一六
共和自治政府の軍事指導者ユリアン・ミンツおよび同軍元帥ダスティ・アッテンボロー、政治指導者フレデリカ・グリーンヒル・ヤンを乗せた宇宙船団は、一二月三〇日のフェザーン到着を期して惑星ハイネセンを出立した。その行程の途上で、アウグスト・ザムエル・ワーレン元帥の管轄星域を通過するため、ワーレン歓待の一部と合流をはかるはこびとなった。バルスワープも進歩しており、約二週間ほどの旅程になりそうだった。
ユリアンらが、ホルツバウアー大将ひきいるワーレン分艦隊に新帝国領ランテマリオ星域で迎え入れられたのは、航行日程も順調に消化していた折だった。旧自由惑星同盟を知る者にとっても、新銀河帝国を知る者にとっても、さまざまな感慨のあるこの宙域は、惑星ハイネセンと惑星フェザーンとを結んだ線分の軌跡にあり、万人がみとめる交通の要衝である。
ホルツバウアーの剛健な敬礼と、ユリアンやアッテンボローの柔和な敬礼とが一切の摩擦なくかわされていた時刻とほぼ同じくして、宇宙のある一隅、惑星コルレオーネには、数人の男たちが円卓を囲うように座していた。そのうちのもっとも扉側、つまり来客用に置かれた席には虚空があるのみであり、他のものたちはその空席に座すべきひとりの人間を待っているのである。
惑星コルレオーネとは、惑星の発見者の名をとってそう呼ばれるようになったのであるが、けっして公称ではない。いや、この惑星には、公称などというものは存在しない。規模としては、惑星フェザーンの十分の一に満たない小さな惑星である。いくつかの巨大な人工物があるよりほかは、果てのない土漠と急峻な山岳があるだけなのだが、この惑星最大の特徴は、惑星全体に外部からのあらゆる干渉を防ぐ妨害波が張り巡らされていることであろう。そのため、この惑星には、この惑星のことを知り、かつ居住者に許可をえないかぎり、大気圏への突入すらままならないのである。
この惑星の来歴は、古くはルドルフ・フォン・ゴールデンバウムにまでさかのぼる。――この表現はあまり正確ではない。むしろ、惑星の存在は、ルドルフというその身と器に比して過剰な自信にあふれた男の、さらに小さな脳髄にたしかな領域をえているにすぎなかったのである。
アントニオ・コルレオーネは、西暦末の地球におけるまことに小さな島に来歴をもつ資産家の末裔だった。その資産は、けっして由緒を語ることのできるものではなかったが、彼は父の死によってその莫大な資産をみずからの管理下に置いた。彼自身すらもあるときまで自覚することはなかったが、アントニオ・コルレオーネは、幾度となく古典文学で語られたような“無能な金持ちの御曹司”などではなかった。彼は天才的な投資の才能をもっていたのである。その投資先は、大企業でも、国家でもなく、ただのひとりの個人だった。
その個人の名は、ルドルフ・フォン・ゴールデンバウム。当時、彼は新進気鋭とはいえ、体躯が圧倒的に他をしのいでいただけの、銀河連邦のちいさな一将校にすぎなかった。あまりに厳格な軍隊の綱紀粛正によって、危険すぎる海賊討伐の任に就いた彼に、アントニオは天啓を受けた。生来の無神論者であった彼が、その刹那だけは、神の存在を知覚し、同時に忠実なしもべとなったのである。彼は天啓のままに討伐計画に腐心するルドルフへ近づき、あらゆる支援を約束したのである。莫大な資産と、裏社会にどこまでも伸ばしうる、見えざる触手を有していたアントニオは、情報によってルドルフを厭う軍人連中や、宇宙海賊を制圧し続けた。そして、ルドルフは宇宙海賊を一掃し、ならびなき権勢をえる契機をつくったのである。
アントニオとルドルフの協調関係はおおやけにはされず、資産家の当主は情報と資金の提供によってルドルフの覇道と独裁、政敵の抹殺などすべての活動を支え、皇帝は影の支援者の存在を隠匿し、その活動を黙認することによってアントニオの栄達を支えた。いっぽうが成長すれば、もういっぽうにさらなる力を与える、というサイクルの繰り返しで、両者は表裏の両面から銀河を制した。ルドルフはアントニオには活動の拠点として、アントニオ自身が発見したひとつの惑星を与えられた。現在の惑星コルレオーネである。
その惑星は、全宇宙をえがいたとされる星図からは意図的に抹消され続け、ルドルフの死によって人類の記憶から忘失されることになるのであった。人々、というにはあまりにも少ない数の人間がそれを思い出すのは、帝国暦三七三年を待たねばならない。すなわち、フェザーン自治領の成立である。コルレオーネ家は、代々フェザーン自治領主を観察し、近づくべき器をもった領主に対してはあらゆる支援を惜しまなかった。
コルレオーネという呪われた姓をもつ者たちの脳髄の空虚を満たし続けたのは、そのような政略と陰謀の潜熱であっただろう。だが、血と肉をうるおし続けていたのは、ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムやフェザーン自治領主による謝礼などではなかった。あるいは、惑星コルレオーネそのものであっただろうか。それも否である。荒涼とした惑星に産業などのぞむべくもなく、もしかするとその厚い岩盤のなかには、かれらの血肉の渇きをうるおすに足るなにかがあるのかもしれないが、かれらはそれよりも効率的に莫大な金をえる道を知悉していた。それはかつて、西暦の一九世紀にひとつの巨大な国家を滅ぼした外法である。――“麻薬”による人々の精神と経済の支配であった。
