第十六話/夜空に凛と輝く、あの星のように
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いつものルーティンである路上ライブを終え、今夜はどこにも寄らずにアパートへと帰る。
今日も沢山の人が聴きに来てくれた。梨子ちゃんと一緒に作った曲を歌うようになってから約一カ月。彼女の提案で、最近はSNSだけでなく動画サイトにもアカウントを作り、定期的に歌や告知を上げるようにした。
その試みが功を奏し、わずか数日でフォロワーやチャンネル登録数は数千を越えた。一人ではとうてい読み切れないほどのコメントが押し寄せ、実際に駅前のライブに訪れてくれる人たちも爆発的に増えている。
急に人気が出始めた所為で、あの交番のゴリラみたいなお巡りさんも超驚いていた。まだ注意されるほどの人数では無いものの、百人とかを越えたら流石に場所を移動しようか、と梨子ちゃんとは話していた。
あの駅前のロータリーに、俺の歌を聴きに来てくれる人が百人集まる。そんな光景が、いつか見られたらいい。
「星、綺麗だな」
数時間前に沈んだ太陽の代わりに現れた月と、黒いキャンバスに落とした白いペンキの飛沫のような無数の瞬き。
東京は光が多いからその煌めきが薄れる、とどこかで聞いた事があったけど、それも日によるみたいだ。今日はいつもより、はっきりと恒星たちの光が見える。
真姫さんと梨子ちゃんと三人で写真展に行ったあの日から、音楽以外のものにも目を向ける癖をつけるようにした。今までも興味が無かった訳じゃないけど、意識してそれらに目を向ける事は無かった気がする。
誰かに見られなければ、どんなものにも価値は無い。道端にひっそりと咲いているハルジオンのように、それは確かに咲いているのに、誰にも気づかれなければ花として生まれた意味は無い。だからこそ、俺はそういう些細なものに目を向ける努力をし始めた。
誰にも見られないものでも、俺が目にすればその何かには価値が生まれる。誰にも気づかれない流れ星に願いをかければきっと、星は俺の願いだけを叶えてくれる。
自分自身がそういう存在だからこそ、もっと視野を広くして、誰も知らない美しいものを見つける。そしてその俺だけが知ってる美しいものから、音楽に繋がるヒントを得られればいいと思っている。
「あ」
そんな事を考えながら夜空を仰いで駅前を歩いていると、西の空に一筋の線が描かれた。人の往来が少なからずあるこの場所で、今の流星に気づいたのはきっと俺だけ。そう思ったら、すごく良いものを見つけた気がした。同時に、次の曲のテーマもぼんやりと浮かんでくる。
「帰ったら、梨子ちゃんに話してみるか」
あの子にこの話をしたら、また良い曲ができるんだろうな。そんな予感が噴水のように溢れてくる。たまには俺の方から歌詞の雰囲気を提案するのもいいかもしれない。それを思うと、家路を辿る足がさっきよりも軽くなった。
駅前を抜け、住宅地を進む。人気は無くなり、離れた所にある国道を通る車の音だけが、微かに聞こえていた。
「…………ん?」
近所の公園の前を通った時、園内から音楽が聞こえてくる。ここは街灯も少なくて夜になるとかなり暗くなるので、この時間帯にはほどんど人はいないはず。だからこそ、ギターの練習をするのには最適な場所。俺もこの公園で歌う時があるので、ここで人前ではできない練習をする人の気持ちがよく分かる。
少し気になったので、何気なく公園の中に足を踏み入れる事にした。まだそこまで遅い時間でもないから、梨子ちゃんも俺の帰りが遅くても心配はしないだろう。
夜風に揺れる背の高い針葉樹が立ち並び、鬱蒼とした雰囲気を醸し出す夜の公園。目的が無ければこんな場所に入りたいとは嘘でも思わない。突然誰かが出てきたりしたら驚いてそのまま失神してしまいそう。
「あれ」
奥の方へと進んで行くと、広場の隅にある野外ステージの上に誰かがいるのを見つける。どうやらあの人が音楽を鳴らしているらしかった。
さらに近づいて行くと、その人影が足元に置いた小型スピーカーから流れる音楽に合わせてダンスをしている事に気づく。めずらしい人もいるんだなと思い、離れた所から眺めていると、徐々にそのダンサーが見知った人のシルエットに似ている気がしてきた。
灯りが少ない所為でハッキリしないけど、背はあまり大きくない女性で、髪型はショートカット。七分丈のTシャツにサルエルパンツを履いている。
