リンクス発掘や軍部への貢献で、すでに軍中に権勢を奮いつつあった王小龍は、自ら見出した天才的な操縦技術を持つリンクス、メアリー・シェリーに、ある辞令をつきつけようとしていた。
「技術開発研究所への配置転換を命ずる」
それは事実上、彼女のリンクスとしての未来を剥奪するに等しい処置だった。
「わたしが、技研に? どういうこと?」
相対する女の
彼の執務室に差し込んでいた日は少し前に完全に落ちていて、室内灯の不健康な光と
男は相変わらず紙束を流れる字を追うばかりで、
「財団は、お前がネクストのパイロット……
「……なぜ?」
辛うじて、という印象で冷静を装った女は、厚手のオーク材でを削って組まれた年代物の机を挟んだ向こう側から、男が書類を捲るのを苛立たしげに見ている。
「AMSへの適正値。戦闘シミュレーションでの操縦技術。……誰ひとり、わたしに勝てるやつなんていなかった」
女は少しずつ口調に怒気を含ませながら、それでも努めて男に言い聞かせるようにした。そういう態度をとっていなければ、湧き上がるような怒りを抑えていられない、とでもいったように。
「……」
「お前が求めるままに、わたしは力を示した。全てわたしが一番だった。他の誰にも不可能だと思われていたことも、わたしにならできた。そういう存在が必要だとお前が言った通りに、結果は出したはず」
欧州一帯に勢力圏を築くコングロマリット、バーナード・フェリクス財団──BFFに、メアリー・シェリーの存在がどれほどの恩恵を
すでに支配体制としての体をなさず、腐敗しきった国家というシステムを打倒し、そこに新しく企業による管理体制を作りだす。国家の堕落により力を持ちはじめた強大ないくつかの企業たちの密かな計画。はじめは夢物語にすぎなかったそれは、彼女を含めた極めて少数の
「それで、あのウォルコットとかいう家柄だけのやつらに、わたしの代わりをやらせるつもり? ……バカげてるわ。ふざけないで」
メアリーは自らの優性が絶対無比のものであるという確信を持っている。他人など見下す対象ですらなく、目端にとまることすらない。そんな彼女ですら、このくたびれた初老の男が、どれほどの労力をかけて自分のために働いてきたかという一事だけは理解していた。あるいはその労に報いて、期待に応えてやるのもやぶさかではない、とメアリーをして思うほどに。
だからこそ、この男が自分は必要ないと告げた事実に、メアリーは
散々わたしの才能を利用するために這いずり回り、
ウォルコットという名を聞き、王小龍は僅かに書類を眺める目を止めた。やがて息をするついでといったように口を開く。
「確かにお前は、今いる候補者の中では誰よりも高いAMSへの適性と、しなやかなネクスト操縦センスを持つ。それは疑いない」
王小龍の言葉に感情の抑揚はない。彼がその言葉から感情を読まれてしまうような脇の甘い人間であったら、BFFで権勢を築くことなどなかっただろう。
メアリーにとって貴族的権威主義が
しかし、それがいっそう、メアリーを苛立たせるのだ。メアリーが音を立てて机に両手をつくと、王小龍は一度だけメアリーに視線を投げ、すぐに書類へと戻る。
「……お前は優れている。お前の後を追い、今も調整を続けるウォルコットの姉弟よりも。既にレイレナードで頭角を表しているベルリオーズよりも。
「……わかりきったわたしの評価を聞かせろと言った覚えはないわ」
焦れたように王小龍の言葉を遮った。今、自分の中を駆け巡る、行きどころのない怒りが失望にかわらないように努めている。そういう努力が必要なまでに、この男が次に何を言うか、メアリーは察してしまっていた。