サイオキシン麻薬と呼ばれる劇毒を染み込ませた蜘蛛の糸は、いまや全銀河へ張り巡らされている。いくらかまえのことであるが、自由惑星同盟と銀河帝国が密約をかわし、サイオキシン麻薬の一掃に乗り出したときには、多少なりにその網にほころびが生まれてしまった。だが、眼に見えぬコルレオーネ家の崇拝者は、数千万という単位で存在するのである。糸は、コルレオーネ家が直接手をくださなくとも、すこしずつ回復していった。そうして、元の通りに復元されていくのである。その蜘蛛の巣の劇毒を媒介としながら、莫大な富が、コルレオーネ家の金庫にはおさめられる。
現在、コルレオーネ家の当主は八七代めのジョセフ・コルレオーネが束ねていた。小柄で線の細い男であるが、まず眼につくのはするどくとがった鼻である。眼は細く、その奥に見える瞳は、吸い込まれるような漆黒である。キャメル色の頭髪はしっかりとオール・バックにかためられ、猛禽を想わせるには十分な容貌だった。彼は自身が細身であるのにたいしややコンプレックスを抱いていたが、彼の気に入る濃紺のスーツは、そのコンプレックスをむしろ機敏でするどく光る刃にかえることに成功している。
彼は、円卓の間の最奥、初代当主アントニオ・コルレオーネの肖像画がかざられたそのすぐ下に座っている。ジョセフの容貌と絵画の人物のそれとを比較しても、ジョセフが初代の血を色濃く受け継いでいるということがわかる。あるいは、その内面すらも、彼は精巧な模造品となりえているかもしれない。
「彼は遅いのかな、ザザ」
ジョセフは、すこし癖のある帝国公用語で、左となりに座る金髪の男に話しかけた。ザザと呼ばれたその男は、日焼けした肌の中で光る青い瞳を数ミクロ動かしただけで、ジョセフのほうをむこうとはしなかった。
「からかってはだめよ、ジョセフ。ザザは右耳が聞こえないのだから」
そう言ったのは、ジョセフの右となりに座るロゼッタである。ジョセフの妹であるが、外見はあまり似ていない。人並み以上には肥っていて、過剰なウェーブがかかった髪を、無造作にヘアゴムでまとめている。
「そうだったな。ザザ、聞こえているか?」
今度はいくらか大きな声で、ジョセフが言った。
「彼、とはどなたでしょう、ジョセフさま」
すこし間をおいて答えたザザの声を聞いて、くっくっとジョセフが笑った。根の暗い男ではないため、表情は乏しくない。無表情のときの彼は、怜悧な猛禽の鉤爪のごとき印象をあたえる。だが、彼をすこしでも知る者は、彼の表情のほぼすべてが、持ち主の意志が顔の随意筋を寸分あやまたず動かしつくした精華であるということを理解している。ジョセフの表情、所作、態度、声色……。それらすべてが、打算と意志のもとにあらわれているのだった。
「おもしろい男ではある。だが、残念ながらばかだ。むこうも、私たちのことをばかだと思っているだろう。つまり、似ている」
「あんた、一度会ってはいるはずだよ。五年ほどまえだけどね」
ジョセフはちいさくほほえみ、ロゼッタが低い声をあげて笑った。
五年ほど前、ということは――と、ザザと呼ばれた男は考える。彼が知っていることはただふたつだった。ひとつは、自分の名前が、ヴィンツェンツォ・ザザであるということ。もうひとつは、ここ数年に蓄積した経験のほかは、自分が何も知らないということだった。彼はあるときまでの記憶を失っているのだった。
いくら考えても、自分の記憶にはない。ということは、自分は五年前の記憶は失っている。知っているのは、ジョセフと、ロゼッタと、ほか数名のジョセフが抱える私兵をひきいる何名かの将校だけである。それは、ここ数年のうちに蓄積した知識の断片だった。
ザザのもつ記憶のうち、最も古いものは、自分が眼を覚ました瞬間のことである。白い天井に、今にも泣きだしそうな表情を浮かべたジョセフの顔があらわれたのである。いまとなっては、それも彼がコントロールする表情のひとつであるのかもしれないが、ザザにとっては、ジョセフが自分にとって大切な人間であるかのような想いを抱いた。そうして、ジョセフは自分のことをザザと呼んだ。
意識を失っていた原因は、宇宙船の事故であったらしい。爆発をともなう事故で、ザザは大けがを負い、意識不明で病院へ搬送された。死すれすれの状態が何か月か続き、ようやく眼をさましたのだという。だが、代償に右耳の聴力を失い、左耳も補聴器なしではうまくきこえないという障害を負ってしまった。あまり不自由はしていないが、ふとしたときに反応できず、困ったりもする。
ジョセフとザザは、従兄弟にあたるような関係であるらしい。惑星コルレオーネに住むのはコルレオーネ本家のみであるから、自分は分家の人間だということだ。ザザという姓は、かつて自由惑星同盟と呼ばれた領域において最大の領域を支配していたコルレオーネ分家が、世に紛れるために名乗っていたものである。広い領域を支配するだけに、本家との関係は深く、ジョセフとも何度か会っていたらしい。ジョセフ個人としても、“ザザ”ということばの響きが気に入っており、特別な思い入れのようなものを抱いているようだ。
