、あらたな巨大船をつくりあげた。船長職の別名は、新銀河帝国皇帝。立体TVにうつった若者の姿は、ルーカスのまなざしのなかで、極彩色をこえてかがやいていた。
「そうだ……。これだ、これなのだ。おれが求めていたものは」
新帝国歴一年。彼はそう独語して、これまでの短い生涯のなかでためた資金を手に、フェザーンへ赴いた。ちいさな船窓から無限の暗闇と数億の星々を凝視する。それらがいままでとちがう色彩を帯びていることに、万感の思いを抱きながら、彼は脳内で知能による格闘をはじめていたのだった……。
彼は皇帝になりたかったのである。これに勝る革命の動機があるだろうか?
ウルリッヒ・ケスラーは、憲兵総監の職にあって独立行動権と超法規的な危険人物の殺傷を許可されている。彼の存在はあらゆる意味で巨大ではあるが、ケスラーは一度としてそれを悪用したことがない。この事実は、未来においても同様であろう。彼は目的のためならあらゆる手段を講じ、それを実行する勇気とみずからを統御する悟性をもちあわせていたが、卑怯と蒙昧、そして無用な悪とは出生時から袂を分かっていたのである。
彼はある人物を追っていた。けっして危険人物の筆頭というわけではない。ケスラーのそばに常駐する数名の憲兵をのぞいたほかは、たとえば連続殺人者とか、旧自由惑星同盟領における反新銀河帝国派などを調査しているはずだ。ケスラーがあるひとりの郵便配達員を追うのは、彼の直観に拠るところが大きい。
フランシス・ドゥランは、ひとりの善良な小市民として、だれの目にもうつる。あの十数年前の激動の時代が起こした荒波にさらわれて、その中途に家族と永遠にはぐれ、それでも懸命に生きる青年に見える。だが、彼の郵便ルートにおいて、しばしば計上される郵便税に誤差が報告されているのである。それはごくわずか、砂場の砂粒の多寡を比較するような途方もない値における誤差であるが、その誤差の発生点にしるしをつけていったとき、ある航路に集中しているのだった。銀河を天頂方向から俯瞰し、東に旧銀河帝国、西に自由惑星同盟をおいたとき、アスターテ星域とアムリッツァ星域をむすぶゆるやかな曲線に、である。
これは偶然だろうか。集中といっても、あるいは統計上のかたよりであるかもしれないし、フランシス・ドゥラン以外にもこの航路を担当する者は何名もいる。だが、ケスラーは思考よりも行動の人であった。可能性があり、それが机上で解決できないと知るならば、逡巡もなく立ち上がり、なお衰えをみえない四肢をするどくのばして、不可視であるならば聴覚と嗅覚、触覚を駆使して、不可触であるなら視覚と嗅覚を駆使して、なにもかもをあきらかにしようと試みるのである。
憲兵総監が、あるひとりの市民を追っている。当事者たちの思惑と労苦をしらぬ第三者がこの光景を見たならば、滑稽にうつるかもしれない。だが、ケスラーには、いつでもブラスターを抜く覚悟ができていた。
フランシス・ドゥランのほうも、まさか憲兵総監であるとは知りえるはずもないが、自分の影をふむように、ひたひたと何者かが追跡者と化しているのを洞察していた。ルーカス・クリーガーの手助けもあったが、フランシスはすんでのところでケスラーの追跡をかわし、みずからが暴力革命の従事者であることを隠し続けてきている。その点で言えば、フランシス・ドゥランは並みの人間ではなく、ある水準以上のすぐれた力量をもった男であった。
そして、その事件は逃走と隠蔽、追跡と執念のはざまで起きた。
惑星ヴェスターラントにおける、大規模な反帝国デモ行動である。
大火事の発端は、あるいは常に些細な見落としとちいさな火種にあるのかもしれない。しかしその火種は、相対性のなかで語るべきであり、火種と比較されるのは新銀河帝国という巨大かつ絢爛な建造物であった。
