二二
自分がなにをしているのか、ウィル・メイヤーにはわからなかった。ルーカス・クリーガーと名乗った男はここにはいない。いるのは、サイード・サムエル・サンチェスという髭面の男と、サルバトーレという青年だけである。そして、自分は拘束されている。
ルーカスには、顔面を殴られて気絶させられたが、すぐに和解してしまった。眼が覚めたとき、ウィルは病院のベッドに寝かされており、それはどうやらルーカスに運び込まれたらしい。すぐに退院することはできて、その足でルーカスと酒場にむかった。いくら飲んでもおごりだというのにつられたのである。
ルーカスへの警戒は、すぐに解けた。殴ったことは素直に詫び、ヤン・ウェンリーへの崇拝にちかいウィルの考えに共鳴したのだという。それからルーカスはひとしきり新帝国への不満を述べ、
「おれは革命を考えている」
とウィルに耳打ちした。
「革命⁉」
「大きな声を出すな。真の民主制は、圧制者の打倒によってかなえられる。違うか?」
ウィルは何杯めかのワインをあおった。すでにボトルは二本が空になっている。
「だが……」
ルーカスはウィルの言葉を手で制した。
「何も言わずに聞け。民主政治を打ち立てたくば、民衆は君主の首をみずからの意志で落とさなければならない。原始的な民主制というのは、そうやって打ち立てられたのさ。いまの共和自治政府を見てみろよ。ヤン・ウェンリーの意志を継ぐなどと言ってはいるが、ただ新帝国の保護下で民主制ごっこをやっているだけじゃないか。真の民主制の守護者でありたいなら、帝国にたいして闘いを挑むべきではないのか?」
ウィルは、心のうちでぼんやりとしていたものが、ルーカスの言葉によって輪郭が帯びてくるのを感じていた。ヤン・ウェンリーは民主制の守護者であろうとした。だから、ラインハルト・フォン・ローエングラムから仕官の要請をうけたときも断ったのである。
――ウィルの考えは明確に間違っている。ヤン・ウェンリーは、民主制の守護者という称号にいっさいのこだわりをもたなかった。しかし、ヤンがただの一冊も著作を残さなかったのもまた事実である。彼が真に何を思い、考え、行動していたか。彼の本質は、彼の至近距離にいた一部の人間にしか知りえないのである。あるいは、一部の人間たちでさえも、彼の深淵の奥になにがあったのかを知らなかったかもしれない。したがって、ウィルのこの発想は、ヤン・ウェンリーを信奉する民衆にとって、無垢にゆがんだレンズが映し出す虚像だった。
「おれは新帝国を打倒したい。そして、世界中にあまねく民主制を広め、ヤン・ウェンリーの遺志を継ぎたい。おまえには、いっしょに闘ってほしいのさ」
さらにワインを飲む。ウィルの肚はすでに決まっていた。
「それで、民主制を敷いたら、おまえはどうするんだ?」
ルーカスはウィルのグラスにワインを注いだ。深紅の液体は、彼らの沸き立つ血の象徴であるかに思われた。
「隠居する。歴史に名前を残そうなんて考えないよ」
ふたりは乾杯をした。その姿は同じこころざしを抱いていたように見える。ただし、ひとりは故人の虚影を見、ひとりはその映写主だった。
……いまになってようやくウィルはそれを理解した。自分はただ利用されたのだ。旧自由惑星同盟領における詳細な星図はウィルが作成をしたのである。彼の知るかぎりの新帝国軍の補給基地、バーラト星系への航路、なにより共和自治政府軍、新帝国軍の戦力。ありとあらゆる情報を、ウィルは話した。それもすべては革命のためだと思っていた。ルーカスは、あたかも自分たちが行っていることが、民衆の自由意思による革命だと見せかけていた。だが、じっさいにウィルの眼の前にあらわれたのは、マフィアを背後に抱えた私兵集団だったのである。そしてその集団は、ウィルの故郷であるバーラト星系を支配するつもりでいる。
おれは、故郷の裏ぎり者になるなど、けっして望まなかったはずだ。おれがなりなたかったのは、尊敬するただひとり人物の、数多いたはずの後継者である。
「われわれはバーラト星系を楽に制圧できそうだ。貴官のおかげでな」
サルバトーレが威丈高に言った。その顔面にむかって、ウィルは唾を吐きつけた。
「貴官などと軽々しく口にするな。この薄汚い犬ども!」
唾はむなしく放物線を描き、サルバトーレの足元におちた。
「では、犬に利用されたおまえは何だ。すくなくとも、人のかたちはしているな」
「きさま……」
「貴官には特等席を用意したのだ。故郷の惑星が、ふたたび憎悪すべき者の手に渡るのを眺めているためのな。ポップコーンが所望なら、あとで部下に持たせようか」
言葉と高笑いの残響のみを残し、サルバトーレは部屋を出た。もうひとり、サイード・サムエル・サンチェスに関しては、ウィルを見下ろそうともしなかった。これは敬意などではけっしてない。存在を知覚するまでもないというのか。
そのサイードも、すぐに部屋を出た。部屋は明かりがついているが、それすらも暗いように、ウィルには感じられた。
拘束されながらも、なんとか立ちあがろうとして、床に倒れこむ。奥歯がきしむ音がした。ぶざまだ、と思う。惨めでもあるだろう。英雄にあこがれた。エル・ファシルの英雄、アスターテの英雄。ひとりの青年との記憶を祖母づてに教えられ、ほぼ明白な天命のごとくに、その英雄にあこがれた。
これが、そのなれの果てか。憧れによって、祖国を亡ぼすのか。
ウィルの自嘲は、闇の中で反響と輪唱を繰り返し、そのたびに、ウィルを光なき淵の底へと落としていくのだった。
バーラト星系。かつて自由惑星同盟の都として、宇宙の半分を統べていたその星系を前にして、サイード・サムエル・サンチェスは何の感慨もわかなかった。国家など、あらゆる光が混ざった結果、白く見えているだけなのだということを、彼は知っていたのだ。彼はけっして危険な思想をもち、それを実現するという目標を掲げていたわけではない。彼にとっての崇高な目標とは、眼の前にある現金のみであった。
サイードは生まれながらにして宇宙海賊だった。民間の商船を拿捕し、軍からは逃げる。その繰り返しで生計を立てていた複数の集団を統括していた男を父に持っていたのである。本当の名前はあったはずなのだが、サイードは知らない。いや、知る前に父が死んだのである。宇宙海賊の幹部による謀殺だろう、と今は思うのだが、それについて深い考察を巡らせたことはない。軍隊が海賊船に乗り込んできた瞬間から、サイードはこれから先の十年を孤児として暮らすことが決定されたのだった。
サイードが暮らした孤児院は、自由惑星同盟の辺境の辺境にあり、食糧も乏しければ、人の心も貧しかった。孤児院でもっとも重視されるものは盗みの才のみであり、忌避されたものは慈悲と寛容だった。一二歳になるまでに、サイードは千を超える盗みを繰り返した。その点で言えば、彼は辺境の王であっただろう。
サイードという名は、孤児院の設立者の名前をとっている。今は亡きその崇高な使命を掲げていたであろうその男は、数十年の時をこえて、貧しい少年に名を引き継いだのである。……残るサムエルとサンチェスという名は、孤児院の近所にあった公園とパン屋の名前からとったのだが、それに気づく者はいなかった。
転機が訪れたのは、その孤児院が、国家に隠れて、ひそかにコルレオーネ家によって買収されたときである。サイードは、子供ながらにして宇宙という特異的な環境への高い適性を示し、当時のコルレオーネ家当主に重用された。といっても、宇宙船の下働きていどではあったが、それでもサイードは働けば働くだけ金がたまるということに気付いたのである。
そこから彼の出世は始まった。彼は名前すら満足に書けないようなありさまだったが、コルレオーネ家の当主たちはその才能を見落とさなかった。コルレオーネ家軍に決定的に不足していた、数千、数万の艦隊をあやつる将としての才である。
事実、コルレオーネ家の“実戦”ともいうべき海賊行為では、サイードは目覚ましい戦果をあげた。彼の用兵は、弱点を徹底して突くという、戦のもっとも基本にして肝要なものを重視するという点に特徴があった。
サルバトーレは、ジョセフ・コルレオーネの代になって、サイードにつけられた従者兼副官である。小悪党ではあるが、それ以上に頭の回転は速く、なによりも文字の読み書きができた。サイードは本来副官など必要にしない男であったが、サルバトーレとは気が合うらしく、自分のそばから離すことはあまりない。
「バーラト星系をうばい、“反帝国・民主主義擁護”の旗を掲げる」
と、ある会議でルーカス・クリーガーは言った。そうして民衆を糾合して、あらたな革命の火種を作るのである。ルーカスの遠大な陰謀の骨子はここにあった。地球教団のようなテロリストによる暴力革命ではなく、太古において民主主義をなしとげた国家が用いた市民革命。いまの共和自治政府は、表面的には民衆の不満は小さいものであるが、それは市民が不満を自覚していないだけである。その不満を気付かせることが、ルーカスの陰謀の第一歩なのだ。
そのために標的にされたのが、バーラト星系である。共和自治政府軍は、数が少なく、弱兵ばかりである。まして、ヤン・ウェンリーはいない。その二点だけでも、サイードには全宇宙のなかで、バーラト星系こそが新銀河帝国最大の弱点であるように思われた。
ただ一点、気になる点があるとすれば……。ルーカスという男が、なにかの嘘をついているように思えることだ。この男は何を考えているのか?
