大海を統べる   作:茂上軒二

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第9話

三二

 

「しずかだな」

 ヴィンツェンツォ・ザザは独語する。戦場は、凪のようにしずかだった。帝国軍は陣形を組んだ。だが、そこに、ビッテンフェルト艦隊はいない。

 バーデン星系を迂回する策を選んだのか。しかし、それでは一時的に戦力は拮抗する。黒色槍騎兵艦隊が抜けた帝国軍は、三万艦に過ぎない。いくらか減ったとは言え、こちらもまだ二万艦ちかい戦力を有しているのだ。皇帝という重荷を抱えた帝国軍が、そのような危険性を考慮の外におくとは考えにくい。まして、帝国には皇帝の嗣子が存在しないのである。

「この機を逃す手はない」

 ザザは陣形を横隊に保ったまま、前進を指示しようとした。しかし、その指示はかたちを得ぬまま虚空に消えていった。オペレーターの絶叫が、それを上書きしたからである。

「敵艦隊捕捉! 黒色槍騎兵艦隊です!」

 ザザの脊髄に稲妻が走る。指揮シートから立ち上がり、叫ぶように言った。

「馬鹿な。一体どこに!?」

「Xゼロ地点、Yゼロ地点――真上です!」

 続いてザザを襲ったのは、シートにつかまらなければ平衡を保っていられないほどの上下振動だった。

 

 まだ人間の戦場が地上か海上かにかぎられていた時代、人間は不屈の精神によって空を飛ぶ機械を生み出し、それはそれまでの戦争という非人道的行為に大きな変革をもたらした。戦闘機と名付けられたそれらは、あらたな破壊と殺戮の代理者としての地位をほしいままにしたのである。やがて、パイロットの技兩と科学の技術とが成熟するにいたり、彼らは戦闘機による破壊と殺戮をより高度化するために、効率的にそれらを可能にする"戦法"という概念を、戦闘機においてさえ延長させた。そのうちのひとつ、高々度からの一撃離脱戦法は、ひじょうに有用ではあるものの、地海上においては、その限界を早々とむかえることになった。戦闘機は、陸地や海洋に激突したら、たちどころに破壊され、乗員の命も失われるからである。したがって、一撃離脱戦法は、急降下ののちに急上昇という、一部の人間にのみゆるされた操縦によってしか成立しなかったのである。

 眼の前で起きたこれはなんだ――とグスタフ・イザーク・ケンプは眼を見張った。機械は人間に頼らずに、同時に人間は機械に頼らずに、宇宙空間において生存することは不可能である。人間の活動を、宇宙空間においても可ならしめたさまざまな装置。それらの臨界点を、ただ人間の勇気によって越えることが可能であるのか。

 敵軍が存在するXーY平面にたいして、ただ垂直に突撃する。黒色槍騎兵艦隊は、かつての一撃離脱戦法において唯一の弱点であった、"急降下、のち急上昇"の必要性を、宇宙というZ方向へ無限に広がる空間において克服したのである。それも、かぎりなく無謀に傾斜した雄図によって。

 敵の陣形に、風穴がいくつも開いた。黒色槍騎兵艦隊は、横に広がった敵陣を、思いもよらぬ角度から喰いちぎったのである。

「全艦前進。敵の動揺を衝いて制圧する」

 ミッターマイヤー首席元帥の指示が飛んだ。

 最終局面である。敵もかなり手強いものだったが、帝国軍はそれ以上だった。戦いの結末は、つねにこのようなものなのだろう。どれほど互角に戦おうと、その均衡がくずれるのは一瞬である。それがおとずれたとき、勝者と敗者が双生児というかたちをもってうまれてくるのだ。

 

 狂気の波濤は、人間の想像や技術の限界すらも凌駕し、あらゆるものを呑み込んで広がってゆく。人は狂気に身を委ねぬために理性をみがき、本能にさまざまなかたちで衣を被せる。その覆いを取り払うことができるのは、途方もない愚者か、たっとぶべき勇者か。あるいはそれらは、ひとりの人間がもつ両側面なのか。

 ヴィンツェンツォ・ザザは、自身のなかに恐怖がさざ波のように押し寄せるのを感じていた。みずからの死にたいする恐怖ではない。たがの外れた、常識では考えることのできない人間を眼の前にした恐怖である。

 陣形にいくつかの風穴があけられただけで、特筆すべき犠牲は出ていない。衝撃は旗艦にもおとずれたが、損傷そのものはなかった。だが、犠牲に比して被害は甚大である。どこを狙ってくるのかわからない天災のような攻撃は、陣形を組むものに多大な精神的負荷をしいるのだ。

 第二撃は、すぐに来た。漆黒の光条によって風穴はあいたが、それだけである。しかし、動揺は大きなものになった。この機を、あのミッターマイヤーが逃すはずもない。

「陣形を再編する。後退しつつ、上下三段に艦列をならべよ」

 上の一段が破られたとて、下の二段が敵の横腹に砲撃を加えることが可能になるはずだ。

 だが――、ザザもこの行動には大きな危険がともなうであろうことを承知していた。

 全力を出した戦いの最後が、賭けか。

 陣形がすみやかに再編されていく。ある脅威から早足で逃れようとするかのように。

 

 

三三

 

 敵の陣形が変わったのを見て、ミッターマイヤーはバイエルライン艦隊へ通信を送った。

「中央艦隊の背後を繞回し、敵側面を突け」

 敵の指揮官は、かなり優秀である。それも、いまの帝国軍において比肩するものはなかなかいないほどだ。敵にしておくのは惜しいが、敵のままにしておくのは危険である。ならば、その優秀ささえも思考のうちに入れて、作戦を練れば良い。

 ビッテンフェルトの非常識的な戦法は、あくまで陽動であった。派手だが、生まれる犠牲は少なく、対処そのものは容易である。優秀な指揮官ならば、そう考えるだろう。だが、一般の兵たちの動揺にまで対処するためなら、わかりやすく眼に見えるかたちを示さなければならない。すなわち、その対処に特化した陣形の構築である。いくつかあるだろうが、敵の指揮官が選んだのは、上下三段に艦隊をわけることだった。しかしそうすれば、艦隊はZ軸にのびざるをえない。したがって、挟隘な戦場において、敵の両翼の外側に、わずかな間隙ができるのである。

