予想より多くの方に読んでもらえて、感想も評価もたくさんもらえて、滅茶苦茶嬉しいです。ありがとうございます。
それに応えられるものにできたかは分かりませんがとにかく現状の精一杯です。
予防線を張っておくと、ヤンデレ成分は相変わらず薄目です。
何とかヤンデレ具合を表現しようとした結果文章や展開に破綻をきたしているかもしれません。
同じことを繰り返しがちな傾向もやはりあるようで、読みづらさもあると思います。
それでも読んでいただければ幸いです。
「嫌です」
この言葉がずっと頭の中を回っている。
あれから数日たったけど美月さんはあの時のことに触れようとしないし、僕もなにがなんだか分からなくなっちゃって触れられやしない。
結局僕が得られたものと言えば、美月さんの明確な拒絶と一滴の涙くらいのものだ。
僕が余分に買った食材もキリよく消費されて、すっかり元通りの生活サイクルになった。
違う点と言えば朝ご飯くらいのもの。
あれから美月さんは更に早起きするようになって、僕の分の朝ご飯も作るようになった。日ごろの申し訳なさに泣かせてしまったことまでプラスされて申し訳なさが最高潮に達していると言ってもいい状況だったのに、そこから更に足されてしまった。
唯一恩返しになりそうな提案は逆効果だったし、申し訳なさを感じるだけで返す術を失って身動きが取れなくなってしまった。
逆に朝ご飯は僕が二人分作る提案もしたけど、また嫌ですと言われてしまってそれ以上何も言えなかった。
そんなこんなで散々、いや、実際の生活としてはお世話してもらうことが増えて天国のようではあるけど、心理的には罪悪感の募る散々な日々だ。
強いて言うなら、あれから美月さんがはっきりとした意思表示をしてくれることが増えたのは良いことだろうか。意思表示というか、嫌です、なんだけど。
考えていると頭が混乱してきて駄目だ。これから僕はどう生きていくのが正解なんだろうか。
お世話されるのが申し訳なくて、美月さんがより幸せになれそうな提案をしてみたけど否定されて、じゃあせめて申し訳なさを軽減する努力をしてみようとしたら全部否定されるときた。
どうすればいいんだろう。そのうえ美月さんとの生活を続けられることに喜んでいる自分もいて頭の中はもうぐちゃぐちゃだ。
自分勝手になれば簡単な話ではある。
申し訳なさを気にしないようにすれば、ただ美月さんと生活できるだけで十分幸せなんだから。
じゃあ美月さんの幸せって何なんだろうか。
少なくとも僕のお世話をすることが美月さんの幸せじゃないはずなんだ。もしそうなら美月さんは働いてない。僕の収入で二人で生きていけるんだから。
だから働くことが美月さんの幸せなんだと思ってた。あの日、就職先が決まった日に見せてくれた笑顔はそう思わせるには十分な笑顔だった。
そうなると僕のお世話は障害になるはずで。与えあえる関係ならまだしも僕は人よりも手間のかかる体だ。重荷でしかない。
だから美月さんを自由に、あるいは他のもっといい関係の下へ後押しすることは美月さんの幸せにつながるはずだった。
もしかしたら美月さんからすればお世話することは金銭的援助への恩返しのつもりかもしれないから、その場合美月さんからそういう提案はしづらい。
なら僕から提案すれば。僕から提案すれば美月さんには何の負い目も無くなる。
はずだったんだ。僕の想像の限りでは、美月さんの幸せはそれだったんだ。
「嫌です」
何回も、何回もそうやって考えた。何回も考えて、全部その言葉に押しとどめられた。
堂々巡りだ。僕は一歩も進めない。ひたすらに同じことを考えて、結局分からなくなることを繰り返してる。時間だけが過ぎていく。
仕事も手につかなくて、適当に昼ご飯を流し込んでまた物思いにふける。
どうしたらいい、僕はどうしたらいい。
また堂々巡りの中にはまっていく。一人で考えたって進みやしないのに。
仕方がないからとりあえず晩御飯の準備をすることにした。
僕にできることと言えばせめて晩御飯を美味しく作るくらいだ。
美月さんが帰ってくるまでは時間があるけど、うじうじ悩んで時間をつぶすくらいなら少しでも美月さんのために使った方が有意義ってものだ。
最初は悩んだ末に答えが出るなら意味があると思ったけど、もう本当は分かってる。僕なんかじゃ美月さんの幸せは分かんないんだ。
料理に精を出すのは悩んでいるよりずっと楽だった。
美月さんのためになることが全部こんなに単純だったらいいのに。
どうしたって美月さんのことが頭から離れないのは変わらないけど、よっぽどましな具合に時間は過ぎていった。