しかし、それを考えることはサイードの領分にはない。彼はただ、コルレオーネ家から金がもらえればそれでいいのだった。それ以外に目標もなく、かなえるべき理念も、擁護すべきモラルもない。眼の前に金床があれば掘り、紙幣が落ちてればポケットに突っ込むだけのことである。
ウィル・メイヤーという善良だがあわれな青年との面会から、五時間が経った。バーラト星系の最外縁に位置する惑星が視認できる距離にあって、サイードは五十年近い人生で、ほとんどはじめて自分の眼を疑った。だが、それもすぐに確信に変わり、わずかな感嘆を経て、失望となり、彼の表情には冷笑となって表出した。
「ほう、打って出るか」
彼が外縁惑星越しに目視したのは、五百近い弱弱しい光点の群れだった。
惑星ハイネセンに籠城することはありえなかった。“アルテミスの首飾り”は、ヤン・ウェンリーに弱点をあばかれ、破壊されて以降復元されていないし、それに準ずる軍事的ハードウェアも設置されていたわけではない。城壁も砲門もそなえない楼閣に立てこもることは考えられず、まして空城など論外である。
ユリアン・ミンツが共和自治政府軍設立を発表した際に掲げた理念の最大たるものは、“不服従”であった。これは、惑星ハイネセンおよびバーラト星系を、二度と暴力的に服従させられるようなことがあってはならないということだった。その危機からバーラト星系とそこに住む市民たちを遠ざけるために、軍隊は出動する。
したがって、戦闘はほとんどすべて宇宙空間で行われなければならない。むろん、惑星に立てこもったところで、惑星攻略などほとんど公式化されているものだから、相手に持久戦を強いることはできるはずもないのである。
共和自治政府軍の行動には、大きな制約が付きまとっていた。第一に、軍隊の規模である。これにかんしては、
「老朽艦、破棄予定艦および民間に払い下げられた艦船を急造で再武装する」
ことの承諾を政府になんとか取り付け、八〇〇艦ほどの戦力を確保するのには成功している。それでも、確認できる敵性艦隊一万にたいして、一〇分の一にも満たない数である。寡兵をもって大軍を破るのは用兵の華であるが、その華は屍血という泥濘にのみ咲くのであった。多くの用兵家がその華を咲かせることを夢に見、そのたびにあらたな屍血で歴史を塗布する。だからこそ、その華は美しく、かくも蠱惑的な薫りを放つのだ。
スーン・スールはその華の美しさと薫りに惑わされることのない稀有な人材であったが、かといって、この危機的状況において、なんらかの打開策を見いだせる男ではなかった。彼は有能ではあるが、けっして天才ではない。副官に近い地位でのみ、自分の能力がもっとも引き出されるであろうことは自覚していたし、人望というものがないわけでもないが、ヤン・ウェンリーの魔術の威光への崇拝にくらべたら、絶望下において部下を勇気づける根拠に乏しいということも理解していた。
当然のごとく、彼は自ら迷宮へと迷い込んだ。部下をむやみに死なせ、ハイネセンも占領される。住民の整理はなんとか成立しそうだが、ハイネセンが敵の支配下におかれたとき、それはむしろマイナスに作用するのではないか?
「あわてなさんな、スーン・スール大佐」
昏く酸素も薄い迷宮にひびきわたったのは、自分より四つも上の階級にいる男の声だった。
「キャゼルヌ大将……」
「やることがかぎられているのなら、それをこなすしかないんだ」
「それは、わかっているのです」
頭では、と言いかけて、スーンはあたりを見回した。幸い、部下は出ていて、会議室にはキャゼルヌとスーンのふたりしかいなかった。このような状況下で、上官がうろたえていては部下に不安を抱かせる。彼は、そのようなことはけっしてすまいと心に決めていたのである。指揮官はつねに泰然として、千の迷いがあったとしても、導き出す一は揺れ動くものであってはならない。
「なにをやるかもわかっていない、か」
キャゼルヌが紙コップのコーヒーをひとくちのみ、ちょっと顔をしかめた。妻の淹れるものに比べたら、味も香りも劣るのだろう。
「はい」
取り繕うということを、スーンはしなかった。虚栄によって理想的な真実を導くことはできない。虚栄があばくのは、眼をそむけたくなる現実で、それはたいてい、取り返しがつかなくなってから発生することだ。
「スーン・スール大佐がわからないなら、ほかの人物を想定するしかない」
「ほかの人物?」
「おれだったら、ヤン・ウェンリーならどうするかを考える」
ヤン・ウェンリーなら! スーンはさらに迷宮の奥へ足を踏み込んでしまった。何度、そのことを夢想したことだろう。もし自分がヤン・ウェンリーだったら。あるいは、ヤン・ウェンリーの霊が突如として憑依して、脳裡に光条がはしるように、次々と天才的な魔術を生み出すことができたなら……。
「小官には、できません。ヤン・ウェンリーのように奇策をあみだすなど……」
「おまえは、ちょっと勘違いしているな。ヤンのやつは、いつも正攻法で戦うことを考えている男だったんだぞ」
「正攻法?」
「補給を十全になし、部下に上官の命令を過たず伝え、敵の六倍の兵力をもってこれにあたる。それがいつもできなかったから、やつは奇計にたよるほかなかったのさ」
ぬるくなったコーヒーを飲む。不思議と甘い気がした。
「まずは、手札を確認しよう。おれたちには何ができて、そのうち何が実現不可能なのか。そうやって札をすてていく。それで残った札のことを、切り札というんだ」
キャゼルヌが笑う。呑気にみえるが、これがかつて“不正規艦隊”と呼ばれた男たちのまとう空気なのだ。スーンは、むりにでも笑おうとした。伊達と酔狂。しばらく忘れていたが、たしか、そんな言葉があった。そんなものに、人の命や、自分の命をのせていたのだ。
「おれのアイデアを聞いてもらえるかな、スーン・スール大佐」
キャゼルヌがおもむろに話し始める。はじめのうち、スーンはそれを眼を閉じて聞いていたが、やがて迷宮に光が差すような思いがして、まぶしさに驚かぬよう、ゆっくりと眼をひらいた。
二三
ハイネセン宇宙港には、出動する六万の兵士たちと、その家族たちが見送りのために集まっていた。みな悲愴な顔をうかべ、平和な時代に一輪だけ花開いてしまった戦争の種子にたいし、言外の非難を示しているように見えた。しかも、敵の戦力は一万艦で、こちらは八〇〇艦の寄せ集めだという。いま手を振っている自分の恋人や子どもたちと、今生の別れになるという確率は、相当なものになるだろう。そして、いずれは自分たちも――。
群衆の一隅に、アレックス・キャゼルヌとその妻オルタンス、長女のシャルロット・フィリスがいた。妹のほうは、避難先がハイネセンから遠く、そこでボランティアとしてはたらいている。父が統帥作戦本部に臨時で務めていることは知っているが、出征の事実までは知らない。直前までキャゼルヌがそれを伝えなかったからである。これは、心配をかけたくなかったという、キャゼルヌなりの不器用な配慮なのだが、当のオルタンスは、
「そ、じゃあ、生きて帰ってらっしゃい」
とそっけなく答えただけだった。それで終わりなのか、とキャゼルヌは肩すかしをくらった気分だったが、結局は宇宙港にまでついてきたのである。
出征の間際に、妻に見送られるというのは、一度ではなかった。オルタンスはかならず、キャゼルヌが宇宙船に乗り込むまでを見送り、夫を乗せた船が大気圏をこえていくまで、ずっと見守っていたものである。妻のほうからそう言ったことはないが、知り合いからきいた話だった。妻のこの行動について、キャゼルヌは一度として食事のテーブルに持ち出したり、口論における武器として使用したりしたことはなかった。
「どうして後方主任がいつも前線にでていくのかしら」