 バイエルライン艦隊を、左翼から右翼へ移動させ、その間隙に滑り込ませる。そうして、半包囲陣形を敷きつつ、航行不能宙域側へと敵軍を押しやる。ビッテンフェルト艦隊は、バイエルライン艦隊の繞回完了を確認してから、その半包囲に加われば良い。

 バーデン星系のアステロイドベルト側に押しやることも考えたが、航行不能宙域に敵の利がある以上、それを背にするのは避けたかったのである。

「さて。あとは、おれの仕事だな」

 ミッターマイヤーは艦橋スクリーンをにらんだ。ミッターマイヤー艦隊は二万。バイエルラインは繞回を終えるまで戦闘に参加できない。ビッテンフェルト艦隊は、戦列にはいない。つまり――敵軍と戦力が一時的に均衡するのである。

 敵軍が、まっすぐに突っ込んでくる。単純な押し合い。首席元帥という地位にあろうとも、愚直な、原始的な戦いをするのか。卿がいたら、笑うだろうな。いまは何の時代かと。だが、これがおれの戦いだ。そしてこれが、おれの生き方なのだろう。

 わずかな自嘲とともに、ミッターマイヤーは声を張り上げた。

「撃て!」

 光条が奔る。切り裂かれた虚空のなかに、友の姿を見た気がした。

 

 繞回運動の途中にあって、バイエルラインは左手に敬愛する上官の死闘を見ながら、背中に冷たい汗がつたうのを感じていた。

 ミッターマイヤーを疾風とするなら、バイエルラインはそよ風だった。ただ柔く肌をなでるだけの微風。みずからの無能非才を、これほど呪ったことはない。

 もともと敵の左翼にあった艦隊の攻撃が、激烈だった。いままで黒色槍騎兵艦隊を抑え込んでいた艦隊である。防御にたけた艦隊なのかと思っていたが、本質は攻めにあるようだった。

 ミッターマイヤー首席元帥は、バイエルラインを信じてこの作戦を決行したのだ。新兵だらけの艦隊で、敵の精鋭を抑え込む。それがどれほど困難なことか。それも、皇帝を抱えてである。

 一秒ごとに、火球が炸裂していく。黒色槍騎兵艦隊にさんざん乱されようと、敵は意に介さない。まだか。いや、焦りだけは友としてむかえてはいけない。ミッターマイヤー首席元帥は、ただ信じてくれた。おれも、彼を信じるだけだ。

 総旗艦ブリュンヒルトは後方だが、敵の砲火はそれにとどきそうな勢いで伸長してくる。おそらく、攻めているほうが犠牲は大きいはずだ。そういう攻めかたを、敵はしている。

 間に合え。アステロイドベルト。眼の前にあった。敵の側面は、すぐそこである。右手をあげた。猛烈に中央艦隊に侵入してくる敵軍の脇腹を、ようやくとらえた。

「撃て!」

 右手を振りおろす。その瞬間をもって半包囲陣形はここに完成し、勝敗は決した。

 

 間に合わなかった。耐えるだけ耐え、ようやくできた勝利の鉄扉が、音をたてて閉じていく。その音と、天上へ天使が奏でる角笛の音は、きっとおなじだ。

「負けたな」

 死力は尽くした。それでも勝てなかった。それならば、なにも悔いはない。ザザは全軍に指令を送った。

「後方の隊から退け。本星へ帰投せよ。旗艦はそれを援護する」

 猛攻が続かなくなったミケーレが、さがってきていた。あれだけ激戦にいたのに、運が良いのだろう。ミケーレならば、おそらくは退却も迅速におこなえる。

 退却を告げられたミケーレは、なにか言いたげであったが、ひとつだけ敬礼を残して、通信を切った。

 旗艦を中心に、砲門をならべる。一時的な火力の集中によって敵の浸透をはばみつつ、後方の隊の退却を支援する。バイエルライン艦隊からの側面攻撃は激しいが、かなり早足で移動したのだろう、一万が完全にはそろいきってはいなかった。だが、黒色槍騎兵艦隊が合流しつつある。

「旗艦の乗組員も、そろそろ離脱せよ。よくやった。礼を言う。ジョセフさまに、おれの死を伝えてくれ」

 オペレーターの何人かがたちあがり、何人かが座ったままだった。死にたいのなら、ここにいればいい。そういう酔狂は、嫌いではなかった。

「おれの仕事は、あとは突撃してスイッチを押すだけさ」

 おれも、ずいぶん狂人だな。小さく笑ったが、それに気づいたものはだれもいなかっただろう。

 一度、記憶を失った。失うまえも、ヴィンツェンツォ・ザザであったのかすら、はっきりとはしない。眼が覚めて、ザザという名を新たにあたえられてから、おれはずっとおのれが何者であるかわからなかったのだ。だが、この戦いでそれがはっきりとした。おれは、武人であった。戦いのなかでこそ、おれはおれでいられた。

 最期に、それがわかってよかった。同時に、武人としての矜持をすてる覚悟すら、持つことができたのだ。すてることは、もたざる者にはけっして許されぬ行為であるがゆえに。

 

 退却戦は、不得手なのかもしれない。いや、自分がロイエンタールを基準にしてしまっているからなのか。あの男にくらべたら、眼の前で起きているそれは、子どもの戯れにすぎなかった。

 バイエルラインが、よく動いた。おそらく、艦隊すべてが間に合わなくても良いという速度で迫ったのだろう。みずからを驕ることのない彼である。だが、"疾風"の後継者を名乗るだけの力量は、すでに有しているはずだ。

 ビッテンフェルト艦隊は、すでに殲滅戦に入ろうとしている。だが、そろそろエネルギーも限界だろう。戦艦のエネルギーだけでなく、人間のエネルギーもである。狂気の波濤のなかで満足げに死に行く者がいないのを、祈るばかりだった。

