サクラゼンセン   作:雨魂

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黒猫と雨

 

 

 第二十話/黒猫と雨

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 彼がオーディションの最終審査に出かけた日。私は、彼を見送る事はしませんでした。隣の部屋のドアが閉まる音を自室に籠って聞き、ギターケースを持った彼が駅の方へと歩いて行くのを、窓の内側から眺めていただけでした。

 

 本当は、声をかけたかった。今日だけじゃないです。このあえて顔を合わせなかった一か月間、ずっと彼に何かを言いたかった。それは音楽的なアドバイスではなく、純粋に頑張っている人へかけるエールのようなものを。

 

 けれど、私にはそうすることができなかった。彼の挑戦を妨げる事はどうしても出来なかったから。私が作った曲ではなく、自分一人で作り上げたもので夢を掴み取りたい。それをあんな真剣な目で語られたら、私なんかがその領域に立ち入る事など、出来るわけがありません。

 

 だから、私は自分から彼に会う事を自制しました。そうする事を意図的に我慢しなければならないほど、私は彼の中に溺れていた。それが、この会えない日々でいたいほど強く分かってしまったんです。

 

 彼は音楽のパートナーとして、私と会わないようにしていたかもしれない。

 

 でも、私は違った。私は────

 

 

「…………雨だ」

 

 

 彼がアパートを出て行ってから、数時間が経過した頃。私は外に響く雨音に気づき、窓辺へと歩み寄りました。

 

 天気予報は見ていなかったから、今日の天気がどうなるのかは分かりませんでした。最後に見た彼は、傘を持っていなかった。もしかしたら雨に濡れて帰ってくるかもしれない。なんて、心配性の母親みたいな事を考えてしまう。

 

 降り出した雨はすぐにこの町を濡らし、遠くの方からは雷が唸る音が聞こえてきました。季節は梅雨だから、こんなスコールが降るのも当然と言えば当然。今日じゃなければ、意識すらしていなかったかもしれません。

 

 

「外で待ってよう、かな」

 

 

 以前と同じくらいの時間に彼が帰って来るのであれば、そろそろ出迎えてもいい頃です。そう思い、私は傘を持ってアパートの外へ出ました。

 

 

「あら」

 

 

 そうして階段を下ると、一階の庇のある部分で雨宿りをしている一匹の黒猫を見つけました。

 

 私が近づいても、その猫は逃げて行きません。むしろこちらへ歩み寄って来ました。エサでももらえる、と思ったのでしょうか? 首輪が付いていないので、たぶん野良猫です。

 

 

「こんにちは」

 

 

 傘をさしたまましゃがみ、私は挨拶をします。ふてぶてしい顔をしたその野良猫はにゃお、と鳴き、返事をしてくれました。何か食べ物をあげたいですが、それでこのアパートに住み着いてしまったら困ります。大家さんに出て行け、と言われてしまいかねません。

 

 でもまぁ、そんな事を言われなくても、私はもう少しで出て行かなければならないのですが。

 

 黒猫はお行儀よくお座りをして、私の顔を見上げてきます。そして、私のその黄色の瞳を見つめ返しました。

 

 

「…………」

 

 

 そうして数秒間、その黒猫と視線を交わしていると、ふとある事を思いつきました。

 

 

 彼が帰ってきたら、あの事を伝えよう。

 

 勇気を出して、今日言うんだ、と。

 

 

 雨は降り続いています。雨粒が軒先から滴り落ち、地面には小さな水たまりを作り上げている。道路の向かい側にある家の前には、水色の鮮やかなアサガオが咲いていて、この驟雨を喜んでいるようにも見えました。

 

 私は傘をさしながら彼の帰りを待ち、黒猫はこの俄雨が止むのを待ち侘びている。そうしてふたり、灰色の雨空を見上げてお互いが求めている瞬間が訪れるのを、ただ黙って待ち続けていたのでした。

 

 

「大丈夫、だよね」

 

 

 独り言をぽつり。それは降り落ちる雨粒とともに地面へと零れ、透明な水たまりに擬態していきました。

 

 大丈夫。私が心配しなくとも、彼はちゃんと報われる。だって、そうじゃなければおかしい。あんなに頑張っている人の夢が叶わないのなら、神様はどんな人の願いなら叶えてくれるのか。彼は絶対にその夢を掴んで帰って来る。私にはそれが分かる。

 

 だから、私はその彼に伝えるんだ。

 

 彼と出会って、決めた事。彼に出会わなければ決められなかった事。それを今日、ちゃんと口に出す。

 

 それから半刻ほど経った時、駅の方から歩いてくる人影を見つけました。目を凝らすと、その人は傘をささずに、雨に濡れながら道を歩いています。

 

