サクラゼンセン   作:雨魂

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無価値な日々

 

 

 

 

 第二十一話/無価値な日々

 

 

 

 ◇

 

 

 

 あれから俺はギターに触る事をやめた。ギターだけではなく、ピアノの前に座る事も、歌を歌う事も。バイトにさえも行っていない。

 

 これが約一か月間、生活のすべてを音楽に捧げた反動なのか、と思うけれど、たぶん違う。もしそうだったなら、しばらく休めばまたそれらがしたくなるのが普通の反応。

 

 でも今は一ミリたりともそんな事は思わない。音楽だけではなく、もう何もしたくない、と言うのが正しい表現かもしれない。

 

 意味も無く朝に起きて、適当なものを食べて、適当な事をして時間を潰し、寝る。上京した頃では考えられないほど意味の無い生活をしている毎日。こんな生産性の無い毎日を過ごして、何の意味があるのか。俺にはそれを考える思考能力すら欠如していた。

 

 人間が生きるためには理由がいる。

 

 でも、今の俺にはその理由が無い。

 

 だからきっと、今の俺は人間では無いのだろう。

 

 あれから誰とも連絡を取っていない。バイト先の店長には辞めさせてくれ、と連絡は入れておいたが、かかってくる電話のすべてを無視していたので、それもどうなったのかは分からない。最近は面倒なので携帯の電源も落としている。そうすれば、このご時世ならある程度ひとりになる事はできるから。

 

 貯めていた少ない貯金を切り詰めて生活しているが、それもいつ底を尽きるか分からない。たぶん、長く見積もっても一カ月が限界だ。それ以降はまた外に出て働いて、金を稼がなければならない。

 

 けど、それでどうなる? バイトをして金を稼いで、その金で飯を食って、寝て、また次の日が来る。それを繰り返すだけの人生に、未来なんてあるのか? 

 

 ……。……。……。……。……。

 

 もう、考えるのはよそう。これ以上考えたら俺はまた人間から離れてしまう。いちおう人間なのだから、生きたいと思うのは当たり前なんだ。俺はただ、その本能に従っているだけ。

 

 決して、夢から目を逸らしてる愚か者(クズ)なんかじゃない。

 

 

「────っと」

 

「ってぇなこの野郎。前見て歩け、このクズが」

 

 

 駅前のパチンコ屋から帰る途上、向かい側から来た若い連中と肩をぶつけた。今のは周囲に視野を拡げていなかった俺の過ち。

 

 だけど、劣等感に押しつぶされ尽くした俺の脳は、そう捉えてはくれなかった。

 

 

「…………」

 

「おい、聞いてんのかてめぇ」

 

「なに睨んでんだ、殺されてぇのか?」

 

 

 素直に謝らない俺に突っかかってくる不良共。それもそうか。明らかに悪いのは俺なのだから、こちらから謝罪しなければ向こうがキレるのも仕方ない。

 

 

「訂正しろ」

 

「あ?」

 

「俺をクズって言ったのを訂正しろって言ってんだ、クソ野郎」

 

 

 そう言って、その不良に向かって拳を振るった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「…………」

 

 

 誰もいない路地のゴミ捨て場。自分から喧嘩をふっかけておきながらボコボコにされ、しばらくの間そこにぶっ倒れていた。

 

 ゴミの山に背中を預けて、頭上を仰ぐ。ビルに挟まれる細い灰色の空。今にも雨が降り出しそうなそれは、やっぱりこの心の色彩を映し出しているように見えた。

 

 

「何やってんだ、俺」

 

 

 殴られた所為で口の中が裂けて、血の味がする。奥歯が二本、無くなっている感覚もあった。左目は腫れて開かず、右肩が外れかけている。こんな奴を見かけたら交通事故にでもあったのか、と思うに違いない。

 

 パチンコで当てて増えたはずの持ち金も奪われて、これで遂に一文無しになった。残ってるのは口座に残ってる僅かな貯金だけ。まだ一カ月は生きて行けるはずだったのに、これではもう一週間も暮らせない。

 

 

「…………腹、減った」

 

 

 人生の底辺にいても、人並みに腹は減る。どうして神様はこんな風に人間を作ったんだろう。普通に生きていないクソみたいな奴の腹は、一生減らないようにしてくれればいいのに。そうすれば何も食わないで済むし、何もしなくても生きて行ける。

 

 

「ああ」

 

 

 そうか。そんな生きる意味の無い奴を作らないために、神様は俺たち人間の腹を空かせるように作ったんだ。腹を満たしたいのなら黙って働け、と。

 

 それでも働きたくないのなら、黙って〇〇ばいい。空腹っていうのはきっと、その警告なんだろう。

 

 でも、俺にはその意志が無い。生きる理由すらない。それでも、なんとなく生きてはいたい。

 

 だったらもう、この町から去るしかない。全部諦めて、田舎に帰る。そうすれば働かなくとも飯は食えるようになる。いちおう人間として、生きてはいける。

 

 

「いや……」

 

 

 けど、それは無理だ。派手に親と喧嘩をして、一生この家には帰らない、と言って東京に出てきたんだ。今さら地元に帰ったところで、俺の居場所なんてどこにも無い。友達はいるけれど、あいつらに迷惑をかけるくらいなら、この町と心中した方がマシだ。

 

 じゃあ、どうすればいい。一体どうすれば、俺はこの出口の迷宮から出られる? 