“獅子帝を想う”と題された連日のテレビプログラムは、かなりの好評を示しており、故ジークフリード・キルヒアイス大公のリップシュタット戦役における活躍の章では、視聴率は過半数をこえるに至った。新銀河帝国の中枢が鼻白まざるをえなかったプロパガンダ性は、人々の支持によって皮肉にも隠蔽されつつあった。しかし、その厚いヴェールを取り去ったのは、隠蔽者とはべつな人々による行動であった。
“獅子帝を想う”は、ジークフリード・キルヒアイスの悲劇によってリップシュタット戦役に対する語りを終えている。そのなかで、惑星ヴェスターラントをおそった悲劇はどのように語られたか。――いや、語られなかったのである。“獅子帝を想う”の制作者たちは、ヴェスターラントについて触れもせず、あたかもその記憶が抹消されたかのように一連の映像をつくりあげた。
当然、ヴェスターラントの悲劇を知る活動家や、その土地に住まうもの、あるいは犠牲者の遺族たちは、その事実に反発した。そして、次のように声高に主張したのである。
「“獅子帝を想う”――あの歴史の一部分のみを照射し、それによって語られる歴史を第一の是とするおろかなテレビプログラムを、我々はみとめることができない。かつ、その後ろ盾にあろう新銀河帝国が、みずからの歴史を記した文字のインクがなにであるかを忘れたかのような姿勢を、我々はゆるすことができない」
ここには、民衆の無知があらわれているかもしれない。“獅子帝を想う”に、新銀河帝国政府はまったく関与しておらず、その制作についても表現と言論の自由が法によって保障されているのであるから、その内容が政府にすりよったものであったとして、政府そのものを非難するのは、やや道理から外れている。
だが、いっぽうで、かれらの無垢さも同時に見て取らねばならない。かれらは活動によって、無意識のうちに弾劾したのである。いまの新銀河帝国が、安寧のうえにあぐらをかき、国家が歴史を語る義務をおろそかにしているということを。“なにも言わない”という国家の行動そのものが、ヴェスターラントにかんする歴史の語りを容認しているとかれらは解したのであった。
大規模デモが、まだ市井における数人の演説の域にとどまっていたころ、ケスラーは数名の部下とともにヴェスターラントに着到していた。むろん彼が追っていたのはちいさな火種ではなく、彼が直観に拠って火薬庫の導火線の先端であると洞察した男である。あくまでケスラーがヴェスターラントにいたのは偶然であった。偶然? あるいはケスラーが、数名の演説家のなかにルーカス・クリーガーの姿があることを認めていたならば、それは運命をつかさどる神のいたずらなどではなく、ある男によって丹念に形成された陰謀の縦深陣にさそいこまれていただけだったということを知りえたかもしれない。だが、ルーカスはいまだ歴史の表舞台には登場せず、彼の心のうちに至高の玉座が燦然と輝いていることを、宇宙に住まうだれもが知悉しないでいるのである。
ヒルデガルド・フォン・ローエングラムがケスラーから報告を受けたのは、小さな火種が子どもの背丈ほどの煙火へと変わったタイミングである。そしてすぐに、その炎は惑星を巻き込んでしまった。
アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムが出席する会議において、なぜ軍人も出席を要請されたのか、ウォルフガング・ミッターマイヤーはその理由を洞察せざるをえない。ヒルダは、これが惑星にとどまらず、全銀河をまきこむまではいかないにしろ、ひとつふたつの星系をまきこんだ騒乱になると予測しているのだろうか。そうなれば、軍隊は出動する。そして軍隊が出動すれば、その軍隊の親率者たる皇帝は、総旗艦ブリュンヒルトに乗り込み、宇宙を駆ってその胸をさらし続けなければいけない。それは先帝ラインハルト・フォン・ローエングラムが世継ぎに残した最大の訓戒であり、ローエングラム王朝における黒鉄の掟だった。
皇帝アレクは、口を開くこともなく、御前会議のようすを見ている。発されることばをひとつひとつあまさずききとり、自らの畝を耕す肥料とするだろう。しかし、その蒼氷色の瞳に、どんな像が浮かび上がっているのか、ミッターマイヤーは見て取ることはできない。