邪魔にならないよう、気配を消してステージへと歩み寄って行く。そのダンサーはよほど集中しているのか、俺の足音に気づく事無く、流れる音楽に合わせて激しい動きやステップを踏む。小川を流れる水のようにしなやかで、且つ空手家が形を表現しているみたいに力強さも感じさせる、その踊り。ダンスに詳しくはないけれど、その人が相当なレベルに達している事は感覚的に理解できた。
数段あるステージの下に来た時、俺の予感はやはり正しかった事に気づく。なぜこの人がここでダンスの練習をしているのかは、よく分からないけど。
「────にゃっ!?」
音楽が止まり、その人がダンスをやめた時、俺は拍手をしながらステージの階段を上った。
背を向けていたダンサーの女性はビクッと身体を飛び上がらせ、こちらを振り返ってくる。急に声をかけても驚いただろうし、どうせビックリさせるなら賞賛してあげた方がいいと思ったから、俺は彼女に向かって拍手をした。
「お疲れさまです、凛さん」
近づいて来たのが俺だとすぐに分かったのか、凛さんは肩の力を抜いてくれる。ただ、表情はまだ驚いたまま。
「な、なーんだ拓ちゃんかぁ。もう、ビックリしたにゃ」
「すいません。公園の前を通りかかったら音楽が聞こえたんで、なんだろうと思って見に来たんです」
「あはは、そっかぁ。そういえば拓ちゃんのアパート、この辺なんだもんね」
「はい。で、凛さんはどうしてこんな所で練習してたんですか?」
右手首に付けた黄色のリストバンドで額に浮かんだ汗を拭ってから、凛さんは口を開く。
「今日はバイトがお休みだったから、久しぶりに外で踊ってみようと思ったの。でも、人が沢山いる所だと緊張しちゃうからどこかいい場所ないかなー、って探してたらここを見つけたにゃ」
「え、凛さんのレベルでも人前で緊張するんですか? たぶんストリートでも大丈夫ですって。ダンスを知らない俺でも十分感動しましたから」
「えへへ。そう思うのはきっと拓ちゃんだけだよ」
本音をぶつけたら笑いながらそう返される。それは凛さんのダンスが上手だと言った事に対してなのか、俺が人前で気負わずにやりたい事ができるっていう事に対しての言葉なのか、判断がつきにくい微妙な返事だった。
「そうですかね。俺は本当にすごいって思いましたよ」
「ありがとにゃ、拓ちゃん。けど、凛はまだまだ下手っぴだから、もっと練習しなくちゃいけないの」
凛さんはそう言って、ステージの端に置いていたセカンドバッグの方へと近づいて行き、スポーツドリンクとタオルを持ってこちらに帰ってきた。
それから彼女はステージの階段に座り、ポンポンと隣に腰掛けるよう俺に示して来る。
「凛さん?」
「今日はもうおしまいだから、ちょっとお話しよ?」
そう言われ、断る理由も無いので俺は凛さんの言う通りにした。ふわり、と横から石鹸のような良い香り。ほんの少しだけ、心が行方不明になりかけた。
こくこく、と右隣で凛さんがペットボトルに入ったスポーツドリンクを飲む。それからぷはぁ、なんて、仕事終わりの中年サラリーマンが一杯目の生ビールを飲んだ時に発するような息を吐き、凛さんはそのペットボトルを俺の方へと差し出して来る。
「はい。拓ちゃんもどうぞ」
「いや、それは俺を試してるんですか」
「ん? 違うよ? 拓ちゃんも飲みたいかなー、って」
「まぁ、くれるなら飲みますけど」
街灯の灯りに照る凛さんの艶めかしい唇を見ながら、俺はそれを受け取り、ひとくち飲む。
「凛と間接キスできて嬉しい?」
「ぶぶほぉァっ!」
そして、ラブコメの教科書にでも載ってそうな王道のやり取りをしてしまう。もう、相変わらずこの人は。
咳き込んでいる俺を見て、凛さんはけらけらと笑っていた。いや、なんとなくこうなる事は分かっていたが、断ったら空気が読めない奴だと思われてしまいかねない。こんな綺麗な人が笑ってくれるんだ。だったら自ら道化にだってなってやる、と思うのが男という生き物だろう。
「あはは。やっぱり拓ちゃんは面白いにゃ」
「ごほ……マジでそういうのやめてください。悪いので」
主に心臓に。間接キスできた事にだけフィーチャーすれば、とっても良い出来事だったんだけど。
「ごめんごめん。たまには凛も拓ちゃんをからかいたくなったにゃ」
「ほぅ。で、その心は?」
「拓ちゃん、最近お店に来る時はいっつも梨子ちゃんと一緒だから、二人を接客する凛はそこはかとないジェラシーを感じちゃってるにゃ」
「それと俺をからかう事に何の関係が?」
「凛は拓ちゃんにもっとかまってほしいにゃ」
