────1927年、東京の夏の日。
風鳴訃堂という、妙な男が、
────そう、事の始まりは、ある女との出会いだった。
工場の排煙が煙る東京、夏の昼下がりだった。
そうして、毎日の鍛錬は欠かさなかった。夜明けに屋敷から出て、川沿いを走り、落ち着いてから素振り、型の確認。
────独りで行い、独りで終える。
本家の人間である己を腫れ物のように扱う家も、東京という人に溢れた街も、どうにも好きになれなかったが、殆どの人間が起きてこないこの時間の鍛錬の時間は好きだった。
だが、ある日から些かその様子が変わっていた。
河川敷、ぼんやりとしたガス灯の光と月明かりだけが照らす空間。川の流れと自身の呼吸、木刀が空を斬る音だけが響く心地よい空間に、闖入者が現れた。
「やぁ、こんな早くに随分頑張るねぇ、少年」
蛇の鳴き声の様な、だが艶やかな女の声が響いた。
「──────」
息を呑む。化かされたか、と思った。
何より、あまりに美しかった。
およそ、人では無いだろうという程の悍ましく美しい
月明かりの下、葡萄染の様な蛇の眼が、此方を覗き込んでいるのを、儂は恐れた。
怯んだ儂は、すぐに頭を振り、女を睨め付けた。白混じりの長い黒髪、派手な花柄の、しかし色味は随分と暗い着物に、履物は最近流行り始めた“はいひーる”とやら。
「何用か、
内心に浮かんだ、訳のわからぬ感情を努めて抑えて、答える。
「ん? 何の用でも無いよ。変わった子がいたから声をかけただけ。あ、お団子食べる?」
「……要らん」
「そ、真面目だねぇ」
何だこいつは。これでも元服した男に向かって少年などと呼びかけ、挙句菓子など恵んでくる。怒りと共に女の元へ駆け寄り、一言強く言ってやろうとした。
「おっと、風鳴の少年。忘れてた」
「────!?」
なぜ、名前を。
流れる様な一連の動き、ただ一文字に振り下ろすのみの単純な技だが、それ故にその速度は鋭く、対処は容易では無い。
筈だった。
「危ないなぁ。ちょっと苗字を読んだだけじゃないか、ただの近所の人だったどうするつもりだい?」
鋒を摘まれるだけで、止められる。
「っ!?」
「驚くなよ、少年。君の周りにはこれくらいできるやつは沢山いるだろ?」
「クソッ動か……」
渾身を込めても動かぬ木刀を、話す判断が出来なかったのは未熟故か。理外の膂力で、儂の肉体は引っ張り込まれる。
「んなっ!?」
「よいしょ、あら、近くで見ると結構可愛い顔」
気がつけば、木刀は奪われた、女に抱き止められていた。女の顔が目と鼻の先まで近づいた。化粧の匂い、香水の匂い、女の匂い、白い肌、今まで受けた事のない情報量に、脳が火花をあげる音がした。
「なっなっなっ……!?」
「顔真っ赤にしちゃって可愛い〜! いいもん拾っちゃったな!」
ケラケラと女は笑う、くらくらする頭の中でその顔が焼き付くような感覚がした。
「んふふふ、ちゅっ」
「!?!?!!?」
首筋に唇が当てられる。困惑しているうちに気がつけば女は離れていた。残る柔らかい感触が、熱さを持って響いた。いや、寧ろ顔全体も熱い。他所から見れば、それはもう無様なほど真っ赤な顔をしているのがわかる。
「きっ、きさ……きさ……!?」
「あはははははは、首筋にキスくらいで随分とまぁ。許嫁くらいいるでしょ?」
「ま、ま、まだそういうことは早いわ!!!」
「え゛真面目、嘘でしょほんの30年くらい前とかなら余裕で子供いてもおかしくないのに」
「時代が違う!!! いつの話をしてるんじゃあんたは!!?」
まだ手だって触れてないんだぞこちとら、何で女だ。……東京は怖い、ここに来て2年だが鎌倉に帰りたくなってきた。
「風鳴の長男が随分とまぁ……」