ヴィンツェンツォ、という名では、あまり呼ばれない。たんに長いから、というのが理由らしい。それはロゼッタも同様で、いまでは名を呼ぶ者のほうが少ない。
「おまえは自由惑星同盟の優秀な軍人で、出世こそ上官にはばまれていたが、能力だけは将官位をさずけられてもおかしくないものをもっていた」
とは、私兵将校に引き合わされたときにジョセフに言われたことで、実際にザザはすべての将校とのヴァーチャルによる模擬艦戦に勝利した。自分が軍人であったことは、どうやら確からしかった。それも、並ではない軍人である。
一度、コルレオーネ家の私兵の存在意義について、ジョセフに尋ねたことがある。ジョセフは一度だけたしかにほほえみ、そしてすぐに、宇宙を裏から支配する一家の当主のものに変えた。
「われわれは、いま窮地の瀬戸にいる。それが際に追い込まれるか、あるいはやつらを追い込むかは、おまえの働き次第なのだ」
このジョセフのことばで、ザザは悟った。自分が、コルレオーネ家が抱える私兵軍隊の総帥の任を与えられたということに。断るということは、考えもつかない。二万とも言われる軍集団を、思うさまに操ってみたい。その欲求は、堪えがたいものがあったのだ。
「やつら、というのは?」
わずかな自嘲とともに、ザザは問うた。戦いたい、などというのは、どうしようもない愚者の欲望であるだろう。だが、それを自分は疑いなく抱いている。ならば、その欲望をむける相手を、ザザは知りたかった。
「皇帝アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラム。われわれの敵は、新銀河帝国そのものさ」
あの時、自分はたしかにふるえたのだ。強大な敵に立ち向かえることに。あるいは、不思議な感慨ではあるが、自分がなにものにも縛られずに闘えるということに。新銀河帝国に対し、ザザはいかなる感情ももっていなかった。恨みもなく、恩もない。だが、自分が軍人であったという、記憶の埒外にある確固としたものにアイデンティティを求めるならば、自分はそういう人間であるというだけなのだ。
「ジョセフさま、そろそろお見えになります」
部屋に入ってきた、ジョセフの執事がうやうやしく頭を下げながら言った。
「さて、ご対面だな、ザザ」
「どういう男なのか、たのしみでもあります」
「そういうところが、私は好きだ。よく、似ている」
誰に、とジョセフは言わなかった。なるほど、ジョセフ自身も、変化を嫌う性向をもつ男ではない。
「言ってしまえば、自分のことは傀儡師だと思っている。さしずめ私もおまえも、一体の人形ということだ。そう思い込んでいる。だが、やつは気づいてはいない」
「傀儡師もほかの見えざる糸にあやつられている、ということに、でしょうか?」
ジョセフが高く笑った。ザザの回答は、彼を満足させるものであったらしい。
「そうだ。われわれは、その別のなにかであるのだからな」
扉が開かれる。姿を現した男は、泥色の髪によくひかる瞳をたずさえていた。
一七
新帝国暦一八年――。
この年号は、マクロには後世の歴史家たちに永久に語られ、よりミクロにはひとりの少年の人生録を極太の線分によって画期することになる。アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムは一四歳、新銀河帝国軍幼年学校最終学年としてむかえた新年は、まばゆいばかりの光彩と、天を割る万人の喝采によって歓迎された。しかし、この新年の祝賀によって、少年の人生は画期されたのではない。この年をなによりもいろどってしまったのは、新銀河帝国史と少年の人生史とに刻まれた、新たなる深紅の碑文なのである。
「アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムは、新帝国暦一八年の段階では、形式の上で新帝国軍を統帥したが、それはけして実質的なものではなかった。彼はこのことを生涯の悔恨とするだろう。流血は多くの者にとってよろこびとなすべきものではないことはたしかだ。だが、われわれ(ここでの“われわれ”とは、筆者自身の所属団体、つまり軍をさすものではない)にとっては、あるいは、“簒奪王”を生む確固たる契機になったことを、ひとつのよろこびとなすべきなのだろうか。」
『アレク伝』のこのような叙述で開始される新帝国暦一八年は、“獅子の泉”における祭礼場、通称“泉の間”にてたからかにはじまりが告げられた。たちならぶ文武百官に奸臣なく、その者たちが責任を負うべき政治経済にも一切に遅滞はない。新銀河帝国はその建国以来、一度たりとも文明の逆行を経験したことなどありはしないのだった。それを支えていたのは、この泉の間に集まった“多数精鋭”である。
