第五話/酔っ払いに飲ませる薬はウコンだけ
◇
「真姫さん大丈夫っすか? マンションまで歩けます?」
「なぁに言ってんのよあんたわぁ。まらまら行けるにきまってんれしょぉ?」
駅前で路上ライブをし終わった後、真姫さんが行きつけのバーに向かった。しかし、店を出る頃には彼女はこんな有り様に。俺とサシで飲みに行くと、真姫さんはほとんどの確率でこうなる。弱いなら飲まなきゃいいのに。
「じゃあ拓海くん、真姫ちゃんをよろしくね」
「はい。ほら真姫さん、マスターに挨拶して」
「じゃあねぇますたぁ。また来るわよぉ~」
出入り口まで見送りに来てくれたバーのマスターに、舌足らずな感じで言う真姫さん。普段がキリッとしてる分、酔った時の彼女はなんというか、ギャップがすごい。そして、この状態の真姫さんどう扱っていいのか、未だに分からないままでいる。
マスターに別れを告げ、俺はべろんべろんになった真姫さんに肩を貸して駅へと向かって歩き出す。今日は吐かないでくれよ、マジで。
「そんじゃぁ次いくわよぉ、今日はまだかえさないんらからぁ」
「それは酔ってない奴が言うセリフです。駅はまで送りますから、なんとか一人で帰ってくださいよ? また外で寝たりしたら今度は本気で怒りますからね」
数カ月前の事を思い出し、忠告する。こんな綺麗な人が道端で寝てたりしたらどうなるのか。そんなの深く考えなくたって分かる。ここは東京。世界一平和な国の首都だとしても、悪い事を考える奴なんて幾らでもいる。
「なぁんであんたにそんなこと言われらくちゃいけないのよぉ」
「心配だからに決まってんでしょうが。あなたみたいに綺麗な人が泥酔してるのを見て、よからぬ事を考える奴がこの世にどんだけいると思ってんすか?」
よろよろと歩きながら、ちょっとだけ説教する。どうせ明日になったらこの人は何も覚えてない。もし覚えてたとしても、間違った事は言ってないんだから別にいいだろ。
そう言った途端、真姫さんは急に立ち止まり、肩を組んだまま横にいる俺の顔を見つめてくる。
紅潮した頬に、艶めかしい朱色の唇。それに、ローズマリーの大人っぽいハーバルな香水の香り。それらを至近距離で見たり感じたりさせられたら、嫌でも心拍数が上がって行く。尊敬してる先輩だからと言ったって、俺が男でこの人が女性である事には変わりない。少しだけ広くなったその胸元に目をやるな、と言う方が罪深い。
「あんた、今あたしのことを女として見てる?」
「なんでそうなるんすか。いいから早く歩いてください。終電逃したらどうするんですか。恵比寿までのタクシー代とか、俺の生活費三週間分くらい吹っ飛びますからね」
呆れながら言うが、真姫さんは足を動かそうとしない。ヒールの高いパンプスを履いてる所為で身長が同じくらいだから、俺たちの視線はほぼ平行に交わる。真姫さんは俺の目を藤色の両眼で見つめながら、艶やかな唇を開いた。
「あんた、いま彼女いないの?」
「は? ちょっと真姫さん。そういうのいいですから」
「いいから答えなさい。いるの? いないの?」
真姫さんに見つめられながら問いかけられ、誤魔化そうとしてもダメだった。この人は頑固だから、俺が答えなければ絶対にここから動こうとしないだろう。いつもはこんな事言わないのに、今日は過去最高に悪酔いしてしまっているらしい。なんてこった。
「…………いませんよ。東京に来てからは、そんな暇も余裕も無かったですし」
どうせ明日になれば忘れてる、と自分に言い聞かせて仕方なく俺は答える。すると真姫さんは予想通りだ、というような表情を浮かべた。
「そう。じゃああたしを部屋に泊めたって、誰も怒らないわよね?」
「な…………酔ってるからって、興味ない男にそういう事あんまり言わない方がいいですよ」
