サクラゼンセン   作:雨魂

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内浦の海

 

 

 

 第七話/内浦の海

 

 

 

 ◇

 

 

 

 準備を終えて隣の部屋へ行くと、真姫さんは唐突に『あんたたちは何も言わずについてきなさい』とか言い出し、断る理由も無かったので俺と桜内さんはそれに従う事に。桜内さんはまだしも、付き添いの俺に発言権はおそらく無い。今日のところは(というか毎回だが)、飼い主に忠実なラブラドールみたいに、大人しく真姫さんの後をついて行こう。わん。

 

 

 俺と桜内さんが住んでいるアパートを出て、一行は駅へと向かって歩く。空には青い絵の具しか持っていない水彩画家が、絵筆を水で洗った後のような快晴が広がっている。風も穏やかで、駅へと続く桜の並木道は小春日和の柔和な朝日を浴びながら、傍を通る人々に向かって「おはよう」と、声の無い挨拶をしていた。

 

 満開を過ぎた薄紅色を見上げ、真姫さんの少し後ろを歩く。左隣には視線の先にある花と同じ色彩の空気を帯びた女の子が、俺の歩調に合わせて足を前へ進めていた。

 

 

「そういえばあんたたち、桜は好きかしら」

 

「「?」」

 

 

 目抜き通りを歩いていると、出し抜けに真姫さんが後ろにいる俺たちにそう言って来た。質問の意図が分からず俺と桜内さんは互いに顔を見合わせ、首を傾げる。

 

 

「どうなのよ。好きなの? 嫌いなの?」

 

「そりゃ、その二択だったらもちろん好きですけど」

 

「私もです。桜は一番好きな花です」

 

 

 俺たちは迷いなくそう答える。ていうか、桜が嫌いな日本人なんてこの島にはほぼいないと思うんだが。

 

 その答えを聞いた真姫さんは、頭上に咲く花をちらりと一瞥し、それからまた前を向いた。

 

 

「そ、ならよかった。きっと楽しめると思うわ」

 

 

 そう言い、真姫さんは赤いトレンチコートのポケットに両手を入れて桜並木を進んで行く。俺と桜内さんはまた揃って首を斜めに傾けた。

 

 

 それから駅に着き、俺たちは山手線内回りの電車に乗った。平日の通勤ラッシュを過ぎた時間帯だからか、乗客はそこまで多くない。真姫さんが座席の角に腰を下ろし、その隣に桜内さん俺の順で座る。

 

 どこに行くんですか、という質問はしない約束なので、俺たちはたわいもない世間話をしながら、真姫さんがどの駅で降りるのかだけを気にしていた。

 

 そうして三十分ほど電車に揺られ、次は恵比寿駅、というアナウンスが流れた時、真姫さんは立ち上がった。

 

 

「マンションに帰るんですか?」

 

「違うわよ。いいから黙ってついてくる」

 

 

 恵比寿には真姫さんが住んでるマンションがあるので、もしかして部屋に招待して料理でもご馳走してくれるのか、と想像したんだけど、どうやら違ったらしい。だったらそもそも桜が好きかどうか、なんて質問はしてこないだろうしな。ていうか真姫さん、料理できないし。

 

 恵比寿駅の東口から外に出て、駅前通りを真姫さんはマンションがある方向とは逆方向へと歩いて行く。どうやらやっぱり、目的地は別の場所みたいだった。

 

 アメリカ橋公園とかいう小さい公園の前を通り、T字の交差点の向こうに見えた西洋風の赤茶色の建物の横を抜けて、ようやく真姫さんは足を止めた。ここは。

 

 

「東京都、写真美術館?」

 

 

 その建物を見上げ、桜内さんが名前を呟く。

 

 

「ここが最初の目的地よ。有名な写真家の展示会、今日が最終日だったの。どれも滅多見られない写真ばかりなんだから、来られたことをありがたく思いなさい」

 

 

 真姫さんはそう言って受付の方へと歩いて行く。垂れ幕には、知らない写真家の名前と『春霖と花鳥風月』なんていう写真展のタイトルが書かれていた。

 

 

「こういう所に来た事ある? 桜内さん」

 

「はい。大学が芸術系の学科なので、絵画展はよく行きます。でも、写真展はあまり来たことがないです」

 

「そっか。恥ずかしながら、俺は初めてだよ」

 

「ふふ。一之瀬さんもアーティストを志しているのなら、もっと他の芸術にも触れるべきですよ?」

 

 

 桜内さんは微笑みながらそう言ってくれる。確かにそうかも知れない、と思い、頭を掻いた。

 

 

「なに突っ立ってるの。早く行くわよ」

 

 

 受付で入場券を買って来てくれた真姫さんに促され、俺たちは並んでその美術館に入った。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 三階に上がり、写真展が行われているホールに足を踏み入れる。さっきも桜内さんに言った通り、俺は美術展なんていう高貴な人間が好みそうなものには訪れた事が無い。

 

 音楽も芸術の一部、と言われてしまえばそれまでなんだが、腕に刺青を入れたやんちゃな兄ちゃんたちがゴリゴリの重低音に合わせてダイブとかモッシュをしているライブハウスの光景を芸術だ、というのは無理があると思う。

 

 いや、ジャズとかピアノのコンサートは芸術の趣が強いとは思うよ? けど、俺が好きなジャンルの音楽はどっちかというとエンターテインメント性が強い感じがする。

 

 

「わぁ……」

 

「へぇ」

 

 

 俺と桜内さんはそこにある光景を見て、同時に感嘆の声を零した。

 