 最後まで退却戦を支援し続けるのか、敵の旗艦とほか数百艦の動きが怪しかった。前進してくるのだ。まさか、最後にブリュンヒルトにたいして喰らいつこうというのか。

 あがくのなら、それでいい。乞食が地にはいつくばりながら玉座に噛みつくことは、永遠にできぬのだ。

 もはや、追撃をあきらめた黒色槍騎兵艦隊が敵の背後に回っている。三方から攻め立てるかたちになった。それでも、前進してくる。

「優秀な指揮官だった。では、さらば――」

 撃て、と言いかけたミッターマイヤーは、艦橋スクリーンに映る大きな爆発のまえに、その言葉をのみこんでしまった。

 帝国軍の七〇〇艦ほどが、一瞬にして火球と塵になったのである。残ったのは、敵の旗艦と、その他数艦。艦のかたちをしたものは、ほかになにもなかった。そして、旗艦のまわりに、球体が回遊している。その数は十二。

 ミッターマイヤーはそれを知っていた。だから、脳内の資料庫をあさるまでもなく、ほとんど脊髄の反射によって、球体の名を看破したのである。

「アルテミスの首飾り……」

 

 

三四

 

 終戦の様相を呈していたバーデン星系外縁は、大軍による包囲の中心に数隻の戦艦をおいたまま、再び凪いだ。あと一手で、敵将の首に手がかかる。だが、その一手に多大な痛みがともなうことが予想されるのだった。

 アルテミスの首飾りは、かつてはカストロプ本星と惑星ハイネセンに設置されていた、衛生型の惑星防御装置である。その破壊力は数個艦隊におよび、ただ戦艦を猪突させただけでは破ることができない。

 ジークフリード・キルヒアイスが指向性ゼッフル粒子によって、ヤン・ウェンリーが氷塊によって、それぞれ破壊するにいたるまでは、無敵の防御システムであると考えられていたのである。しかし、これらの破壊方法は、動かない惑星に設置されていたがゆえに可能であったのだ。いまは、自由に宇宙空間を飛びまわる戦艦の周囲を、アルテミスの首飾りは回遊している。

 アルテミスの首飾りを戦艦の周囲にとりつけるという技術の発想じたいは、かなり昔からあったはずだ。しかし、たかが戦艦一隻に国家予算規模の装置をとりつけるだけでも、莫大なコストがかかるうえに、アルテミスの首飾りが自動防衛システムであるがゆえ、味方の艦船も巻き込みかねないという懸念があった。また、アルテミスの首飾りは衛星軌道上に備え付けるべし、という常識のために、処女神の歓心をひく努力すらしていなかったのである。戦艦には、衛星軌道も、惑星がもつような引力もないのだ。

 だが、眼の前の戦艦は、その歓心を一身にあつめ、処女神の抱擁をうけるにいたっている。

 包囲の途中にあるので、集まって会議をすることはできない。傍受されることは承知で、ミッターマイヤーはビッテンフェルトとバイエルラインと通信回線を開いた。

「アルテミスの首飾りは、あきらかに艦砲がもつものより長大な射程を有しています。敵は微速前進しており、あまり時をかけすぎると、総旗艦があやうくなるでしょう」

 バイエルラインは、アルテミスの首飾りによって四〇〇ほどの艦を失っている。三人のなかでは、もっとも多かった。

「微速前進ということは、おそらくその速度でないと、首飾りを置き去りにしてしまうからだろう。われわれが逃げればそれで終わりだが、のちのちが怖い。あの指揮官は、残念ながらかなり優秀だ」

 ここで打ち倒さぬ道理はない。ミッターマイヤーは、眼を閉じ、腕をくんだまま沈黙を保っている、ビッテンフェルトを瞥しながら言った。

「しかし、もうすこし前進したところで首飾りを展開されていたら、ブリュンヒルトもあぶなかった」

 バイエルラインの献身が大きかった。遅れていたならば、ミッターマイヤーも無事では済まなかっただろう。

「バイエルライン、やはり、敵は投降には応じないか?」

 ヒルデガルド・フォン・ローエングラムからは、敵を包囲するにあたり、再三の投降を要請するように命じられている。だが、敵はかたくなにこちらに回線を開こうとしないのだ。

「応じません。首飾りを頼りきっているのでしょうか」

 おそらくそれはないだろうが……とミッターマイヤーは思う。あくまで推測の域をでないが、あそこまでの武人が、最後にハードウェアに頼るとは考えにくいのである。指揮官の本意としては、艦隊決戦で雌雄を決したかったのではないだろうか。

「ビッテンフェルトは、何かあるか?」

 ミッターマイヤーが言うと、ビッテンフェルトはようやく眼を開いた。にやついているようにも見えるのは、気のせいではないだろう。

「おれからは何もない。だが、うちの隊の士官が、首飾りの出現を見てすぐに策を送ってきた」

「ほう、それはすばらしい部下を持ったな。それで、その策とは?」

「傍受されるのも癪だ。おれの伝令として、シャトルでそっちに向かっている。ちかいうちに着くだろう」

「承知した」

 ミッターマイヤーは、副官に命じて、ビッテンフェルトからの伝令役は、そのまま会議室に連れてくるようにした。

「まあ、じっくり聞いてやると良い」

 はっきりと、ビッテンフェルトがにやついていた。その真意を図りかね、ミッターマイヤーは会議を終わらせた。

 会議室で待つこと数時間、ビッテンフェルトからの伝令が到着した。ミッターマイヤーもいくつか策を考えてはみたが、どれも時間がかかりそうだった。士官の話を聞いてからでも、遅くはないだろう。

 ドアが開けられる。そこで敬礼をしていたのは、ミッターマイヤーがもっともよく知る少年の姿だった。

「フェリックス・ミッターマイヤー准尉であります、首席元帥閣下」

 ミッターマイヤーは、おどろいて飲んでいたコーヒーをひっくり返しそうになった。

「フェリックス、おまえだったのか」

「はい、父上」

 いまは、上官と部下の関係である。父と呼んだことについて、ほんとうは叱責しなければならなかった。だが、激戦のさなかでも生き延びていた安堵が、その責任に勝ったのである。

 ミッターマイヤーは、従卒にコーヒーを持ってくるように命じた。この従卒は幼年学校の生徒で、フェリックスのこともよく知っているはずだ。

「まさか、処女懐胎の伝説とまみえるとは」

 心の底からの感慨だった。眼の前にあらわれたアルテミスの首飾りは、かつてカストロプやハイネセンで用いられていた物の、ほとんどミニチュアである。処女神が子を産んだ、というのはやや安直な比喩であるが、疲労した頭ではそれが精一杯だった。