願わくば、この騒乱も犠牲者がでないうちに終わってほしい。いまはそれでいい。まだ幼年学校も卒業していないたったひとりの少年が、宇宙を統べる軍兵のまえで黄金の獅子の旗を振るなど、重すぎる責任と未来と現実とに双肩をおさえつけられるようなものだ。
そのような主席元帥の深刻だが打開をみない思案の渦の外で、アントン・フェルナーはきたるべき最悪の事態を想定していた。彼の脳髄は絶対零度ではないが、それに限りなく近い温度を推移している。最悪の事態――それは軍の出動にともなう皇帝アレクの戦闘参加ではなく、軍が出動したうえで、局地戦にしろ緒戦にしろ、帝国軍が敗れることである。
彼はまず基礎の確認から行った。すなわち、ヴェスターラントがどの元帥・将校の担当官区であるか、その数千度目かの復習である。
憲兵総監ケスラー元帥をのぞく六元帥のうち、まず、ウォルフガング・ミッターマイヤー主席元帥は、まだ成人していない皇帝と、軍人待遇ではあったが艦隊や部隊をひきいたことのない先帝皇妃の代理として、皇帝直属の艦隊を率いる。彼の麾下ではカール・エドワルド・バイエルライン上級大将が分艦隊を率い、総勢は三万隻である。
また、ナイトハルト・ミュラー元帥はフェザーン回廊における旧同盟側の要塞“影の城”と逆側の要塞“三元帥の城”を管轄する。ミュラーは実質的なフェザーン回廊の防衛司令官であり、最大の責任者だった。ふたつの要塞にはそれぞれ一万ずつの艦隊が駐留し、ミュラー自身の直属艦隊が五千であるから、総勢二万五千隻が彼の指揮下にある。
アウグスト・ザムエル・ワーレン元帥は、旧同盟領の管轄と共和自治政府の交渉窓口を担当する。麾下の艦隊は一万で、旧同盟領の各星域にさらに一万が散らばっている。したがって、ワーレンが最大で動員できる艦隊は二万隻であった。
フェザーン回廊とならぶもうひとつの要衝であるイゼルローン回廊には、エルンスト・フォン・アイゼナッハ元帥がいる。彼は要塞と駐留艦隊の司令官を兼任するが、その下にはフォルカー・アクセル・フォン・ビューローがおり、分艦隊を指揮していた。アイゼナッハも、同様に最大で二万の艦隊を動員できる。
エルネスト・メックリンガー元帥は旧銀河帝国領を管轄することにくわえ、旧帝都オーディンの防衛を担っている。メックリンガーの動員できる艦隊も総勢二万隻であるが、彼にとっては後者の任務のほうが大きい意味を持つかもしれない。旧帝都オーディンの防衛、すなわち、大公妃アンネローゼ・フォン・グリューネワルトの居所の防衛である。アンネローゼの存在は、現在の皇室において重大な意味を持ち、あるいは国母ヒルダ以上に、新銀河帝国の“生みの親”であるかもしれない。……ともかく、メックリンガーはアンネローゼの要望の如何にかかわらず、あまりオーディンを動くことがない。
残るフリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト元帥は、遊撃艦隊として、基本的にはフェザーンとオーディンを行き来している。その艦隊は一万五千隻と他に比べて少ないが、より機動性を重視した結果であるため、当の元帥は不満をもらしたことがない。なにより彼の黒色槍騎兵艦隊は、すべてが漆黒に塗装され、その威容と名声は銀河にとどろいている。
惑星ヴェスターラントは、旧銀河帝国領にある。したがって、その管轄はメックリンガーだが、実戦指揮はビッテンフェルトであろう。かの初代軍務尚書ですら扱いに手を焼いた彼である。
それぞれの元帥が担当する管区は、ミッターマイヤーとケスラーをのぞく五名の元帥が、はじめの数年は持ち回りで担当していた。しかし、現在ではほぼ必要のない限り固定化され、それがもっとも最適なかたちであるとされている。フェルナー自身もそう考えることがあったのだが、ようやく安定をえてきたといってよい時期に、この騒乱であった。
あるいは、とフェルナーは思う。この時期をねらってきたというのだろうか?
