第十一話/桜色の奇跡に
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真姫さんと別れて秋葉原から電車に乗り、それからいつもの駅で降りる。いつの間にか日は暮れ、春の闇に包まれる住宅街には幾つもの夕餉の香りが漂っていた。
俺と桜内さんは並んでアパートに向かって歩く。何か目的があってそうしているわけじゃない。これはただ単に、俺たちの住んでいるアパートが同じだから。理由なんてそれだけ。以上でも以下でもない。
「…………」
ライブハウスを出てから、俺たちはほとんど会話を交わしていない。と言っても、別に気まずいわけでもない。何気ない話題を振って雑談をする事は、やろうと思えば利き手で箸を持つ事くらい簡単にできた。
でも俺はあえてそうしなかった。桜内さんは真姫さんとの出会いで感じるものがあっただろうし、俺も久しぶりにあの人のライブを見て思うところがたくさんあったから。
「すごかったですね、さっきのライブ」
人気の無い公園の前を通りかかった時、桜内さんは言葉を零す。ようやく口を開いたという事はきっと、彼女の中で今日という一日の整理がついたのだろう。
「そうだね。本当、真姫さんはすごいよ」
「はい。まさか西木野さんがあんな激しいロックを歌うだなんて、思いませんでした」
「はは、そっか。でも、俺も初めてあの人のライブを見た時はそう思ったかも」
「一之瀬さんと西木野さんはどこで出会ったんですか?」
「渋谷にあるライブハウスだよ。対バンした時に、偶然ね」
「そうだったんですか」
「うん。俺が一番最初だったんだけど、もちろん客なんて全然いなくって。ほぼ一人で歌ってた時、リハ終わりの真姫さんがフロアで腕を組みながら俺の歌を聴いててくれたんだ。そんで俺の番が終わった後、挨拶も無しに『あんた、なんであの状況で最後まで歌い切ったのよ。意味わかんない』とか文句言われてさ」
「その質問に、一之瀬さんは何と答えたんですか?」
桜内さんの問いを聞き、二年前を思い出して俺は言う。
「あなたが聴いててくれてたからです、って言ったかな。そしたら『あたしが音楽ってものがなんなのか、あんたに教えてあげる』って言われてさ、その時のライブも今日みたいにすごかったんだよ。その真姫さんを見て、『ああ、確かにこれが音楽だな』、って思ったのを覚えてる」
「…………」
「その時、俺はまだ上京したばっかでバイトも見つけてなかったんだ。でも、そのライブの後、真姫さんが今のバイト先を勧めてくれてさ。それからあの人とはなんだかんだで長い付き合いになってる、ってわけ。あの時、なんで俺に話しかけてきたのかを訊いても答えてくれないんだよ、あの人。なんでだろうね」
思い出しながら語ると、桜内さんはくすりと笑った。
「ふふ。私は分かりますよ、西木野さんの気持ち」
「え、マジ? なになに、教えて?」
「ダメです。一之瀬さんはもっと、目の前にいる誰かの事を見るべきです」
「? どういう事? 俺はちゃんと見てるけど」
よく分からない事を桜内さんに言われ、途方に暮れる。俺の返事を聞いても、彼女は信じてはくれなかった。
「とにかく、私には分かるんです。でも、そのわけは教えてあげません」
「えー、桜内さんの意地悪ー」
「意地悪で結構ですっ。たまには私も仕返ししますっ」
そう言って、ぷいっとそっぽを向く桜内さん。この子がこんな事を言うのはめずらしい。しつこく訊けば答えてくれるかもしれないけれど、嫌われてしまったら嫌なので知りたい衝動は口にせず、胸の中に仕舞い込んだ。
「でも、うらやましいよね。本当に」
街灯に照らされる夜桜を見上げながら、主語の無い言葉を吐く。桜内さんは急におかしな事を言い出した俺の顔を、よく分からなそうな表情で見つめてきた。
「西木野さんが、ですか?」
「うん。真姫さんがいないから言うけど正直、あの人のライブを見る度にズルいな、って思っちゃうんだ」
相槌を打たず、桜内さんは無言という方法で『喋り続けてください』と訴えて来る。
「見た目が綺麗だとか、実家がお金持ちだからそう思うんじゃないよ? ただ、あの人がしてる生き方は俺の理想に限りなく近いんだ」