夫のまがったスカーフを直しながら、オルタンスは言った。夫のほうが、あえてスカーフをまげて着けているのだが、それに気づいているのか、そうではないのか、オルタンスは口にしたことはない。あるいは、スカーフもきちんとつけられない夫に、かげでため息をついているかもしれなかった。
「すまんなあ」
ヤンを支えていたときから、キャゼルヌはいつもヤンと同じ船に乗っていた。そのくせが抜けないのである。“後方の椅子に座ったままでは、前線で本当に不足しているものが見定められない”というのが、キャゼルヌの建前だった。
「ねえ、お母さん」
シャルロットが、オルタンスを小突きながら、ひかえめに指をさしたそのさきには、若い下士官だろうか、恋人と接吻をかわしている姿があった。見つめあうふたりの瞳には、周囲の人間と同じような悲壮感と、深い愛をしめすような光があった。
「お母さんたちはあれ、しないの?」
「いい、シャルロット」
シャルロットもすでに大人と言って良い年齢である。母が教えられることは数少なくなっているはずなのだが、娘の純朴な質問には答えてやるのが親というものだった。
「あなたは、小学一年生で習ったことを、六年生になっても勉強しなかったでしょう?」
「でも、中学生になったら、復習が大事だって教わったわ」
シャルロットがいたずらっぽく笑う。あるいは――彼女は最後にヤン・ウェンリーとその妻がいっしょにいたところを目撃した者のひとりである。そのときと同じ質問をしたのは、偶然ではなかったのかもしれない。幼心にも母親の教えにたいするアンチ・テーゼを抱いていて、それを披露する機会を、ようやく得たのかもしれない。
めずらしくオルタンスがだまりこんだので、キャゼルヌはオルタンスの肩をつかみ、いくらかぶりの接吻をした。そうやってはじめて、この日、妻が口紅を差していたことに気付いたのである。先ほどのふたりのように、見つめあうなどということはできなかったが。
「口紅がついたわ、あなた」
オルタンスはポケットからハンカチを取り出すと、夫の口に押し当てた。口紅をふき取ったハンカチを、そのままキャゼルヌの胸ポケットに押し込む。
その様子を、口に手をあて、驚いた表情をうかべたままシャルロットが見ていた。キャゼルヌは、どうしてもふたりの顔を正視できず、そのまま踵を返して、戦艦の搭乗口へと早足に向かっていった――。
戦艦ホメロスは、強運の持ち主であった戦艦ユリシーズを模して建造された戦艦で、キャゼルヌとしては懐かしさを禁じ得ない。彼にとって戦艦といえば二隻である。ひとつはユリシーズ、ひとつはヒューベリオン。後者はすでに宇宙塵の一部となっているから、二度とその懐かしさを感じることはできない。
「おれは、ヤンのやつに訊いたことがある。“司令官席の座り心地はどうかね”と」
司令官の席に座ったスーン・スールに向かって、キャゼルヌは言った。彼の席は戦艦内に用意されていない。昔のように、どこか空いた席に座ろうなどと考えていたのである。
「提督は、なんと?」
「何も答えなかったさ。思えば、やつは椅子になど座ってなかったからかな」
デスクのうえに座った黒髪の青年の姿を思い出し、ふたりは笑った。
「小官には、すこし固く感じられます」
「それでいい。ヤンと同じことをしようと思わなくてもいいさ」
オペレーターたちの手がせわしなく動いている。自分にやることなどひとつもなかった。スーンや何名かの参謀たちと策戦案を練って、キャゼルヌの仕事は終わったのである。それでも戦艦に乗ろうとするのは、ひとつは昔のくせであるかもしれないが、もうひとつは、策戦を建てた以上、それを実行する責任は、後方にいては果たせないと思ったからであった。
「スーン・スール大佐。貴官の司令官としての態度は、すくなくとも称賛に値するものだったんじゃないかね」
「自信がありません」
「そうかい。おれには、なんだか貴官がビュコック司令のようにも見えたが」
……スーン・スールが泰然としていた理由には、じつは彼がヤンのほかに崇拝に近い念を抱いていた、もうひとりの男があった。アレクサンドル・ビュコックは、つねに不動の巌のようで、しかし陽の光に当たり続けて熱をためたようなあたたかさを持っていたのだ。
スーン・スールは、涙があふれ出ないよう、自分を叱咤した。まだ何も始まってはいない。涙を流しても良いのは、いまではないはずだ。
「まあ、気楽にいこう。おれも眼の前に要塞がワープしてきたときは度肝を抜かれたが、まわりの助けがあってなんとかなった」
わずかに、肩の力が抜けた。たしかに、イゼルローン要塞の前に帝国軍の要塞がワープしてきたとき、ヤン・ウェンリーはそこにはおらず、アレックス・キャゼルヌを総司令として防衛戦を展開したのだった。キャゼルヌの采配は、見事とはとても言えないものであったのかもしれないが、じっさいに彼は優秀な同僚たちの意見をよく聞き、みずからの意見に固執せず、ヤン・ウェンリーの到着を待ち続けたのであった。
だが、今回はこちらも決して無策ではなかった。
「うまくいきますかね、この策戦」
「わからん。だが」
キャゼルヌの眼が、どこか遠くを見るように細くかたちを変えた。
「おれは、ヤンの戦いを、だれよりも長く、近くで見てきたんだ」
五〇〇近くの光点。だが、それも一瞬だろう。戦いの本質は数である。ヤン・ウェンリーも、その弟子とされるユリアン・ミンツも、共和自治政府軍最高の指揮官として名高いダスティ・アッテンボローもここにはいない。残る主要な軍人も、みな死んでいる。ましてや、新銀河帝国の援軍も望みようもない。
「両翼を広げろ」
サイード・サムエル・サンチェスは短く言った。大軍をもって寡兵を破るために最も有効で犠牲が少ない方法は、すなわち押し包むことである。横に大きく広がることで、厚みは減るが、五〇〇の艦隊にはたして何ができるというのか。
すでに、再三の降伏も勧告している。得られた答えは、一貫して不服従だった。市民革命などという、サイードにとって不明きわまる論理も伝えてみたが、共和自治政府から得られた答えは否だった。理由は、“革命を訴えるならわれわれにではなく、新銀河帝国にたいして行うべし”という単純なものであった。
バーラト星系を足掛かりにして、市民革命への道を歩む……。ルーカス・クリーガーが話したその目標にたいして、サイードは何も理解が及ばない。彼がなすべきは、ジョセフ・コルレオーネから莫大な報酬をえることであった。
陣形は瞬く間に変わっていった。ヴィンツェンツォ・ザザが最高司令官になって以来、兵の練度は見違えるほど上昇した。それまでは、宇宙海賊に毛が生えた程度の実力しか備えていなかったのである。
五〇〇の光点が、輪郭をはっきりと戦艦群へ変えたとき、サイードは右手をあげた。これが振り下ろされれば、一万のエネルギー・ビームの束が、彼らをそのまま五〇〇の火球へと変えるだろう。
しかし、サイードの右手が振り下ろされることはなかった。陣形が崩れていたのである。……サイードのいる中央艦隊三〇〇〇のみが、わずかに、しかし決定的に、突出していたのだった。
両翼からの“進行速度低下、原因不明”の通信を耳でとらえながら、サイードはその落ちくぼんだ両眼に、五〇〇の艦隊による突進を焼き付けていた。
二四
想像を絶する新兵器というものは、基本的には存在しない。たとえば、はじめて鉄砲というものが発明されたとき、その発想の原点は“遠くにいる者を殺めるためにはどうすれば良いか”というものがあったはずだし、航空機が発明されたときは、“空を飛ぶことができたなら”というごく単純な憧憬があったはずである。それゆえに、その新兵器を眼の前にして、人が抱く感想は二つのうちどちらかである。
「ああ、やっぱり」
「なぜ、それが可能になったのか」
人々はその発明を夢想していたはずであるし、それを実現する努力をもおこなっていたはずである。ただそれを先んじられただけのことなのだ。