 

 

「そうだ」

 

 

 ひとつだけあった。働かなくとも金を得られる方法。何も持っていない俺が、唯一持っているもの。それを手離せば、数日間の生活費くらいは稼げるかもしれない。

 

 そう思い、俺はボロボロになった身体を立ち上がらせ、フラフラとした足取りでアパートへと帰る。すれ違う人たちからは相当変な目で見られた。けど、この町に救急車を呼んでくれる優しい人間はいない。それが、今は都合がよかった。気を遣われたくない時に誰かに気を遣われる事ほど、虚しい物事はこの世に存在しない。

 

 

 

 長い時間をかけて家路を辿り、俺はようやくアパートに到着した。早速部屋に戻って、あれを売りに行こう。

 

 あのギターやピアノを売れば、相当な金が手に入るはず。そうしてまた、意味の無い日々を送ればいい。

 

 そう思っていたのだが。

 

 

「…………?」

 

 

 アパートの前には、一台のトラックが停まっている。見るからに、それは引っ越し業者の車だった。

 

 立ち止まり、遠巻きに作業をしている人たちを眺める。あのボロアパートにまた誰かが引っ越して来るのか。

 

 いや、ちがう。

 

 あれは。

 

 

「…………まさか」

 

 

 俺は痛む身体に鞭を打ち、小走りでアパートへと近づく。そして階段を下りてきた青年に声をかけた。

 

 

「あ──あのっ」

 

「はい? どうしました?」

 

 

 引っ越し業者の青年はこちらを見て、少し訝しむような顔をしたが、俺はかまわず訊ねた。

 

 

「誰の、引っ越し作業をしてるんですか?」

 

「? 失礼ですが、そういうのは個人情報でして、私たちがお答えするのはちょっと」

 

「俺はここの住人です。二〇一号室に住んでるんです。だから、まったく関係のない人間じゃありません」

 

「ああ、それなら私に訊かなくても分かるじゃないですか」

 

 

 引っ越し業者の青年はそう言い、二階にある俺の部屋の隣を指差した。

 

 

 

「あなたの部屋の隣──二〇二号室に住んでる、桜内さんの部屋の引っ越し作業です」

 

 

 

 青年の言葉を聞き、俺の思考は一気に白く染まった。

 

 

 分かっていた。いつか彼女がこのアパートから居なくなるのは。分かっていたのに、俺は現実から目を背け、その事実を忘れようとしていた。

 

 

 

「…………」

 

「ちょ、大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ? 怪我もしてますし、早めに病院に行った方が」

 

 

 足元をふらつかせると、質問に答えてくれた青年が親切にそう言ってくれる。まだ東京も捨てたもんじゃないな、とバカな事を思うけれど、思考は白いままだった。

 

 

「大丈夫、です。ありがとうございました」

 

 

 礼を述べて頭を下げると、引っ越し業者の青年はトラックの助手席に乗り、そこから去って行った。

 

 ひとり、アパートの前で立ち尽くす。引っ越し作業を終えたという事は、俺の部屋の隣にはもう誰も住んでいない。今年の春と同じ状態に戻った、という事になる。

 

 これでまた、俺は一人ぼっちになる。

 

 階段を上り、昨日まで誰かが住んでいた部屋の前に立つ。扉の佇まいは何も変わらない。でも、この扉の向こうにはもう、何も無い。誰かが暮らしていた形跡も、誰かが寝泊まりをしていた記憶も。

 

 

「梨子、ちゃん」

 

 

 俺は結局、あの子に別れを告げられなかった。一番感謝を伝えなければいけなかったあの子に、何も言えなかった。あの日に突き放したまま、別れが来るだなんて。

 

 それも全部、自分の所為。優しいあの子の領域を踏みにじった、愚かな俺が犯した罪の罰。

 

 痛む拳で一度ドアを叩き、自分の情けなさを文字どおり痛感する。せめてさよならくらいは言いたかった。でも、彼女も都内に住んでいるのなら、これから連絡を取って会いに行けるかもしれない。

 

 俺の人生がどれだけ泥に塗れようとも、あの子と過ごした日々だけは汚したくない。だから。

 

 部屋に戻って連絡しようと思い、鍵を開けようとした時、郵便受けに何かが挟まっているのに気づいた。

 

 

「…………手紙」

 

 

 薄紅色の便箋。誰が書いたものであるのかは、読む前から気づいていた。

 

 部屋の鍵を開けずに外から便箋を引き抜き、扉の前に立ち尽くしたまま、俺はその手紙に目を落とした。

 

 




次話/親愛なるあなたへ


三輪
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