アスファルトに落ちている一枚の桜の花びらを踏み越えて、俺は続ける。
「医者を目指して毎日頑張りながら、自分のやりたい事をやって自由に生きてる。それって、ほぼ完璧だと思わない? 他人のためになる仕事に就くために努力をして、自分のやりたい事でも誰かに感動を与えられてる。そんなの、どう考えたってズルいとしか思えないんだよ」
「…………」
「確かに、普通の人なら大学を卒業したらやりたい事を続けられるかは分からないけどさ、真姫さんは何が何でも音楽にしがみつくと思う。そういう人だから、あの人は」
夜空を仰ぎ、浮かんでいる細い月を見つめる。その不格好な形は、完璧な満月とは程遠い誰かのようだった。
「真姫さんは、俺が欲しいと思うものを全部持ってるんだ。奇跡でも起こらない限り、俺はあの人を越えられない。だから」
そこまで言って、俺は咳払いをする。自分がおかしな事を言ってるのは自覚してる。それを聞かされる桜内さんの気持ちを、あまり考えていなかった。
「はは、ごめんね。変な事を言っちゃって」
頭を掻いて笑いながらそう言うと、桜内さんは首を横に振る。そして俺の顔を見上げながら口を開いた。
「いいえ。全然、変な事じゃないです」
真面目な表情と真っ直ぐな琥珀色の瞳。それらが嘘を吐いているとは、どうしても思えなかった。
「なんで、そう思うの?」
「私も、一之瀬さんと同じ事を思っていたからです」
「同じ事?」
問い掛けると桜内さんはこくりと頷く。
「……恥ずかしいですけど、西木野さんが歌っている姿を見て最初に思ったのは『すごいなぁ』、なんて事じゃなかったんです。私は西木野さんを見て『私もあんな風に歌ってみたい』って、そう思ったんです」
桜内さんは目線を下げながらそう言い、続ける。
「私も、それなりに本気で音楽をやっていましたから。そう思ってしまうのも、仕方ないんです」
「桜内、さん……」
「意外、ですか? 私だって、本当は我が儘なんです。自分に無いもの、自分が欲しいものを持っている姿を見せられたら、ズルいって思うのが普通じゃないですか。だから、一之瀬さんが思っている事は全然変じゃないんです」
彼女はそう言って、優しく微笑んでくれた。その言葉と表情に心を動かされなかったと言えば、嘘になる。そして、様々な感情と同時に生まれた疑問を、俺はフィルターに通さないまま桜内さんに向かって問いかけた。
「桜内さんは、なんで音楽をやめたの?」
静かな住宅街の道路にあった足音が、ひとつ消える。それを奏でていた桜色の女の子は、顔を伏せてその場に立ち尽くしていた。
肌寒い夜風が吹く。それは離れた所にある臙脂色の綺麗な長い髪を嬲り、春の夜へと溶けて行った。
「…………仕方、なかったんです」
数秒の沈黙の後、小さな声が耳へと届く。
「どっちが正解かなんて、私には分かりませんでした。だから、私は大切な友達が背中を押してくれた方を選んだんです」
その囁きのような言葉には、後悔や悲痛という感情しか含まれていない。たったそれだけの言葉で、彼女が今の選択を悔やんでいるのだ、と理解できたほど。
朝、俺の部屋でピアノを弾いていた彼女は、音楽をしていた事を自分から語ろうとしなかった。写真展で母校がある町の海の写真を眺めている時も、なぜ東京に帰ってきたのかを口にしなかった。
そして今、どうして音楽をやめてしまったのかを訊ねても、桜内さんはやっぱり多くを語ろうとしない。ここで俺が彼女のパーソナルな部分に足を踏み入れれば答えてくれるのか。それは分からない。
けど、現時点で分かる事は二つある。
ひとつは、その理由を訊ねたら瞬間、彼女が俺から離れて行ってしまうという事。
そして、もうひとつは。
「桜内さん、まだ音楽を諦め切れてないんだね」
彼女の言動と表情から溢れ出る、その思いだった。
「…………はい」
掠れるような声で、桜内さんは肯定する。ここで否定されても、彼女が嘘を吐いているのは火を見るよりも明らかだった。だから、素直に頷いてくれて安心した。
「なら、またやってみればいいんじゃない?」
「それはダメです。中途半端に音楽をやるだんて、そんなの私を送り出してくれた人たちの事を裏切ってしまう事になります」