「しかし、うまれたのは神の子などではありません」

 すでに伝承者がついえ、書籍や絵画においてしか語られない古い伝説ではあるが、フェリックスは涼しげな顔で答えた。このような皮肉の言い方は、いったいだれに似たのだろうか。

「さて、卿が考えたという策を聞かせてもらおうか」

 フェリックスのもとにコーヒーがはこばれてきたのを確認して、ミッターマイヤーは言った。父が子にクイズを出すのではない。これは、敵を殲滅するにはどうすればいいのか、という純軍事的な問いだった。

「はい、閣下」

 フェリックスは、もう二度と父上という言葉を使わなかった。

 

 会議室には、ミッターマイヤーとヒルデガルド、皇帝アレクサンデル・ジークフリードのみが集まっていた。フェリックスが練った作戦をミッターマイヤーは全面的に認め、それに必要なリストを作成させていたのである。フェリックスは二時間ほどでそれを完成させ、そのリストはいまはヒルダが確認するにいたっている。

 フェリックスの作戦は単純だった。アルテミスの首飾りは小型であって核融合炉をそなえているとは考えにくく、したがって動力は有限である。そのため、無人艦を突撃させ、アルテミスの首飾りを絶え間なく起動させることで、動力切れをはかるのだ。リストは、それによって破壊させる老朽艦の名を記したものだった。およそ二千艦を、二〇回にわけて突撃させる。艦は無人なので、人命は損なわれない。

 この作戦案にたいして、ヒルダは異をとなえることはなかった。もともと戦いはミッターマイヤーに一任されているので、それじたいは不思議なことではない。だが、皇帝アレクが、そのリストを見たいと言ったのである。

 ヒルダから、アレクにリストが渡される。作戦立案者にフェリックスの名前があるのだから、それを確認したかったのだろう――ミッターマイヤーはそう思っていた。しかし、アレクは数分でリストに眼を通すと、

「首席元帥、ひとつお伺いしてもよろしいでしょうか」

 と言った。この戦いにおいて、はじめてアレクが自発的な発言をしたのである。

「なんなりと」

「このリストに書かれているのは、艦齢二〇年を越えた老朽艦と聞きました」

「御意にございます、陛下」

「では、なぜ戦艦ブリュンヒルトの名がないのですか?」

 少年のまなざしは、あまりに純粋だった。ミッターマイヤーをからかうわけでも、本人の性根に問題があるわけでもない。心の底から、戦艦ブリュンヒルトがこの作戦に活用されないことを疑問に思っているのである。

 眼の前に座っている者が、ラインハルト・フォン・ローエングラムであったなら。ブリュンヒルトを虚空に散らすことをけっして是とはしないだろう。ブリュンヒルトは、彼にとってはつねに覇王の玉座でありつづけたのである。王が、みずからその玉座を燃やすことがあろうか。

「お言葉ですが、陛下……」

 ミッターマイヤーは、うまく言葉が継げなかった。ブリュンヒルトは特別なものと、彼はごく当然に考えていたのである。それを、その正当なる継承者によって、否定された。臣下として、その態度に不安をおぼえない彼ではない。皇帝アレクは、みずからの地位そのものに疑念を抱いているのではないか。その象徴として、戦艦ブリュンヒルトを手放すことを考えているのではないか。

「戦艦ブリュンヒルトには、旗艦としての設備が整っており、これを他艦へ移譲することは、たいへんな労力を要するのです」

 かろうじて、ミッターマイヤーは答えることができた。旗艦でなくとも、指揮自体はできる。事実、かつてナイトハルト・ミュラーは戦艦を乗り継いで指揮を続けたという歴史もあるのだ。

 しかし、旗艦の機能とはそれだけではない。戦艦ブリュンヒルトは、その白皙の横顔だけで、兵の士気をあげるのである。それは、代替のきくものではない。

 皇帝アレクサンデル・ジークフリードは、小さくうなずくと、出すぎた発言を詫びた。指揮権はないのに、それを脅かしかねない発言をしたのである。

 ここに、作戦は決した。

 

 第十三次無人艦突撃によって、アルテミスの首飾りは破壊された。歴史上に三度登場した自動迎撃システムは、三度とも、偉大なる用兵家によって破壊されたのである。三度めにかんしては、作戦指揮者がウォルフガング・ミッターマイヤーであったため、戦史には彼の名前が刻まれることになるだろう。

 完全な包囲にあって、敵の旗艦はなにも動く気配がない。ミッターマイヤーは、みずから通信回線をひらいた。

「敵将に告ぐ。もはや貴官にこれ以上の戦闘は不可能かつ無益である。願わくば、皇帝陛下の慈悲を求められんことを」

 これで、返事がなければ、一閃の砲火によってこの戦いを終わらせるのみである。

「敵将より返答。回線を繋ぐことを望んでいます」

 そう言ったのは、ブリュンヒルトの通信士長ティーモ・フォン・アンデルセン大佐であった。彼はすでに退役まであと二年を残すのみとなっているのであるが、ラインハルト・フォン・ローエングラムに心酔しており、その面影を強く残す現皇帝への忠誠もひじょうに高い。ミッターマイヤーもその名と為人をよく知っており、じゅうぶんに信頼に値する能力と実績、人柄を有していることも理解していた。