「ゆえに。……だからこそだ。だからこそ、おまえにネクストは相応しくない。技研にいき、テストパイロットとしてその資質を活かせ」
「……納得、できない!」
思ったより大きな声が出た、とメアリーは内心驚いていた。この男に対して感情をぶつけてしまうような未熟さを、少し憎む。だが、それはもう抑える事ができそうもなかった。感情が、言葉を彼女の内側から押し流すように。それは、ほとんど呪いにさえ近い言葉に思えた。
「……わたしを
王小龍が視線を上げた。薄暗い、湿ったような眼で、メアリーを見据えてくる。
……まただ。メアリーは憤った。この男の癖だ。こうやって眼だけで人を黙らせようとする態度が、昔から嫌いだった。拒絶ならば、怒鳴ればいい。否定ならば、言葉で自分を傷つけようとすればいいのだ。他のやつらは、なるほどその眼で睨みつければ萎縮して黙ったのだろう。百戦錬磨の謀略家が発する威圧の視線には、それだけの力がある。
……そんな他のやつらと同じように、わたしを眼だけで黙らせようというのだ、この男は。だからいつだってメアリーは、この男の、この眼に対して黙りはしなかった。それがメアリーの王小龍に対する向き合い方だったし、そんなことはこの男もとっくに知っているはずだ。それなのに。その上で、まだこいつは、わたしをあの眼で黙らせようとする――。
「お前がわたしを必要だと求めたから……わたしに
メアリーは
「……お前はわたしをあの屋敷から解き放つと言った。……それはお前が、わたしが飛ぶに相応しい空を用意できると思ったからではなかったの……?」
……ああ、なんて見苦しい! 自己嫌悪に引き裂かれながら、メアリーは吠えていた。相対する
だが、王小龍と自分の間に横たわるその数歩という距離が、辛うじてそうした行動を押し留めさせていた。
やっと読み終えたのか、王小龍は手にしていた書類束を揃えて机の上に戻し、椅子の背に少し体重を預けた。
その姿がようやくメアリーに対して会話をしてやろうという気になったとように見え、やはり彼女を苛立たせた。
「……お前が、どういきり立ったところで、財団の判断は覆らない」
「財団なんかはどうでもいい。――お前よ。お前がどう思っているのかを聞かせなさい」
「私がどう思うかは、重要ではない」
いいか、と王小龍は続けた。メアリーに対して、含むところなど何もないかのように。それが、論ずる必要さえない説明であるかのように。それは、親が子を
「私たちが始めようとしている戦争の要旨はわかるな。力を失い、権力に腐った国家どもを撃滅し、我々が新たに支配階級として君臨し統治する。それが基本となる。そしてそれを為すために、我々が求めるのは
メアリーの強く
「お前は劣る。ローゼンタールでいう、レオハルトに。或いはイクバールのサーダナに、レイレナードのベルリオーズにも」
言葉を一度切って、王小龍は息を吐いた。わずかに語気が沈んだようにも聞こえる。
「確かに私は、我々の“旗”はお前であればよいと思っていた。そうあるためならば、私はどのような労も惜しみはしなかっただろう。しかし結局、戦士として、兵士として……お前には相応しくなかった。それは複合的な判断だ。お前に咎はない。ただ、そうであったというだけの話だ」
崩れるものか、とメアリーは
あの日、あの屋敷で、朽ちゆく枯れ草のようだったメアリーの手を引いた王小龍の、眼の奥で昏く燃える
「ああそう。結局お前まで、わたしを利用したという事ね。あいつらのように!」
メアリーは二人の間に横たわっていた
メアリーはほとんど机に乗り上げるような形のまま、王小龍の顔をねめつける。感情のゆらぎ。飲み込んだであろう言葉。引きずり出してやる!