「なるほど」
そうは言ったものの、まったく腑に落ちてはいない。かまってほしい、という言葉の裏に遊んでほしい、という想いが隠れているならば話は分かる。
だが、俺と梨子ちゃんが猫あかりに行く事で、なぜ凛さんがジェラシーを感じなければならないのだろう。相変わらずこの人の考えている事は分かりづらい。単に俺が鈍いだけかもしれないが。
スポーツドリンクを凛さんに返した直後、彼女は再び何食わぬ顔でそれに口を付ける。髪の毛先から流れた汗で濡れているその綺麗な横顔を見ていると、些細な事を気にしている自分がかなりガキ臭く思えてきた。
「じゃあ今度休みが重なったら、またラーメン屋巡りでも行きましょうよ」
「ほんとっ? うん、行く行くーっ」
俺がそんな提案をすると、凛さんは嬉しそうにそう言ってくれる。でも、この約束が果たされるのはきっと、もっと先の事になる。
俺たちがこの会話をしたのは、今日が初めてではない。凛さんと出会ってから何度『いつか』、という言葉を使って話をしたか。それは俺も、凛さんも気づいている。
それぞれの夢を追い駆けている俺たちが、どちらかの休みにを合わせる事はほとんど無い。ほぼフルタイムでバイトをしている俺たちの休みが合う日なんて、それこそ流れ星を見つけるくらいの確率で少ないのだから。
俺とこの人の関係は、どこかに遊びに行くためだけに存在する友達ではない。色彩の異なった夢を見る、ただの似た者同士。自分の意思で群れを成さない、一匹狼。
だからこそ、俺はこの人と知り合いでいたいと思う。
「凛さん」
「ん?」
「ダンスの調子はどうですか」
頭上に広がる夜空を見上げながら、問いかける。
すると凛さんも星に視線を向け、数秒の間を置いてからその質問に答えてくれた。
「うん、順調だよ」
「そう、ですか」
それから沈黙。夜の公園に漂う静けさが、今の言葉に隠された真意を俺に教えてくれている気がした。
「拓ちゃんはどうなのかにゃ?」
「俺も、最近は調子がいいんですよ。だんだんライブに来てくれる人たちも増えてきて、ようやく東京もいいな、って思ってきたところです」
「へー。最近、拓ちゃんの顔色がよかったのはそれが理由だったんだにゃ」
「そんなところです」
「ふふ。お店の前でお腹を空かせて倒れてた二年前の拓ちゃんとは別人みたい」
「それはもう忘れてください」
「やーだよーぅ。忘れちゃったら、拓ちゃんは凛に救ってもらった恩を返してくれなくなっちゃうから」
凛さんにそう言われ、この人と出会った時の記憶をふと思い出す。
────二年前。ちょうど上京して一週間くらい経った日、だったか。まだ真姫さんにも出会ってなくて、バイトも見つけられてなかった時の事。俺はこの町でぼろいアパートを借りて、東京での生活をし始めた。だが、地元を家出同然の身で出てきた二十歳そこそこの男に、働かずに飯が食える方法などあるわけが無い。
俺はあの日。雇ってくれるバイト先を探し回りながら、猫明亭の付近を彷徨っていた(誇張ではなく、マジで腹を減らしたゾンビのような足取りで)。
ここで働かせてください、と頼み、断られ、頼み、断られを何十回も繰り返したのにもかかわらず、結局どこでも雇ってはもらえなかった。
そんな中、空腹で足をふらつかせながらあの中華居酒屋がある路地に入って行き、俺は遂にそこで力尽きた。
「あの時、出勤してきた凛が見つけてなかったら、拓ちゃんは今ごろネズミとカラスのエサになっちゃってたかもしれないね」
「怖いこと言わないでくださいよ」
でもなんかちょっとあり得そうだな、と思ってしまったのは、俺の頭がいつも以上に想像力を発揮してしまったからだろう。そうに違いない。
猫明亭の前でぶっ倒れていた男を、店長と協力して店の中に運んでくれた凛さん。俺が目を覚ました後、この人はタダでたらふく飯を食わせてくれた。そういう事もあって、俺は凛さんと店長には頭が上がらない。あの店が行きつけになったのも、それが理由だった。
「……でも、そっか。拓ちゃんも前に進んでるんだね」
凛さんはポツリと呟く。意図が読めず、俺は彼女の横顔に視線を向けた。右隣に座る橙色の髪色をしたショートカットの女性は、エメラルドのような瞳に頭上で瞬く数多の星々を映している。だけど、俺にはその両眼が見ているものがなんなのか、知る事はできなかった。
「凛はいつも応援してるからね。いつか拓ちゃんが有名になったら、凛は恩人としてテレビに出るんだから」
「凛さん」
