「ご結婚おめでとうございます!」
今日何度となく聞いた耳タコが出来そうな言葉に、俺は笑顔でありがとうと返した。
一般的に結婚式の日というのは笑顔で満ちる日だ。
ならば、過去のこっ恥ずかしいエピソードまで参加者一同に周知されることになる親とか旧友だとかからの祝詞や、酒を飲みすぎて号泣するわ踊り始めるわ全く統制の取れない親族や部下だらけの二次会に閉口していることを俺が顔に出すわけにはいかない。
隣のこころも何が面白いのかドレス姿でくすくすと笑っている。
その点においては、俺は彼女を見習うべきだと思う。
……他の点?それは、議論の必要があるな。
なんのことはない。
今日は、俺と弦巻こころの結婚式だったのだ。
それだけの話である。
今日という日は通過点に過ぎない。
結婚にまで何とか漕ぎ着けたとはいえ、結婚生活はここから始まるのだ。
俺は兜の緒を締め直す必要がある。
独白しよう。
彼女を妻にすることは俺の責務だった。
…とはいえ別に親から定められた政略婚ではない。
いくら俺が有名な大企業の一人息子だからと言って、あの弦巻家のお嬢様と見合いが舞い込むはずがない。
これは俺自身の決断だ。
弦巻を後ろ盾にするのには経営的に大きな意味があった。
ずっとずっと、俺は打算で動いている。
自分の意志で太陽に近付いて、手に入れようと奔走した。
金も時間も、甘言も虚言も使えるものは全て使った。
俺の気の遠くなるほどの投資は実った。
賭けに俺は勝った。
俺はプロポーズを彼女が受けた瞬間に息を吐いた。
やっと目処がついた、いや良かったと心の中で呟いた。
目の前で指輪を嬉しそうに見つめていたこころを前に、俺は驚くほど冷静だったのを思い出す。
雉撃ちに行くと嘘をついて、やっと会場を抜け出した。
勝手知ったる屋敷から外に出て、誰も俺を見ていないことを確認して、やっと溜息をつく。
やはり少し疲れた。
庭の木陰に隠れて、俺は一服する。
普段はコミュニケーションツールとして持っているだけのものだった。
自分から健康を害すわけにもいかないし、こころは匂いに敏感だったので、本当に長い間吸っていなかったように思う。
しかし今は、冷たい空気とともに吸う煙が無性に美味かった。
脳が収縮する感覚。久々に吸ったのでクラリとした。
……臭いは入念に消しておこう。
「消臭剤はいかがですか?旦那様」
俺は、思わず振り向いた。
「……………そのくらい、準備して吸ってるとも」
…いつの間にか、黒服がそこにいた。
黒服の潜む気配に気付くことが出来ると自負していたが、しかし今日は気が緩んでいたようだ。
俺らしくもない、やはり疲れているのだろうか?
「抜け出して嫁に隠れて煙草とは感心しませんね」
「……告げ口でもするつもりかな」
別に浮気をしているわけではない。
このことをこころに伝えられるのはまだいい。
ほんの小さな瑕疵に過ぎない。
確かにミスだろうが、直ちに別れるような事態にはなるまい。
しかし、俺は違う危機感を感じ取っている。
黒服のことは近くで見てきたし、それなりに分析してもいた。
だが、
闇に消えてしまいそうなその黒服の女を、しかし俺はじろりと見る。
案の定と言うべきか、彼女がこの姿に身を包んでいる姿は見たことがなかった。
「…あたしもおめでたい日に水を差すのは嫌なんですけどね?」
「……だろうね」
だが、俺はこの女の顔自体は何度も見たことがある。
弦巻こころの周りにいた、一番近しかったかもしれない友人。
結婚式で友人代表としてスピーチをしていた女。
彼女が打ち込んでいたバンドのDJ……の中の人。
「…黒服になったとは知らなかったよ、奥沢美咲さん」
「あ、やっぱりバレてますよね」
気にした風でもなく、奥沢は頭を掻いた。
黒服の格好でそれをすると、なんというか間抜けだ。
「俺は人の顔はそうそう忘れないよ、こころの友人なら特に」
「へえ?こころの周りを必死に調べたからでしょう」
「……何が言いたいのかな」
この女は俺が思っていることに限りなく近付いている。
だがどこまで追おうと確証には至らないだろう。
俺の内心を言い当てたところで、俺はそれを肯定しない。
この疑いは晴らさなくてもいい、灰色のままにしておけばいい。
「……あたしは、ずっと疑ってるんですよね」
「何を疑ってるんだか分からないけど」
「あなたが、本当にこころを好きなように見えないから」
「……そりゃ、心外だ」
「……あなたは世界を笑顔になんて出来ない、馬鹿げてるって思ってる側の人でしょ?」
「それこそ馬鹿な話だね?」
「……天体観測だって昔からやってたわけじゃないし、絵本なんて全く好きじゃない」
「君の妄想に付き合う義理はないよ」
「ハロハピの歌だって本気で好きだとは思ってない」
「……気は済んだか?」
「なのに!」
奥沢は身を翻して戻ろうとしている俺に、大声を出した。
しかし、言葉が続かない。
目を伏せたまま、呟きが漏れた。
「なのに、なのに……嘘をついてる時は、本当に泣き出しそうな顔をしてる」
俺は、そんな顔をしていただろうか?
気付けば、足は止まっていた。
奥沢が黙ってしまったせいなのか、音が消えたように錯覚してしまう。
「…………悪かったよ」
奥沢の目はサングラスで隠れて見えはしない。
太陽のフィルターの裏で、彼女が泣いているかどうかなんて判別はつかない。
…俺は奥沢にもうまともに相対できない。
俺の一番知られたくなかった、狡猾な打算のさらにその奥にある甘さまで覗かれてしまったのだから。
「…もっと迷わずに言えるように努める」
俺が罪悪感を微塵も表に見せなければ、奥沢は嘘だと見破れなかったのかもしれなかった。
俺が、心情においてまで外道らしくしていればよかっただけの話だったのに。
「……ねえ、なんでなの?分かんないよ」
奥沢の声はかすれている。
「君も相当嘘つきだな、理由くらい分かってるだろ」
「……分かるけど、分からない」
「それ、言わなきゃダメか?」
奥沢は黙ってボイスレコーダーを見せた。
…俺も大概馬鹿だ。
人並みに罪の意識があったばっかりに、これまでの全てを台無しにしてしまった。
台無しにされたにしては肩の荷が降りたような、そんな心持ちがする。
…どうやら俺は誰かに懺悔したかったらしい。
意識しないようにしていたが、墓場に秘密を持ち歩く覚悟もなかったわけだ。
自嘲するしかない。
「……そうだな、なら語るとしようか。少し長くなるけどね」
…随分と長いお手洗いだと思われているだろうか。
そんなことを思いながらも、俺は二本目の煙草に火をつけて、煙が立ち昇って溶けていく夜空を見上げる。
煙が上がっていくのとは逆に、俺の思考は過去に沈降していった。