「……言葉は関係ないじゃろうが!! 儂だって結構頑張っとるんじゃぞ! どいつもこいつも儂の事を……」
「あら可愛い、家族が安芸とかその辺?」
今口走った言葉に気づき、先程まで熱いほど感じていた血の気がサッと引いた。
「……あっ。いや、忘れろ、今のは忘れろ」
「いいじゃん、地元の“言葉”は大事にしなよ。気がついたら無くなったりするもんだからね」
きょとん、とした顔で女が言った。
────初めて聞く、言葉だった。
「……馬鹿にしないんか」
「なんでさ」
「…………田舎者だと、不出来な母の真似事などするなと」
儂は何をペラペラと、敵かもしれない女に話しているのだろうか。先ほどから、勢いのまま喋り続けている気がする、しかし、鬱屈した心の澱は堰を切ったかのように口から流れ出した。
「……家の連中は、儂ら家族のことを当主が気の迷いで連れてきた田舎者じゃ田舎者じゃと遠巻きに馬鹿にしおる。偉い先生どもはどいつもが儂が母様から教わった言葉を汚い言葉と言いおるんじゃ」
4年前、我が家の唯一の男児だからと、母様が死んだ後に群がる親戚共や、偉そうな先生らのニヤケ面が浮かんでは消えていく。
「嫌気がさして、刀一本持って逃げ出した先でも、同じように言われておる。妾の子じゃと馬鹿にされるが嫌で、言葉使いを直したのはよいが、死んだ母様の言葉が儂から無くなっていく気がして喋る気も起きん」
2年前、家宝の群蜘蛛を分取って、汽車に乗った日。分家に転がり込み、道場の師範を叩きのめし、遠ざかられるようになったあの日。
母様が死んでから、嫌な思い出ばかりだった。
「────そっか」
「……すまん、見ず知らずの女に何を儂は言っとるんじゃろうな」
「んーん、いいよ。どんな子も、私の子供みたいなもんだからね!」
離れていた女が、いつのまにか儂を抱き締め、頭を撫でていた。その顔は先程までの蛇の様な愉しげな笑顔ではなく、母の様な、そう、在りし日の自身のそれによく似ていた。
「風鳴の家は、嫌いかい?」
「…………嫌いじゃ」
「そっかぁ、じゃあさ、ここにおいでよ。いつでも話をするからさ」
「ここに?」
「うん、私暇だからね。あと、本当に嫌になったら何処へでも連れてってやろうじゃないか。何を隠そう、私、実は神様だったりするんだぞ?」
やっぱり化かされたか、あるいは美人局か。悪いモノに捕まったかもしれないと、脳裏によぎるものの、何故か、この距離は先ほどより心地よかった。
「──君、名前は?」
「……訃堂、
「ありゃ、随分不吉な名前。お母さん君の事大事だったんだねぇ」
「────」
「あれ? 知らない? 子供の時には縁起の悪い名前をつけると、長生きするのさ。もうそれなりに古くなった習慣だから、そのまま戸籍に書かれちゃったんだろうねぇ」
「私、石楠七岐。
「……本名か?」
「んー……浮世で生きる上での本名、かな?」
「なんじゃ、それは」
思わず、笑ってしまった。
はて、母様が死んでから、こんなふうに笑ったことはあっただろうか?
「あ、笑った。そっちの方がいいね、君」
────そう言って笑う七岐の顔は、月よりも綺麗だったと、昨日のことの様に覚えている。
────しかして、これが言った通りに、大変なことに巻き込まれるきっかけだったのだが。
まぁ、代わりに儂の人生が楽しくなったと思うと、そんなに悪くもない。
はい、シンフォギア十周年おめでとう!!!
うちの風鳴訃堂がどうして綺麗になったのかとかいう話とか、色々なあれ。
風鳴訃堂の言葉遣いって、老人言葉じゃなくて方言なんじゃないかなーって言う発想と、なんであんな護国の鬼になっちゃったんだろとか色々考えた結果の色々です。