◇
手紙の上に透明の水が溢れ落ちて行く。羅列された文字のインクが徐々に滲み、所々の文章が読めなくなった。
何故、俺はこんなにもバカなのだろう。どうして、こんなに後悔してばかりなんだろう。
目の前にある事しか目に入らず、自分を見てくれている人に視線を向けなかった。誰かの優しさに溺れて、それを与えてくれる人と向き合おうとしなかった。
「バカか、俺は…………ッ」
ひとりで傷ついた振りをして、自分より傷ついていた隣人に気づけなかった。あの子はあんなに近くにいたのに、部屋のドアはたった数mしか離れてなかったのに。
悔しすぎて、俺には泣く事しか出来なかった。こんな情けない男に、あの子ともう一度会う資格など無い。
いつか、この日が来ることは分かっていた。
なのに、自分が傷ついたからと言い訳をして、あの子に伝えるべき言葉をかけなかった。
取り返しのつかない事をしてしまった。すべては、俺が彼女を知ろうとしなかった所為。自分の事だけじゃなく、少しでもあの子の事を知る努力をすれば、きっとこんな事にはならなかった。だというのに。
涙は止まらない。殴られた傷の痛みなんて、今はもうどうでもよかった。楽器を売ろうとしようとしていた事も、何もかも馬鹿らしく思えてならない。
俺は、自分を終わらせようとしていた。すべてを棄てて、自分じゃない誰かになろうとしていた。あの子が好きだと思ってくれた自分を──殺そうとしていたんだ。
「何いつまでもめそめそしてんのよ、気持ち悪いわね。意味わかんない」
声が聞こえ、涙を流したまま振り返る。
そこには、赤いジャケットを着た真姫さんが呆れた顔をして立っていた。
「真姫、さん……っ」
「あたしはね、あんたを慰めるつもりでここに来たんじゃないわ。あの子に頼まれた約束を果たすために来たの。勘違いしないで」
不機嫌そうな顔で真姫さんはそう言う。主語が無い言葉だったけれど、その人物が誰であるのかは、言われなくともだいたい想像がついた。
「ほら、早く部屋に入るわよ。時間が無いのよ」
真姫さんは泣き崩れている俺の腕を取り、立ち上がらせてくれる。言葉の意味は分からなかったけれど、今の俺がこの人に指図できるわけが無い。
俺は言われた通りにドアの鍵を開け、真姫さんと一緒に部屋の中に入った。
◇
「いい? あんたはこれから何も言わずに、あたしの言う事を聞きなさい。これを流してる間、絶対にここから動かない事。瞬きひとつも許さないわ」
部屋に入った途端、真姫さんは俺をソファに座らせ、肩に掛けていたバッグの中から一枚のDVDを取り出してそれをプレイヤーに入れた。
「真姫さん、いったい何を」
「だからあんたは黙ってる。あたしがあの子にしてあげられるのは、これくらいしかないのよ」
「でも、説明も無しに」
「ああもう煩いわね。さっきも言ったけど、あたしは慰める気なんてないわ。でも、あの子は違うって言ってんのよ。あんたが今日まで立ち直ってなかったらこれを見せてくれって頼まれたの。
だからあたしは、
そう言って、真姫さんはリモコンの再生ボタンを押した。そして、同時にある映像が画面に流れ出す。
「スクール……アイドル?」
そこに映し出されたオープニング映像と文字を見て、呟く。これは
なぜ、こんなものをこのタイミングで真姫さんが俺に見せなければならない。まったくもって意味が分からなかった。他の誰かであれば嫌がらせかと思うかもしれない。でも、これを見るように命令しているのはあの西木野真姫さんだ。この人が意味の無い事をする訳が無い。
だからこれは、いま一番俺が見るべきものなのだろう。自分にそう言い聞かせて映像を目を向けた時。
俺は、言葉を失った。
「え────」
そこに、見知った女の子の姿が在ったから。
◇
第二十三話/桜内梨子の正体