「……企業に取り入り、軍で権勢を得るためだけに。わたしをあそこに捕えていた
「……私は」
王小龍の語気が突然強くなった。そう感じてメアリーは黙る。ようやくそうなった。
……そうなのだ。お前ごときに、道理や正論でわたしを言い負かすことなどできるはずがない。おまえ自身の言葉で、自分に何を言うつもりなのかひとつ聞いてやろう、という気になった。
王小龍は椅子に預けていた体を持ち上げ、机に両肘をついた。身体を前に乗り出して、メアリーに近づける。まっすぐ、あの射竦めるような目でメアリーを見ていた。
「……私ははじめから、お前の“
「……ッ!」
メアリーは、一瞬息が詰まるような気分になった。過去、初めてこの男と出会った頃の記憶が、一瞬でメアリーを駆け巡る。あの森。あの館。あの、死んだような日々。
それは、もう二度と誰にも語るまいと決めていた、彼女の決意だ。自分と、あるいはこの男だけの。……そうだったはずだ。
恥辱だ、とメアリーは思った。自分の中にある一番深い、芯の部分を暴かれて穢されたような。
「お前が私に何を期待していたのかは知らんが……いいか、メアリー」
名を呼ばれた。いつ以来だろうか、となぜかそんな事を考えた。王小龍は深く息を吐いて眼を
「お前が私を信じたのはお前の勝手。私が、お前を裏切るのは私の都合だ。つまり……それだけの話なんだ、これは」
王小龍は椅子から立ち上がる。束の間呆然とするメアリーの横をすべるように通り過ぎて、部屋の出口へと歩を進める。これで話は終わりだ、とでもいうようにだ。
「恨めばいい。その権利は残る」
「まだ話は……」
終わっていない、と言おうしたメアリーに、顔だけで振り向いた王小龍の視線が突き刺さった。もう黙れとでも言いたげな、あの眼だった。
「私は忙しい。……お前と、違ってな」
……
この時期の南極は日が昇りきらない
王小龍は部下から上がってきた報告書と、技術部からの図面に殴り書きされた数値を
新型アーマード・コア、ネクストは未だ未完成の兵器だった。いずれ来たる戦争で、国家軍への決定打となるものであるから、当然その存在は国家に対して厳重に秘匿されている。そんな性質の兵器ゆえに、当然それを整備できる
南極には、コジマ技術の
BFFをはじめとする企業連合にとっての“
その基地に定められた王小龍の
「メアリー・シェリーの件はどうなった、王小龍?」
名を気軽に呼んで、青年はソファで脚を組み替えた。
王小龍がサインした受領書を受け取り、内容を改めている。特に興味はないが、時間つぶしに訊いてやろう、というものの言い方である。王小龍は僅かに眉を上げた。
「貴様の知るところではない、ベルリオーズ。目当ての
ベルリオーズと呼ばれた男は王小龍の言葉に何か感じ入ったという様子もなく、息をひとつ吐いただけだ。そうしたいのだが、と吐く息に混ぜて続ける。
「積み込み作業にはまだしばらく時間がかかる。何しろ、お前たちのライフルはやたらと
軍服の襟元、階級章の代わりにレイレナード社の
レイレナード社は、王小龍やメアリーが所属するBFFとは密接な関係にある協力企業だった。この二社にアクアビット社を加えた
王小龍はBFFの軍内外に顔が利く。同じ適性を持つものとして、他社のリンクスと顔を突き合わせることも度々あった。
経営に口を出さない軍人畑の出で、それでいて軍政を理解し、ネクストやリンクスといった新技術に通じている……という特殊な事情もあり、軍内でも各派閥に対して便利なパイプ役といった立ち位置にある。目立たないがある程度の権限を行使できる立場だった。無論たまたまそうなったわけではなく、彼自身がそうなるように慎重に立ち回ってきたのだ。
「不機嫌そうだな、
下の名で呼ばれた。普段のベルリオーズは特別無口な男というわけではなかったが、真面目で、軍人らしい振る舞いを好む男だ。それなりに付き合いは長いが、あまりこういう
「……勝手な推測はよせ。それこそ不愉快だ」
いつのまにかソファから腰をあげていたベルリオーズは、王小龍の執務机の上の資料を勝手に拾い上げる。それを流し読み、すぐに卓に戻した。王小龍は咎めるでもなく、窓の外、薄ぼんやりと光る氷原を眺めた。極夜の氷原は美しいが陰鬱で、今の自分の心のありようを表しているかのようだ。