泉の間にそなえつけられた蒼氷色のステンドグラスが、さしこむ無色の太陽光を蒼く染めあげる。その蒼光の滝の最も下流、つまり泉の間の最上段に、アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムは座っていた。母ヒルデガルド・フォン・ローエングラムはいまだ摂政の地位にあり、少年に実質的な権力はない。しかし、この年、幼年学校の卒業とともに、権力は少年のもとへと集中するだろう。そのとき、百官のなかで、その地位と権力におもねる者も出るのだろうか。同一王朝における政権の交代のすきまとは、同時に不純物が入りこむすきまでもあるのだ。王権とは、そのようにして綻び、腐食し、たおれていくものである。ローエングラム王朝は、はたして、歴史上のさまざまな王朝と同じ経験をするのだろうか、あるいは――。そのような予感と不安とが一反の織物をかたちづくる、新たな年の幕開けであった。
朝賀の儀は、一時間ほどで滞りなくおこなわれた。祭礼の簡素さは、もはや新銀河帝国の不文律となっており、百官もそれに慣れ親しんでいる。意図すれば、重厚さや荘厳さは無辺際に膨張させることができるが、そうして得られるものは、かりそめの権威であるのだ。それは演出の結果であって、真実のものではない。安物のワインのボトルに過剰な装飾がほどこされていたとしても、すぐれた舌をもつ者にはすぐ欺瞞をあばかれるのだから、重要なのはむしろボトルの中身であって、王朝の権威もその統治と国家運営によってしぜんに発現されるものであるべきだった。いまのところ、ローエングラム王朝はそれをじゅうぶんに満たしているだろう。
その統治が、この年にどのような変化を遂げるのか。その挑戦を、われわれは見届けることになるのだろうか、とユリアン・ミンツは思う。彼は朝賀の儀がはじまる二日前にフェザーンへ着到し、簡単な手続きと準備を終えて“泉の間”を訪れていた。形式上ではあっても、外国使節ではあるのにかかわらず、この管理システムの簡素さは、新銀河帝国の技術の高さをしめすのか、慢心の深さをしめすのか、ユリアンにはわからなかった。おそらく前者であろう、と一般的な見解の賛同者になるのみである。
皇帝アレクサンデル・ジークフリード、その母にして摂政のヒルデガルドに謁見したユリアンは、次いで帝国の“五元帥”とあいさつを交わした。不在の二元帥の名は、むろんユリアンも知っている。憲兵総監たるウルリッヒ・ケスラー元帥と、旧帝国領を管轄するエルネスト・メックリンガー元帥である。彼らがこの重大な儀式においても姿を見せないのは、彼らの不忠と不勤勉をしめすものではない。ユリアンは、持ちうる情報から、それを判断したのだった。
フェザーンから遠く惑星ハイネセンにあっては、帝国の情報は入手しづらい。しかし、帝国側に不信感を抱かせるわけにもいかないから、密偵をしのばせることもできない。したがって、ユリアンらが情報をえるためには、三通りがある。ひとつは、帝国のジャーナリストや広報担当者が発する情報をしいれること。ふたつは、民衆の“風聞”を、たとえ玉石が入り混じっていたとしても貴重にすること。もうひとつは、これはかぎりなく密偵に近いのだが、フェザーン駐在総領事館ではたらく事務員のなかに、情報の専門家を紛れ込ませることである。現在、フェザーン駐在総領事の事務次官を務める男は、バグダッシュといった。ユリアンは、彼の過去を、知識としてではなく経験として知る者であり、一時はかぎりない怨恨と猜疑を抱いていた。むろん、バグダッシュの目論見は未遂で終わったものの、ユリアンとしては納得のいかないところが多かった。彼を貴重なものとして思うようになってしまったのは、ヤン・ウェンリーの死に際して、バグダッシュの双眸から流れるふたすじの滝を眼にしたからである。彼の能力だけはきちんと認めていたから、ユリアンはダスティ・アッテンボローらの提案に乗る気になったのかもしれない。
バグダッシュは情報の専門家としての才能をいかんなく発揮しており、彼からもたらされる情報はどれも貴重で、ユリアンらの正確な分析をよく助けた。したがって、ユリアンはふたりの元帥が不在である理由を把握することができたのである。
惑星ヴェスターラントの騒動が、かなり長引いている。民衆の偶発的な騒ぎであるなら、そのエネルギーの灯は意外に小さく、短い。食い物の不足に対する暴動は際限なく拡大していく、ということは、過去の経験と“後方担当者としては”偉大なアレックス・キャゼルヌから教訓を受けていたから、ユリアンも知っている。だが、今回の騒動の火種は、過去の歴史にたいしてであり、民衆としてはたまった負のエネルギーを発散できればそれでよいはずだった。しかし――。この騒動の違和感に、ヒルデガルド・フォン・ローエングラムや新銀河帝国の有能な官吏たちのたぐいまれな触覚が反応しないはずはない。裏に糸を引く何者かがいるのかもしれない。
メックリンガー元帥は騒動の鎮圧にあたり、ケスラー元帥は糸を引く首謀者の捜査に当たっている。そう考えるのが、最も妥当だろう。ここまでの分析を終えてから、ユリアンははじめて共和自治政府が、巨視的にいかなる役割を果たすかを考えるに至った。
大きな役割を担うことは、まずないだろう。だが、今後なんらかの大きな行動があり、その余波をうけるかもしれないということは、想像ができる。では、その“なんらかの大きな行動”とは? ローエングラム王朝の開闢者以来の伝統を思うなら、“なんらか”の最も大たるものは軍事行動である。武断的措置をもってヴェスターラントの騒動を鎮圧するのである。だが、開闢者の遺志を受け継いだ者たちが、そこまで愚かであろうはずもない。民衆を制するに武をもってするなど、ゴールデンバウム王朝の再現ではないか。