『浦の星女学院二年、桜内梨子です。私は小さい頃からピアノを習っていて、主に作曲を担当しています』
カメラが捉えているのは、どこかの高校の音楽室。窓の外に見えるは鮮やかな青と
そこに置かれたグランドピアノの前に座る、一人の女生徒。窓辺から注ぐ日光に照る臙脂色の長髪は、まだ幼さが残る少女の容姿を華やかに飾っている。
『好きなこと、ですか? うーん。絵を描くのも好きだし、お料理も好きです。でも一番は、自分が作った曲をメンバーのみんなと歌うこと、かな。えへへ』
インタビューを受ける少女が浮かべる微笑みには、見覚えがある。この部屋で作曲作業をしている時、くだらない話を聞いて笑うあの子のそれとまったく同じだった。
だが、俺が知っているあの子と画面に映る少女の表情は、何かが違っているように思える。
『最近はラブライブに向けて、毎日練習をして、遅くまで曲を作っています。え? 辛くないか、って? いいえ。ぜんぜん辛くなんてないです。だって、これは大好きなことだから。大好きなみんなのために、大好きな音楽で、私は貢献したいんです』
画面が移り変わり、背景が屋上に変わる。黄色のTシャツを纏い、肩に掛けたタオルで額に浮かんだ汗を拭いながら、桜色の少女はそう語る。
その表情と、周囲に立つ彼女と同い年くらいの少女たちの楽しそうな笑顔。それを見て、今のあの子と画面に映る少女の何が違うのかが、少しずつ分かって来た。
『卒業後の進路…………今はまだ考え中ですけど、芸術の勉強もしたいとは思っています。どこの大学に行くとかはまだ決めてません。もしその道に進むなら、また東京に戻るかもしれません。でも、この内浦から離れたくない、っていう気持ちもあるんです』
再びシーンチェンジ。今度はどこかの砂浜の上で体育座りをしている桜色の少女が映し出された。その背後には眩い日光をキラキラと反射させる美しい青が広がっている。
春に彼女と出会ったばかりの頃、真姫さんに連れられて行ったあの写真展。あそこにあった写真の風景と、いま俺が見ている海の景色は、おそらく同じだった。
そこで少女が語っていたのは、未来の事。現時点で、彼女はそのどちらかを選んでいる。東京にあるこのアパートに住んでいた事実を鑑みて、少女は結局、内浦という場所を離れる事を選んだのだろう。
それが、あの子と画面に映る少女が浮かべる表情が異なる理由、なのかもしれない。
『え? す、好きな男の人のタイプっ? そそそそんななの無いですっ! そういう質問は女子高生にしないでくださいーっ! ………………ちょっとでもいいから答えてほしい? はぁ、そんなに聞きたいんですか? 私が答えたところで、喜ぶ人なんていないのに』
次に映された少女の顔は、俺が知っているあの子のものと同じだった。
恥ずかしがり屋で、純粋で。まるで永遠に穢される事の無い、薄紅色の花のような女の子。
そんなあの子の事が、俺は。
『…………分かりました。じゃあ私が答えたら他のメンバーには訊いちゃダメですからね。好きな男性のタイプ…………そうだなぁ。強いて言うなら、何に対しても一途で真っ直ぐな人、かな。そういう人を見てると、何だか支えたい、って思っちゃうんです。…………やっぱり今のカットしてくださいっ! もう、恥ずかしいよぉ』
そう言って顔を赤らめる姿を見て、少し笑う。見ている者の嗜虐心を擽る表情や声音は、たぶんあの子にしか浮かべられないし出せないだろうな、と思う。
何に対しても一途で真っ直ぐな人。
あの子がそういう異性がタイプなのは知らなかった。そう思うと同時に、今の自分が彼女の理想と相反した生き方をしている事を自覚して、チクリと心が痛んだ。
もし、彼女がそんな男性を好きだと最初から知っていたのなら、俺はこんな荒んだ生き方を選んだだろうか?
