消えない足跡
「そう言えば朝、不思議なものを見たんだ」
それは合図だ。
一瞬にして俺たちの世界を変える。
「なんだ突然」
俺の言葉に鋭く反応した少年がそう問うた。
俺と同じ高校、同じクラス、そして同じクラブ──ミステリ同好会──に通う、俺の友人である。
もっともミステリ同好会なんてクラブは存在せず、廃部寸前だった文学部の最後の一人である
優香は文学部の存続。
ミステリオタクである俺と薬治は、ミステリ同好会として好きにできる時間と空間と部費。
俺達が文学部員として入部することで、どちらにも都合が良い結末に落ち着いたのだ。
「だから、不思議なものを見たんだよ」
俺は、通学カバンをパイプ椅子に腰掛けさせながら言った。
いつもなら部屋中に響くパイプ椅子の軋みは、連日振る土砂降りの雨に掻き消された。
優香が何も言わず、カーテンを閉めた。
「どんな?」
「もっとも、
「訳わかんない罵倒の仕方だな」
確かに俺の名前は響からして不思議だけど。
りゅうという漢字をこんなに贅沢に使う名前も中々ないだろう。
彼は手元にあった本を捲り始めながら言う。
興味ない振りをして冷静に振る舞う彼のお約束の仕草である。
「これは俺が朝登校してた時の話なんだが」
その時は丁度、雨が一時的に止んでいるタイミングだった。
前触れもない幸運に、俺は帰りの事も考えずウキウキで通学路を爆走。
いくら一通りの少ない道とはいえ、雨上がりの道を自転車で激走というのは無茶だと、水溜まりに突っ込んだ俺は後悔していた。
「馬鹿だろお前」
「うるせえ!」
「だから朝から体操服だったんだ……」
「そんなことはどうでもいいんだ」
「早く本題を話せよ」
相変わらず短気だ。
その上冷静を気取っているから余計につっけんどんに感じる。
「
「足跡?」
優香が不思議そうに聞いた。
「そう足跡。泥のな」
「それの何が不思議なんだ」
呆れたとばかりにため息を着くと、立ち上がりながら手に持っていた本を閉じた。
「いや違うんだって!」
「よく考えてもみろよ!」
「あの土砂降りの後の足跡だぜ!?」
窓の外を見ると、未だに馬鹿みたいに土砂降りの雨がふっている。
俺達がこうして、ミステリ同好会(の皮を被った文学部)の活動をしているのも、この雨が原因にほかならない。
「しかも、丁度長方形を切り取ったみたいに、足跡が三四個着いてんだよ」
歩道を真っ直ぐに直進している足跡だった。
それだけだと何の変哲もない泥のスタンプなのだが、驚くべきことに、その足跡は前にも後ろにも続いていない。
何処からやって来て、何処へ向かったのか。
「ミステリ同好会としては、見逃せないんじゃないか……?」
その言葉を聞いて薬治は、とうとう観念したようにパイプ椅子に腰を下ろした。
あくまでも、「仕方ない」という体である。
「足跡が消えたこと自体は何の疑問の余地もない」
「雨がかき消した」
「当然だね」
優香が同意を示した。
「問題なのは──
「要するに、そこは雨に濡れなかったってことだ」
来た足跡と行く足跡がない以上、その足跡は雨が止む前に着いたことになる。
「早乙女、ここ数日の天気予報はどうなってる?」
「ほぼ毎日雨だったね」
「もっとも、雨が弱くなったり強くなったりしてるし、雨が止んでいる時間帯もあるにはあるらしいよ」
「今朝とかそうだったな」
「……となると、『犯行時刻』を特定するのは難しそうだな」
「『犯行時刻』って……すっかりノリノリじゃねぇか」
「そう呼んだ方が楽なだけだろ」
「妙な言いがかりをつけるな」
どうしてそこまで認めたくないのか分からないが、彼は頑固一徹を貫き通す。
「まぁまぁ」
優香が宥める。
「じゃあ次は『トリック』でも暴くか? 名探偵」
「やかましい」
如何に鉄仮面(を気取っている)薬治でも、名探偵呼びは堪えたのだろう。
あからさまに照れた顔を隠せていない。
「
足跡もすっかり洗い流されただろう。
……とは、ハッキリ言えないけれど。
「もっと早くにだったら、現場検証も出来たのにな」
「うるせぇな……。大体あれは担任のせいだろ」
いつもは面倒くさがってやらないホームルームが今日に限ってあった。
なんでも、近くの高校の女子生徒が行方不明になる事件があっているのだそうだ。
しかもどうやら誘拐事件らしい。
雨具を持ってきていない俺にとって、帰り際の数秒が、まさに緊迫の瞬間だったのだが、無惨にもホームルームの途中で雨は降り始めた。