 不意に、嫌な予感がしました。そんな事は無い、と自分に言い聞かせ、一度首を左右に振ります。

 

 

「…………え?」

 

 

 気づくと、隣にいたはずの黒猫がいなくなっていました。辺りを見渡しても、どこにもいません。強い雨音で足音が掻き消されたのだとしても、気づく事くらいはできたはず。だというのに。

 

 急に雨脚が強くなったと同時に閃光が瞬き、大きな雷鳴が町に轟きます。それが過ぎ去った後、再び雨音だけが響く静かな時間が訪れました。

 

 

「拓海、くん」

 

 

 全身がずぶ濡れになった彼は、俯いています。声をかけなければ、おそらく私の存在にすら気づかなかったでしょう。雨に濡れた長い前髪がその表情を隠し、彼の視界のほとんどを奪ってしまっている。

 

 それから数秒間の沈黙。辺りに響く雨音だけが存在する穏やかな時間が、私と彼が住んでいるアパートの前には流れています。まるで誰かがこの静寂を壊すな、と私たちに命令しているようにも思えました。

 

 

「………………」

 

「?」

 

 

 その静けさを壊さぬよう、黙って雨粒を見つめていると、彼はポケットからある一枚の紙を取り出し、私の方へと差し出してきました。

 

 雨に濡れてしまっている、その薄い紙。それが何なのかは分かりませんが、彼がそれを私に読んで欲しいと思っている事は、感覚的に理解しました。

 

 私は紙を受け取り、破らないように拡げて、そこに書いてある文章を読み始めます。

 

 そして、それを読み終わった後。

 

 私は、この世界の神様を恨みました。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 梨子ちゃんが驚いている。開いた口が塞がらないっていうのは、今の彼女が浮かべている表情の事を言うんだろう。でも、どうせなら笑ってほしかった。哀れな俺を見て、腹を抱えてくれた方がマシだった。

 

 あれだけの努力が、何もかも無駄になったのだから。

 

 

「これが現実だよ、梨子ちゃん」

 

 

 顔を上げ、俺は目の前に立っている桜色の女の子に向かって言う。その声すら届いていないというように、彼女は何度も紙に書かれている文字を読み返していた。

 

 そんな事をしても、俺の夢が叶わなかった事は変わらないというのに。

 

 

「俺は結局、才能の無い凡人なんだ。願った夢なんて何ひとつ叶えられない。死ぬ気で頑張ったところで、何も報われない。努力をしないで夢を叶える、才能のある奴らとは違う。生まれた時から死ぬまで普通から抜け出せない。そう定められた────ただの、人間なんだ」

 

 

 頭で思った事が、そのまま口から零れ落ちてくる。理性なんて存在しないというように、止められない言葉の奔流が、声になって溢れてくる。

 

 

「俺、頑張ったんだよ」

 

 

 それともに、目から流れる温かい何かが、雨粒と一緒に地面に落ちて行った。 

 

 

「この一カ月だけじゃない。上京してくる前から、音楽をやり始めてから今日まで、ずっと。ずっと、プロになる事を夢見て、歌って、ギターを練習して、何度も何度も何度もライブをした。自分には才能があるんだって言い聞かせて、貧乏な暮らしをしながらも音楽だけはやめたくなくて、これだけにしがみついた」

 

 

 背負っているギターケースを地面に下ろし、雨に打たれるそれを見つめて、語り続ける。

 

 

「なのに、全部無駄だった。いや、無駄で済んだならこんなに悲しくない。俺の歌は、無意味だ。誰も幸せになんてできない。聴く価値すらない……ガラクタだったんだ」

 

 

 数時間前に審査員に言われた事を、自分の口でリフレインする。そうしたらなんとなく、あの人たちが言ってくれた言葉が正しかったんだ、と理解できた。

 

 

「…………違う。違うよ、拓海くん」

 

「違くない。俺が作る歌は、全部自己満足だ。誰の心にも届かない。俺の感情が動いたところで、この世界に生きる誰一人として俺の歌に耳を傾けてくれやしない」

 

 

 梨子ちゃんの言葉を否定し、俺はまた言葉を吐く。

 

 

「その結果を渡されて、審査員に言われたよ。『君は、本当にあの一之瀬拓海くんなのかい?』って。それが何を意味するのかは、分かるでしょ?」

 

「…………」

 

「そんな事を言われるくらいなら、才能が無いって直接言われた方がよかった。俺は結局、君が作った歌に甘えていただけだったんだ。それを歌っただけで、自分がすごいんだと思い込んでいた。誰も、俺の歌を聴いてなかった。ギターの音色なんて、聴いてなかった」

 

 

 そして、目の前に立つ彼女に向かって、言った。

 