アムリッツァ星域会戦の翌年、自由惑星同盟が旧穀軍事会議のクーデターによって複数の陶片と化していたとき、技術開発局員だったニコ・ハッキネン博士は、帝国が指向性ゼッフル粒子を開発し、それを軍事利用したと聞いたとき、次のように叫んだと言われる。
「ああ、やっぱり。なぜ?」
それから、ハッキネン博士は新兵器の開発に尽力した。博士は、歴史上に自分の名前を冠した軍事的発明品をつくろうとしたのである。凍てつく惑星で生をうけ、廃材を用いて高効率な暖房器具を五歳でつくりあげた、生粋の発明家であった彼である。尋常ならざる熱意で、彼は歴史書へ猛烈にアピールした。しかし、その努力は報われず、彼は宇宙暦八〇五年、新帝国暦七年に九二歳で死亡するまで、芳しい発明をすることはできなかった。彼の発明で唯一現在までかたちとして残っているのは、宇宙空間においてコーヒーをより香り高く、豊かな味にドリップする機械だけであった。ハッキネン博士は、コーヒーマシンなぞに自分の名前をつけるのは恥だと考えたため、その機械はついに名を与えられず、ある青年士官にはその努力を“泥水”あつかいされるという憂き目にあってしまった。もし博士が、紅茶をより香り高く、豊かな味に淹れる機械を発明していたのなら、史上最年少の元帥によって勲章を授与されていたであろうが。
ハッキネン博士は、それでも膨大な研究をしており、その成果はダース単位のノートにまとめられていた。ハッキネン博士の遺品整理をまかされていたのは、同じく技術開発局員として勤務していたヨハン・コバライネン博士であったのだが、彼はその研究ノートからある粒子の生成方法を思いついた。宇宙暦八〇九年、新帝国暦一一年に発表された論文には、その粒子の効果について次のように記されている。
「この粒子は、高密度に散布することによって、触れた物体の挙動をコンマゼロゼロ数秒ほど遅らせることができる。」
つまり――平地に比べて水のなかだと人間の動きが遅くなるように、この粒子は物体の挙動に抵抗をあたえるのである。この発明はただちに新帝国軍の知るところとなり、極秘で軍事転用のための技術開発が進められていた。
コンマゼロゼロ数秒という非常に短い時間であるが、もし宇宙空間に高密度に散布できたのなら、その効力ははかり知れない。その効果が認められたとき、この粒子の命名権を、コバライネン博士は手に入れるに至った。彼はハッキネン博士の念願を知っていて、この粒子の着想は彼の遺産によるところが大きいことも知っていた。だが、コバライネン博士は迷わず、“コバライネン粒子”と、みずからの名をつけたのだった。彼は、ハッキネン博士が、毎日のように煙草の煙を吹きかけてきたことを根に持っていたのである。
ユリアン・ミンツは、アレックス・キャゼルヌになかば強引に連れられて繰り出した酒場において、すでに退役した元上官に軍の情報をゆすられ、
「コバライネン粒子は、たとえばその散布密度に差をつけることによって、艦隊の行軍速度に差をつけることが可能でしょう。たとえるなら、泥濘に馬を横一列で走らせたとしても、そのなかに舗装された道が一本あったら、そこをとおる馬だけは速く走ることが可能です。つまり、相手にさとられず、陣形を乱すことが可能なんです」
と答えた。キャゼルヌは、在りし日のコバライネン博士のように、ユリアンのその発言を、みずからの策戦に組み込んだのである。むろん、キャゼルヌにはユリアンにたいして根に持つところなどなかったので、スーン・スールに
「すばらしい発想です。ご自分で思いつかれたのですか?」
と聞かれたとき、真剣そうに眉間にしわをよせ、荘重にうなずきながら、こう答えたのだった。
「ああ、たぶんな」
……キャゼルヌの提案した策戦は次のとおりである。
一、敵軍左右両翼側にコバライネン粒子を散布し、行軍を遅らせる。
二、このとき、中央艦隊はコバライネン粒子がほとんどない宙域をゆくから、中央と左右両翼で行軍速度に差が生じ、中央艦隊のみが突出する。
三、混乱する敵軍中央艦隊にたいし、砲火を集中する。
四、主力艦隊五百は、手薄になった敵軍中央を突破し、近接戦闘に入る。
五、同時に、別動隊三百によって敵軍背面を攻撃する。
こうして、キャゼルヌ案を基本骨子に、謎の敵性艦隊一万にたいする防衛戦線が構築されていったのである。
そしてその策戦は、ひとまずは第三段階までは成就しつつあった。“不正規艦隊”以来伝統となりつつあった一点集中戦法は、もはやお家芸というべき代物であり、スーン・スール大佐ひきいる艦隊は、突出した敵軍の先端に、したたかな打撃をあたえることに成功している。
「では、あとはお任せします」
混乱した敵軍を前に、スーンは別の将校に指揮権を委譲した。近接戦闘なら、“不正規艦隊”ではあの男の十八番だった。ウィリバルト・ヨアヒム・フォン・メルカッツ。帝国から亡命してきた客将にして、伊達と酔狂に殉じた老人。堅実だが勇猛な指揮官だった彼の用兵を、もっとも高い純度で継承していたのは、ベルンハルト・フォン・シュナイダー中佐であった。
シュナイダーは謹厳なまでの敬礼をひとつすると、スーンにかわって指揮を執り始める。
「突撃する。スパルタニアンを発進させ、近接格闘を展開せよ」
われながら、数奇な人生だ。そう彼は思っていたが、それをおもしろいと思えるやわらかさが、今の彼にはそなわっている。
メルカッツ大将、と心で告げた。あなたとともに、同盟へ来てよかった。私は、私の生を心ゆくまで愉しんでいます。
むろん、戦況は予断を許さない。兵力の差は圧倒的である。左右両翼は、いまは混乱状態にあってほとんど機能していないが、中央艦隊はかなりの精度でまとまりを回復しつつある。敵の指揮官が、並でないことの証左だった。このまま、左右両翼が戦闘に加わることになっては、この一時的優位は刹那でくつがえる。シュナイダーがすべきことは、この“一時的”を、可能なかぎり延長させることにあった。
ハムディ・アシュール中佐は別動隊を率い、敵軍の左翼後方へと回り込んだ。敵軍は指揮系統が乱れているのか、ほとんどこちらを向く艦すらいなかった。彼は用兵理論すらも舗装された道のうえを歩かせるたちだったが、今回ばかりは、常識にとらわれていては敗北する。いや、八〇〇が一万にたいして戦いを挑むことが、すでに常道からはずれているのだ。だから、彼は今回ばかりは、藪のなかを進む決心をしなければならなかった。
「横一列に砲門をならべ、時間差をつけて砲撃せよ」
これで、敵に大軍がひかえていると誤認させる。三〇〇で大軍の用兵をするのだ。とにかく、敵を混乱させ続け、まずは“一旦退かせる”。それが、キャゼルヌらと考え出した策戦の、ひとまずのゴールだった。キャゼルヌの見立てでは、あと数日で、フェザーンへむかっていた本隊が合流するはずである。それまで、だまし続け、耐え続ける。
だが、まだ敵軍右翼は放置してある。左翼は混乱に混乱をかさね、ほとんど指揮系統は機能しなくなっている。中央艦隊の様子は、アシュールからは見えなかった。スーン・スール大佐と、シュナイダー中佐を信頼するしかない。彼らも、自分のことを信頼してくれているはずなのだ。
「ぶざまだな」
サイード・サムエル・サンチェスは口元だけで笑った。自嘲するさいの、彼のくせである。ぶざまなのは、みずからの軍の陣形と、敵軍の小細工だった。たしかに、敵軍の一点火力集中と、近接攻撃の迫力は、すさまじいものがあった。前者は、ほとんど教科書通りと言ってよく、それが長引けば対処も容易であったが、後者に推移するにあたり、その指揮は別人のように変わった。まるで、幾多の戦場を生き抜いたなかで編み出され、洗練されてきたかのような、重厚で老練、かつ勇猛な指揮なのだ。これほどの指揮官が、共和自治政府にいたのだろうか?