「……異常なまでに敏感なAMSからの信号受信適性か。それが、機体被弾時、搭乗者への致命的な精神過負荷を引き起こすとはな」
ベルリオーズは己の掌を広げて、一度握る。新型兵器に搭載されたAMSによって、ネクストはこれまでの戦場において主役だったアーマード・コアとは一線を画すほどに精密な機体操縦が可能となった。例えば、これまではあまりに複雑ゆえ、コンピュータ制御による複数パターンの組み合わせでしかなかった機体マニピュレーターの操作なども、ネクストでは人が自分の指を意識せず動かすように緻密に行える。
だが、それは今のところまだ未未成熟な技術だった。無理もない、どう考えてもAMS接続技術はまだ生まれたばかりのもので、ようやく理論が成立するか否かという過渡期にあるにすぎない。選ばれた人間にしか扱う事ができない技術とは、そういうことだ。
……選ばれた、という意味では、メアリーはまさにAMSに選ばれた人間だった。
ネクストと接続されたリンクスが、脊髄を通して機体から送られてくる電気信号を脳内で情報として処理するためには生まれ持っての才能が不可欠であり、またその性能には個人差がある。適性が低ければ機体の操作は鈍重になり、また適性がまったくないものは、いくら訓練したところでネクストの操縦は不可能だ。
そして、メアリーはその点において完璧だった。メアリーがAMSを通して出す命令は極めて精緻に機体へと伝達され、また機体からの情報はほとんど
発見当初は技術者たちを激震させたメアリーのAMS適性だが、その技術の解明が進んでいくほどに、やがて彼女が抱える致命的な欠点を浮き彫りにしてしまった。
その繊細なAMSとの接続能力ゆえに、機体に齎された衝撃やダメージなどの機体情報が、メアリーの脳内に、あまりにもロスレスで”届きすぎて”しまうのだ。
……本来感じるはずのない機体への被弾情報は、メアリーの精神をダイレクトに揺るがし、まるで自らの身体が攻撃に晒されたかのように錯覚する。それは彼女の精神にとって大きなストレスだった。
例えば一撃で機体が大破するような大きな損壊を受けたとして、その際にメアリーの脳が耐えられるかどうかという保証がないのだという。
「彼女の持つ天性のセンスが、彼女の搭乗者への道を鎖してしまうとはな」
惜しむような口調でベルリオーズが言ったのを、王小龍は背中で聞いていた。このベルリオーズという男は、メアリーと同様にAMSに……そしてネクストに選ばれた男だった。最優のAMS適性。メアリーのように過敏すぎる反応を起こすこともなく、かといって他の粗製どものように鈍感でもない。バランスが非常に高いレベルで安定しているという報告は聞いていた。
長時間にわたるAMSへの接続によって生じる、身体拡張に対する違和感。それに耐えられず不安定な精神状態になるものもいる、という噂もアクアビットあたりから流れていた。
だがベルリオーズはAMS接続による精神負荷に対する耐性も高く、また純粋な機体の操縦技術という点においては……たぶん、メアリーより上だろう、と王小龍は思っていた。
理想的なリンクス。それは彼か、ローゼンタールの騎士か。漏れ聞こえる声ではそのようなところだろう。
……だが、と王小龍は否定する。王小龍はメアリーこそが最も優れたリンクスだと確信していた。
すべてを、彼女の素質に賭けてきた。彼女の素質を信じ、その才能を閉塞した世界に叩きつけて、証明する。今の自分の地位は、そうするために掴んだといってもいい。
だが、その才覚は、失われた。
……失われてしまうのを、恐れた。
ネクストに乗れば、メアリーは見事に戦うだろう。
BFFが目指す“国家解体”を達成するだけであれば、たぶん彼女でも不足はない。いや、それだけならば彼女こそが相応しい。
国家という存在の次代を担う支配体制の、その“旗印”として君臨する女帝を見るのは、ほとんど王小龍の夢といってもよかった。
「とはいえあれほどの……勿体ない、と私などは思うがね」
ベルリオーズの溜息混じりの独白に、王小龍は応えない。
王小龍は、国家解体の……その後の世界を考えた。
圧倒的な物量を持つ国家軍を易々と凌駕する、ネクストという兵器。
企業は戦後、倒すべき敵がいなくなったその力をどこに向けるだろうか?