「よろしい、回線を開け」

 艦橋スクリーンの映像はひどく乱れていて、ティーモ大佐がいかなる操作をしてもそれは改善されないようだった。本来は、回線を開いた艦から映像と音声が届くはずである。

「通信設備の故障により、音声のみで失礼いたします。総司令ヴィンツェンツォ・ザザと申します」

 音声は、明瞭に聞こえた。男の声だが、その名に聞き覚えはなかった。

「ザザどの。貴官はどの軍の所属であるのか?」

「言えません。命にかえても」

 潔いほどの断言である。ミッターマイヤーは、もはや投降の道はないとさとった。

「おそらく私は死ぬでしょう。死ぬ前に、言っておきたいことがあるのです」

 言わせてやるのが、勇者にたいする礼儀だろう。死を前にした男の言葉には、聞くべきものがあるはずだ。

 ヒルデガルドのほうを向くと、彼女はちいさく頷いていた。

「皇帝陛下の御前である。無礼のなきように……」

 ザザの言葉は、すぐに始まった。

「皇帝アレクサンデル・ジークフリード陛下。わが軍は、この戦いで百万ほどの犠牲を出しました。陛下のお命を奪うために、それだけの命が散ったのです」

 ブリュンヒルトは、静かだった。

「では、陛下の軍では、どれほどの兵が亡くなったでしょうか。――いえ、お答えいただかなくともかまいません。わが軍の精鋭との戦いですから、けっして小さかろうはずもありません」

 この男の言葉は、すぐにでも止めたほうがいいかもしれない。ミッターマイヤーは危惧をおぼえた。だが、シートに座る少年は、微動だにしていない。

「陛下の父君のころも、このような戦いによって数万、数千万、あるいはもっとかもしれません。途方もない数の人の命が失われ、その血の海の上に新銀河帝国は浮かび、陛下の玉座も積み上げられた屍体のうえにおかれています」

 艦内がざわつく。だが、ヒルダもアレクも動こうとしなかった。まだ男の声を聞くべきだということだろう。

「陛下は、それ以上に多くの人間を幸福にした、という方便によって、その補償とするかもしれません。少数派の不幸の対価として、多数派の幸福を選ぶというのは、支配者がつねとする論理です。しかし、あなたや、あなたの身内が、その少数に加わっていたことが一度だってあるでしょうか」

 男の声には、たしかな熱がこもっている。心の底から、新銀河帝国を憎み、その矛先を、皇帝にむけている。しかし、これは皇帝にたいしてのみの刃ではない。ミッターマイヤーも、ビッテンフェルトも、バイエルラインも……フェリックスも、その刃がかえす光によって照らされているのである。

「陛下自身におうかがいします。あるいは、あなたの存在は、少数派の命と不幸によって守られるに値するでしょうか」

 男の批判は続いた。ミッターマイヤーは艦橋スクリーンをにらみ続けていたが、やがて驚愕によって眼が開かれた。漆黒の塗装を施した一隻の砲艦が、敵の旗艦に接近していたのである。攻撃の命令は出ていない。何が起こりかけているかは、だれの眼にもあきらかだった。黒色槍騎兵艦隊の過剰ともいえる忠誠。臣の過剰なる忠誠は、時として主君を損なう結果を生むのである。

 とめさせろ――ミッターマイヤーがそう発音しかけたとき、それを上回る絶叫があった。

「うつな!」

 立ち上がり、叫んでいたのは、指揮シートに座ったまま黙していた金髪の少年だった。

 そしてその絶叫は、忠誠のあついティーモ・フォン・アンデルセン通信士長にとっては、自分が心酔していたラインハルト・フォン・ローエングラムの天啓のようにも聞こえたのであった。彼はほぼ反射的に、その"指令"をすべての味方にむけて伝達した。

 

「緊急指令! "うつな"!!」

 ユルゲン・ハインツ・ベンヤミン少尉は、みずからの職命を完璧かつ完全に果たした。しかし、そうしてしまったがゆえに、指揮官から叱責を受けるという悲運にみまわれてしまった。

「"うつな"だと。それはいったい、だれの指示だ!?」

 ビッテンフェルト自身も、砲艦の単独行動にたいしてどのような対処をとるか図りかねていた。攻撃命令は出ておらず、しかし砲艦に敵を撃滅せんとする意図があるのはあきらかである。したがって、ビッテンフェルトの考えていた対処はひとつだった。旗艦"王虎"の砲撃によって、砲艦の暴挙を未然にくいとめるのである。

「指令者不明。ブリュンヒルトからです」

「ブリュンヒルトからだと!?」

 これまでの指令は、すべてミッターマイヤー首席元帥からの指令というかたちがとられていた。先帝皇后と皇帝には指揮権がないからである。だが、"ブリュンヒルトから"という指令に、なにか特別な意図を見出だすべきなのか。

 ビッテンフェルトはみずからの戒律を破った。逡巡したのである。ブリュンヒルトからの指令が、彼が考え、いままさに実行しようとしていた対処にたいしての"うつな"であったら、上官の命に背いたのはビッテンフェルト自身ということになる。

 そして彼の逡巡は、予期されていた最悪の結果を生み出すことになるのだった。

 砲艦から光条がのび、敵の旗艦に吸い込まれていく。

 アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムは、その光景を、ただ見ていた。蒼氷色の瞳に、極彩色のきらめきだけが残る。それは、彼の眼の前で、彼の手によって人命が散ったということを意味していた。

 

 燃え盛る艦橋の壁面に寄りかかりながら、、ヴィンツェンツォ・ザザはみずからに降りかかった塵を手で払い落としていた。この軍服は、ジョセフ・コルレオーネから直々にあたえられたものである。それを、いまさらになってようやく思い出したのだった。

「言い残したことは?」

 ザザは、眼の前で血にまみれている男にむかって言った。フランシス・ドゥランはまもなく死ぬだろう。ちかいうちに、自分もそうなる。血こそ流れていないが、船が燃えているのだった。

「たぶん、ないよ」

 ヴィンツェンツォ・ザザを名乗り、皇帝を罵倒していたのは彼だった。惑星間の郵便配達でつちかった知識と技術は、航宙士として申し分なかったのである。それゆえに、旗艦に搭乗していたのだった。

「ならよかった。おれはもうすこしゆっくりしてからゆきたいから、早いところひとりにさせてくれ」

「ああ、わかった。やっと、家族のもとへ行けるよ」

 穏やかな笑みを浮かべて、フランシス・ドゥランは絶命した。ザザはその瞬間を見なかった。彼はずっと、頭のうえに広がるはるかな星海をながめていたのである。

 思うさま、戦った。なにものに縛られず、死力を尽くして。おれは、それを望んでいたのだろう。ヴィンツェンツォ・ザザになる前から、ずっと。

 おさらばです、ジョセフさま。ちいさく呟き、彼は笑った。彼の走馬灯は、彼がヴィンツェンツォ・ザザであった時間と等しいので、年齢に比してあまりに短いものであった。

 ふと、懐かしいにおいがして、彼は眼を細めた。これは、土のにおいだろうか。へんだな、と彼は思った。ここに土などなく、ヴィンツェンツォ・ザザには土にまみれた記憶などない。きっと、ヴィンツェンツォ・ザザでなかったころの自分の記憶なのだろう。