単座式小型戦闘艇――スパルタニアンと言ったか。そのパイロットの技兩も、並ではない。三機がひとつの生き物のように連携し、つねに多対一の戦況をつくりあげる。こちらも小型戦闘艇をはなってはいるが、圧倒されていた。
だが、戦いは数である。中央艦隊は、寸断こそ激烈なものがあるが、こういうときのまとまりかたも、ヴィンツェンツォ・ザザは何度も訓練していた。それが戦場でできるかできないかで、生まれる結果は大きく異なるのである。サイードも、そのやり方を頭にたたきこんである。まずは小さくかたまり、少しずつその塊を大きくしていく。けっして、一艦単位で孤立してはいけないのだ。
砲火にさらされながらも、サイードは戦況を見定める余裕があった。中央艦隊は、訓練通りの動きができていて、しばらく耐えれば、またこちらの指揮が届くようになるだろう。そうすれば、再起はじゅうぶんに可能だった。
左翼艦隊は、後方を敵の別動隊に攻撃されているが、その数は四〇〇に届かないだろう。いや、もっと少ないかもしれない。大軍の用兵をしているが、こけおどしというものだ。
「前進しろ。けっして回頭するな。蜂の巣にされて死ぬぞ」
短く指示をする。あとは、分艦隊司令官がなんとかするだろう。できなければ、死ぬだけだ。
右翼艦隊は、無傷である。敵が攻撃している様子もない。ならば、右翼艦隊は、航行速度が低下する謎の宙域を抜け、敵の五〇〇の艦隊に側面から砲撃を浴びせればいい。そのころにこちらも秩序を回復させることができれば、十字砲火によって戦況は一変する。
「落ち着いて行動しろ」
指示はそれだけでよかった。
すでに、こちらの艦隊は、五〇艦程度のまとまりがいくつかできている。あとはそれらをつなぎあわせれば、秩序は回復していくだろう。
「後退しつつ、陣形を再編する」
共和自治政府軍の攻撃は続いている。だが、それも永遠に続くものではないだろう。人が酒を欲するように、男が女を欲するように、戦艦はエネルギーを欲するのだ。
二五
敵味方の艦が巨大なモザイクを構成する乱戦にあって、共和自治政府軍のスパルタニアン部隊は、敵を圧倒するキル・レシオを誇っている。彼らには、体の奥底、末端の細胞にいたるまで“三位一体”の戦法がたたきこまれており、それは漁師が獲物を追い込むように、確実に敵のパイロットを宇宙の粒子に還元していった。
ハートに矢印の刺さったマークの刻印がされたスパルタニアンが、モザイクのなかを飛翔する。持ち主であるクレア・ウィンスレット大尉は、たぐいまれな容姿とそれにみあう愛機の挙動によって芸術的な曲線を描くことのできる技兩をもっているが、その彼女が、息もたえだえの状態でようやく母艦にたどりついている。それは戦いの激しさと同時に、彼女の焦燥もあらわしていた。
ウィンスレット大尉が荒々しくヘルメットをたたきつけながら叫んだ。
「敵に、とんでもないパイロットがいる!」
彼女の言葉は、小隊全員がほぼ同じ経験をしていることから、もはや一致する見解にも等しかった。
彼女らの経験は次の通りだった。ある敵にたいして、どんなアクロバットを披露しても、敵を補足するどころか、つねにコクピット・カメラの死角に入りこまれているのである。しかし、その敵はけっしてこちらを地獄へたたき落とそうとはしない。レーザーの一発も、ミサイルすらも、撃ちこんでこないのだ。幾度、撃墜と死を覚悟したか。だが、その覚悟はすべて無駄なものになってしまった。敵に、情けをかけられたのである。彼女たちはみなみずからの技兩に誇りをもっているぶんだけ、その悔しさも尋常ではない。
後日、ウィンスレットはみずからの師に、このときの体験を話している。もはや二児の母となった彼女の師は、くちびるをかむウィンスレットのまえでくすくすと笑うと、すべてを察してこう言った。
「あなたがあと三人いたら、倒せていたかもね」
技兩をあなどられた、と露骨に不服な顔をうかべるウィンスレットのまえで、カーテローゼ・フォン・クロイツェルは紅茶を飲んだ。そんなことができそうな男など、カリンにはひとりしか思いつかず、それはなぜか確信にちかかった。
そう、それが彼の願いであったから――。
ウィンスレット小隊の怨恨を一身に背負った男は、数千本のレーザーの格子のなかを、まるでダンスのステップをふむように飛翔していく。彼にとっては、このような戦況など、熱いシャワーをあびても酔いが抜けないほどの酒を飲んだ後でも、たやすいものであった。
彼は、謎の艦隊の右翼部隊に配された戦艦に着艦すると、旗艦からの伝令と称して堂々と艦橋に乗り込んだ。ブルーグリーンの瞳に不敵な光をたたえながら。
「退却せよ。戦況は混沌としており、旗艦は被弾した。サイード提督も負傷されている」
魔術師にでもなったつもりか? 彼は自分自身に問いかける。その答えは否である。その男は、ただ嘘つきであったに過ぎなかった。
右翼艦隊の後退を見て、サイードは首をひねった。いや、これは後退ではない。たんなる退却である。中央艦隊は、戦況を回復しつつあるが、ここから優位を決定づけるためには、右翼艦隊の戦力が不可欠であった。
戦線の再構築は、もはやこの場で行うことはできなかった。左翼への後退の指示はすでに伝達されているはずであるが、背面を執拗に攻撃され、困難であるようだ。中央艦隊も、近接攻撃の激烈さに押され、応戦しつつ後退することができなくなっている。
「仕方ない。一目散に逃げろ。バーラト星系外縁部で部隊を再編する」
もはやサイードすら、戦況を完全に把握することはできなくなっている。敵は、中央と左翼だけに奇計をかけてきたわけではないのだろう。右翼艦隊には、なにがあったのか。それを確認するためにも、陣形の再編は急務である。
敵艦隊の追撃もかなり執拗だった。補給線の限界まで攻撃をしてきているのである。それにたいして、こちらは統率のとれた反撃はすでに不可能になっていた。ようやく追撃を振り切ったとき、中央艦隊は二千近い犠牲を出していた。右翼艦隊こそ無傷であるが、左翼も八〇〇以上の艦を失っている。
するどく舌打ちをしながら、サイードは陣形の再編を急いだ。
シュナイダーの指揮権は、追撃戦の段階ですでにスーン・スールに返還されている。
スーンは、味方の犠牲がほとんどないことに奇跡的なものを感じていた。しかし、それも一回だけだ。一度奇策にはめられたものは、次はよりいっそうの警戒をする。ヤン・ウェンリーの偉大さは、警戒状態の敵の心理をさらに利用した点にあるのだ、といまさらながら納得するスーンである。彼の精神は、開戦前にくらべていくらか落ち着いていられた。
敵中央艦隊への急襲と、左翼艦隊への背面攻撃は、うまくいきすぎるほどうまくいった。敵には痛撃をあたえつつ、こちらの被害は最小限におさえられている。問題は、この次である。いったい、どのくらいの時間をかせぐことができるのだろうか。
「しかし、なぜ敵の右翼艦隊は無傷の退却をはじめたのでしょうか」
シュナイダーが言う。それは、スーンも気になっていたところであった。無傷であるなら、そのまま中央艦隊の援護にむかうことも考えられ、それを念頭に置きながらシュナイダーは指揮を執っていたのである。
「わかりません。未知の戦況に対し、安全策をとったのかもしれません」
中佐待遇の客将にたいし、スーンの言葉は丁寧だった。尊敬すべき相手にたいしては敬意を表しているだけなのだ。
「不可解ですな。近接格闘においては、敵将はかなりの者に思えたのですが」
そのあたりの印象は、シュナイダーがもっとも正確だろう。彼はだれよりも近い位置で、敵の指揮を目の当たりにしているのである。冷静さを失わず、粘り強さにはかなりのものがあったはずだ。敵将が無能でないことは、スーンにもわかった。
内紛だろうか。考えられそうなことはそのあたりだが……。
「いずれにせよ、まだ本隊の到着は遠いでしょう。敵の陣形の再編にどれほどの時間がかかるかわかりませんが、次は正攻法で耐えねばなりません」
アシュールは攻撃の途中で旗艦が被弾し、左腕に包帯を巻いていた。
シュナイダーが重々しくうなずく。明日以降に待ち受ける困難を予期しているのか、勝利の余韻にひたるものはいなかった。しかし、焦るものも同様にいない。焦燥は、けっして時計の針を先に進めはしない。平静もそれを遅らせることはないのだが、後者のほうが生きるためには有意義というものだ。
サルバトーレに調べさせても、結局のところ、右翼艦隊が命令外の行動をとった理由はわからなかった。多くの艦が退却の命令をうけとっており、伝達の経緯のなかに問題があったのかもしれない。