……彼女同様に、選ばれた
ただの一度も被弾できないという致命的な欠陥を抱えた女帝は、いずれ他社のリンクスに打倒されてしまうのではないのか。
それではいけない、と王小龍は思った。
旗印は、
そのように不安定なAMS適性で、旗印たるメアリーを……BFFのネクストを、ネクスト同士の戦場に出す訳にはいかない。それが、王小龍とBFFが下した結論だった。
「開戦までには、代わりを立てる。問題はない」
ベルリオーズは再びソファに背を預けていた。彼が自分の言葉を聞いているのかどうか、王小龍には判断がつかなかった。
自分の口から、自分の本意ではない言葉を絞り出されているようで、嫌悪を覚えた。
誰に向けて、私は弁解しているのか。
「君のプランは、彼女を主軸に据えていたのではなかったのか? 彼女の生命を
一度言葉を切ったベルリオーズは、少し
「彼女を失ったこの状況で、国家軍を相手取って戦争を仕掛けるのは、難儀な仕事なのではないのか」
なるほど、と思った。
ベルリオーズは、王小龍、そしてBFFがこの先どのように戦うつもりなのかを問うために……つまりBFFがレイレナードの同盟相手に相応しいかどうか、計りに来たのだ。
それも恐らく、レイレナードの意を受けてだ。いつもより妙に饒舌で、人の言葉を引き出そうとするベルリオーズに感じた違和感も、そうならば説明がつく。
ベルリオーズやその背後のレイレナードを批難はできまい。リンクス、そしてネクストは戦力において圧倒的劣勢な企業軍が、国家を圧倒するための切札なのだ。
緒戦においてその才能を
「
「代わりになるのか、彼女の?」
BFFには、メアリーと王小龍の他に、才能を見込まれたリンクスがまだ何人かいる。もちろんメアリーのような隔絶した才能を見せてはいないし、まだ調整、訓練が必要ではある。しかし、他企業と比較してもリンクスの総数自体は少なくはないのだ。
ローゼンタール社のように、素晴らしい調整が施された単一戦力に依存しているというわけではない。……だが。
「……」
沈黙。王小龍は、シミュレーションで見た、メアリーの駆るネクストの挙動を思い出していた。
しなやかで、繊細。そして果敢。押すも引くも自在の、あの挙動。戦況を冷静に
「……なるものか。代わりになど、なるわけがない。……メアリーは、私の描く未来のすべてだった」
俯いたまま、吐き捨てるように言った王小龍の二歩先に、ベルリオーズが立っていた。
ネクスト運用計画の根本からの見直しの必要があるとわかった以上、レイレナードはBFFとの提携から手を引いてしまうかもしれない。だが、そんなことは今はどうでもよかった。自らの判断によって失われたものは、自分が想像していたよりももっと大きかったのかもしれない、と王小龍は思っていた。それは、非物質的な面でだ。
「……と、彼は言っているが?」
「……なに?」
ベルリオーズは、王小龍にではない誰かに顔を向けていた。いつのまにか執務室の入口に誰かが立っている。
猫科の動物を思わせるしなやかな体躯。染め抜いたような黒髪。
「ふうん。お前、そんなにわたしのことが好きだったの? 気持ち悪いわね」
王小龍はソファから浮かしかかった身体をなんとか抑え、首だけを彼女に向けた。本来なら、メアリーは技研のテストパイロットとして今はレイレナード・アクアビットとの共同試験場にいるはずだ。
「……何をしに現れた、メアリー」
「何をしに? "私の描く未来のすべて"とまで言った相手に随分な口の利き方ね。ふん、まあいいわ。これをお前に叩き付けるために来たのよ。ありがたく拝読しなさい」
「
つかつかと王小龍の眼前まで進み出たメアリーが押しつけるように差し出した紙束は、共同試験場に設置された、仮想戦闘のバトルログだった。
かなりレベルの高い仮想敵と、厳しい条件下での戦闘をくり返しているのが見て取れる。メアリーのような天才的なセンスを持つパイロットであれば、その数値自体に不審な点はない。……だが、これは。
手にした武器の射程ギリギリからの、
「想定機体ダメージ……ばかな、この数値は。被弾なしだと? これも、ほぼ無傷……仮想とはいえ……ネクスト相手だぞ」
