◇
日が暮れかけた荒川の河川敷。そこにある大きな桜の下に、私は立っていました。
春が過ぎ、薄紅色から新緑へと色を変えた桜。その姿を見ていると、何故か無性に寂しい気持ちになって来ます。三か月前はあんなにも美しかったのに、今ではどんな色の花が咲く木なのかすら分からない。まるで、楽しい日々を過ごした後に必ず訪れる、あの細やかな絶望を、桜は体現しているように思えます。
もうどこにも咲いていない桜を恋しく思い、私は頭上の木を見つめます。
来年の春、私はまだ海の向こうにいるでしょう。この木が再び美しい花を咲かせる季節に、帰って来る事は叶わない。だからせめて、最後に想像しておきたかった。
また来年、東京に春が芽吹き、この十年桜が満開を迎え、その木の下で彼がギターを弾いているところを。
「ねぇ、知ってる?」
私は木の幹に手を触れ、どこにもいない誰かに向かって問いかけます。
「ここでまた会う約束をするとね、十年後に必ず再会できるんだって」
ある写真家が語ってくれた言い伝えを、私は呟きます。
売れない絵本作家が考えるおとぎ話みたいな伝説だけど、何故かそれを美しいと感じました。
だから、私は手紙の最後にここにいる、と記した。
自分で忘れてほしい、と願ったのにもかかわらず、彼がやって来てくれる事を期待している。そんな淡い希望を心のどこかで持ってしまう自分が、私は少し嫌い。
それでも、可能性が少しでもあるのなら、それに賭けてみたかった。そんな奇跡が起こるのならば、いつまでもここで待ち続ける。
でも、時間はそれを許さない。あと少しでここを去らなければならない。じゃないと、飛行機に乗り遅れてしまうから。
もちろん、それまでに彼が来てくれるかどうかは私の意思では決められない。けれど、そこに一縷の望みさえあるのならそれに縋るしかなかった。
……ああ。でももう、行かなきゃいけない。
やっぱり、奇跡は起こらない。あの時のように、奇跡は起きてほしい時にこそ、起こってくれない。
「…………さようなら」
桜の木の幹におでこを付けて、別れの言葉を口にする。
「梨子ちゃんっ!」
それと同時に、後ろから誰かの声が聞こえてきました。
最終話/桜色の別れ
十年桜がある河川敷に到着し、こちらに背を向けている女の子の名前を叫ぶ。
もう間に合わないとばかり思って、諦めながらここまで来た。でも、あの子はまだ待っていてくれた。
名前を呼んでも、彼女はこちらを向いてくれない。桜の方に顔を向けたまま、誰に気づいていないような佇まいで立ち尽くしている。
それでも、俺は彼女に言いたかった。
たとえこの声が届いていなかったとしても、言わなければ一生後悔すると思ったんだ。
「……俺は、何も知らずに君に酷い事を言った。君は才能だけで音楽を書いているって、ずっと思い込んでいた」
荒くなった息が治まるのを待たず、彼女の背中に向かって思いの丈をぶつける。
「けど、ようやく分かった。君は音楽が好きだったから、あの素敵な曲が書けた。俺なんかよりも何十倍も長い時間、音楽に触れてきたからこそ、人を魅了する事ができた。俺はバカだから、そんな簡単な事にも気づけなかった」
「………………」
「最初からそれに気づいていれば、あんな事は言わなかった。でも、君はあえて俺に教えてくれなかったんだろ? 努力をすれば、いつかこんな曲が書けるようになる、って。それを伝えるために、君は曲で諭してくれていた」
その意志を、俺は今さらになって理解した。
少し視野を拡げていれば、すぐに分かった事なのに。
「もう音楽をやめるなんて言わない。二度と言うもんか」
それに向き合っているあなたが好きだ、と言ってくれる人がいる。たとえこれからさようならをするのだとしても、世界のどこかにそんな人がいてくれるのだと思うだけで、進んで行ける。