彼もまた、騒乱を裏で操る人物を知らない。この騒乱が偶発的な出来事であるのか、それ以外であるのか、フェルナーははかりかねている。その深淵を感じれば感じるほど、彼の理性と思考は温度をさげていくのだった。
一二
先帝皇妃と皇帝をまじえた御前会議は、新帝国歴一七年一二月二八日に行われ、同日夜七時に終了した。さしあたってはエルネスト・メックリンガーが騒動の鎮圧にあたり、先帝皇妃と国務尚書は“獅子帝を想う”と国家の関連を、あらためて明確に否定することに決まった。それでは、根本的な解決にはいたるまい――と、生来の正論家たる主席元帥は思うのだった。
ウォルフガング・ミッターマイヤーは日ごとに重量をましていく不安を背負いながら、家の戸をあけた。
「かえったよ、エヴァ」
ミッターマイヤーの帰宅の声は、エヴァンゼリンとむすばれたころから、なにひとつ変わりがない。ふたりの関係性がかわらないかぎり、このあいさつもかわることがないだろう。
いつもなら、半ば小走りに妻が駈けてくるのだが、この日は違っていた。
「おかえりなさい、父上」
妻よりもはやくエントランスに駈けてきたのは、彼らの息子であるフェリックスだった。フェリックスは、まだ彼が自分の両親と信じる夫婦と血のつながりがないことを知らない。
もしフェリックスが自らの出生について知ったならば、体内に流れる血を呪うだろうか。新銀河帝国における最大の反逆者、オスカー・フォン・ロイエンタールの血を。
ミッターマイヤーは、そろそろ自分の背を越しそうなまでに成長したフェリックスの頭を軽くなで、あらためて帰宅を告げた。
「エヴァはどこにいるんだい、フェリックス?」
「母上は、買い物にでかけられました。帝国全体の新年の祝賀をするまえに、まずはうちでお祝いしたいそうです」
「そうか。じゃあ、またブイヨン・フォンデュがたべられるかもしれないな」
「はい。でも、それよりも大事なことがあるとか」
フェリックスは一五歳になっていた。幼年学校の主席卒業も決まり、いまは配属前の最後の休暇である。ならば、おとなになるための最初の通過儀礼をしなければならない。
ロイエンタールはおよそ酒癖がいいとはいえなかったな、とミッターマイヤーは思う。何度、酔っぱらった末に殴り合いのけんかになったことか。ロイエンタールの過去について聞いたときも、彼は深く酔っていた。なぜかいつも、彼の記憶は酒とともにある。あるときは黒ビールで、あるときはワインで。おたがいに飲み干さない酒はなかった。ただ一杯、たった一杯のウィスキーをのぞいては。
フェリックスの年齢は、ロイエンタールと離れた時間とおなじである。だから、フェリックスとおなじだけ、ロイエンタールの記憶も歳をとる。フェリックスとの記憶が増えていくだけ、ロイエンタールの姿が遠くなる。それがかなしいことなのか、ミッターマイヤーは考えない。この世で最も残酷なのは時間だ、などと人は言うかもしれない。だが、ミッターマイヤーは、フェリックスと、エヴァと、そして時折ハインリッヒの時間がまじりあう、この幸福が好きだった。
「さて、ではフェリックス。どれほど三次元チェスが上達したか、見てやろう」
「はい、父上」
フェリックスがほほ笑む。まっすぐな子に育ったと思う。もう、どこにだしても恥ずかしくはないだろう。たとえそれが戦艦の一乗組員でも、どこかの惑星の一軍人でも、フェリックスはりっぱにやるにちがいない。それが、ミッターマイヤーには誇らしかった。
ほぼ一年ぶりの三次元チェスが、ミッターマイヤーの優位のうえに終盤へさしかかったころ、エヴァンゼリンがハインリッヒ・ランベルツを連れて戻ってきた。
「おかえり、エヴァ」
「あら、あなた。帰っていらしていたのね」
そういってエヴァは、ミッターマイヤーに春の陽光のようなほほ笑みをくれるのだ。
