第二十二話/親愛なるあなたへ
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『拝啓 一之瀬拓海さんへ
まず最初に、こんな手紙で別れを告げることを許してください。あなたが電話やメールに返事をくれなくても、勇気を出してドアを叩けば直接言うことができたはずです。
でも、勇気の無い私にはこうして手紙を通してあなたに想いを伝えるのが限界でした。優しい拓海くんなら、そんな不甲斐ない私を許してくれると信じています。
先日、ようやく大学の寮の修復が終わり、予定通り私はここから出て行く事になりました。
その前に、あなたにさようならを言いたかったけれど、それは叶わなかった。なら、大学に戻ってからまたあなたに会いに来て言えばいい。そう思っていたのですが、残念ながらそれも叶いそうにありません。
私は、このアパートから大学の寮に戻るのではなく、そのまま海外へ留学する予定を立てていました。
引っ越しのタイミングと私の決意が固まる時期が重なり、行くのなら今しかないと思ったからです。
今年の春までは、怖くてその一歩を踏み出すことができませんでした。私はこのまま芸術の道に進むべきなのか、それともちがった方向へ進んだ方がいいのか、と。どっちつかずのまま、毎日中途半端に生きていたんです。
でも、東京の桜が満開になったあの日。荒川の河川敷で拓海くんと出会って、駅前で再会して、このアパートで隣同士で暮らすようになってから、私の進むべき道筋の向こう側に、明るい光が見えた気がしました。
拓海くんは不思議に思うかもしれません。ですが、これは私があなたの生き方を見て、思ったことなんです。
大好きなことを大好きなまま、自分の好きなようにやる。私がいつしか忘れてしまったその大切な生き方を、拓海くんは綺麗に体現していました。
そんなあなたを見て、私はずっとうらやましいと思っていた。やりたいことがあったのに、その方向に進んだら誰かに文句を言われてしまうんじゃないか、とか。やりたいことをやって生きていたら、いつか誰かを傷つけてしまうんじゃないか、とか。そういう、他人にどう見られるのかばかりを気にしてしまって、私は自分が本当に何をやりたいのかを見失っていたんです。
だからこそ、あなたの自由な生き方がうらやましかった。音楽という大切なものがあって、そのプロの道に進みたいという明確な夢がある。
そして、そこにだけ向かって努力をして、充実した毎日を送っている。他の物事なんてどうでもいい。誰に笑われても関係ない。ただ目標に向かって自分がやりたいことをやる日々。それこそが、何よりも大事にしなければならないものだ、と。それを拓海くんは言葉じゃなく、生き方で私に教えてくれました。
音楽しか見ていなかったあなたはきっと、私がずっとあなたを見つめていたことになんて、気づいていなかったかもしれませんが。
拓海くんと出会って、一緒に音楽を作って、私はピアノを始めた頃の感覚を、少しだけ思い出しました。
あなたの姿を見て、忘れていた大切なことにもう一度気づいたんです。
だから私も迷わないと決めた。やりたいことをやることに理由は要らない。そう自分に言い聞かせて、海外に留学することを決めました。
あなたに出会わなければ、私はきっと今でも迷ったままでした。どこにたどり着くわけでもなく、大海原を彷徨うだけの北極星を見失った船のように、ふらふらと時間を無駄にして歩いていたはずです。
私に一歩を踏み出す勇気をくれて、本当にありがとう。
そして、ごめんなさい。あなたの音楽の夢に、自分勝手に介入してしまって。
私は、あなたが好きなことに触れるべきではなかった。結果的にあなたの夢が前に進んだとしても、そこに私の能力は必要なかったんです。
拓海くんが歌うべき歌は、誰かに聴いてもらうための歌ではない。本当に拓海くんが歌わなければならないのは、あなたが納得するための歌だった。
それを、私はこの手で台無しにしてしまった。あなたに振り向いてもらいたい一心で、あなたには合わないプレゼントを作ってしまった。そして、拓海くんに深い傷を負わせてしまうことになった。
分かってはいたんです。いつか私たちは、また他人同士になる。だから、一緒に曲を作ることに意味は無いって。最後にはあなたを傷つけてしまうことになるって。
それでも、私はあなたに夢を叶えてほしかった。
私が聴きたいと思う歌を作れば、それがすぐに叶うこともよく分かっていた。だって拓海くんは、歌もギターも、本当に上手なんですから。
私はあなたに大切なことを教えてもらった。でも、私はあなたに必要の無いものを与えてしまった。
私があなたと出会う意味はあったけれど、あなたが私と出会う意味は無かった。
あなたの隣の部屋に寄生して、あなたにまで悪いものを憑けてしまった私を、どうか許してください。
そして、できることなら全部忘れてください。
そこに、私がいたことも。
あなたの物語に、桜内梨子という登場人物は必要ない。私と過ごした三カ月をすべて忘れて、明日からは四月のあなたに戻ってください。誰の作る曲でもなく、あなたが作った曲だけを歌って、その素敵な夢を叶えてください。
世界中の誰ひとり耳を傾けなくても。あなたが、私という愚かな女の存在を忘れてしまったとしても。
私だけは、拓海くんを応援しています。
最後に、もうひとつだけ。ずっと言いたかった気持ちをここに記します。無責任で自分勝手かもしれないけれど、後悔しないために書かせてください。
私は、真剣に音楽と向き合っているあなたが好きでした。それはきっと、私だけが思っていることじゃない。あなたの周りにいる人、全員が思っていることです。
だから、いつまでも音楽を大好きでいてください。
何があっても、絶対にやめないで。
私が願うのは、それだけです。
さようなら。
こんな私と、出会ってくれてありがとう。
この想いが、親愛なるあなたへ届くと信じています。
桜内梨子より
追伸 空港に行く前、十年桜を観に行こうと思います』
次話/桜内梨子の正体
二輪