 

 

「あの歌を奏でていたのは全部──君だったんだ」

 

 

 

 そこまで言って、箍が外れたように涙が目から溢れてくる。情けないのは分かってる。それでも、壊れたこの感情の堰から流れ出すこの液体を止める方法が、俺にはもう分からない。

 

 

「そんな事な」

 

 

 梨子ちゃんが俺に向かってそう言おうとした時、俺の中にあったもうひとつの何かが壊れた。

 

 それはたぶん、ずっと押さえ続けていた感情。言いたくても言えなかった、理不尽な言葉。

 

 今ならそれを言っても、これ以上最低な気分になりそうになかった。だから、すべてぶちまけてしまえばいい。

 

 

「君に、俺の何が分かんだよ」

 

「え…………」

 

「才能のある君に、凡人の俺が抱える悩みの何が分かんのかって訊いてんだよっ!」

 

 

 足元にあるギターケースを蹴り飛ばし、俺は叫ぶ。

 

 当然の如く、突然の激情を目の当たりにした桜色の女の子は、怯えるような目で前に立つ男を見つめていた。

 

 

「本当は君も分かってたんだろ? 俺がプロになるなんて、絶対に無理だって。君はそれを優しさで隠して、言わなかっただけなんだ。才能の無い俺に見かねて、自分の才能をひけらかそうとした。だから俺の手伝いをしてくれたんだろ? んだよ、それ。ふざけんなよ」

 

「た、拓海、くん」

 

「この世は才能がすべてだ。才能が無い奴は、どれだけ努力をしても才能がある奴に勝てない。夢を見ようとしても、それは絶対に叶わない。じゃあ、才能の無い俺はどうすりゃいいんだよっ!」

 

 

 俺は梨子ちゃんに詰め寄り、また最低な言葉を吐く。

 

 

「君だってそうだ。俺がどれだけ努力をしたって届かないものを、最初から持っていた。初めに配られた手札に最高のカードがあったから、それに頼って生きて来られた。大した努力もせずに、その力を手に入れて、俺の前に立ってる。違うかよ、なぁ」

 

 

 分かってる。こんな事を誰かに言ったところで、意味は無い。でも、今は無理だった。我慢をしたらすぐにでも潰れてしまいそうで、誰かに当たるくらいしか、この最低な場所から抜け出す方法が見出せなかった。

 

 

「なんでだよ。なんで何だよっ。なんで俺じゃダメなんだ! どうして君は俺に無いものを持ってんだっ! 俺が、寿命を差し出しても欲しいものを、なんで!!!」

 

 

 もう、誰に叫んでいるのかも分からない。もはや叫んでいる意味すらも分からない。

 

 でも、そうだ。

 

 

 

「頼むよ…………その才能を、俺にくれよ」

 

 

 俺は最初から、そういう最低な人間だったんだ。

 

 

「…………せに」

 

 

 パシャリ、と梨子ちゃんが持っていたビニール傘が地面落ちる。顔を上げると、彼女は。

 

 

 

「あなただって、私の事を何も知らないくせに」

 

 

 

 彼女は、俺を見つめながら大粒の涙を流していた。

 

 

 

「もっとちゃんと────(こっち)を見てよ」

 

 

 

 そう言い残し、梨子ちゃんは階段を上って部屋に帰って行く。俺は彼女を引き留める事など出来ず、ただそこに立ち尽くしたまま、強い雨に打たれ続けていた。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 もう、何もかもどうでもいい。音楽のパートナーすら失い、夢も砕かれ、大切なものがこの手から消えて行った。

 

 それを思うと、何だか悲しさを通り越して笑えてきた。自分が哀れで、情けなくて、どうしようもない。救いようの無い俺に手を差し伸べてくれる誰かはもう、この世界のどこにもいない。

 

 地面に跪き、空を見上げる。無機質な雨空。それはこの心を映しているようで、見つめていると自分が空の一部になったんじゃないか、と錯覚してしまう。

 

 

「…………ぁ」

 

 

 そうして一人佇んでいると、俺の近くに一匹の黒猫が歩いてきた。何故こちらに寄ってくるのかは分からない。 でも俺は、救いを求めるようにその猫へと手を伸ばした。

 

 

「痛、っ」

 

 

 すると、黒猫は突然俺の指に噛みつき、それから素早い足取りでどこかへ消えて行った。

 

 噛まれた箇所から少し、血が出てくる。それは雨に濡れ、ポタポタとアスファルトの上に零れ落ちて行った。

 

 

「…………はは」

 

 

 でももう、何もかもどうでもいい。

 

 この世界に俺の味方など──誰もいないのだから。

 

 




次話/無価値な日々

四輪
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