 思うさま戦うこと。それは、ヴィンツェンツォ・ザザが望んでいたことなのか。あるいは、この土のにおいの持ち主が望んでいたことなのか。いずれにせよ――。

「たのしかったな」

 炎に包まれながらも、男は眼を閉じるということをしなかった。星のきらめきは、眼を閉じては知ることができないのだから。

 星海がひび割れ、赤黒い塊が落ちてくる。男が最期に見たのは、それだった。

 

 

三五

 

 まるで葬列のようではないか。葬儀の主賓たる骸はそこにない。いや、われわれこそが骸であるのか。そう思えるほど、新帝国軍のフェザーン凱旋は沈痛であった。歓呼としてこたえる民はあまりいない。これは戦争ではなく内乱の鎮圧であるからだ。それも、フェザーンに住む市民とはほとんど縁のない内乱である。

 グスタフ・イザーク・ケンプは、その葬列のなかでも数少ない生者のひとりだった。だが、彼もまた、ある少年のたったひとことの轟雷に打たれている。玉座に黙して座り続けていた少年が、ただの一度、みずからの越権の果てに導いた結末。ヴィンツェンツォ・ザザという男が叫びつづけていた帝国と皇帝への批判は、もう二度と虚空に響くことはない。

 のちに"バーデン星系会戦"と呼ばれることになる戦いは、帝国軍の圧勝のうちに幕を閉じた。いまだ"謎の勢力"と呼ぶ他ない者たちは、敵将のヴィンツェンツォ・ザザ以下二万艦が参加し、そのうち一万七千ほどが宇宙の塵と化した。どれほどの兵力が動員されたかは定かではないが、二〇〇万から三〇〇万が死んだのではないかとの調査結果が出ている。

 帝国軍は、四万艦のうち完全破壊された艦は八八九〇艦で、戦死者の数は六〇万二一〇二人であった。艦の損失にたいして戦死者の数が少ないのは、病院船の充実はさることながら、"アルテミスの首飾り"の破壊に際して老朽艦による無人突撃を行ったことに大きな理由がある。

 だが、その報告が会戦の参加者の精神を慰めはしなかった。至尊の少年のひとことは、ある老通信士によって全艦に浸透し、"ブリュンヒルトから"とされた通信が、のちに"わが皇帝より"と改められたからだ。老通信士はブラスターを引き抜いて自裁を図ったが、まわりの人間に止められている。彼が万が一処罰されるなら、その沙汰にはまだ時間がかかるだろう。

 グスタフ・イザークがフェザーン軍港に降り立ったとき、すでに"火竜"や"クヴァシル"、"フォルセティ"等各地に散っていた提督たちの戦艦が繋留されており、銀河全体を覆った反乱の業火は鎮圧したように見受けられた。

 じじつ、ヴィンツェンツォ・ザザの敗退をもって各地の暴動は急速冷凍され、暴動を指導した主犯とおぼしき者たち百名ほどが逮捕された。だが、先帝皇妃へのウルリッヒ・ケスラー元帥の言葉を借りれば、"真の指導者はこの中にいない"のであった。彼らが何者かに使嗾されたことはあきらかであり、その何者かをとらえないかぎり、暴動はまた発生するだろう。まだ彼の激務はつづくだろうが、その負担をわかちあうことのできる者は、戦後処理に人員を割かれているもっかのところ、新銀河帝国にはいなかった。

 戦後処理は、グスタフ・イザークの仕事にはない。彼はしらばらくのあいだ、惑星オーディンの生家へと帰ることに決めた。父の墓参りもしなければならない。彼は操艦においてそれなりの功績をたてていたから、それを報告しようと思ったのである。もし昇進するのであれば、それも大きな手土産になるだろう。

 

 フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト元帥が"三元帥の城"に到着したという報せが届いたのは、新帝国歴一八年一月二七日夜のことだった。戦後処理がつづくなかではあるが、決して戦時ではないため、旗艦"王虎"を駆っての移動ではない。ナイトハルト・ミュラーは、ビッテンフェルトを星海が望める私室でむかえた。

「久しぶりだな、ミュラー提督」

 いつもの軍服姿のビッテンフェルトは、三週間ほどまえに、朝賀の儀で会ったときとまるで変わりがなかった。ふつう、出征を終えたものは、いくぶんか顔つきが変わっているものである。彼にとっては、戦時こそが平時なのだろう。

 とはいえ、戦友の無事な帰還はよろこばしいことである。ミュラーは秘蔵のワインを取り出すと、ふたつのグラスに注いだ。どちらかというと赤よりも白を好むのは、七元帥のなかでもミュラーだけだった。

「まずは、ご無事でのご帰還を、およろこびします」

 簡単なあいさつをかわして、ふたりは乾杯した。攻守において対極とも言うべき用兵を得意とする彼らだが、ふしぎと馬が合うのである。

「卿が帝都をお守りしていたから、安心しておれたちは戦えたのさ」

「私としては、終わってみれば暇だったのですが、その言葉を聞けていささか慰められました」

 くっくっ、とビッテンフェルトが笑う。七元帥のなかで、暇であったと言えるのはほとんどミュラーだけである。むろん帝都防衛を担っていたミュラーが忙しくなるなど、未曾有の事態に陥っていることを意味するのだが、ことが終わってみれば笑い話にもなろうものだった。

「ところで、ビッテンフェルト提督。本日はいかような用事があったのですか?」

 ただ会いに来た、というのであれば、それでよかった。むしろ、ミュラー自身もそれを望んでいたのかもしれない。彼とて、新帝国歴三年までのうちに、多くの友を喪っている。友とは不意に、しかし決定的なほど唐突に消えていくものだ。それを知悉している彼にとって、友と過ごす時間はこれ以上なく貴重なものだった。

 束の間、ビッテンフェルトは窓外の星海を見た。その沈黙が、ミュラーをことさら不安にさせる。まさか、なにか凶報でも運んできたというのか?

