第三話/桜色の物語
◇
「それじゃ、この辺でいいかな」
「はい。今日はご馳走さまでした」
俺と桜内さんは、二時間ほど猫明亭で話をしてから店を出た。凛さんから『また来てね!』という熱烈な勧誘を受けていた桜内さん。おそらく、彼女がこの辺りに住むのであれば再びあの店に行く機会があると思う。
ゆっくりと来た道を辿り、先ほど再会した駅前のロータリーに到着する。アパートまで送って行ってもよかったけれど、出会ったばかりの男にそこまでされる筋合いは彼女には無いだろう。だから、今日はここまで。
「もし、また歌ってるところを見かけたら声をかけてよ」
「もちろんです。今度はもっと近くで聴かせてください」
桜内さんはそう言って微笑む。なら、彼女がいる時は必ず聴いてくれる人がいるって事か。そんな果たされるかどうかも分からない約束をしてくれる人が一人でもいてくれるだけで、安いこの心は満たされてしまう。
「じゃあ、気をつけてね」
「はい。一之瀬さんも」
そう言い合って別れ、それぞれの家路に着く。俺たちはアパートの場所はもちろん、連絡先すら交換していない。何かを気にしてそうした訳じゃない。ただ、この二度目の偶然を利用して彼女と知り合いになるのは、なんとなく違う気がしたから。
駅前を離れ、いつも通りの閑静な住宅街を一人歩く。最悪な一日の終わり。でも、今日は少しだけ心が高揚している。それは、あの子にまた会えたおかげなのか。
「…………違うな」
そうじゃない。そんなのは言い訳に過ぎない。俺は酒の力を借り、その上で何か理由をつけて、沈んだ気分を無理やりサルベージしようとしていたに過ぎない。
結局、誰と会おうが何を話そうが、現実が変わるわけじゃない。だからこそ、俺は今日も一人で誰もいない夜道をボロアパートに向かって歩いているんだろう。
『でも、素敵な夢だと思います』
出会ったばかりの桜色の女の子は、俺の途方も無い願いを聞いて、そう言ってくれた。気を遣ってくれたんじゃないのは、琥珀色の両眼を見ればすぐに分かった。あの子は、本当に心からそう思って言ってくれた。
けど、いくら夢や目標が格好良くたって、それを追う俺の価値が変わるわけでは無い。豚に真珠、なんて諺があるように、才能の無い凡人が綺麗な大志を抱いたって醜い事は絶対に変わらない。むしろ抱えているものが美しければ美しいほど、醜さが引き立ってしまう。
「何やってんだろうな、俺」
何度言ったか分からない、その無意味な独り言。聞く者は誰もいない。唯一、周囲に漂う春の静寂だけが、虚しさという無言の返事を返してくれた。
アパートの近くにあるコンビニの前を通りかかる。その明かりを見たら急に煙草が吸いたくなり、外に置かれた灰皿スタンドの傍らで、俺はメビウスに火を点けた。
「…………」
口から吐かれ、すぐに宙に消えて行く白い煙を見つめる。十六の頃から吸い続けているこの味。これを吸う度に、地元で馬鹿ばかりやっていた頃の事を思い出す。
あの頃が一番楽しかった。なんて、ダサい事は思わない。だけど、今よりも充実していた事だけは確かだ。
先の事なんて何も考えず、ただ仲間と一緒にギターを弾くのが楽しかった。
「……これさえあれば、どこでも幸せに生きて行けるって、本気で思ってたんだけどな」
灰を落とし、足元に下ろしたギターケースを見つめる。
夢だけで食っていける世の中じゃないってのは、地元を出てくる前に腐るほど聞かされた。でも、俺はそんな大人の戯言には耳を貸さずに、この町に来た。
あれから二年。何も変わらない、自分の身のまわり。それを改めて自覚すると、もしかしたらあの言葉が正しかったんじゃないか、と思ってしまう時がある。
「それでも」
