第十七話/夢への一歩
◇
春を過ぎ、初夏が季節の部屋の扉をノックする。東京に住む人々が薄着になり、時刻が正午を過ぎると茹だるような気温になる日数が増えてきた、今日この頃。
梨子ちゃんと出会い、二人で曲を作り出してから約二か月が経過した。最近はSNSで告知をすると駅前で路上ライブをする事ができなくなるほどのファンが集まるようになってきたので、梨子ちゃんと話し合って俺はあそこでのライブはやめる事を決断。
その代わり、真姫さんの伝手で渋谷の小さなライブハウスを毎週一回借りられるようになり、そこに集まってくれた人たちに安いチケット代を払ってもらい、ライブをするようになっていた。
まだライブハウスからはみ出るくらいの集客は達成できていないけど、一度のライブに百人規模の人が集まるようになった事は、四月の俺からすれば奇跡と呼んでもまったく差し支えない。というかそれそのものだ。
SNSで定期的に音楽以外の事も呟き、くだらない出来事にもレスポンスをくれるフォロワーが何百人を越えるようになった。俺はその辺のテクニックには疎いので、何を呟けばいいのかとかは現役女子大生である梨子ちゃんに任せている。ちなみに、彼女の存在は誰にも明かしていない。それは梨子ちゃん自身のお願いだった。
動画サイトにはレコーディングした新曲を載せ、少なくない反響をもらってる。SNSで知り合った動画クリエイターのフォロワーさんにリリック動画とかを作ってもらったりして、それが割と評判になったりもした。
俺が目指していた理想のアーティスト像とは少しかけ離れているけれど、これはこれでインターネットが普及した現代的なやり方でいいのかもしれない、と受け入れてはいる。梨子ちゃんからは『良い評判も広がりやすいけど、悪い評判はもっと広がりやすいから気をつけて』と口酸っぱく言われている。今のところ大きな炎上とかもしてないし、今後も大丈夫だとは思う。
「ん?」
窓を開け放ち、湿気と気温でムシムシした部屋の換気をしながら、アコースティックギターを抱えて曲の練習をしていた平日の事。そろそろやめてバイトに行くか、と思っていたところ、急に部屋のドアが誰かに叩かれ、音楽に集中していた頭が冷静になった。
家賃はちゃんと払ってるし、水道光熱費も最近は滞納してない。なら、新聞か宗教の勧誘か? 新聞はまだいいが、あのうさん臭い宗教の勧誘はどうにかならんのだろうか。『あなたはいま幸せですか?』と訊かれる度に『あんたはどうなんだ』と訊き返したくなる。
ドアの穴から見てそれっぽかったら居留守しよう、と心に決め、アコギを置いて玄関へと向かう。しかし。
ドアの外に見えたのは、桜色だった。
「た──拓海くんっ、い、いいい一大事だよっ!」
「? どうしたの梨子ちゃん、こんな時間に。大学は?」
扉を開くと、そこには隣の部屋に住んでいる女子大生が立っていた。しかし、彼女がこの時間にいるのはおかしい。昨晩も遅くまで俺の部屋で作業していて、明日は朝から大学に行って講義を受けてくる、と言っていたのに。
駅からこのアパートまで走って来たのか、息が上がり、臙脂色の長い髪も少しだけ乱れている。普段はおっとりしているので彼女が走っている姿は上手く想像できないが、どうやらそういう事で間違いないらしい。
梨子ちゃんは質問に答えず、乱れた息を整えてから、手に持つスマートフォンの画面をこちらに見せてきた。
「これは?」
「さ、さっき私たちのアカウントにDMが来たの。それがすごい内容だったから、拓海くんに伝えなきゃと思って、大学を抜け出してきちゃった」
「?」
梨子ちゃんのよく分からない言葉を聞いてから、ディスプレイに映っているDMとやらの内容を読む。
そしてすぐに、この子が汗まみれになりながら帰ってきた理由を理解した。
「これって……」
「そうっ。あの有名なレコード会社からのメールだよっ。すごいよ拓海くんっ!」
めずらしくハイテンションで梨子ちゃんはそう言ってくる。俺は彼女が持っているスマホに映っている文章を何度も読み返し、それが嘘ではない事を自分に言い聞かせてから顔を彼女の方へと向けた。
「オーディション…………受けてみませんか、だって」
俺が内容を呟くと、梨子ちゃんは何も言わずにうんうんと頷く。それから徐々に頭が現実を受け入れ始め、自分がいま置かれている状況を認識する事ができた。
そして。
「「────やったぁああああああああああっ!!!」」
俺たちは手を繋ぎ合い、同時に歓喜の声を上げる。恥ずかしがり屋で、普段は俺に触れようともしてこない梨子ちゃんが自分からこの手を握ってくれた。これはそんな些細な事が気にならないくらいの出来事だって事。途方に暮れるような努力が、ようやく形になった瞬間だった。
「やったよ梨子ちゃんっ。俺たち、レコード会社の人たちにも見つけてもらえたよっ!」
「うん! やっとここまで来たねっ。私も嬉しいっ」
心の底から溢れてくる喜びの感情を、梨子ちゃんと共に爆発させる。今が夜じゃなくてよかった。この時間帯なら多少騒いでいても咎められる事は無い。もはや海外映画のワンシーンのように、梨子ちゃんを抱き締めてくるくるとこの場を回りたい気分だった。