…………今はまだ、その答えは分からない。
『音楽の才能なんて、私には無いです。これは全部、小さな頃からの積み重ねなんです。最初からできる人も、何もやらずにできるようになった人も、どこにもいません。ただ好きなことを一生懸命やり続けた結果が、今の自分なんだって、私は思ってます』
また音楽室のシーンに戻る。彼女は真っ直ぐと琥珀色の瞳をカメラに向け、真剣な顔つきで語る。
それは、画面の向こうにいる
『こんな地味な私でも、こうしてアイドルになれたんです。やりたいっていう気持ちがあれば、きっとみんなどんなことだってできると思います。どんな物事でも、結局はそれがすべてだと思うんです』
そのすべての言葉が、無慈悲に刺さる。それは不良に殴られた痛みよりもずっと、ずっと痛かった。
叶えたい何かがあって、やりたい事があって、まだ自由に生きられる権利がある。なのにそれを自らの手で捨てようとしている
そこから流れ出る血は、まだ赤い。
俺はちゃんと────人間を演じられている。
『私は諦めません。自分で叶えたい、って思ったことは全部成し遂げたいんです。この願いがいつか、本当の桜内梨子を形作るようになるまで。誰かが私を見て、自分も頑張ろうって思ってくれるようになるまで。
何もかも、諦めたく無いんです』
そこで俺は初めて、桜内梨子の正体を知った。
◇
一時間ほどのドキュメンタリーが終わり、俺は茫然と暗くなったテレビの画面を見つめ続けていた。
何も言えない。感想を述べれば一億円を貰えると言われても、今のままでは何も答えられなかっただろう。
「これで分かったでしょ。あの子がなんで自分の過去をあんたに語ろうとしなかったのか。あんたがどんだけ、世間の物事に鈍感だったのかが」
真姫さんに睨まれるが、反応できない。彼女の言葉の意味が分かりすぎて、何も言えなかった。
あの子は確かに、自分を語ろうとしなかった。でも、俺が彼女の事を理解できなかった、一番の理由は────
「目を覚ましなさい、拓海」
立ち上がった真姫さんは俺の胸ぐらを掴み、言う。
「今のあんたにできることは何?」
そう言って彼女は首を左右に振り、言葉を訂正した。
「違うわ。今あんたが、
藤色の瞳に問われ、考える。
今の俺が、一番したいこと。できることや、しなければいけないこと、ではない。そのニュアンスは似ているけれど、意味は全然違う。
それは、俺の能力や責任ではない。俺自身の意思が、感情が、心が、何を望んでいるか、ということ。
そんなの、決まってる。俺は。
「──────ッ!」
何も言わずに立ち上がり、真姫さんを残して俺は部屋を出て行く。
間に合うかどうか。あの子がまだあそこで俺を待っていてくれているかどうかは分からない。
それでも俺は────あの子に会いたい。
◇
Interlude/意味わかんない
後輩の部屋に残された薔薇色の髪をした女性。
彼女は開け放たれたままになったドアを見つめてため息を吐き、先程まで後輩が座っていたソファに腰掛ける。
それから、リモコンの再生ボタンを指で押した。
「スクールアイドル、ね」
すると、テレビの画面には先ほどとは違ったアイドルグループの映像が流れ始める。
彼女はひじ掛けに肘をつき、そのスクールアイドルのドキュメンタリーを見つめていた。
『音ノ木坂女学園一年、西木野真姫。作曲を担当してるわ』
「…………ふふ。懐かしい」
画面に映る過去の自分を眺め、彼女は呟く。
「なんで、こんなことをしていたのかしら」
そして、口許に小さな微笑みを浮かべて、
「本当────意味わかんない」
学生の頃から変わらないその口癖を、ポツリと零した。
Interlude/end
次話/最終話
一輪