残存艦数は、七一八九艦だった。かなりの痛撃をうけた計算になる。陣形と命令伝達経路の再編のために、三日ほどを要した。悠長にしている時間はないが、それでも命令伝達が不十分なまま戦いをするのも避けたかったのである。
また、敵軍の通信を傍受したところによると、敵将はスーン・スール大佐、近接格闘の指揮官はベルンハルト・フォン・シュナイダーであったようだ。帝国から亡命した客将が、ようやく民主主義に魂を売ったらしい。むろん、主義主張などというものと無縁であるサイードには、シュナイダーの転向によって彼の人間の価値をさげるということはしない。人間というものは、すべてひとしく無価値である。価値があるのは、金を持ち、自分に金をあたえてくれる人間だけだ。
「では、いこうか」
サイードは金に眼のくらんだ亡者であったが、そのために盲目になることのない稀有な人物だった。彼はただ奇策を用いず、奇策をおそれず、まっすぐに惑星ハイネセンへの軌跡をなぞってゆく。
スーン・スールは、ほとんど傲然に見えるほど直進してくる敵軍の姿に、思わず歯噛みしたくなる思いを抱いた。
はじめ、彼らの考えた策戦は、“惑星ハイネセンよりも外縁の惑星の陰に隠れ、擬似的な縦深陣を形成する”というものである。要するに、敵から見えないところに艦隊を埋伏させ、直進してきた敵軍の両側面や後方を襲うというものである。
しかし、この策戦にはいくつかの問題があった。ひとつは、すでに敵には自軍の全戦力が割れており、埋伏の計には乗らないであろうこと。もうひとつは、敵の行動開始が惑星の公転周期と合致しなければ成立しないことである。実のところ、昨日に攻めてきたのであれば、惑星の公転周期的には申し分ないものであったのだが、敵はどうやらその策すらも看破していたようだった。ハイネセン周辺に惑星や高密度のガスのない、ほとんど宇宙が平野になっていると言っても過言ではない状況を待たれてしまったのである。
いま一度コバライネン粒子を用いて進軍を遅らせるべきか。いや、粒子の散布には時間がかかる。機雷を撒くにも、そもそも機雷を撒くために必要な工作艦の数が足りないのである。
死ぬしかないか。玉砕を戦士の華と考えるような酔狂は彼にはないが、脳裡にそれがよぎるのをおさえることはできなかった。だが、六万の兵を道ずれにして?
「小官が、指揮を執りましょうか?」
億や兆をこえる迷いの底に沈んでしまったスーンの意識を引き上げたのは、ベルンハルト・フォン・シュナイダーであった。スーンはほとんど反射と言って良いほどに首を横に振った。
「正直に申し上げると、とても魅力的な提案です。命の責任を負わなくてすむのですから。しかし、この責任から逃げることなど、できるはずもありません」
理由を紡ぐことのできない彼である。いや、理由ははっきりしている。それを言うのがためらわれるだけなのだった。
アレクサンドル・ビュコック提督であったなら。敬愛するかの提督は、眼の前の責任と、のちのちに生ずるであろう責任から逃れなかった。あの老人は、まさしく命をかけていたのだ。自分の命にそれほどの価値がないと知りながら、地位というものによって命の価値をわずかにかさ増しさせて。ビュコックと同様に生きることはできないし、死ぬこともできない。だが、選択そのものはビュコックと同じものを選ぶことができるはずだ。責任から逃げない、という選択が。
シュナイダーはハンサムな顔に微笑を浮かべると、出過ぎた進言をしたことを詫びた。
逃げることはできない。ならば……。
「どうするべきだろうか?」
会議の席で、彼は素直に意見を求めた。アレックス・キャゼルヌが、要塞による侵攻を防いだ時のように、彼は信頼できる仲間の意見を求めたのである。だが、その時と違うことは、こちらにはまるで打つ手がない、ということだった。
いっぽうで、投降を是とする者もいなかった。それが、スーンには心強かった。
「では、抵抗しましょうか。蟷螂も斧を振りかざす。われわれは蟷螂よりもわずかにましな生き物であるのですから、ちょっとくらいの抵抗はできるでしょう」
スーンは、ごく平凡な陣を組んだ。陣形に指揮官の性格があらわれるというのなら、この陣だけでスーン・スールという人間は語り尽くせてしまうだろう。
敵が迫ってきていた。まだ八千艦ちかい。スーンは覚悟を決め、遺言を送るべきだった家族の顔をわずかに思い浮かべながら、射撃体勢をとらせた。
艦砲の射的距離まで数分という距離に敵が迫る。――永遠ともいえるその一瞬、スーンはたしかに視認した。敵艦隊の、またも右翼が、なぜか本隊と分離するような行動をとったのである。
サイード・サムエル・サンチェスは、さすがに自制の限界を迎えて怒鳴った。
「右翼艦隊は何をしているか!」
ただちに右翼艦隊との通信を開く。青ざめた顔で、司令官がスクリーンに登場した。
「しかし、さきほど、閣下からシャトルによって指令が……」
サイードとしても、この不可解な事態は看過できなかった。再び退くか? だが、時間的猶予がどれほど残されているか――つまり、敵の本隊がいつ到着するかはわかりかねているのである。迅速に決着をつけなくてはならないという状況は、変わっていなかった。
……サイードが未知の状況に労を割いているその時、“シャトルに乗った伝令”は、割り当てられた単座式小型戦闘艇のなかで、秘蔵のウィスキーと接吻をしていた。むろん、彼の荷物の中には、愛人ともいうべき他のウィスキーが何本も収蔵されているのであるが。
「ひとつ貸しだぜ、ユリアン」
単座式小型戦闘艇のなかでにやりと笑った彼の名は、オリビエ・ポプランと言った。
二六
敵右翼の分離によって、わずかに戦力が削がれた。先の休止によって再整備されたであろう命令伝達経路が、ふたたびおびやかされたのである。動揺がちいさいはずもない。この機に、わずかでも形勢をこちらに傾けたかった。
しかし、敵はまっすぐこちらにむかってきていた。
「右翼を捨てたか……」
右翼艦隊が離脱してもなお、艦数はこちらが不利である。ならば、使えぬ味方を切り捨て、残存兵力で戦うというのだ。それは、突き詰めて考えれば行き着く当然の決着かもしれないが、それを瞬時に判断したのである。
「撃て!」
ほぼ反射と言っても良い。スーンは陣形を変えるまでもなく、射程距離に入った敵艦にビームをたたき込んだ。だが、敵の応射もおそろしく重かった。どれだけ持つかはわからないが、そう遠くもないだろう。
旗艦のそばをレーザーが通過する。死はつねに彼らのとなりにいた。
閉鎖されているという営倉の前で、オリビエ・ポプランは立ち止まった。右翼に誤った情報を伝達したのち、彼は中央艦隊へ戻ってきたのである。ある戦艦でコーヒーでも飲もうかとした矢先に、営倉の噂を聞いたのだった。
営倉の鍵は、たやすく手に入った。彼はオリビエ・ポプランであるが、彼の身分証はそうではなかった。えらそうに指示を飛ばしに来たサルバトーレとかいう少年のものを盗んだのである。少年は、司令官の側近だと言うが、司令官以外にたいしては居丈高で、あまりいい印象を持たれていないようだった。
営倉のなかには、ひとりの青年が椅子に縛り付けられていた。ひどいにおいなのは、糞尿がほとんど垂れ流しだからだろう。早く立ち去りたかったが、案外ここは重要な場所なのかもしれない。
「おい、生きてるか?」
ポプランは青年にむかって声をかけた。二秒以内に返事がなければ回れ右を、とも考えていたが、姿に反してしっかりした声が返ってきた。
「おう。あんたは?」
ゆっくりと頭をあげた青年の表情が、半瞬ほどかたまり、救世主の爪先から頭蓋の頂点までを見上げた。
「ポプランどのですか?」
ポプランは人差し指をたてた。自分が有名人かつ尊敬に値する人物あることは知っていたが、まさか敵軍から"どの"付きで呼ばれるとは思っておらず、その動作はほとんど反射にちかかった。
「おまえは?」
「共和自治政府軍ウィル・メイヤー中尉です」
「ふうん、知らんな。だがこっち側の人間か」
「ポプランどののことは……」
「言わなくていい」
ウィルと名乗った青年を手で制し、ポプランは鼻をつまんで近づいていった。
「おまえ、出身は?」
たしかに、体つきそのものは軍人に見えた。共和自治政府軍所属ということは、捕らわれて利用されたといったところだろう。独創性はないが、敵軍の進行速度と手際を考えるかぎり、内通者がいるだろうことは予測していた。まさか、内通者というよりも捕虜であったとは。拷問に耐える訓練はおろそかにしていたのだろうか?