「でも、雨が降らなければ龍くんこの話忘れてたんじゃない?」
「まぁ、ありうるけどさ……」
確かにこの機会を逃したとしたら、不思議なこともあったな、と記憶のそこに埋もれてしまってもおかしくは無い。
「十中八九、そこに何かが置かれていたんだろうな」
「……アスファルトは、人間のように服を着替えたりできないからな」
そんな独り言が薬治の口から出た。
「おい、一人で推理してんじゃねぇよ」
「お前らが進まないからだろ」
「謎を解きたいなら遅れるなよ」
「分かってるよ!」
相変わらず傲岸な態度。
推理している時のこいつは、いつにも増して他人への配慮、と言うのが決定的に抜け落ちるのだ。
「問題は、そこに何が置かれてたか、だろ!?」
「そうだな」
「龍、お前が言うにはそれは『長方形』だったんだな?」
「おう、その長方形を境にして、色が変わってた」
「机とか?」
優香が、実物を指さして言う。
「外に机があったのか?」
「なんのためにそんな所に置いたんだ?」
「……それは……不法投棄とか?」
「もっと捨て場所があるだろ」
いちおう、そこから少し行けば、不法投棄された粗大ゴミやらが大量に散乱している土地があるにはあるが、防犯カメラや立看板などで対策してある。
「……あと四角いものといえば、冷蔵庫、レンジ、テレビ、本棚とかか?」
「それも全部不法投棄だな」
「……うーん、そうなんだよなぁ」
それに不法投棄なら不法投棄でわざわざ雨の日に捨てに来るだろうか。
雨で人通りがほとんど無くなるとは言え、元々その道の人通りは皆無みたいなもので、昼までさえ人っ子一人いない有様だ。
「足跡三四歩か……」
「となると……」
と、呟いた薬治。
すると、何やら気がついたように小さく声を上げた。
「足跡の感覚はどのくらいだった?」
「あー……、ハッキリとは覚えてないが……」
「それなりにあったな」
「『そいつ』は、歩いている? 走っている?」
「そこまでは断定出来ないだろ」
「歩幅には個人差がある」
「じゃあ濃さは?」
「待って、それが何に関係あるの?」
優香がそんな質問をした。
突然の怒涛の質問攻めに困惑していた俺も、同じ気持ちであった。
「関係あるかは分からない、ただ少しでも情報が欲しいんだ。わかる情報を上げていくだけで、状況が打開できる可能性はある」
「悪いが、濃さって言われても……」
正直な所そこまでハッキリ見ていないのだ。
何せこちとら、自転車で数コンマの間目に入ってきただけなのだから。
「そうか……」
「なら。その長方形は、どのくらいの大きさだった?」
「どのくらいって、多少は大きかったぜ」
「それくらいはあった」
と、この部室にある数少ない家具の一つである本棚を指さした。
この本棚は、頭が天井に届くほど大きい。
丁度この本棚を寝かせると、その長方形くらいにはなりそうだ。
「はぁ!?」
「デカすぎるだろ!」
「そんなこと言われたって仕方ねぇだろ!」
「いや、となるとまた新しい問題が出てくるぞ」
薬治は、途端に顔を顰めて難しい顔を浮かべる。
「問題って?」
見たまんま、深刻そうな状況に、優香共々固唾を飲んだ。
「よく考えてみろ」
「こんな大きいもの、運ぶのに手間がかかりすぎるし、かなり目立つ」
「それなのに、龍は、恐らくそんなものは見ていないんだ」
「ああ、見てないな」
「こいつは毎朝8時くらいにはそこを通るんだよな」
「まぁ、大体そのくらいだな」
「下校は?」
「日によるが……大体4時から6時だな」
「と、するとだ」
「『これ』がそこにありうるのは、朝8時から午後の6時の間」
「しかも、それは足跡ができあがって、雨で泥が流れるまではなくてはいけない」
「早乙女、もう一回──今度は今朝雨が病んだ時間を調べてくれないか」
「了解」
「──雨が止んだのは、午前5時頃だって」
「つまり、それは午前5時まではこれはあったってことだ」
薬治は、本棚を叩きながらそういった。
そう考えると、ありふれた通学路が突然違和感に包まれる思いになった。
「…………」
「ちょっと待て、得意げに推理してはいるがな薬治」
「今まで議論してきた
「…………」
朝5時までこんな巨大なものが歩道に横になってる?
しかも1度外に放り投げている(かどうかはさておき)のに、もう一度取りに来る?