 ホールの壁には当然の如く、数々の写真が並べられている。さっき垂れ幕に書いてあったタイトルの通り、この展示会は自然がテーマになっているらしい。

 

 朝露に濡れる菫の花に、夜の闇間に隠れて木の枝の上で寄り添っている二匹のミミズク。遠くに聳える雪山の手前に咲き乱れた黄色の菜の花畑と、夜風に揺れるすすきの延長線上に浮かぶ、大きな満月。

 

 その一枚の写真の前に立っているだけで、自分が実際にそこにいるかのような感覚を覚えたりした。

 

 

「どうかしら。素敵な写真ばかりでしょ?」

 

 

 隣り合って写真を眺めている俺と桜内さんに、真姫さんが小声でそう言ってくる。

 

 

「こういうの初めてですけど、もっと前に来とけばよかったって後悔してたところです」

 

「とっても素敵です。ここにある写真に写ってる場所に行って、スケッチを描いてみたくなります」

 

 

 各々の感想を述べると、真姫さんは満足そうに頷いてくれる。有無を言わさずに連れて来られたけど、なんだかんだで俺たちが楽しめるか不安だったのかもしれない。

 

 

「ならよかったわ。あたしはこの写真を撮った人に挨拶してくるから、あなたたちはゆっくりまわってなさい」

 

 

 真姫さんはそう言って部屋の奥の方へと歩いて行く。さっきも言っていた通り、あの人はこの写真展を開いている人と知り合いらしい。真姫さんは色んな方面の交友関係が広いし、そこまで驚く事じゃないんだけど。

 

 それから俺と桜内さんは二人で写真を見てまわる。彼女も大学で芸術を学んでいるからか、写真を見つめるその目は真剣そのもの。カメラとペンでは使うものがだいぶ違うけれど、瞬間を切り取るという作業自体に対した変わりはない。だからこそ、これらを撮った写真家の心情なんかをトレースできるんだろう。

 

 音楽しか知らない俺には、そこまでの想像はできない。できるとすれば、写真に合ったコード進行や嵌りそうな歌詞を思い浮かべる事くらい。音楽とはだいぶ異なったジャンルかもしれないけど、それに触れて得られるものは、確かにある。

 

 

「あ」

 

「ん? 桜内さん?」

 

 

 そんな事を考えながら写真を見進めていると、ある写真の前で桜内さんが足を止めた。少し驚いた表情。よく分からず、俺も彼女が見つめているその写真へと顔を向けた。

 

 

「…………」

 

「綺麗な海だね。どこの写真なんだろう」

 

 

 桜内さんが見入っていたのは、海の写真。美しい群青と新緑が織り成すそのコントラストは、何故か心の中にノスタルジアを生み出して来る。簡単に言えば、夏休みを全力で謳歌している小学生の時に感じていたあの感覚を、疑似体験しているような気分になった。

 

 確かに綺麗な写真だけど、彼女がどうして声を出して足を止めたのか。それが気にならないと言えば、嘘になる。

 

 

「…………これは、静岡県沼津市の海です」

 

「あ、本当だ。凄いね桜内さん。一目見ただけで分かるだなんて」

 

 

 桜内さんの言葉を聞いてから、写真の右下にある説明文にもそう書かれているのを確認する。写真のタイトルは『夏の思い出』。写真家がどうしてこの写真にその名前を付けたのかは、頭の悪い俺でもなんとなく理解できた。というか、それ以外に見合う題名が思いつかない。

 

 

「高校時代、この辺りの学校に通っていたので」

 

「そうなんだ。なら、桜内さんの地元なの?」

 

「いえ。私は生まれも育ちも東京です。高校二年生の時、両親の仕事の都合でこの町に引っ越したんです」

 

「じゃあ、実家は静岡にあるんだ?」

 

「はい。そうなります」

 

 

 俺の質問に答えた桜内さんは、再び口を閉ざして写真を見つめる。そのどこか物憂げな横顔を見ていると、また問い掛けたい衝動が生まれた。

 

 ただ、それは少しだけ彼女のパーソナルな部分に入り込む事。彼女の方から話さないのなら、黙っていた方がいいのかもしれない。でも、感情に素直なこの心はそれを知りたいと喚き出す。まるで、欲しいものはすべて手に入れなければならない、我が儘なお姫さまみたいに。

 

 

「変な事、訊いてもいいかな?」

 

 

 そう言うと、桜内さんは何も言わずに琥珀色の瞳をこちらに向けてくる。その両眼が質問を許しているように見えたから、思いっ切って口を開いた。

 

 

「桜内さんはどうして、東京に戻って来たの?」

 

 

 沈黙。最初から静かだった広い部屋の一部分に、ひと際深い静寂が流れる。こうなるのは、質問をする前からなんとなく分かっていた。

 

 答えてくれないのなら、それでいい。誰にだって他人に言いたくない事の一つや二つはあるもの。逆に言えば、それが無い人の人生はあまりにも退屈だ。

 

 砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているからだ、と有名な作家も小説に書いていた。心という広い砂漠のどこかに隠された泉があるのなら、俺たちはその泉がどれほど綺麗なのかを想像する。

 

 だからこそ、ミステリアスな人には魅力がある。たとえ、その人が抱えている泉が美しくなかったとしても、それをイメージしている間は綺麗である事を無意識に期待するのが、人間という生き物なのだから。

 

 

 

「…………私は、自分の夢を選んだんです」

 

 

 

 桜内さんはポツリと呟き、また写真へと視線を向ける。

 

 哀愁に染まり出したその横顔にはもう、何も問い掛ける事はできなかった。

 

 

 




次話/十年桜
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