もっとも、自分としても美人が極上のブランデーとともに尋問をしてくるのなら、つい口をすべらせることもあろうが。
「ケイト、セレス、ヴァネッサ、ラウラ、クアイ。このなかに知ってる名前は?」
「いえ、おりません」
他人に貸しをつくるとき、その返済義務の有無は、この問いへのこたえで決まる。どうやらウィル・メイヤーには返済義務がありそうだった。
「しかし、母の名前はエリスと言います」
セレスとエリス。たしかにセレスの言葉にはやや訛りがあった。万が一にも共通の知人をもっている可能性がある場合、ポプランは心やさしい債権者と変身するのだ。
刹那ではあったが、ポプランは時間旅行をたのしんだ。やや冷や汗をかきながらではあるものの、ポプランはセレスとの一夜――いや夕暮れから朝までの時間を思い出す。克明にそれをおぼえているのは、セレスが絶世の美女であったからではない。これはポプランなりの責任の取り方であった。一度でも情を交わした女のことは、けっして忘れないのである。"どうやらあの娘の父親らしい"などと推測文で言うのは、あまりにも礼を失しているというものだ。すこしでも心をひかれた女にたいして礼を失すれば、みずからの価値すらおとしめるのである。
だが、もしセレスとの子であるならば、眼のまえの青年は齢一二で中尉にのぼりつめてしまった、ヤン・ウェンリー以上の天才でなければならない。
ウィルを椅子に縛り付けていたロープを切ると、青年はややぎこちなく立ち上がった。何日かうごいていなかったのだろう。
「ありがとうございます、ポプランどの」
ウィルに怪我はない。しばらくすれば、また問題なく動くことができるはずだ。しかしーーそこはあまり問題ではなかった。
「よし、まずは着かえた方がいいな」
彼にとって一番の問題は、ウィル・メイヤー青年のそばにいると、女性がだれひとり寄ってこないであろうことだった。
思うような艦隊運動ができず、サイードは怒気をおさえこむのに少々の労を割かねばならなかった。サルバトーレはどこかへ行ったまま帰らないのも、戦いに集中しきることのできない要因である。
戦力差は約五倍であるが、それを生かしきることができない。命令の伝達が、どこかで滞るのである。だれかに邪魔をされているとしか考えられないが、共和自治政府軍にそれが可能だというのか。
ただの正面からの撃ちあいという局面になっても、前列と後列の交代がうまくいかず、連続的な火力の集中が不可能になる。その間隙にビームを撃ちこまれ、犠牲が出るというのもしばしばだった。
その隙を見逃さない敵将も見事というべきか。サイードは戦士でなく、敵を称賛する美学などとは無縁である。しかし、共和自治政府軍を率いる将は、堅実だがどこか老練という気すら感じるのだ。地形を生かすすべはサイードがよく用いるものであったため、封じることは容易だった。だが、隙を生じさせたときの攻撃の執拗さとそれをやめる潔さは、確実にこちらに出血を強いてくる。逆に、攻めないときは防御に徹しているので、犠牲そのものは少ないのだ。
こちらが隙さえ見せなければ、消耗戦となって勝利はたやすい。しかしその前提を成立させるのがすでに困難なのだった。
サイードはちいさく舌打ちをして、旗艦をすこしだけ前進させた。単純に、指揮をしやすくさせるためである。
だが――この選択を悔いる時間を、サイードは与えられなかった。
ウィル・メイヤー青年は、熱いシャワーをあびて皮膚のようになった垢をすべて洗い流すと、ポプランが奪ってきた敵の軍服に着かえた。生まれ変わったような気分さえまとわせながら、悠々と戦艦の廊下を歩く。
「それで、ポプランどのはこれからどうなさるのですか?」
ウィルが耳打ちする。あえて偽名を名乗らないのが、ポプランなりの嘘の付きかただった。
「とりあえず、敵の後方を撹乱したい。奇策の常道さ」
奇妙なレトリックではあるが、ウィルは納得したようだった。早足で歩きながらも、ふたりに気をとめる者はいない。戦時は、みな自分のことで精一杯なのだ。
それにしても、とポプランは思う。どうやら、この軍の兵士たちは、たがいに顔見知りの関係であるのは少ないようである。緊急時に動員されたということなのか、これは末端の兵士だけなのだろうか。
「小官に、役割はありますか?」
「たぶん、ある。おれは仕方ないからある程度おまえを信用するが、おまえはおれを全面的に信用しろ」
「了解」
艦橋までは楽に到着した。中型の戦艦だが、人員の数は少ない。
「おまえ、射撃は?」
「士官学校では、学年四位が定位置でした」
「ヤン・ウェンリーよりはましってことか」
ヤン・ウェンリーの名前を出したとき、はじめてウィルの顔に笑みが浮かんだ。そういう男を見るたびに、ポプランは心にざわつきをおぼえる。
ポプランはウィルにブラスターとエネルギー・カプセルを渡すと、
「おれも、正直なところ自信はない。だが、まあ、やるしかないからな」
そう言い残して、まっすぐに戦艦の司令官席まで歩いていった。フライング・ボールの反則王として勇名を馳せたのは、遠い昔のことである。技術はおとろえても、精神はけっしておとろえない。たびたび、彼はその精神によって生きながらえてきたからである。
「司令官どの!」
ポプランは、まるで作戦を進言する参謀のように歩み寄った。司令官の顔に疑問符がうかんだときには、その疑問に答えるための時間を永遠に奪っている。
司令官を射殺すると、ポプランはこれ以上を求めようがないほどの効率で、周囲の四人の頭を撃ち抜いた。案外、心臓を狙って一撃で殺傷するのはむずかしいのである。
指揮官のデスクに身を隠すと、そこにウィルが合流した。怪我はしておらず、奇襲は成功したように思えた。
「通信士とおぼしき者は始末しました」
「ふうん、やるな」
もはや、組織的な抵抗はなかった。あっけなさすぎる、というのは率直な感想であるが、なにかがうまくいくときはたいていこういうものだ。
コンソールはどうやら帝国の艦船をモデルにしているようで、操作じたいはむずかしくないだろう。問題は、どのように運用するかであるが、
「それで、どうするのです?」
という軍後輩のすなおな疑問にたいして、ポプランは次のように答えるほかなかった。
「無計画だが、無問題」
限界を迎えつつある戦線は、なんとか崖のふちのところでこらえている。スーン・スールは、もはや呼吸すらままならないと言えるほどの精神状態のなかで、責任という一語でみずからを鼓舞した。どうやら敵の動揺も相当なものだが、敵軍にも中核と呼べる部隊があるようで、その統率は抜群だった。その実力は、帝国軍の精鋭にもおとらないかもしれない。
犠牲は、じわじわと出始めている。むりもない話であるが、道理の上ではまるで勝ち目のない戦いでもある。共和自治政府軍がここまで戦闘を続けるのは、軍と政府が掲げる不服従のためであり、それを頭では理解していたはずであるが、それすらも呪いたくなる気持ちになっていた。
三〇を越えるのが、おそすぎた。奇妙なことだが、スーンは指揮をおこなう脳と神経経路とは別なそれらを自覚していた。おそらくそれは、生涯で最後の回顧のためにもちいられている。
宇宙歴八〇〇年。まだ自分はおとなにもなれていなかった。だから、マル・アデッタへ連れていってもらうことがかなわなかったのだ。その戦場で、心の底から敬愛する司令官は死んだ。
なぜ、連れていってもらえなかったのか。統帥作戦本部で司令官とその参謀長の背中を見送り、わずかな艦隊とともにイゼルローンへむかった。何度、進路を変更して司令官と合流しようと思ったのか。三寸の虫のささやかな抵抗となることは知っていても、地獄まで供をすることはできたではないか。その供まで断られたような思いがしたから、自分はかなしかったのだ。