あの大人たちを認めたくない。この町のどこかには、俺と同じような境遇で成功した奴らがいる。だったら、自分にもそれができなければおかしい。
分かってる。こんなの、痛い奴が考える無謀な思考だって事は。だけど、それでも。
「あれ、一之瀬さん」
答えの見つからない問題とともに煙草の火を消した時、聞き覚えのある声が聞こえてくる。
顔を上げるとそこには予想通り、さっき別れたばかりの桜内さんが目を丸くして立っていた。
「どうしたの? また何か用でもあった?」
「いえ。実はアパートがこの辺りみたいで、コンビニの前を通りかかったら、一之瀬さんがいたから」
彼女の手にはピンク色のスマートフォンが握られている。あれで場所を確認しながら歩いてきたんだろう。
「偶然だね。俺のアパートもこの辺なんだよ」
「そうなんですか。意外と近くなのかも知れませんね」
桜内さんの言葉を聞いて、もやっとした何かが心の隅に生まれる感じがする。かなり抽象的だけど、確かにそんな感覚があった。なんだ、これ。
「なら早く帰った方がいいよ。この辺、たまに悪い奴が現れたりするから」
「そ、そうですね。じゃあ今度こそさようなら、です」
ぺこりと頭を下げて、桜内さんは俺の前から立ち去る。そう言うなら送って行けばよかったかもしれない、と少し思うけど、何故かその言葉が口から出てこなかった。
「…………まさか、な」
俺のアパートがある方向へ歩いて行く桜内さんの背中を見つめながら、そう呟く。それから脳裏に浮かんだIFを掻き消すように、頭を軽く左右に振った。
いくらあの子と会う偶然が多くたって、流石にそれはあり得ない。ここまでは本当にたまたま。ただの巡り合わせがよかった、くらいに考えておこう。
それからコンビニで煙草とミネラルウォーターを買い、アパートへ帰る。ちなみにそれらを買ったのに深い意味は無い。ただ、心の隅に生まれたもやっとした感覚が俺にそうしろ、と訴えてきたから従っただけ。断じて、あの子と帰るタイミングをズラすため、なんかじゃない。
そう自分に言い聞かせ、アパートが建っている道の最後の角を曲がった。
そして、俺は心に生まれた感覚の正体を理解した。
「…………何してるの、桜内さん」
「え?」
アパートを見上げている女の子に声をかけると、彼女は驚いた顔でこちらを振り返る。
そんなはずは無い。そう言い聞かせる度に、心はそうだ、と答えを返して来る。
「そこのアパートに、何か用でもあるの?」
「はい。やっと見つけたんです、今日から住むアパート」
安心するような微笑みを浮かべる桜内さん。
しかし、俺の背中にはダラダラと汗が流れていた。
「…………邪な考えとか無しに訊くけど、ちなみにそれはどこなのかな?」
「えっと、このアパートの二階の東から二番目の部屋、みたいです」
スマホの画面に表示されているであろう情報を読み上げ、桜内さんはその部屋を指差す。
残念ながら、そのアパートには見覚えがある。
いや、そんな表現ではまだ甘い。
だって、そこは。
「桜内さん」
「はい?」
何も知らないであろう女の子の名字を呼ぶ。彼女は俺が浮かべている苦笑いの意味が分からないというように、首を可愛らしく傾げていた。
ここまで来たら腹をくくるしかない。っていうか、もう誤魔化したってどうにもなる問題でもない。
街灯の下。俺は一度深呼吸をして、目の前に立つ桜色の女の子と向かい合う。
────これは、俺と彼女が過ごした数カ月の記憶。
「その部屋の隣、俺の部屋だよ」
数秒の沈黙。桜内さんは無表情で再びアパートの二階に目をやり、それからまた俺の方へと顔を向けてくる。
そして。
「ええええええええええええええっ!!!???」
桜色の女の子は、深夜の住宅街に絶叫を響かせた。
────そんな何気ない春に始まった、桜色の物語。
第一章
終
次話/〇木〇真〇