あるいは、皇帝アレクサンデル・ジークフリードが直々になにか行動を起こすだろうか。だが、彼には現在、実権というものがない。“母のスカートのすそをつかんで、銀河というおもちゃ箱にきらめく星々を、もの欲しそうにながめる男の子”と声高に非難するものもいる。それだけではなく、もっと下品で醜悪な表現をも。しかし、その醜聞を否定する能力や実績がないのもたしかなのである。ユリアンとしては、言うまでもなく、花の種をうえて芽が出る前にその花の美醜を決めるようなまねは、あまりに醜悪であると思うから、アレクサンデル・ジークフリードにたいして持ちうる見解はない。ただひとつ、単なる感想として思うなら、父親ほどの“芸術品として完成されたような容姿”には至っていないな、ということである。たぐいまれではあるが唯一無二ではない、といったところだろうか。だが、それは落胆や失望ではない。ラインハルト・フォン・ローエングラムに感じた犯しがたさ、届きがたさのようなものを、アレクサンデル・ジークフリードには感じないのである。使い古されたことばを用いるなら、親しみやすい。民のためにみずから輿を降りてくれるような、そんな皇帝の姿をすら思わせるのだった。
「ヘル・ミンツ。このような噂をご存じか」
朝賀の儀ののちに開かれたパーティーにおいて、ユリアンだけに聞こえるような小声で話しかけてきたのは、ナイトハルト・ミュラー元帥である。彼とは長らく友誼をむすんでおり、師父が認めた良将でもある彼を、ユリアンは心から尊敬していた。噂好きの彼であるが、それを広める相手を誤ったことはない。むしろ、だれとでも物腰を柔らかく対話できる彼だからこそ、さまざまな人間から、噂という形で情報を集めてしまうのかもしれない。
「航行不能宙域に、抜け穴が存在するというのです」
雷にうたれたような衝撃が、ユリアンを襲った。旧銀河帝国領と、旧自由惑星同盟領を結ぶのは、イゼルローン回廊とフェザーン回廊のみ、という戦略上の大前提が、その新事実の判明によって崩壊する。広大なふたつの領域を行き来するための、ただふたつだけの道であるから、両回廊は要衝となりえ、数千万の人間の血を吸ったのである。
「まさか、そのようなことが?」
あくまで噂です、とミュラーは断りを入れたが、そのまなざしは真剣なものだった。
「いえ、これはふたつの回廊のように、川にかけられた橋にたとえられるものではありません。たとえるなら、小川の飛び石のようなもので、広大な航行不能宙域のなかに小さな航行可能宙域が点在している、というのです」
たしかに、航行不能宙域はふたつの領域をへだてる川にたとえることが可能である。その両岸をむすぶ橋のように、イゼルローン回廊とフェザーン回廊があるのだ。その川に飛び石がいくつもあれば、石から石へ乗り移るように、飛び跳ねて越えることも不可能ではない。あくまで、理論上は、というていどではあるが。
「これは、軍事機密ではございません。いまのところは、という段階ですが」
「というと?」
「お恥ずかしい話ではありますが、私の部下が、バルスワープの計算を誤り、フェザーン回廊付近の航行不能宙域を着地点として算定してしまったのです。しかし、艦隊は無事でした。すぐにワープで戻ってきたので事なきをえましたが、ここから考えられるのは……」
「同じような航行可能宙域が、ほかにもあるかもしれない、ということですね?」
「おっしゃる通りです。まだわが艦隊のほうで分析が済んでおりませんので、先帝皇妃らに上梓するにいたっておらず、というところです。ですから、形式上は軍事機密にもなっておりません。部下には緘口令をしいてはいるのですが、ヘル・ミンツの耳には入れておこうと思いまして」
「ありがたいお話ですが、なぜそのような?」
ユリアンの問いに、ミュラーは笑った。その笑みにわずかばかりの卑しさはなく、やはり真剣さは失われていない。戦略上の大転換をしいられるかもしれない重大事である。ミュラーとしても、談義の華としてもちいるためにこの話題を切り出したわけでもないのだろう。
「卿は、戦略家としてたしかな慧眼をお持ちです。そして、それを無益な覇をとなえるために用いない良識も。同陣営にいるかぎり、その智慧を借りたいと思うのは当然なことです」
無益な覇ということばに、どこか彼の自尊心が見えないこともないが、おそらくそれは事実である。いまの新銀河帝国に比肩する勢力はないし、むこう数十年はあらわれないだろう。それに、銀河に名をとどろかせた驍将にこれほどまで称賛されると、いくらみずからに謙虚を強制したとしても、栄誉を感じずにはいられないというものだ。なにより、ミュラーの念頭には、ユリアンの師父であるヤン・ウェンリーの姿があるだろう。ミュラーはヤン・ウェンリーを畏れると同時に敬愛しているのだ。自分がほめられるより、ヤンがほめられたほうが、よろこびが勝るユリアンである。
「ありがとうございます、ミスタ・ミュラー」
その後はごく普通の談笑が行われ、ここでもミュラーの噂好きがいかんなく発揮されたのであるが、それらはすべて取るにたらないものであった。