「さて、ブイヨン・フォンデュをつくらなくちゃ」
「なんだか、ついこのあいだも食べた気がしますね」
ハインリッヒが貝類の入った籠をおきながら言う。彼は名手とまではいかないまでも、じゅうぶんに料理ができる。今回も、エヴァを手伝うつもりなのだろう。ハインリッヒには、明確に両親の記憶があるが、それでもミッターマイヤー夫妻のことは父母のように慕い、フェリックスのことは弟のようにかわいがっている。
「何度も言うがな、ハインリッヒ。エヴァは、おれが生きて帰ってくるかぎり、毎日でもブイヨン・フォンデュをつくってくれるのだ」
ほこらしげなミッターマイヤーを、ハインリッヒが笑った。でも、肥ると嫌われるんでしょう、と。
「父上、そろそろ続きをしましょう」
食事までにはまだ時間がある。フェリックスはそれまで父との時間をたのしみたいようだった。
「負け戦をつづけるか。潔いな」
「窮鼠だって猫をかむのです。私なら、狼すらもかんでみせます」
「ほう。チェスに機雷はしこめんぞ。どうするつもりだ?」
やがてフェリックスが必敗の様相を呈してくると、キッチンから何とも言えないにおいがただよってきた。
「あなた、ワインをおねがい。そろそろできあがりますからね」
エヴァの声が聞こえてくると、ミッターマイヤーは勢いよく立ち上がった。これが今日のメイン・イベントであるのだ。フェリックスがおとなになるための通過儀礼、それはワインをたしなむことだった。
「では、フェリックス。この勝負はどうする?」
「おとなしく撤退しますよ」
「さすがに名将は引き際を心得ているな」
どこかで同じような会話をしたことがある、とミッターマイヤーは思うのだった。
家族四人がテーブルを囲むと、ミッターマイヤーは特別なワインをあけた。新帝国歴一年に建国を記念して醸造され、先の皇帝ラインハルト・フォン・ローエングラムから下賜された特別なワインである。当時の准将以上の軍人か高級官僚のみに渡されたものだが、なかには家宝として半永久的に保存しようとする臣下もいた。
目の前であけられたワインがどれほど貴重なものであるか、フェリックスはよく知っていた。だから、当然のごとくミッターマイヤーの手を止めようとしたのだった。
「フェリックス。酒には飲みどきというものがある。それは酒そのもののタイミングというより、酒を飲む人間のタイミングで決めるべきだと思うのだ」
「しかし、物が物ですよ」
「おれは、おまえとともに飲むことで、このワインをより貴重なものにしたいのだよ」
フェリックスは感激したようにゆっくりと頷いた。おそるおそるというふうにかかげられたグラスに、ミッターマイヤーは手ずからワインを注いだ。
「きょうの佳き日に」
「フェリックスの卒業に」
ミッターマイヤーとエヴァが順に祝辞を述べると、フェリックスは照れ臭そうに笑った。いくら幼年学校を圧倒的な成績で卒業し、銀河を統べる驍将のもとで育てられたといっても、まだ一五歳なのだ。彼は少年であってもいい。そのような時期があってもいい。両親の愛情につつまれて、そのあたたかな幸福のなかに身を浸す時間が。
「では、乾杯」
ミッターマイヤーがグラスをかかげると、フェリックスはそれにならった。そして、人生ではじめて酒との邂逅をはたした身体にとって、ごく自然で普遍的な反応を見せた。彼はむせたのである。ミッターマイヤーとエヴァとハインリッヒがそれを見て声をあげて笑う。
二時間後、フェリックスはその地の白い顔を健やかに紅潮させ、全身を酔いの波に漂わせていた。すでに先帝から下賜されたワインは瓶を残すのみとなっており、エヴァが持ってきた二本目の白も同様になりつつある。すこし飲ませすぎたか、とミッターマイヤーは思った。自分の適正量をわきまえさせえるのも大事であるが、まずは初回からそれを行うのも問題であるのかもしれない。