「大体、一度雨ざらしにしておいて取りに戻るなんて、そもそもが不自然なんだよ」
「いや、捨てた人物と、拾った人物が同一人物とは限らないじゃないか」
「ある者は要らないと思って、あるいはやむを得ない事情があってそこに置いておいたが、もう一人がそれが大切だったか、路上に置いておくことが倫理に反するからか、拾って帰ってきた」
「それだけかもしれない」
「いくら大切なものだからって、雨ざらしになったものを取りに帰るかね?」
「じゃあ、
優香が口を開いた。
「……と言うと?」
「いや、例えば、金属製品とか」
「もちろん、家電じゃないやつ」
確かに家電であれば、いくら高価なものであってもびしょびしょになってしまっては、使いたいとは思わないだろう。
「バスタブとかか?」
「んなわけないだろ」
「分かってるに決まってんだろ!」
「……しかしなんだ、金属製……?」
「それでいて電化製品じゃないものなんてあるのか?」
「案外鉄の塊が丸々置いてあったりしてな」
「より不自然だろ!」
「金属の塊なんて…………」
「ん? ……金属の塊……?」
「鉄……鉄の塊……?」
喉の奥につっかえたまま出てこない何かを感じる。
鉄の塊という言葉が、どうやら俺の既視感を刺激したようだった。
もう少しで、出そうだ。
そう思えば思うほど、もどかしくてたまらなくなる。
「
薬治が叫んだ。
「あっ……ちょ! ここまで出かけてたのに!」
「車なら本棚程度のものなんてざらにある!」
「しかも移動が簡単で、雨の日に外にあっても不自然じゃない!」
「なるほど車かー」
「全然分からなかったよ」
優香が感嘆の声を漏らした。
「じゃあ、これで『ナゾ解明!』って事でいいのかな?」
「そうだな。全ての謎は解明されま……した……?」
「どうした薬治?」
やっと大団円、と言ったところで彼の雲行きが怪しくなる。
腕を組み、とても釈然としない表情で、なにやらブツブツつぶやいている。
「何か納得行かないのか?」
「なぁ、龍」
「その道は人通りが少ないって言ってたよな」
「なんでだ?」
「なんだよ、それの何が関係……」
「いいから」
薬治は、俺の声をハッキリと遮った。
「周りが田んぼばっかりなんだ」
「しかも誰も所有者がいない捨てられた田んぼ」
「家もほとんど建ってなくて、ポツポツ廃墟があるくらいだよ」
「その廃墟ってのは」
「『足跡の先に』あったんじゃないのか」
「……え……?」
「あ、そう言えば……!」
その足跡は、歩道に沿ったものではなかった。
思い返せばあの足後の延長線上には、『田んぼ』と、薬治の言う『廃墟』があった。
そして、それを思い出すと同時に、別の記憶が頭を過ぎった。
「
「え? なに? ローファーがどうしたの?」
「廃墟が何か関係あるの!?」
「誘拐事件だよ!」
俺は咄嗟にそう叫んだ。
「ゆ、誘拐!?」
「そうだ」
「大体、おかしいと思わないか? 連日の土砂降りなのに、何処から泥がやってきた? と」
落ち着いた声の薬治。
彼は荷物をまとめながら、丁寧に説明を続ける。
「それは……靴の裏に……」
「そうだろうな」
「泥の後が付くなんて、こんな土砂降りだと多く見積って数分だな」
「ここを徒歩で通るときには、泥なんて全部落ちてるだろうよ」
「もっと言うなら連日の雨で土なんて全部流れ落ちてる」
「……だから……土が付いているとするなら、
自分でも、声が震えていることがハッキリと分かった。
「そこでローファーだ」
「少なくとも俺は女子高生しか履いている所は見たことないが」
「まさかローファーを履いた女子高生が、田んぼに入ってはしゃいでいた訳でも、ましてや農作業をしていたわけでもないだろう」
「脱走……しようとしたの……?」
「そう、そして誘拐犯に見つかった」
「車で追い回される中、知恵を絞って逃げ回ったんだろ」
「だから車で入れない田んぼに入ったんだ」
「いくら狡く逃げても、車と徒歩だ、いずれ詰められる」
「そして、どうしようも無くなった彼女が選んだのは、逃げた先にあった廃墟に逃げ込むという選択肢」
「誘拐犯は、廃墟に面した路上に車を停める」
「こうして出来上がったのが、消えなかった足跡だ」
「……ほら優香、行くぞ」
「行くってどこに……」
「決まってるだろ」
「お金を拾ったら交番へ」
「そして、事件を解決したら交番へ、だ」
「交番って……」
「信じてもらえる訳ないじゃん!」
「何も馬鹿正直に言うことは無い」
「あそこで悲鳴が聞こえた、と一言通報を入れるだけで、それでハッピーエンドだろ」
「俺たちに出来るのはそれだけだ」
薬治は、誰より先に荷物を詰め終わり、誰より先に部室を出ていった。
半分心をここにあらずと言った俺達だったが、咄嗟に彼について行くことを選んだ。
「俺達に出来るのはそれだけだ」
薬治が、そのときどんなに悲しそうな表情をしているかは、その時咄嗟には理解出来なかった。
探偵には命は救えない。
ミステリオタクの彼らしい批判的な表現だと当時は思っていたが、今思えば、それは彼自身を含めた名探偵達への同情ともとれることを、俺──滝川龍──は、何となく悲しくかんじたのだった。