ユリアンが、パーティーの場にヒルデガルド・フォン・ローエングラムとアレクサンデル・ジークフリードがいなくなっている、ということに気が付いたのは、ミュラーと別れてからすぐだった。不穏だったのは、主席元帥ウォルフガング・ミッターマイヤーと、軍務尚書アントン・フェルナーのすがたも、時を同じくして消えていたことである。その意味を洞察する前に、ユリアンはダスティ・アッテンボローとフレデリカ・グリーンヒル・ヤンに呼び出された。
……パーティーが終わり、舞踏が始まる。演者たちは剣をブーケとしてそれにのぞむだろう。演者の名がしるされたリストの先頭に、アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムの名はあった。
一八
エルンスト・フォン・アイゼナッハ元帥がフェザーンに赴いている間、イゼルローン要塞の留守をまかされていたのはフォルカー・アクセル・フォン・ビューロー上級大将であった。彼はかつてウォルフガング・ミッターマイヤー艦隊の幕僚を務めており、ミッターマイヤーの神速をよく継承する提督のひとりだった。しかし、最も高く評価されていたのは、その堅実な用兵である。
このふたつの長所は、いずれも彼が幕僚を務めたふたりの元帥に由来する。ひとりはミッターマイヤー、いまひとりはジークフリード・キルヒアイスである。後者の提督との交流は短いものであったが、ビューローは同僚であるハンス・エドアルド・ベルゲングリューンとともにその不敵かつ堅実な用兵をよく学んだ。キルヒアイスの死後、ビューローとベルゲングリューンはそれぞれウォルフガング・ミッターマイヤーとオスカー・フォン・ロイエンタールの幕僚となり、ベルゲングリューンは敬愛するふたりの上官を、ビューローはひとりの上官とひとりの友を喪ったのだった。
ビューローは、一年のすえになると、必ずベルゲングリューンのことを思い出していた。僚友として申し分なく、競争相手としては絶対に負けたくないと思える男。副官として、彼ほど優秀な男はそういなかった。永遠に超えることのできない一枚の壁を隔てて、ベルゲングリューンは死んだ。彼のつくった血だまりの温度を膝に感じながら、ビューローはベルゲングリューンのぶんまで生き抜いてやろうと誓ったのである。彼の形見は、血にまみれた大将の階級章のみだった。ビューローはそれを胸ポケットにしまい、ほとんど片時も身から放したことはなかった。守護天使としてはやや髭にまみれていて見目に難があるのが、亡き僚友のただひとつの欠点であっただろう。
イゼルローン要塞内の時間は、フェザーンと同期されており、フェザーンにおいて新年がむかえられれば、イゼルローン要塞内でもむろん新たな年があける。回廊両端が同一の国家となったため、要塞はもはや国家防衛上の要衝ではなくなったが、依然としてイゼルローン回廊の重要性はうしなわれてはいない。
「フェザーン・イゼルローン両回廊とその両端が、同一の国家によって治められるなら、銀河は、もはや東西ではなく南北に分割されて統治されることになるだろう。」
新帝国暦三年にある政治史学者が出した論考には、銀河の統治における地理的条件がどれほど決定的に変化したかについての示唆があった。かつて、新領土とされた旧自由惑星同盟領は、総督が惑星ハイネセンにおかれており、天頂上から西側を新領土、東側を旧銀河帝国領としたとき、統治は東西にわかれていたといえる。だが、新帝国暦四年にバーラト星系が共和自治政府らに譲渡されると、この地理的概念は変容をみせた。フェザーンは首都として銀河の南半分を治め、イゼルローンはその出先機関として北半分を統括する。純軍事的かつ戦略的意義を失ったこの時点において、虚空に浮かぶ漆黒の要塞は、軍事的拠点から政治的拠点へと性格をかえたのである。
よって、この要塞が機能不全におちることは、新銀河帝国の片方の肺が停止するのと同義であるのだ。
イゼルローン要塞の指令室において、ささやかながら新年の祝賀が開かれ、この時のために皇室から下賜されたワインをグラスに注いだビューローの眼に、イゼルローン要塞の巨大なスクリーンを通じて無数の光点がとびこんできた。ビューローの脳はただちに十数年の時を飛び越え、動乱のただなかを生き抜いたひとりの軍人の記憶を呼び覚ませた。
「各員、配置につけ。まずは識別信号を送る。それから、フェザーンに超光速通信をいれろ」
あれは敵である、と脊髄が告げていた。その宣告を、あやまたず四肢につたえていく。存在していることが問題であるのだから、無数の光点の出現元は、この際どうでもいい。現在、ビューローは一万五千の艦隊を瞬時に動員できるのだ。もし光点が宇宙艦隊の輪郭をおびてこちらにむかうというのであれば、そのことごとくを、彼は打ち破るつもりだった。
識別信号に無言の応答がなされると、ビューローはすばやく部下に戦闘態勢をとるように命じた、新銀河帝国暦二年の回廊の戦い以来、イゼルローン回廊は血の塗料による補修を必要とはしておらず、それは永劫なものになると思われていた。だから、イゼルローン要塞の象徴たる“雷神の槌”は取り外されたというのに……。――これは、新銀河帝国のひとつの驕りでもあっただろう、だが、反面的には平和への期待のあらわれでもあったのである。