妖艶な微笑みを浮かべてそう言ってくる真姫さんに、もう一度説教を食らわせる。今度は男としての忠告。俺なんかがこの人に触れて良い訳が無いのは重々承知してる。だけど、何かの拍子でタガが外れてしまう可能性だって考えられなく無い。だからこそ、そういう誤解を生みそうな言葉は慎んでほしかった。
俺の言葉を聞いた真姫さんは少し笑い、それから急にぐいっと顔を近づけてくる。
「本当に興味の無い男を、あたしが飲みに誘うと思う?」
そして、耳元で囁かれる蠱惑的なその台詞。それを聞いて、俺の中にある男の本能が反応する。でも、冷静になれ。俺はこの人の事を何も知らない訳じゃない。
「だから、そういう事を軽々しく言っちゃダメですって」
真姫さんが俺をからかっているのはお見通し。人差し指で頬を突いて近づいてきた顔を離すと、彼女は不機嫌そうにその頬をむっと膨らませた。
「もう、だからダメなのよあんたはぁ」
「はいはい、ダメで結構ですよ。ほら歩く歩く」
そう言って、肩を貸した状態で再び歩き出す。真姫さんはまだ隣で『あんたはあたしの事を何にも分かってない』とか、『この意気地なし』とか言っていたけど、俺はそのほとんどを聞き流していた。酔っ払いに飲ませる薬はウコンだけ、と相場が決まってる。一夜の衝動で関係が崩れたらそれこそ後悔する。だから何もしないのが正解なんだ。……そりゃ、したくないわけじゃないけど。
そうして俺たちはようやく駅前に到着する。時刻は既に零時を過ぎている。終電は間もなく来てしまうので、早くこの人をホームまで連れて行かなければ。
「真姫さん、もうちょい早く歩いてください。乗り遅れますよ」
「だからいいのぉ、今日はあんたの家に泊まるのぉ」
「まだ言ってんすか。寝言はベッドに入ってから言ってください」
「だ、誰があんたと同じベッドで寝るのよっ、いみわかんないっ」
「誘ってんのかそうじゃないのかどっちなんすか」
駅の構内に入り、そんな会話をしながらホームへと向かう。すると下り線の終電が来たらしく、乗客が次々と改札を通って来る。恵比寿までは上り線に乗らなければならない。下りの終電が来たのなら、その五分後に上りの終電がくるはず。
そう思いながら、酔っ払った真姫さんを改札の前まで連れて行こうとしたのだが。
「あ……」
「ん? あ……桜内さん」
改札を出てきた桜色の女の子に、またばったり出くわす。この子とは度々こんな感じの出会い方をするので、もうなんとなく慣れてしまった。
しかし、今日はいつもと同じではない。俺の隣にはこの厄介な酔っ払いお姉さんがいる。
「こ、こんばんは、一之瀬さん」
俺と真姫さんを見るなり、ぺこりと礼儀正しく頭を下げてくる桜内さん。真面目な彼女らしいな、とは思うけど、今日は気づかなかった振りをして立ち去ってほしかった。理由は、隣を見れば分かるだろう。
「あっ、ちょっと真姫さん」
「………………」
「……え? あ、あの」
気を抜いた一瞬の隙に真姫さんは俺から離れ、突然現れた桜内さんの方へと歩み寄って行く。それから彼女の頭から足先までを舐めるように観察し始めた。当然、桜内さんはめちゃくちゃ困った顔を浮かべている。その姿はまるで、テリトリーに入って来た子猫の匂いを嗅ぎ、実力を見定めるボス猫さながら。ていうかそのもの。
「なによあんた。こいつと知り合いなの?」
「は、はいっ。知り合い、というか、隣人というかなんというか…………」
「隣人? なによそれ」
「ご、ごめんなさいっ!」
何も悪くないのに、桜内さんは初対面の怖いお姉さんに向かって頭を下げた。気持ちはよく分かる。
すると真姫さんは後ろにいる俺の方を振り向き、明らかに不機嫌そうな眼差しをこちらへ向けてきた。
「ちょっとあんた。それ、どういう事よ」
「話すと長くなるので、とりあえず今日のところは帰ってください」