俺の提案を即座に一蹴する桜内さん。けど、そのレスポンスの早さは、彼女が本当は音楽をやりたいと願っている事の裏返しとしか思えなかった。
「じゃあ、中途半端じゃなければいい。そうすれば、桜内さんはその人たちを裏切らなくて済む。そうでしょ?」
「…………でも、今さら一人でやっても。どうせ」
桜内さんは頑なに俺の提案を否定してくる。意外と頑固なんだな、この子。
だけど、音楽を愛する人間の前でそんな言い訳が通用すると思っている方がどうかしてる。
「一人じゃないよ」
「え…………?」
俺がそう言うと、桜内さんは顔を上げ、丸くした目をこちらに向けてくる。無理もない。
「残念だけど、君が引っ越して来たアパートの隣の部屋には、音楽しか生き甲斐の無いフリーターが住んでるんだよ。知らなかった?」
桜内さんは首を縦にも横にも振らず、ただ目の前にいる隣人の男の顔を見つめていた。
「そんな奴が、隣に住んでる可愛い女子大生のやりたい事を応援しないわけがないでしょ?」
「一之瀬さん、それって」
「一人で中途半端に終わるのが嫌なら、俺が一緒にやる」
桜内さんに向かって本音をぶちまける。これでも諦めるなら、結局はその程度だったと思えばいい。たとえそうだとしても、俺たちの関係が変わる事は無いのだから。
俺の言葉を聞いて、桜内さんは数秒間、何かを思案していた。俺なんかが吐く戯言で彼女の感情を揺らせるとは思わない。それでも、俺は嘘なんて吐いてない。絶対に間違った事だけは言ってない。
「…………もし」
ポツリと桜内さんが呟く。俺は黙って、彼女の言葉の続きを待った。
「もし、一之瀬さんが歌う曲を私が作ったら、一之瀬さんは歌ってくれますか?」
そして、彼女は俺が予想もしない言葉を口にした。
「桜内さんが作った曲を?」
俺が──歌う?
「ご、ごめんなさい、偉そうなことを言ってしまって。今のは忘れてください」
顔を赤くして謝ってくる桜内さんの言葉を無視して、俺は問いかける。
「桜内さん、もしかしなくても作曲ができるの?」
「一応は。…………高校時代、自分でも呆れるくらいたくさんの曲を作って来たので」
「マジか」
ここでまさかのカミングアウト。俺はてっきり昔ピアノを習ってた、くらいにしか思ってなかった。でも、桜内さんがこの手の冗談を言うとは思えない。
「実は、あのアパートに引っ越して来てから一之瀬さんに歌ってほしい曲をイメージして、何曲か大学の講義中にノートに書いてたりしてました」
「それ、本気で言ってる?」
「ご、ごごごめんなさいっ!」
俺の言葉を履き違えて再び謝ってくる桜内さん。だが、俺は別に怒ったのではなく、彼女の言葉が単純に信じられなかったからそう言っただけ。だって、そんなの。
「桜内さん」
「は、はい」
「本当に、作ってくれるの?」
確認するように言うと、彼女は迷う事無く頷いた。
「…………さっきも言った通り、一人じゃ中途半端になってしまいます。でも、一之瀬さんと一緒なら私は本気で一之瀬さんのために曲を書きます。そうすれば、私も中途半端にならない自信があるから」
俺を見つめるその琥珀色の瞳は、言葉以上に真実を語っていた。
────奇跡なんて、現実には起こらない。それはドラマや映画の中だけで起こる、空想の産物。たとえ実際に起こったとしても、俺の前にはやって来てくれない。どれだけ強く願っても、その美しい音は聴こえない。
でも、自分の身に起こったあり得ない偶然を奇跡と呼ぶ事は許されてもいいと思う。流れ星を待ちながら星空を見上げている時に、たまたま流星が流れた瞬間を奇跡と形容しても、誰も怒ったりしないように。
だから、俺はこの偶然の出会いが鳴らした音をあえて
「一之瀬さんはさっき、奇跡が起こらなければ西木野さんを越えられないと言いました」
俺が頷くと、桜内さんは一歩こちらに近づいてくる。
この日、旋律は奏でられた。
「なら──私が、その奇跡になってはいけませんか?」
俺が長いあいだ探し続けていた奇跡の音は、春の訪れとともに────この耳まで届いてくれた。
第二章 終
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