「じつは、卿の好きな、噂とかいうやつをはこんできてやった」

 苦笑する。彼は噂がけっして好きというわけでもないが、なぜか彼のもとにはそういうものが舞い込んでくる。

「ほう、それはどのような?」

 ビッテンフェルトは、まだ星海を見つめている。

「フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト元帥が、退役を考えているという噂だ」

「根も葉もない噂ですな」

 ミュラーは断じた。ビッテンフェルトが退役する。それはありえない話だった。いや、ありえていい話ではない。

 笑い話にしてはたちが悪い。ミュラーはふたつのグラスにワインを注ごうとしたが、ビッテンフェルトのワインがほとんど減っていないことに気づいた。

 まさか――まさか、ほんとうに?

「煙というものは、かならず火に追従するものです。その因果を可逆にすることは、だれにもできようはずがありません」

 いまなら、まだ冗談のうちに済む。ミュラーはビッテンフェルトに、その最後のチャンスを示唆したつもりだった。それがわからぬほどビッテンフェルトは蒙昧なはずがない。だが――。

「そうさ。火はある」

 ビッテンフェルトは短く言った。そこには、猛将の本質を凝縮したかのような断固たるなにかがあった。

 ミュラーは、一息のうちにグラスを干した。ほのかな酔いの波にひたっていれば、この理性の土壁もゆるむだろうか。彼は信じることができなかったのである。だれよりも戦場にこだわり続けたこの男が、死以外の方法で彼の矜持と袂を分かとうとしていることが。

「なぜ、そのような?」

 だから、彼は問うた。納得がいかなかったのである。自分を、置いていくようなものではないか。なぜ、友はこうも簡単に、自分のもとを離れていくのか。

「おれは、おれ自身の愚昧によって、みずからの戒律を破ったのさ」

 ビッテンフェルトは語り始める。卑怯、消極、逡巡。黒色槍騎兵艦隊における忌避されるべきみっつの戒律。そのみっつめを侵すことで、バーデン星域での戦いは幕を閉じた。そして、それによって、自分は"わが皇帝"を深く傷つけた。

「感じたのは、みずからの老いでも、限界でもない。陛下がつくりたもう世界に、フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルトという男は不要であるということだ」

 ミュラーは、なにも言うことができなかった。ここで"そんなことはない"と言ったとて、言葉に本心を乗せることが不可能だと感じたからである。その言葉を理解させるには根拠が乏しく、信じさせるにはミュラー自身の信心がたりなかった。彼とて、アレクサンデル・ジークフリードの治世において、軍がどれだけの役割を果たすかをはかりかねているのである。

「おれは、陛下が征けと言われるなら、どこへでも征く。だが、どこにも征くなと言われるのなら、どこにも征かぬのだ」

 ビッテンフェルトの魂は、すなわち黒色槍騎兵艦隊の真髄である。彼らは黄金獅子の牙であった。もし、その獅子が生み落とした獅子に、牙も、爪も、あるいは翼さえもなかったならば、かつて獅子の意思のままに朱に染めあげられていたそれらは、枯れおとろえ、抜け落ちるほかにたどる道はないのである。枯れてしまうよりは、その鋭さをたたえられるうちに役割を終えたい。ビッテンフェルトは、そう思っているのかもしれなかった。

 もはや論議によって、彼の決断をとめることはできそうになかった。だから、ミュラーは言った。

「考え直してはくださいませんか。卿とともに戦えなくなるのは、小官にとってはいささかつらすぎます」

 彼は銀河においては名将のひとりに数えられるほどの男である。だが、この場において、その肩書きは無意味で、彼は無力だった。だからこそ、彼は友であろうとしたのである。ふたりのあいだで生まれていた友誼こそ、ミュラーにとってはふたりを繋ぎ止める唯一の蜘蛛の糸であった。

 ここまで単純化された会話の決着は、ビッテンフェルトの短い言葉であった。

「すまん」

 単純化された会話だからこそ、ビッテンフェルトは心の底から詫びた。そうすること以外に、彼が考えつく手段はなく、これ以上に誠実な方法もないからである。

 ミュラーは乱暴にグラスを干すと、ビッテンフェルトにもそれをすすめた。このような日に、秘蔵の安酒など似つかわしくない。こんなものは、さっさと空けてしまうにかぎる。

 ビッテンフェルトも、ようやくワインを飲み始めた。空になったボトルを床に置くと、ミュラーはラインハルトから下賜されたワインの栓をぬいた。

 ワインの香は、ふたりの精神を二〇年間の時間旅行にいざなった。そこでは、かつての友たちが生きていて、無限の語らいへと招き入れるのだ。

 酔っているあいだだけでいい。いや、酔っているからこそ、その旅路ははかなく、甘美であるべきだった。

 

 ビッテンフェルト艦隊に招集がかかったのは、新帝国歴一八年二月一日のことである。フェザーン軍港に集められた兵は、指揮官の新たな訓令を、直立の姿勢で待っていた。兵たちの先頭にひかえるのは、分艦隊司令官であるハルバーシュタット上級大将と、参謀長オイゲン大将である。彼らも、ビッテンフェルト艦隊が集められた理由を知らない。

 この時点で、ビッテンフェルトの決意を知るものは三名しかいない。ナイトハルト・ミュラー元帥と、ウォルフガング・ミッターマイヤー首席元帥、先帝皇妃ヒルデガルド・フォン・マリーンドルフである。猛将の退役願は、この前日に首席元帥と先帝皇妃のもとに届けられ、同日中に受理された。ミッターマイヤーとヒルデガルドのうけた衝撃は半端なものではなく、彼らはむろん慰留をもとめた。だがビッテンフェルトの決意は固く、彼らにとっても曲げようのないことであることが悟られたらしい。ふたりは彼の決意を重くうけとり、"泉の間"において盛大な式典を行うことを約束した。

 ナイトハルト・ミュラーは、ジークフリード・キルヒアイス武勲賞の選考委員長であったから、ビッテンフェルトの生涯の武勲を称え、同賞の授与を推薦したのだが、当のビッテンフェルト本人がそれを拒否したのであった。

「フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト武勲賞なら受け取ってやってもいい」

 むろんこれは彼の冗談であったが、ミュラーには半ば本気ととられてしまっていたようである。ミュラーはビッテンフェルトの名を冠する賞の設置を上梓したが、主席元帥に苦笑をもってたしなめられている。猛将の名は、病院船のクルーを育てる基金にすでに用いられていたのだった。

 ビッテンフェルトとしては、言外に出さぬ思いがある。唯一、ミュラーのみが、その思いをはかるための言葉を聞いていた。

「ミュラー提督、シュタインメッツ元帥、ファーレンハイト元帥。みな、英名のほかに名を残す余地のない優れた指揮官だ。だが、おれは……」

 彼は味方を殺しすぎた。だからこそ、ビッテンフェルトは英名も悪名も受け入れる覚悟があったのだろう。ミュラーはそう推測するしかなかった。

 ……ビッテンフェルトは、兵の前に直立し、敬礼をした。全員がそれにならう。黒色槍騎兵艦隊は、その艦隊の特異性ゆえに、ほかの艦隊よりもつよい紐帯をもっている。彼らの敬礼には、一糸の乱れもなかった。

「おれからの最後の命令をくだす」

 ビッテンフェルトは、むしろ静かに言った。オイゲンが、ハルバーシュタットが、敬愛すべき上官のことばの真意をはかりかね、胸中にやや小さな不安を抱いた。

「これより以降、ハルバーシュタット上級大将を、黒色槍騎兵艦隊の指揮官としてあおげ」

 ざわめきの波濤が、兵の海のなかでゆれている。波濤は渦となり、またあらたな飛沫をあげてゆく。ビッテンフェルトは、直立したままそれを一身に浴びていた。

「おれは軍を退く。それだけだ」

 何故! という声が方々からあがった。ビッテンフェルトは掌でざわめきを制する。

「黒色槍騎兵艦隊の座右には何が刻まれているか」

 ビッテンフェルトの声は、波濤を圧してひろがってゆく。

 前進、力戦、敢闘、奮戦。足下で泥にまみれる言葉は、卑怯、消極、逡巡である。

 オイゲン大将のみが、その唱和のなかで、ただビッテンフェルトを見つめている。破壊衝動の集合体におけるほぼ唯一の知性人は、いつだって奔流のなかでみずからを律していたのだ。その彼にしても、両眸から流れ出るものを塞き止めるので精一杯であった。オイゲンは、バーデン星系での戦いにおいても、戦いの後においても、ビッテンフェルトのそばを離れなかった。猛将の無念を知りつくす第一人者をひとりあげるとすれば、それはオイゲンをおいてほかにない。

 ビッテンフェルトが、退役の理由を語った。それは先日ミュラーに話したものと同じであったが、違うのはわずかに声をふるわせていたことである。

 ビッテンフェルトの演説は終わった。だが、もはや行動の時も、権限も、彼にはない。望んで捨てたものではあるが、やはり、それらが身から離れていくのはつらいものであった。

「ハルバーシュタット」

 ビッテンフェルトの薫陶をだれよりも受けた上級大将である。師と同様、猪突し、破壊し尽くす用兵に長けた指揮官だった。今後の黒色槍騎兵艦隊は、彼が継ぐことになる。

「卿はおれに似すぎている。ゆえに、オイゲンの進言をよくきくように」

 ハルバーシュタットが敬礼する。オイゲンもそれにならったが、心の裡は穏やかとは言えなかった。まるで全責任を押しつけられたような理不尽に心がふるえていたのではない。間違いなく歴史に名を残すであろう猛将に、これほどまで信頼を寄せられていたよろこびに、彼はふるえていた。

 オイゲンは、長くビッテンフェルトのそばに仕え、参謀として何度も進言する立場にあった。だが――踵を返し、こちらに向けた上官の背中は、これほどまでに小さかっただろうか。そこではじめて、彼は上官の老いを感じたのである。まもなく五〇に届くであろう彼の、老いぬ気骨と肉体の不均衡が、オイゲンの眼の前で、かなしげな存在感を発していた。

 

 "泉の間"は蒼氷色にそめあげられ、たちならぶ百官のあいだを、ビッテンフェルトは歩いていた。彼はジークフリード・キルヒアイス武勲賞を辞した。よって、この式典は彼の元帥杖の返還をもって終了する。

 彼は先帝皇妃と皇帝のまえに歩み出て、ひざまずき、元帥杖を皇帝へと渡した。刹那よりも、短い時間であったかもしれない。彼は少年のままの皇帝と目線をあわせ、少年の表情にわずかな憔悴の色があるのをみてとった。

 "わが皇帝"。彼は心のなかで語りかけ、身をひるがえした。小官の辞するをもって、おのれの器量をおはかりになるなど、どうかしないでいただきたい。あなたは、おれがお仕えするに充分なお方であるでしょう。しかし――。

 ビッテンフェルトは、涙など流すつもりはなかった。だが、もし流れてしまえば、それを拭うつもりもまたなかった。そのときの自分に、任せれば良い。

 しかし、あなたがお作りになる世に、おれは必要ありますまい。

 扉が開き、ビッテンフェルトのまえの道が開いた。この道を進めば、みずからの身が蒼氷色にそめられることもなくなる。彼は、刹那も迷うことなく、一歩、前へ踏み出した。

 憔悴に身を焼き、心を焦がすのなら、棄ててしまえばいい。おれは、このように元帥という地位を棄てた。なにかを棄てることができるのは、それを手にしたものだけが得られる特権なのである。

 扉が閉じ、"泉の間"からひとりの男が消えた。

 新帝国暦一八年二月、フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルトは四八歳。最も長く獅子帝に仕え、最も早く元帥を退いた彼は、血でまみれた人生録のなかに、卑怯の文字が入る余地を、最後まで許さなかった。

 未来の暦に歴史を書くことのできる人間はいないが、それを理由に安寧を確信することのできる人間もまたいなかった。はじめの二つの月で数億リットルの血を欲した新帝国暦一八年は、いまだ十の月を残しているのである。

 

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