「さて、そろそろお開きかな。フェリックスも、幼年学校では忙しくて、寝ている間も訓練だったろうから」
「そうですね。きっと、夢をみる暇だってありませんわ」
ここは自分の仕事だろうな、とミッターマイヤーが立ち上がり、フェリックスの肩を持とうとした。彼が近寄ると、わずかに体をゆらしたダークブラウンの髪の少年は、瞳の焦点を結ばぬまま、アルコールにとかされたような声で言った。
「父上。父上はほんとうに、あのオスカー・フォン・ロイエンタールと無二の友だったのですか?」
ミッターマイヤーは、少年の青い瞳を凝視した。平穏ならざる発言である。視界の隅で、エヴァンゼリンとハインリッヒが手を止め、こちらを見ているのが分かった。
「ああ、そうだよ」
彼は短くそう言った。ある意味で、彼は本心を言っていない。オスカー・フォン・ロイエンタールは、ミッターマイヤーの無二の友で、彼とともに過ごした時間は、ほかのなによりも貴重であった。だが、そのことは言えない。言わせないなにかが、フェリックスの瞳にはあった。
「そうか、だから学校では、ロイエンタールのことを悪く言わないのですね」
それは悪意のこもった発言であったのだろうか。ミッターマイヤーは、一五年の時をともに過ごし、知らぬところはないと思っていたわが子の、尋常ではない部分を見るような思いがした。
「フェリックス、どうしたのだ、急に……」
「ずっと疑問に思っていたのです。オスカー・フォン・ロイエンタールは、この国にとって反逆者です。重大な犯罪人なはずだ。かつての味方とそのときの味方を殺し合わせ、自らも殺しました」
「やめろ、フェリックス。ロイエンタール元帥の名誉を重んじられたのは、ほかならぬ先帝陛下だ。その御意に叛意をしめすのか」
「陛下の御意、という方便を、ほかならぬ父上がお使いになるのですか」
ミッターマイヤーは、背筋に冷たい汗が流れるのを感じていた。いつのまにか、自分がもっとも嫌っていたはずの論法を、みずからが使用していたのだ。そしてミッターマイヤーは、気付く。フェリックスの言にたいし、自身が有力な反論を有していないことに。
「ロイエンタール元帥は、りっぱなお人だったのだよ、フェリックス」
ハインリッヒが、諭すような口調で言った。フェリックスは、ハインリッヒがかつてロイエンタールの侍従を務めていたことを知っている。
「そうですね。先帝陛下に剣のきっさきを向けるほど、りっぱなお人です」
「もうよせ、フェリックス」
思いのほか強い声が出て、ミッターマイヤーは二の句の威を弱めるのに苦労した。
「父さんだからこそ知っていることなのだがな、フェリックス。ロイエンタールは最期まで……そう最期まで、先帝陛下への忠義を失わなかった。陛下もロイエンタールを信じていたからこそ、元帥号を返与なさったのだ」
「そのことばは、ロイエンタールと父上が過去を共有していなかったら、生まれていたでしょうか?」
言葉に詰まる。たしかに、ミッターマイヤーはロイエンタールと過去を共有し、そのえこひいきの念を完全に排することはできない。だが、だれよりもフェリックスの口から、出てほしくはなかった。本来なら、フェリックスの全過去こそがロイエンタールと共有され、現在も、未来をもそうされるべきなのだ。それを奪ったのは、ミッターマイヤー自身であるかもしれない。ロイエンタールの死の責任を感じずにはいられない彼である。自責の念は、おそらく死ぬまでつづく。ロイエンタールの死と、フェリックスの生にたいして。
「生まれていなかったでしょうね」
暗雲を光条がつらぬくように、するどい声が三人の虚空をはしった。声の主のほうを見る。エヴァンゼリンがこんな声をだしたことが、いままであっただろうか?