「だから、諦めちゃダメだよ。他の誰かが諦めても、拓ちゃんは頑張り続けるにゃ」
凛さんは視線を下げ、俺の方を見て笑ってくれる。年上なのにどこか子どもっぽいその笑顔を見て、首を横に振る事など出来るはずが無かった。
「……それは、凛さんも同じですよ」
「え?」
でも、彼女が言った言葉に、少しの諦観が含まれていたのを俺の耳は聞き逃さなかった。
「俺も、凛さんにダンスをやめてほしくないです。上手く言えないけど、凛さんにはそう在ってほしいんです」
「…………」
「俺が誰にも見られない所で苦しんでる時、凛さんもどこかで頑張ってるんだ、って思うとまだ終われないって思うんです。目指す場所は違うけど、俺は心のどこかで凛さんをライバルみたいに思ってるのかもしれません」
公園に風が通り抜け、さわさわと周囲にある針葉樹が小さな音を立てて揺れる。きっとこの公園のどこかに星が落ちても、誰も気づかない。それくらい、辺りは静かな空気に包まれていた。
「一緒に頑張りましょう、なんて無責任な事は言いません。でも、俺が音楽をやめない限り、凛さんもダンスをやめないでほしい。…………たとえ、続けた先にどこにも辿り着かなかったとしても」
柄にも無く、クサい事を言ってしまう。たぶん、ここ最近歌詞ばかり書いている所為で、思考回路までアーティスト脳に侵されてしまっているのかもしれない。自分で言っておいて、少しだけ恥ずかしくなった。
凛さんは何も言わず、こちらを見つめてくる。その綺麗な顔を見つめ返す事は、俺にはできなかった。
「…………拓ちゃんは、凛がこのまま歳を取っても、凛を応援してくれる?」
「当然です。凛さんがダンスをやめない限り、俺が音楽を手離さない限り、ずっと見てますよ」
そう言うと、凛さんは目を大きく見開いて、視線を斜め下に逸らした。その白い頬が若干赤みを帯びているように見えたのは、おそらく街灯の灯りの所為。
「じゃあ、もし、ね」
凛さんは目線を逸らしたままそう言い、俺は彼女が口にする続きの言葉を待つ。
「もし、拓ちゃんが有名なミュージシャンになったとして、それでも凛はおばあちゃんになるまでずーっと今のままだったとしたら、その時は────」
宝石のように美しい瞳がこちらを向く。
そしてしばらくの間、時が止まった。
待てども待てども次の瞬間はやってこない。まるで、廃線になった駅のホームで電車を待っている少年のように、俺はこの時が動くのを待ち続けていた。
けれど、その続きは語られなかった。凛さんの真面目な顔は緩んだ糸のように解れ、そこにはいつもの愛らしい微笑みが浮かぶ。
「……えへへ。やっぱり、なんでもない」
「えー。そこまで言っておいて言わないのはズルいです」
「大人はみんなズルいんだよ? 拓ちゃんも、もうちょっと大人になりなさい」
凛さんはそう言って、俺の髪を撫でてから立ち上がる。顔を見上げると、彼女はまた満天の星空を見上げていた。
「あ、流れ星」
その言葉が耳に入り、俺も凛さんが見つめている方角に目を移す。一瞬で過ぎ去る同じ流星を誰かと見るのは、ほとんど奇跡に近い。
それでも、今夜はその小さな奇跡が起こってくれた。
「すげぇ」
「わぁ、綺麗だにゃー」
俺たちが見つめる西の方角に、無数の流れ星が流れて行く。星には詳しくないが、もしかしたら今夜は流星群が見える夜だったのかもしれない。
凛さんの横に立ち、どこから生まれ、そしてどこかに消えて行くその流星群を眺めた。
流れ星が流れている最中に三回願い事をするとその願いは叶う、と誰かは言った。現実的に考えればそれは不可能に近い。瞬きほどの速度で消え去って行く流星が見えている間に、三度祈るのは相当難しい。
けれど、あの幾つもの流れ星が見える今夜なら、その願いも叶えられるのではないか、と思った。
三度が無理ならば、一度でもいい。ひとつの流れ星につきひとつの願いをかければきっと、この祈りを流星群は叶えてくれる。
「…………」
だから、俺は願った。自分自身の無謀な夢ではなく────隣に立つこの人の夢が叶いますように、と。
「消えちゃったね」
一分ほどで流星群は姿を消し、夜空には小さな星々だけが淡く煌めいている。
「凛が何をお願いしたか、聞きたい?」
凛さんはこちらを振り返り、そう言ってくる。
俺が頷くと、彼女は口を開いた。
「凛はね──拓ちゃんの夢が叶いますように、ってお願いしたにゃ」
そして、彼女はまた微笑みを浮かべる。
夜空に凛と輝いた、あの星のような笑顔を。
次話/夢への一歩
八輪