食い入るような格好で、信じられないものを見るような王小龍を真正面から見下ろして、メアリーは不快そうな表情で手を顔の前で二、三度振ってみせた。
「お前、いままでわたしの何を見てきたというの? ほんとうに、愚図なやつ。散々、わたしを好き勝手担ぎ上げてきたくせにね」
ベルリオーズは、いつの間にか姿を消していた。室内灯の不健康な光が、メアリーの表情を逆光にして影を落とす。僅かに笑っているのかもしれない。王小龍は、喉の奥で思わず少し唸った。
「わたしのAMS適性については、勝手に調べたわ。はあ、まったく、これも生まれもった
ツカツカと靴音を立てて、メアリーは王小龍の座るソファの前に立つ。そして王小龍が読んでいた書類をひったくるようにして奪った。顔を上げた王小龍の顔を、真っすぐに睨みつけている。
「お前みたいな劣性の愚図が、たまたま奇跡が起こってわたしと同じ種類の才能を覗かせたせいで、その性能差を目の当たりにして、怖くなってしまったのね。測れないほどの優性を自分の矮小な枠にあてはめて、つまらない心配をしてしまうのも、わからなくはないわ。でもね」
メアリーは、座っている王小龍のスーツのネクタイを
視線の角度は変わっても、それでもメアリーは、王小龍を叱りつけるような強い眼をしていた。
「わたしは選ばれたの。この……
いくらか動揺したものの、王小龍はメアリーの行動にどういう意図があるのか、そのだいたいを理解した。だが、それが正しい選択なのかはまた別の話だ。王小龍は逡巡した。
「要はわたしが優秀すぎるせいでAMSが過敏になったということ。そのせいで被弾してはいけないのであれば、被弾しない戦い方をすればいい。まったく単純な話ね。そのやり方は、お前がわたしを失って思ったよりショックを受けて、ここでめそめそ泣いている間に覚えたわ。
ベルリオーズが出ていったであろう
ベルリオーズが手を回したのか、メアリーが脅したのか。それともその両方だろうか。ともかく、ベルリオーズをはじめとする、レイレナードの精鋭たちと、シミュレーションで戦闘訓練を繰り返していた、ということだ。
それは、自らの才覚に無上の誇りをもつメアリーの性格を考えれば、どれだけ屈辱的だったことだろうか。ほとんど泥を
「いい? もう一度言うわ。私は選ばれたの。ネクストに……AMSに。そして、お前に。だから私は、それにひとつ条件をつけて叩き返してやった」
「……機体を、遠距離戦闘に特化させるというのか」
やっと理解したのか、というふうにメアリーは
「そうよ。いい考えでしょう。だから、そのようにしなさい。お前が、全て整えるのよ。いい? わたしの“
メアリーは背伸びするように身体を伸ばして、王小龍に顔を近づけた。俯く王小龍と、視線が水平に交差する。いつも何かに対して怒っている、いつものメアリーの顔だ。
「お前がなにを考えているのかなんて知らないけれど、お前がわたしを必要としているというのはわかる。まあ、わたしにはお前なんかこれっぽっちも必要ではないけど」
メアリーの目に、炎が灯っている。昏い、世界そのものを芯から焼き尽くすような炎。自分というものが持つ価値を世界に示すためならば、すべてを壊しつくしても構わない。そう確信しているような目だ。
「……でも、あの日、わたしをあの屋敷から拾い上げたのが、たまたまお前だった。それだけの理由でわたしはお前に使われてやることに決めた」
だから、と言ってメアリーはまた王小龍のネクタイを引っ張り、王小龍の頭を自分の眼の位置まで下げさせた。
「お前がわたしを途中で放り棄てるなんて……できると思わないことね」
ふん、と思い切り息を吐いて、メアリーは王小龍に背を向け、乱暴な足取りで執務室を出て行った。
部屋中に散らばったメアリーの戦闘ログ。その書類束が不健康な室内灯に照らされているのを、王小龍はなんとなく見ていた。
極夜の南極に、未だ旭日は来ない。寒く、暗い氷の世界の中、王小龍はやがて登る太陽を夢想していた。
BFFという新たな支配体制のもと、風を
――いま少し、日よ沈んでいろ、と王小龍は呟いた。
ああ、そうだ――。
やるべき事は山積しているのだ。
そう、たとえば、差し当たっては――。
「狙撃兵装の開発、か」
そんなところだろう。