「帰るわけないでしょ。こんな可愛い子と隣人ですって? いみわかんないっ。理由を聞くまでぜったい帰らないんだからっ」
「や、そんな自信満々に宣言されても……」
改札の前でそう言い、腕を組みながら仁王立ちする真姫さん。答えなかったら最早そこに寝始めるんじゃないか、というほどの勢い。改札を出てくる人たちは何事か、という目線をこちらへ送り、早足に通り過ぎて行く。
真姫さんの背後にいる桜内さんは突然始まったこの状況に動揺して、なんかあわあわしてた。
「だから、この子は近くに住んでるだけで、別に変な関係とかじゃないですから」
「ふーん。近くに、ね」
「そうですよ。変な誤解しないでください。あと、早く帰って」
俺がそう言うと、真姫さんはまた振り返り、背後に立っていた桜色の女の子の方を向く。再び目をつけられた桜内さんはビクッと身体を反応させ、薔薇色の髪をした女性(泥酔)を涙目で見つめていた。
「それ、本当なの?」
「ほ、ほほほ本当ですっ。一之瀬さんとはこの前出会ったばかりで、偶然同じアパートに住んでるだけですっ」
「おーなーじぃ、アパートぉー?」
やばいな。真姫さんが完全にキマった目でこっちを見てくる。そして背後に修羅みたいな幻影が見えた。俺も飲み過ぎたか?
「どーいうことか、詳しく説明してくれるわよねぇ?」
「だ、だからその。知り合った後にたまたま彼女が俺のアパートに越して来て……とにかくっ、俺とその子はただの隣人なんですってっ」
「嘘言いなさいっ。そんなメロドラマみたいな話があるわけないでしょっ!?」
「俺もそう思いますけど、マジなんですよっ!」
手短に経緯を説明すると、予想通り真姫さんは怒り出した。あと、その話を自分で言って嘘臭いと思ってしまったのは仕方ないと思う。
「…………ただの、隣人」
ぼそっと桜内さんが何かを呟く。視線を向けたら不機嫌そうな感じでそっぽを向かれた。俺が何をした。
「あんた、歌が売れないからっていかがわしい事とかに手を出したりしてるんじゃないでしょうね」
「してるわけないでしょうが。逆に訊きますけど、俺がそんなことすると思いますか?」
俺が訊ねると、真姫さんは目線を斜め下に向けてもじもじしながらその質問に答え始める。どうした。
「…………だ、だってあんた、別に顔は悪くないし、まあまあ性格だって良いし……だから、こういう純粋そうな女の子が騙されたり、とか…………」
「え? なんか言いました?」
「うっさいバカっ!」
「何故だっ!?」
よく聞こえなかったので訊き返したら思いっ切り足を踏まれた。しかもさっき踏まれた所。もうそろそろ足の甲にゴルフカップができたかもしれない。理不尽すぎる。
「…………」
どうすりゃこのタイラントプリンセスを止められるんだ、と踏まれた足を押さえながら考えている時、真姫さんとの間に入り込むように、誰かが俺の前に現れた。
「なによ。その男を庇うってことはあんた、やっぱりそいつといかがわしい関係を持ってるんじゃないの?」
「違います。私と一之瀬さんはそんな関係じゃありません」
「桜内、さん」
彼女は凛とした佇まいで真姫さんと向かい合い、迷いの無い声で言った。この子は今、俺を助けようとしてくれている。こんな事に巻き込まれた理由もよく分かっていないだろうに。
「じゃあその証拠を見せなさい」
「そういうものは、まだ出会ったばかりなので在りません。でも、一之瀬さんは悪い事なんてしません」
桜内さんがそう言うと、真姫さんは面を食らった表情を浮かべる。けど、すぐにいつもの切れ長の目に戻った。
「あんたにこいつの何がわかるっていうのよ。言っておくけどね、あたしはこいつが住んでる部屋の畳の下にいーっぱいいやらしい本や物があるのを知ってるんだから。こいつの趣味はすごいんだからね? 知ったらあんたもビックリするわよ。例えば────」