「そう、だれよりもウォルフガング・ミッターマイヤーという方は、ロイエンタール元帥との時間を共有されています。だから、その時間が、ウォルフの口を開かせているのかもね」
わが子にむける声とまなざしは、一瞬ごとにやさしくなる。エヴァンゼリンは、主席元帥の妻であり、フェリックスの母なのだった。
「でもね、フェリックス。ロイエンタール元帥がいたからこそ、いまのお父様があるのよ。もしいなかったなら、お父様は主席元帥になられていないかもしれないし、もしかしたらどこかで命を落としてしまったかもしれなかったのよ」
フェリックスが押し黙る。瞳にやどった炎が、少しずつ小さくなっているようにも見えた。
「さあ、フェリックス。おまえは頭のいい子だ。酒のおそろしさも知っただろう」
「……はい、父上」
ミッターマイヤーは、ふらつくフェリックスの肩をもつと、ともに寝室へと歩き、フェリックスをベッドに寝かせた。すでに少年は眠りの神の抱擁のうちにある。
フェリックスのダークブラウンの髪を、ミッターマイヤーはなでた。幼いころはよくこうしていたな、と思う。フェリックスは大人になりつつある。だが、眼を閉じたその姿は、まだ一五歳の少年のものだった。
ロイエンタールの遺伝子は、まことに御しがたいものだった。時折、はっとするほど父の面影を見せることがある。さきほどのことや、模擬会戦の様子などは、ミッターマイヤーを身ぶるいさせるほどだったのだ。
「フェリックス……」
ミッターマイヤーは、フェリックスの額に手をおいたまま、つかのま重なったロイエンタールの顔を振り払うように、そう独語した。
「酒にはいくら酔ってもいい。だが、夢には酔うな。酒の酔いにさめた後にやってくるのは頭痛だが、夢のあとにやってくるのは……」
フェリックスの寝息が聞こえ、ミッターマイヤーは深く息を吐いた。
リビングに戻ると、エヴァとハインリッヒは食事の片づけを始めていた。ミッターマイヤーの姿を認めると、ハインリッヒがそばに来た。
「義父上、フェリックスは……」
「もう寝たよ。すこしばかりあせったが、酒癖は似てはいけないほうに似たのかな」
ミッターマイヤーは苦笑したが、ハインリッヒの顔はいつも以上に真剣なものだった。
「思わず、あの日のことを思い出しました。ロイエンタール元帥の最期の日を……」
「“わが皇帝、ミッターマイヤー、ジーク、死”……」
口をついて出たのは、ロイエンタールの最期のことばだった。むろんミッターマイヤーはそのことばを聞いていない。彼は間に合わなかったのだ。“疾風ウォルフ”の、生涯におけるただひとつの遅参だった。
「私は思うのです。ロイエンタール元帥の最期で、眼の前にあらわれたのは、友の姿であったのだと」
ミッターマイヤーは、おどろいてハインリッヒの顔を見た。いまだかつて、だれにも口を開くことのなかった、ハインリッヒの解釈である。彼は唯一ロイエンタールの最期に立ち会い、そしてそのことばを書き取ったのである。
“わが皇帝”、“ミッターマイヤー”、そして“ジークフリード・キルヒアイス”。かつてゴールデンバウム王朝の打倒を誓ったあの日のことを、ミッターマイヤーは忘れたことがなかった。そのころから、四人は友となったのだ。
「死が、最期に友の列に加わったのか。あるいは、ロイエンタールにとっては、死はつねに背中合わせの朋輩だったのだろうか」
それは独語に近かったが、ハインリッヒにはじゅうぶんに聞こえただろう。