定期的に欠かしたことのない訓練の成果か、あるいは軍人の血が沸き立っているのか、戦闘配置は滞りなく進んだ。どうやら光点が宇宙艦隊のものであると認識できたとき、ビューローはオペレーターから信じがたい報告を聞いた。
艦隊は、旧帝国側と旧同盟側の二か所に同時に出現した。東に二万万ずつ、西に一万、合計三万隻の大軍であるという。
ビューローは、出撃と発音しかけた口のままに表情を数瞬硬直させると、再び部下に超光速通信を命じた。
なぜ自分が、これほどの艦隊運用が可能なのか、ヴィンツェンツォ・ザザにはわからなかった。記憶のなかにある数年間で、たしかにコルレオーネ家の私兵集団をモジュールとして操ったことはある。実戦の経験はないはずである。だが、脳が躰に命ずるのではなく、躰が動かしたことにたいして脳が追随するというような奇妙な感覚は、いったいなんなのか。しかも、二万艦の大軍である。分割される前は、航行距離が短いとはいえ、三万艦もの軍を率いていたのだ。疑念はあるが、しかし物事は流れる水のように滞りなくすすんでいく。いまは、大軍を動かすことができる、という事実を受け入れ、軍学に基づいて艦隊運用をはかるしかないだろう。
ルーカス・クリーガーに与えられた策戦の骨子は、以下のとおりである。
一、惑星ヴェスターラントを中心に、民衆の暴動というかたちで、新銀河帝国の耳目を集める。この際、ひとり乃至ふたりの元帥を、ヴェスターラントに釘付けにする。
二、朝賀の儀に際し、ユリアン・ミンツ含む共和自治政府の主力艦隊と、帝国軍の残る五元帥が惑星フェザーンに赴任している一月一日乃至二日を作戦決行とする。
三、航行不能宙域を抜け、イゼルローン回廊の両端に艦隊を配置する。
四、旧自由惑星同盟領方面軍はバーラト星系に向けて進軍し、惑星ハイネセンを奪取する。
五、旧銀河帝国領方面軍は惑星ヴェスターラントを避け、惑星フェザーンに向けて進軍し、皇帝軍と闘い、これを破る。
六、なお、四・五に関しては、イゼルローン要塞駐留艦隊は出撃せず、後背を突かれる憂いもないという予測に基づく。この予測が立つ理由は、つぎのとおりである。
a.新帝国暦一七年、イゼルローン要塞における主砲“雷神の槌”は新帝国暦八年以来解体され使用不可の状態にあるため、同八年以前より格段に同要塞は奪取しやすいと思われる。
b.イゼルローン要塞における最高責任者たるエルンスト・フォン・アイゼナッハ元帥は、新年朝賀の儀のために不在である。過去の通例に照らし合わせれば、イゼルローン要塞最高司令官は、最低でも五千の艦隊を率いて惑星フェザーンへ赴く。したがって、要塞に残留する戦力は最大でも一万五千であると考えられる。また、その指揮官はフォルカー・アクセル・フォン・ビューロー上級大将である。
c.回廊の両端に計三万の艦隊があらわれたとき、一万五千の戦力を分散して二正面作戦を行うのは愚のきわみであり、ビューロー上級大将はそのような軽挙には及ばないだろう。また、同上級大将は現在のイゼルローン要塞の脆弱性を知悉しており、出撃して空城にするということも考えにくい。
d.以上より、ビューロー上級大将及びイゼルローン要塞駐留艦隊は、無用の出撃をせずに、要塞内で防備を固めるだろうという予測が立つ。ゆえに、わが軍としても双方向への進軍途中でイゼルローン要塞駐留艦隊に後背を突かれる不安はない。
「机上の空論だ!」
ルーカスの策戦にたいし、立ち上がって叫んだのは、将校のひとりであるミケーレ・ピノだった。彼は複数いるコルレオーネ家軍のなかでも最も年少で、かつ血の気が多い。猛将というべきだが、その将才は危険なほど猛に傾斜している。
「わが軍三万をイゼルローン回廊両端に移送するのは苦ではない。われわれだけが知る秘密の航路を用いれば、だ。だが、展開ののちは、これは」
「順を追って、くわしく話すべきかな」
策戦を話し終えたルーカスは言う。それはまさに自らを宇宙の俯瞰者として定義しているような声で、不敵な音階によってかなでられている。
ミケーレとしては、突如あらわれたこの泥色の髪をした男の、すましたような態度が気にいらない。コルレオーネ家は、きたるべき革命の日のために力をたくわえてきて、その旗をもつのはジョセフのはずであった。それが、当のジョセフすらもこの男を重用している。主人が信じたからといって簡単に改心できるほど、ミケーレとしてもジョセフにたいする信心はかるくない。
「きさまのイゼルローン要塞にたいする楽観は、ひとまず置いておこう。だが、きたえあげた精兵四百万をむざむざ死なせるようなまねは、絶対にしない」
おそらくミケーレは、戦力を分散してこちらが二正面作戦をおこなうという点にたいして、強い疑問を抱いているのだろう。脳内において、すでに彼は帝国軍と艦隊決戦を行っている。あの巨大な、途方もない帝国軍と、なぜわざわざ兵力を少なくして戦う必要があるのか、という、問いにいたる成立過程を省いてしまっているのだ。過程を省くことができるのはひと握りの天才の特権か、それを理解しない愚者のむなしさであるが、ミケーレは残念ながら後者である。無能ではないが、頭のいい男ではない。
「そもそも、この策戦の目標はいずこに定められているのか」
