サクラゼンセン   作:雨魂

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もっとこっちを見て

 

 

 

 第十五話/もっとこっちを見て

 

 

 

 ◇

 

 

 

 それから梨子ちゃんにシャワーを貸してくれ、と言われ、その間また作詞作業に戻った。自分以外の誰かがこの部屋のシャワーを使うなんて滅多に無いので、なんだかちょっと落ち着かない。気にしていても仕方がないので、その居心地の悪さはギターの音色で誤魔化す事にした。

 

 

「ふぅ…………」

 

 

 何かアートに触れている人なら分かるかもしれないけど、一度切れた集中力を取り戻すのはけっこう労力と精神力を使う。再び集中しても、大抵は一度目より長く続かない。俺の脳も例外なくその法則から外れず、すぐに思考の飽和点に達してしまった。

 

 いつもなら一度寝て、起きてからまた作業に戻ろうと思うのが常だが、今夜はそうする事ができない。というか思考は既に、梨子ちゃんが風呂場から上がって来たらアドバイスをもらえばいいや、という、いつもの他力本願な状態に切り替わっていた。

 

 

「…………長いな」

 

 

 時計に目をやり、呟く。女の子のシャワーは異常に長い、みたいな話はどこかで聞いた事があったような気がするけど、どうやらそれは真実だったらしい。この部屋の風呂場にはシャンプーとボディーソープと洗顔用の石鹸くらいしかないんだが、女の子には男の俺が洗わない場所があるんだろうか。謎だ。

 

 ボーっと天井を見上げ、梨子ちゃんが風呂場から出てくるのを待つ。水の音は聞こえないから、もう出てきているのかな。その姿を想像してもいいけど、ここでそれを思い描いてしまったら悶々して眠れなくなるので、やめておく事にした。梨子ちゃんにも悪いし。

 

 そんなバカな事を考えている時。

 

 

『きゃああああああああっ!!!』

 

「────っ!? なんだ?」

 

 

 突然、風呂場の方から梨子ちゃんの絶叫が聞こえ、弛緩させていた身体に自然と力が入った。え、ていうか何。なんか変なものでも風呂場に置いていただろうか。それともマジで幽霊がこの部屋に入って来たのか? それは非常にマズい。明日から俺もお化けに怯えながらここで暮らさなければいけなくなる。

 

 立ち上がり、駆け足で風呂場の方へと向かう。それと同時に、バスタオルで身体を隠した梨子ちゃんが風呂場のドアから飛び出てきた。

 

 そして彼女は勢いをそのままに、俺に抱きついてくる。

 

 

「どうしたの梨子ちゃんっ。お化けでも出たっ? もう一回さっきのやるっ!?」

 

 

 首に両腕をまわしてきたバスタオル姿の梨子ちゃんにそう言うと、彼女は首を横に振った。濡れたままの髪の毛先が頬に当たって、ちょっとくすぐったい。

 

 

「ち、ちがうのっ。あああ、あれが、あれがいたのっ!」

 

「? あれ?」

 

 

 彼女は俺に抱きついたまま、風呂場につながる洗面所の方を指差している。しかし、そっちを見ても何もいない。なんだ。本気で幽霊が鏡に映ったりしたのか? それなら俺もあっちに行くの嫌なんだけど。

 

 何かを怖がっている梨子ちゃんに力強く抱き締められながら、俺は洗面所の方に向かう。すると、そこには。

 

 

「ああ。今度はここに出たかゴキ」

 

「それ以上は言っちゃダメーっ!!!」

 

「うおっ!? 苦しいっ、苦しいって! ナチュラルに首を絞めないで梨子ちゃんっ!」

 

 

 洗面所の床を徘徊していたこの部屋の住人二号を見つけ、その名称を口にしようとした瞬間、梨子ちゃんにチョークスリーパーをキメられた。ほぼ裸の女の子に抱きつかれているんだから、男の欲望的なものが出てくると思ったんだが、俺がいま感じているのは生命の危機。まったくもって興奮なんてしない。誰か助けてくれ。

 

 

「ああああ、見ちゃった見ちゃったよぉ。あれは都市伝説だと思ってたのにぃ…………っ」

 

「このアパートに住んでて、あれと出会わないのは絶対無理だよ。野良猫よりもエンカウント率高いんだから」

 

 

 俺はもはや奴をこの部屋の住民として扱っているまである。なので、見つけた時はいつも殺さないで外に返してあげてる。無駄な殺生をしたら夢に出てきそうだからな。

 

 俺はティッシュを掴み、カサカサと床を散歩してるその住人第二号を捕まえる。それから洗面所の窓を開け、外に放してやった。またな。いつか会おうぜ。

 

 

「………………っ」

 

「もう大丈夫だよ、梨子ちゃん」

 

 

 住人第二号を追い出してもなお、梨子ちゃんは俺の首に両腕をまわした状態で固まってる。俺としては別にいいんだけど、女の子的に気の無い男にいつまでも抱き着いているのはちょっとダメな気がする。

 

 

「ほ、本当にいない?」

 

「うん、いないよ。だからその、できれば早く服を着てほしいなー、なんて」

 

「────はっ!?」

 

 

 そう言うと、梨子ちゃんはようやく今の自分がどんな格好をしているのかに気づいたらしい。顔がみるみるうちに赤くなって行く。なんだか見ていて面白い。

 

 同じシャンプーを使っているはずなのに、目の前にある臙脂色の髪からは何故か嗅いだ事もない良い香りがする。シャワーから上がったばかりの火照ったその華奢な身体からは、花のような甘い匂いがした。

 

 

「………………」

 

「梨子ちゃん?」

 

 

 名前を呼んでも、彼女は動こうとしない。俺の身体に密着したまま、その場に立ち尽くしている。そんなに奴が怖かったのだろうか。まぁ、生まれて初めてあれを見たのなら怖がるのも無理はない。

 

 そうして、静かな時間が薄暗い台所に流れる。そんな状況をどうすれば抜け出せるのか、と考えていると、梨子ちゃんはその静寂(しじま)を破った。

 

 

「…………拓海くんは、ドキドキしないんだね。こんなに近くにいるのに」

 

「え?」

 

「なんでもない」

 

 

 呟きの意味が分からず疑問符を頭に浮かべると、梨子ちゃんはやっと俺から離れて行った。でも、また頬を膨らませてる。今日は怒ってばっかりだな、この子。

 

 それから彼女は背を向け、洗面所へと戻って行く。そして、

 

 

 

「拓海くんは、ちっともこっちを見てくれない」

 

 

 

 そう言い残し、ドアを勢いよく閉めた。

 




次話/夜空に凛と輝く、あの星のように


九輪

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