「真姫さんストーップ! つーかなんで知ってんすか!?」
「あんたがあたしに隠し事するなんて、千年早いわ」
「説明になってないっ?! なんか顔が赤くなってるけど、違うよ桜内さん。嘘だからね? こんな酔っ払いが言う事を信じちゃダメだからねっ?」
「ビックリするくらい、すごい趣味……」
「だから違うんだって…………っ!」
口元を手で隠しながらごくり、と唾を飲む桜内さん。もうやだ。お嫁に行けない。帰ったら隠し場所を変えよう、と強く心に刻んだ。
「で、どうなのよ。あんたはこいつの何を知ってるわけ?」
再び真姫さんがそう問いかける。数秒の沈黙。問われた桜内さんは十分な間を置いてから、静かな声で答えた。
「…………分かりません。でも、一之瀬さんがとても良い人だということは知っています」
「…………」
「だから、一之瀬さんは悪い事なんてしません」
桜内さんがそう言った途端、真姫さんはフラフラとおぼつかない足取りで俺の方へと歩み寄ってくる。
そして、そのまま俺に抱きついてきた。
「なっ。ま、真姫さんっ。急にどうしたんすか!」
「はわわわっ。こ、こんな公衆の面前でそんな…………し、失礼しましたっ!」
「桜内さーんっ! お願いだから逃げないでーっ! …………って」
頭を下げてからダッシュで逃げようとした桜内さんを呼び止めたところで、俺はある事に気づく。
もしかしなくても真姫さん、俺に抱きついてきたんじゃなくて。
「……寝てる?」
俺の身体に凭れ、小さな寝息を立てている真姫さん。
おそらく、この人はだいぶ前から限界を迎えていたんだろう。そんなタイミングで桜内さんが現れ、燃え尽きる前のロウソクのように、最後に大きな灯りを放ってから意識の灯火を消した。あんな訳の分からない戯言ばかり吐いていたのも、その所為だと信じたい。
「あんたは、誰にも……」
「はぁ、仕方ないっすね」
寝言を言う真姫さんの寝顔を見ながら、少し笑う。眠った途端、ようやく美人な女性の顔に戻った。ずっと寝てればいいのに、と思ってしまったのは仕方ない。
「ごめんね、桜内さん。変な事に巻き込んじゃって」
「い、いえ。それにしても、この方は」
「ああ、この人は俺のバイト先の先輩、西木野真姫さん。今は酔ってるからあれだけど、普段はしっかりした人だから、誤解しないであげて」
まぁ今後会うかどうかは分からないけど、という言葉は口に出さずに胸の中に仕舞っておいた。
「西木野……真姫、さん?」
俺が寝てる真姫さんを紹介すると、桜内さんは悩むような顔を浮かべて呟く。それはなんとなく、どこかでその名前を聞いた事がある、というような表情だった。
「じゃあ早く起こさないと────」
そう言った瞬間、俺は超重要な案件を忘れていた事に気づく。
「桜内さん」
「はい?」
「今って何時か分かるかな?」
首を傾げている桜内さんに訊ねる。彼女は左手首に付けた銀色の腕時計に目を向け、質問に答えてくれた。
「えっと、零時四十二分です」
それからまた首を傾げる。無理もない。この駅の近辺に越して来たばかりの彼女が、終電の時間を把握しているわけが無いのだから。
そう、この駅の終電時間は零時三九分。つまり。
「どうしよう。終電、行っちゃった」
「あ…………」
本日の運航は終了しました、という文字が流れている電光掲示板を見つめ、俺は言う。当然の如く、肩には恵比寿に住んでいる酔っ払いが未だに寄りかかっていた。
俺たち以外誰もいない駅の構内に、沈黙が流れる。
しかし残念だが、どれだけ現実を直視せずにいても、過ぎ去った時間は戻ってこない。
「桜内さん」
「はい」
俺は傍らに立つ桜色の女の子の名前を呼び、少しの間を空けてから言った。
「……一生のお願い、使ってもいいかな?」
そうして、夜は更けて行く。
次話/隣の部屋の桜内さん