ぼそぼそと髭のなかだけで口を動かすように言ったのはサイード・サムエル・サンチェスであった。偽名である。宇宙海賊あがりのこの男のことは、ザザもよく知らなかった。わかることは、己の行動原理を信念と嗜好と義務に細分したアンケート用紙を彼に渡したとしても、サイードはそれぞれの空欄にただ“帝国マルク”と書きいれるだろうということだった。もっとも、彼にとって義務とは辞書をひいたとしてもそのことばの意味がわからないであろうが。彼は文盲で、“帝国”と“マルク”以外の単語を知らない。おそらくは“ディナール”も知っているだろうが、いまでは帝国マルクのほうがより実質的なのだ。彼のそばには従卒のようにひとりの少年がいて、その少年が文章をかわりに読むのである。少年は“サルバトーレ”と呼ばれているが、本名かどうか、ザザに興味はなかった。
「それにかんしては、ジョセフとおれとでは異なるので、なんとも言えないな」
自分たちの主人が呼びすてにされたことに、何名かの将校が眼の色を変えたが、ルーカスは気付かなかった。気付いていて、あえて無視したのかもしれないが、それは些末なことだろう。聞き流すべきではないのは、ルーカスの目標のほうだった。
ジョセフの目標のありかははっきりしている。コルレオーネ家の最大の財源であるサイオキシン麻薬は、腐敗した国家同士において流し込める神経毒であり、いまやその流通は激減している。ラインハルト・フォン・ローエングラムというすぐれた為政者の擡頭は、コルレオーネ家にとっては大きな損失だった。
かつて存在したという地球教徒なるものにたいし、ジョセフは冷淡だった。多少なりに支援はしてやるが、宗教などという不可解で不明瞭なものを、彼は信じようとしないのだ。彼の投資の結果、地球教徒はあるところまでは成功したものの、結局はその活動を停止した。地球教団はコルレオーネ家にとってたんなる市場にすぎず、その市場活動の結果としてラインハルト・フォン・ローエングラムが排除されるなら、それはたんなる僥倖であり、宝くじに当選したようなものだ。どれほど期待するか、それも宝くじに抱くものと同じような熱量である。ヤン・ウェンリーがかれらの陰謀によって死亡したというのは、意外ではあったが、望外ではなかった。彼は権力というのものに一切の執着をしめさなかったから、コルレオーネ家にとってはなんら障害にもなりえないはずであった。ヤン・ウェンリーに期待するところがあるとすれば、それは戦場でラインハルト・フォン・ローエングラムという巨大な障壁を排除することであっただろう。
むしろ、ジョセフが期待していたものは、フェザーン自治領主アドリアン・ルビンスキーのほうだった。ルビンスキーは地球教徒と結託してはいたが、コルレオーネ家にとっていままででもっとも都合が良いフェザーン自治領主だった。しかし、そのルビンスキーも病におかされ、ラインハルト・フォン・ローエングラムに前後して亡くなった。彼の死にぎわに、惑星ハイネセンで大規模な爆発が起きたが、それはコルレオーネ家のハイネセンにおける拠点を消し去ったもので、ルビンスキーはコルレオーネ家にたいする最後の義理をはたしたわけである。
こうして、他者と共謀してのコルレオーネ家再興は果たすべくもなくなった。再興、と呼ぶには、あまりにも現状保有している富は大きいが、それもやがて尽きるだろう。サイオキシン麻薬からのびる限りなく細いひもをたぐりよせて、最終的に新銀河帝国の手がいつこちらにのびてくるともわからない。まして、帝国には摂政ヒルデガルドや、あの七元帥がいて、そのなかでも最大の脅威となりうるものとしてウルリッヒ・ケスラーがいる。ラインハルト・フォン・ローエングラムは死んだが、その有能で忠実な臣下たちは健在であり。こと“治政”という面において、ヒルデガルドは人類の歴史においてもたいへんな軌跡を残しつつある。新銀河帝国は文字通り、その版図も人口も、歴史上最大の国家なのだ。
「なにもしなければ、ただ滅びる。なにかをすれば、まあ、ほとんどは滅びるだろうが、何厘かの確率で、生き残る。それだけのことだろうよ」
ジョセフはザザにかつてこのように語ったことがある。そのときの彼の顔は、惑星コルレオーネの微弱な陽の光に照らされ、わずかに上気して見えた。
コルレオーネ家としても、この戦いはその存亡をチップにかえたギャンブルなのである。彼の手のひらの上においては、ザザやミケーレ、サイードにルーカスすらも、一枚のカードにすぎないのだ。
ならばおれは――とザザは眼前に広がる星海をにらんだ。ジョセフを勝たせるために、わずかでも良いカードであろうとするだけだった。
だが、ザザとしても疑問はある。ザザが現在率いているのは、二万隻の大軍である。そして、コルレオーネ家のたったひとつの切り札すらも、ジョセフはあずけてくれた。なぜ、おれのような男に、ジョセフはここまでの額をベットできるのか?
……ヴィンツェンツォ・ザザは、ひたすらに帝都フェザーンを目指す。途中、哨戒と思しき帝国艦船を見たが、それでもザザは堂々と虚空を切り裂いて進むだけだった。ルーカスの策謀によって、この宙域を管轄するエルネスト・メックリンガーの艦隊は釘付けにされているはずである。したがって、アレクサンデル・ジークフリードとウォルフガング・ミッターマイヤーが率いる帝国中央艦隊との接敵は、一週間ほど先のことになるだろう。