彼の背に死が寄り添っていたのなら、それを取り除くのは自分の使命であったのかもしれない。おれはその役目をおこたったのだ。ロイエンタールが自分の背をまかせるのはミッターマイヤーだけであったし、ミッターマイヤーにとってもそれは同じだった。だから、戦場でふたりが向かい合った時、どちらかには死の来訪が決定されたのである。
おれはひとりになっちまったよ。そう独語してから、一四年も経っていた。それが長いことなのか、つかの間考えて、やめた。時は、絶えず自分を過去に押しやろうとする。だが、彼には妻がいて、ふたりの子がいる。それらすべてと血のつながりはない。それ以上にたいせつでゆたかなものをこそ、ミッターマイヤーは貴重に思うのだった。
流れる映像がある。思い出すにおいがある。
どういうわけか、フェリックスは客観的にそれを眺め、感じ取ることができた。
よく晴れた春の午後だった。この時期に家にいるということは、まだ自分は幼年学校に入学していない。父は仕事へ行き、母は買い物に出かけている。ハインリッヒは大学のためにひとりで暮らしていたから、自分は家のあるじたちの留守を懸命にまもっていたことになる。
ドアのベルが鳴らされた。母には、客人にたいして出る必要はないといわれていたが、自分はほほえましいまでの勇気をふりしぼって、エントランスへ行き、背伸びをしてドアノブに手をかけた。
外にはひとりの女性がいた。陽光を背にしていたから、フェリックスにはその顔がよく見えない。
「こんにちは」
女性がそう言った。声はふるえていたかもしれない。それ以上に、自分の声はふるえていただろう。
「こんにちは」
「……おとうさまか、おかあさまはいらっしゃる?」
「どちらもでかけています」
「そう……」
顔は見えないが、こちらを見つめているのはわかる。不思議とおそろしくはない。どこか、なつかしさのようなものを感じるだけだ。
「あなた、お名前は?」
「……フェリックス。フェリックス・ミッターマイヤーです」
もしこのとき、フェリックスがすこしでも心理学に長じていたのなら、この女性が“フェリックス”よりも、“ミッターマイヤー”という名に過敏なまでの反応を示したことを察しえたかもしれない。この女性は、陽光のなかでいかずちに打たれていたのだ。少年が、“ロイエンタール”と名乗らなかった事実といういかずちに。
「……さようなら、フェリックスくん。おとうさまやおかあさまと仲良く、そして健やかに育ちなさいね」
女性が身をひるがえした。その刹那であった。陽光が女性のほおを照らし、一条のきらめきを放ったのだ。それは流星のようにも見えた。流星は美しいものではあった。だが、遠いどこかで、ひとつの巨大なものが、炎をあげて燃え尽きたことにはかわりがないのである。
フェリックスは、女性が地上車に乗り、遠ざかっていくまでを眺めていた。音すら聞こえなくなっても、その残影を探し続けていた。
眼を覚ますと、ひどい頭痛がした。これがふつか酔いか。のどがかわいている。酒以外のなにかで、それをうるおしたいと思った。
リビングへ行くと、父がいつもの席に座ってコーヒーを飲んでいた。キッチンのほうからは水の流れる音が聞こえる。
フェリックスは、父の向かいに座ると、すこしためらってからその顔をのぞきこんだ。昨晩、ベッドに運ばれるまでのことを、彼はすべておぼえていたのである。自分が何を言ったか、そしてどのような鞭で父を傷つけたか。
「……申し訳ありませんでした、父上」
父はちらりとこちらを見ると、やわらかく微笑んでこう言った。
「……なんのことだ? まるでおぼえていない」
彼はそういう父親だった。