この約二か月、俺としては二年。死に物狂いで追い求めてきた夢へと、一歩近づいた。まだ何も始まってはいないけれど、これは俺の人生にとって革新に近い出来事。自分の歌やギターが誰かに認められるのがこんなに嬉しいだなんて、今まで本当に知らなかった。
「ありがとう梨子ちゃんっ。君がいてくれてよかった」
「私こそありがと────あ」
と、言った時、梨子ちゃんはようやく自分が大胆な事をしているのに気づいたらしい。握り締め合っている手を見つめながら、顔を赤くしていく。けど、今日はそれが分かっていても、俺は彼女の手を離さなかった。
「あ、ああああああのっ、拓海くん。その、手」
「うん? ああ、嬉しかったからつい」
「って言いながら、なんで離してくれないの?」
「うーん。嬉しいから?」
「り、理由になってない!」
そう言う梨子ちゃんだが、この手を振り払おうとはしてこない。俺もそこまで強い力を入れているわけでは無いのに、この手が離れる事は無かった。
そんな風に玄関前で手を繋ぎ合っていると、部屋の中から携帯のアラームが聞こえてくる。
「いけね。ごめん、梨子ちゃん。俺、もうバイトに行かないと」
「あ────」
仕方なく手を離すと、幸せな夢から覚めてしまったおとぎ話のお姫さまのような声が聞こえてくる。このまま梨子ちゃんを困らせ続けたい気持ちもあったが、バイトに遅刻したら真姫さんにお仕置き(物理)されてしまうので、今回のところはここまでにしておく。
部屋に戻り、財布と携帯を持って足早に外へと出た。
「ごめん梨子ちゃん、合鍵で部屋閉めててくれる?」
「え? あぁ、うん。行ってらっしゃい」
「行ってきます。ふふ、真姫さんにもさっきのこと伝えておくからね」
鍵が見当たらなかったので、隣に住んでいるこの子に部屋は任せる事にした。盗まれるようなものなんてないし、そもそも梨子ちゃんはそんな事はしない。
俺は高揚した気分のまま、駅に向かって走り出した。
◇
side:梨子
彼が居なくなった部屋の前で、私は立ち尽くしています。二人の努力が認められた事が嬉しくて、柄にも無くはしゃいでしまいました。
「ふふ……なんだか、あの頃に戻ったみたい」
そんな、誰にも届かない独り言を呟きます。本当に、あの頃と同じ感情が私の中には渦を巻いていました。
彼に閉めておいてくれ、と言われた部屋の鍵。二人で作曲をするようになってしばらくして渡された、この部屋の合鍵。それを見ると、こんな私をこの人はそこまで信頼してくれているのか、と驚いた事を思い出します。
「あ……窓、開いたままだ」
扉を閉めて鍵をかけようと思った時、ベランダに繋がる窓が開いている事に気づきます。仕方なく部屋に上がり、忘れっぽい彼の代わりに窓を閉めてあげました。
「……拓海くんの部屋で一人になるのって、初めてかも」
当然ですが、私がこの部屋に入る時はいつも彼が居ました。だから、いつもと違って少し緊張してしまいます。
「そういえば」
自分が立っている畳を見つめながら、西木野さんと初めて会った時の事を思い出します。
彼女は確か、ここにいやらしい本があるとか言っていました。音楽にしか興味が無いあの拓海くんに限って、そんな事は無いと思うんだけど……。
「だ、ダメよ梨子。男の人の部屋を勝手に漁るだなんて」
私は自分にそう言い聞かせ、探したい衝動を抑えます。彼がすごい趣味を持っている、と西木野さんは言っていたので、それがなんなのかを知りたいと思うのは仕方ないと思います。……私の趣味も他人に言えるようなものではないので、それを隠す理由はよく分かります。
「…………?」
長居するのも拓海くんに悪いと思い、自分の部屋に戻ろうとした時、壁にかかったカレンダーに赤い文字が書かれているのに気づきました。確かこの前までは書かれていなかったはずの文字。
「命、日?」
明日の日付の欄にはそう書かれてあります。でも、いったい誰の命日なんでしょう。拓海くんは家族とは縁を切っている、と言っていましたが、もしかしたら親戚の誰かの命日だったりするのでしょうか。それとも、私の知らない大切な女性、だったりして。
「それは無い、かな」
二か月以上ほぼ毎日のように彼と接してきて分かったのは、あの人は女性にほとんど関心を持たないっていう事と、
それは、自分の夢と真剣に向き合っている所為だというのは分かっているのですが、あまりにも鈍すぎて私も腹が立ってしまう時があります。というか、一日に一回はムカムカしてます。
だから、このカレンダーにかかれた命日、という言葉に当てはまる人物が彼にとっての大切な女性であった可能性は除外されました。なら、それでは。
「ん?」
その場に立ち尽くして悩んでいると、私はセンターテーブルの上に手紙のようなものが置かれている事に気づきました。彼には申し訳ありませんが、出しっぱなしにしているのも悪いので、面と向かって謝りはしません。
そんな事を思いながら手紙を手に取り、私はそこに書かれている内容を読み始めました。
「え────」
そして私は、まだ知らない彼を知ってしまうのでした。
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七輪