「これが無くちゃ、じゃない────これが在れば、どんな世界だって生きて行ける。貧乏だって、ボロいアパートで暮らす事になったって、誰にも見向きもされなくったって。音楽さえあれば、
言っていて、心が熱くなってくる。あれ以来、冷めきっていた心の奥底の情熱に、もう永遠に消える事の無い炎が着火するのを感じた。
その火を点けてくれたのは、元アイドルの少女。
名前すらも知らなかったグループの中で、楽曲を作り続けてきたあの桜色の女の子だった。
「それともう一つだけ、君に言いたいことがある」
一歩。十年桜の方へと近づき、俺は言う。
これが彼女と会う最後だという事は理解してる。
口にしてしまえば、取り返しのつかない事もよく分かってる。言葉というツールは形には残らない。でも、誰かがその音声を耳にすれば記憶には残り続ける。
言葉はまるで、枝から離れた花びらのようだ。
切り離れてしまえば、二度とそこには戻れない。
それでも。
「言わなくちゃ絶対に後悔するから、聞いてほしい」
覚悟を決めて、そんな前置きを置く。
届かなくてもいい。返事をもらえなくてもいい。幻滅されてもいい。蔑まれてもいい。これが自己満足であろうが関係ない。
たとえ彼女がこの声に耳を貸さないとしても、俺は俺自身のために想いを口にする。
この先、何年もあの狭い六畳間で一人で生きて行くとして。数カ月だけ隣の部屋に住んだ誰かの事をいつか思い出した時、その記憶が美しい色彩であればきっといつまでも覚えていられる。
春の妖精のような彼女が、そこで音を奏でていた事を────別れても思い出せるように。
「俺、好きな人がいたんだ」
なんて、自分で言っていてもおかしいと思える言葉の使い方で話を切り出す。
もし自分以外の誰かがそんな事を言っていたら、それを聞く人の身にもなってみろ、とダメ出しをするかもしれない。それくらい突飛で勝手な言葉。そうだったとしても、今はこんな拙い伝え方しか選べなかった。
別れの前にする告白の仕方なんて、どんな恋愛の教科書にも載っているはずが無い。
だから今は、自分が言いたい事を言う。
「その人は俺にとって音楽と同じくらい、大切な人。本当は気になっていたのに、自分の気持ちに気づかない振りをしてた。この想いはずっと、ずっとここに在ったのに」
あまりにも近くに在りすぎたから見えなかった、なんて言い訳はしない。たとえ彼女が部屋の隣に越してこなかったとしても、その薄紅色は見つける事はできなかった。
俺が見ていなかったのは周囲にある世界のすべて。ただ音楽だけを見つめていた所為で、足元にずっと咲いていた美しい花にさえも気づかずに生きていた。一生懸命この目を惹こうとしていても、視線に彼女の本質が映る事は無かった。
どんな花よりも綺麗で、傍に咲いているだけで心を奪われてしまう桜のように。自分がその花を好きである事すら分からなくなってしまうくらい、俺は夢中になってしまっていたんだ。
桜内梨子という────桜色の奇跡に。
「好きだよ、梨子」
どれだけ自分勝手なんだろう。すぐそこに居てくれた好きな人と離れ離れになる前に、自分でも気づかなかった想いを伝えるだなんて。馬鹿な俺にはこれ以上の利己を思いつけなかった。
それでも、この言葉だけは伝えなくてはいけない。
「他の誰でもない、君が好き
そう言った瞬間、彼女はようやくこちらを向く。
────遠い、遠い春の香りがする。
風に乗って、どこかからあの花の匂いが届いた。
「ああ」
桜色の女の子は、泣いていた。
泣きながらでも、優しく笑ってくれていた。
「やっと、
近づくと、彼女は両手を身体に回してくる。