なぜ、と問う。たくされたからだ。もうひとりの自分が、答えた気がした。司令官に、たくされたからだ。民主制における軍隊の誇り、司令官みずからの誇り。
ビュコック提督。私は、ようやく三〇をいくらか越えました。おとなになったでしょう。いまなら、連れていっていただけますか。
不意にあらわれた老提督の姿は、笑ってなどいなかった。あの日、落陽と国家の滅亡との光にあてられた老提督の顔そのものだった。まだ、やるべきことがある。それをおこたる者は、ここへ来るべきではない。
裏切られた、という気がした。老提督の厳しさであり、やさしさでもあるのだろう。
「アシュール中佐から通信。後列から援護するゆえ、しばしさがって補給されたし」
通信士の声で、老提督の姿は消えた。
「全砲門をひらけ。一斉射撃ののち、わずかに後退する」
指揮をおこなう頭は冷静で、その指示は的確なものであっただろう。だが、その行動は中途で断念させられることになる。
スーンは敵軍後方にふたつの異常を感知した。ひとつは光条となって、もうひとつは無数の光点となって、その場にあらわれたのである。
二七
ヤン・ウェンリーにあこがれること。それは、幼少期から思春期を経て青年になるまで、民主制の園芸施設で育った者であるなら、だれもが一度は経験する通過儀礼であった。彼の本性を知る人物がそれを告発したとして、彼を知らぬものが全く同熱量の崇拝を行う以上、本人による弁明が不可能なものとなっているために、ヤン・ウェンリーにたいする大いなる誤解は無限大に増殖していく。また、魔術師をもっともちかくで眺め続けてきた一部の人々も、それらについて積極的な言説を展開しなかったのである。人々はそれぞれ独自の"ヤン・ウェンリー像"を描出し、根拠なき信仰と陶酔にみずからをひたらせた。それは、思考停止という人間の犯しうる愚の最大たるとの双生児にあったにもかかわらず。
"民主主義の擁護者"、"英雄"、"常勝提督"……彼を非難する言葉は数多いが、それすら星の数に劣るのと同様に、称賛する言葉の数にけっして勝ることはない。宇宙が膨張を続けるように、ヤン・ウェンリーという人物もまた、残された虚像を無辺際に延長させているのだ。
ウィル・メイヤーは、はたして"ヤン・ウェンリー教の狂信者"のひとりであると言えるだろうか? 彼は軍人ではあったが、ひとりの市民である。だが、"ヤン・ウェンリー"という集合意識が放つ怪電波は、人間の内面へ強制的に作用するのだった。
脱出用シャトルで虚空を回泳しながら、オリビエ・ポプラン――彼の名は戦艦で倉庫番をしていた男の名前となっているが――は爆発する戦艦を眺めていた。数分前まで、彼はある青年とそこにいたのである。青年は、敵艦に残っていた陣形のデータから敵旗艦の位置を割りだし、その方向にむかって砲撃を指示したのだった。名目は、"旗艦は敵に乗っ取られている"というものであった。
砲撃は命中したが、しかし、撃沈には至らなかった。それどころか、乗っていた戦艦は"裏ぎりもの"として数本のビームの交叉点となり、艦橋にいたウィル・メイヤー青年の命をむしばんだ。
「逃げてください、ポプランどの」
殺到する敵兵からポプランを逃がしながら、ウィルは言った。
「おれも、英雄になりたかったのです」
シャトルの操作盤をはげしく蹴る。そのていどの衝撃で破壊することは不可能だった。
英雄。ウィルの言葉が、脳内で反響する。それは不協和音と言っても良かった。耳障りな音楽だが、それを遠ざける努力は果てしないものが必要に思われた。
だから、ポプランは見えざる背中にむかってこう呟く。
「見てるか、ヤン・ウェンリー。あんたのせいで、またひとり死んだぜ」
はげしい艦橋の揺れをなんとか支えながら、サイードはオペレーターの言葉を聞きとった。旗艦を砲撃した味方の戦艦は、ウィル・メイヤーに乗っ取られており、すでに撃沈されている。
たしか、ウィル・メイヤーはルーカス・クリーガーの協力者で、営倉に放り込まれていたはずである。それがどういうわけか脱出し、さらに一隻を奪うまでになった。協力者がいたのだろうか、まさかひとりで奪うなどということはできまい。
「後方に感あり!」
オペレーターが叫ぶ。サイードは、現在自分が置かれている状況を把握するのに、数秒を要しなければならなかった。
まさか、共和自治政府軍の本隊が到着したというのか? フェザーンから最低でも二週間、距離の暴力を克服する手段を、この短い時間で編み出したとでもいうのか。あるいは、想像を絶する新兵器が……。
スクリーンに映し出された戦艦の姿を見て、サイードはすべてを納得した。そして、その後に控えるであろうみずからの敗北すらも。
「新帝国軍……」
もはや、ハイネセンを奪う手段は絶たれていた。
フォルカー・アクセル・フォン・ビューロー上級大将は、イゼルローン回廊両出口付近に敵の艦影を確認した後、ふたつの艦隊の目的があきらかになったタイミングで、エンスルト・フォン・アイゼナッハ元帥からの指令を受信していた。
「イゼルローン駐留艦隊全軍をもって、共和自治政府軍留守艦隊の援護に向かうべし」
万が一イゼルローン要塞は奪われても問題がない、という判断だった。もし、要塞が奪われ、再び難攻不落の城と化しても、その責任は元帥自身が負うというのである。
ビューローの決断と行動は早い。すぐさま艦隊を動員すると、ミッターマイヤー首席元帥ゆずりの快足を飛ばし、移動と展開を敵が驚嘆する速度で可能にした。彼らの到着が数時間でも遅れていれば、惑星ハイネセンは敵軍の手に落ち、民主制体そのものが泡沫の夢と消えていたかもしれないのである。
圧倒的優勢を築きつつある敵艦隊の後方にむかって、ビューローは全力で指令した。
「撃て!」
落伍者はいなかった。それはすなわち、一万を越える光条の束が、敵艦隊への不可避の洪水となることを意味していた。
しかし、おや、と思うほど敵の行動は迅速だった。一切の抵抗は見せず、感嘆するほどの手際で撤退していく。
「追撃は不要。それより、共和自治政府軍と合流したい」
負傷者の救護や宙域の安全確保など、やるべきことは数多かった。
「急ぎすぎるな。だが、確実に実行せよ」
新帝国軍の援軍を確認したとき、スーン・スールは思わず指揮シートに倒れこむようにくずれ落ち、そのまま眠りの神の抱擁に身をゆだねようとしてしまった。
その心地よい抱擁から身を解き放ってくれたのは、自分の肩に置かれた、がっしりとした手だった。
「よくやったな」
スーンはようやくといったふうに頭をもたげると、
「キャゼルヌ大将……」
と、ようやく声を発した。
……キャゼルヌとしても、今回の戦いで補給を行うのは、かなりぎりぎりのところであったと言わざるを得ない。後方で民間船を動員しては、総力戦の批判をまぬかれないだろう。なるべく軍用艦だけで済ませてしまいたかったのだが、結局は有志の民間船を使用せざるをえなかった。
大きく息をつく。額に浮いた汗をぬぐおうとして、ポケットからハンカチを取り出した。そこに残った赤い染みを見て、キャゼルヌは笑った。
「おや、どこかで怪我でもしたかな」
キャゼルヌの補佐をしていた下士官が、となりでそのハンカチを見ていたのである。だから、軍でも家庭でもつねに後方勤務を命じられていた男は、つかなくても良い嘘をついた。
後日、酒場でふたりの後輩に酒を"おごらさせた"彼は、戦いにおけるみずからの活躍をやや得意気に語ったのち、
「どうだい、おれの策は。魔術師には劣るとも、なかなかのもんだろう」
と胸を張ってみせた。
かつて"奇術師"と呼ばれたひとりの後輩は、魔術師の正当なる後継者と顔を見合わせると、肩をすくめながら、やれやれというしぐさを前置きしてこう言った。
「ま、いいとこ手品師ですな」