俺も、今度はその細い身体を抱き締めた。
それから唇同士がそっと触れ合うだけのキスをする。
離れると桜色の彼女は恥ずかしそうに微笑み、その顔を見てたら俺も照れくさくなって少しだけ笑ってしまった。
「私も」
そう言われ、今度は向こうから唇を塞がれる。予想外の口づけに驚きながらも、触れている場所から伝わる体温に意識を蕩けさせた。
数秒で離れていく柔らかな感触。彼女は琥珀色の瞳から流れ落ちる雫を手で拭い、こちらを見つめて一枚の花びらを落とす。
「大好き、だよ」
いつかは枯れる事を知っていながら咲いた、一輪の徒花。
風に嬲られ散り行くその花びらたちは、枝を離れて春の夢を見た。
そこにはきっと、もうどこにも咲いていないはずの────桜の香りが漂っている。
◇
Epilogue/サクラゼンセン
少女は言った。
「この桜はね、十年桜っていうの。この桜の下でまた会う約束をすると、どれだけ離れ離れになっても十年後にまた会えるんだって」
それから隣に立つ少年の手を離し、彼女は笑う。
「だから約束。いつかまた、必ずここで会おうね」
そして、少女は離れた場所に居る両親のもとへと駆けて行く。
隣り合って座っていた両親は、近づいてきた彼女に気づいた。
「お父さん、お母さんっ。ちゃんとあの子に教えてきてあげたよっ。これで私たちもいつかまた会えるのかな?」
ギターを抱えた父親は一度弦を弾き、少女の頭を優しく撫でる。その隣でスケッチブックを拡げる母親は、彼女の顔を見つめてそっと微笑んだ。
「もちろん。信じていれば、必ず会えるさ」
父親はそう言い、少女を隣に座らせる。
それからまた、アコースティックギターを鳴らした。
「ねぇ、お父さん。その歌はなんて言う歌なの?」
「ああ。これはお父さんが昔、あの桜を見て作った歌なんだよ」
「へぇ、私もそれ聴きたいっ」
少女は無邪気にそう言い、父親はこくりと頷く。
母親はくすくすと笑いながら、二人を見つめていた。
春風が吹く。臙脂色と、それによく似た色の少女の髪を揺らし、風は河川敷のどこかに消えて行った。
「じゃあ、今日だけ特別だよ」
小春日和に切なげな旋律が奏でられる。それは、日本各地に咲くあの美しい花の開花予想日を結んだ線と、同じ名前が付けられた楽曲。
十年前。河川敷に咲く桜の下で作られた、出会いと別れを唄う儚い恋の歌。
あの日。まだ小さな蕾だった花は、大輪の花を咲かせる事を夢見て、春風に揺れていた。
蕾を見つけた春の妖精は、その花がいつか可憐に咲き乱れる事を願い、遠い冬に祈りを捧げた。
月日は流れ、それでも上手に咲けない蕾は、諦めずに花を咲かせようと努力をした。
誰にも見られる事なく、誰にも知られる事のないその場所で、孤独に耐えながら夢を見た。
遠い季節へと飛び立った春の妖精を想い、そこで咲くためだけに陽の光を一心に浴びた。
枯れる事を恐れず、愚直に、ただ真っ直ぐに。
その花は、咲く事を願った。
「聴いてください」
彼はあの春の日と変わらず、隣に座る桜色の女の子に向かって、その曲名を口にする。
ひとつの歌はやがて日本中へと拡がり、各地で鮮やかな花を咲かせ、人々の心を打つ。
それはまるで、あの薄紅色の花びらのように。
だからこそ、彼はその言葉を歌に名付けた。
少しずつ。少しずつ。蕾は花開いていく。
春が来て、妖精は蕾に暖かさを餞る。
そして、花は日本列島を薄紅色に染め上げた。
その訪れを告げるため、鳥は楽しげに空を舞い、風は優しく凪ぎ、月は淡く輝く。
「サクラゼンセン」
そんな世界を眺め、歌は春を奏でた。
これは────桜色の出会いと別れの物語。
サクラゼンセン
終
We never meet without parting.