やたらと丁寧に作ったご飯が丁度完成したとき、玄関から鍵を刺す音がした。
美月さんが帰ってきたらしい、急いで玄関に向かうと、丁度鍵が回るところが見えた。
「おかえりなさい美月さん」
「ただいまです、日向さんこれ届いてましたよ、丁度今外で受け取りました」
美月さんが持っていた小包を僕に差し出す。
ああ、多分通販で頼んだお菓子だ。仕事の合間に食べようかと思ってたやつ。
お昼に届くよう頼んだと思うんだけど、時間指定間違ってたみたいだ。
「良い匂いがします、カレーですか?」
「ああうん、丁度今仕事が無くて暇だったから、煮込んでみたんだ、ルーもストックがあったしね」
「わ、それは楽しみですね」
美月さんは少し笑って、僕の車椅子の手押しハンドルを握った。
僕のは電動だし本当はそうする必要はないんだけど、最近の美月さんはこうすることが多い。
それで二人でゆっくり晩御飯を食べて、それから美月さんがお風呂に行くのを見届ける。
いたって平穏な時間だった。
あの日美月さんが見せた涙も、少し苦しそうな表情も、まるでなかったかのように。
いっそ恐ろしいほどに何も変わらない日常がそこにあった。
「日向さん、お風呂入りますよ」
突然、ついさっきお風呂に向かったはずの美月さんの声がした。それも機嫌が良さそうな声が。
「え?」
「日向さん今日お風呂入ってないですよね、お風呂入りますよ」
そうだ、無駄に考え事をした後、晩御飯を作るのに時間をかけててお風呂に入るのを忘れてた。
ただ素直にそう言うと美月さんが手伝おうとするかもしれない。というか言い方的に手伝う気満々だ。
「えっと、僕はいつも美月さんが帰ってくる前に入ってるから大丈夫だよ?」
すると美月さんは不満そうな顔をして言った。
「お風呂、乾いてますよ」
そりゃそうだ、考えたらすぐ分かる。
けど流石に一緒に入るのは避けたい。これ以上お世話されてどうするんだ。
個人的にはお風呂は最後の一線だし、そこを越えたら最早介護という考えに変わりはない。
「えっと、あとから入るから先に入っていいよ、美月さんも早く寝たいだろうし」
「大丈夫です、明日は休みですから」
「いや、でも疲れてるでしょ、僕お風呂入るのそこそこ手間だし、美月さんも大変だろうから、先に入りなよ」
「嫌です、さ、お風呂行きますよ」
何度目かの嫌です、だった。
僕はどうしてもこれに弱くなってしまって、そう言われると押し黙って従うしかなくなる。
何も変わらない平穏そうな日々で、そこだけは前と変わったのだ。
そうだ、堂々巡りで一歩も進んでない僕に一つだけ分かることがあるじゃないか。
美月さん、変わったんだ、嫌ですって言うようになったんだ、僕が、思考のループから抜け出せるとしたらそこしかないんじゃないか。
というかそうだよそもそも美月さんの幸せがわかんないなら本人に聞けばいいじゃないか僕ってホント馬鹿か。
急になんだか全部クリアになった気がして、今なら、嫌です、に正面から向き合える気がした。
「ねえ、美月さん」
「何ですか?話したいことがあるならお風呂で聞きますよ」
「ううん、ちゃんと落ち着いて話したい事なんだ、だからお風呂の前にちょっといいかな」
美月さんはあまり感情を見せない人だ。
いや、無感情とかいうわけじゃなくて、マイナスな感情を僕に見せることがほとんどない。不満そうな顔をすることはあったりするけど、大体の場合は僕のためだ。
だから美月さんの嫌そうな顔とか、ましてや泣いている顔なんてあの時しか見たことがなかった。
でもその瞬間、僕が話をしたいと言ったときに初めて、多分本当に初めてその顔を歪めた。
それまで嬉しそうに僕をお風呂に誘っていたその笑顔が、ほんの少しだけひきつって見えた。
「……嫌です」
それから、またその言葉を吐いた。
でも違った。ここ最近僕がお手伝いを断ろうとしたときに言われていた、はっきりした意思表示とは違った。
どっちかっていうと、そう、あの時のような。
涙と一緒に震えた声で言っていた、あの時の。
僕はひどい奴のなのかもしれない。
このいわば追い詰めたような状況を、チャンスだと思った。
ここ最近の思考のループから脱するための。
僕の渾身の、本当に全身全霊をなげうったつもりの一策を食い止められたあの日に、今戻れるなら。美月さんがあの日と同じ気持ちになっているなら。
他の選択肢を出してみる、ああいや違う。僕が考えたって何にもならないんだから、美月さんに聞いてみるチャンス。
触れさせてもらえなかったあの日の続きを、聞いてみるチャンスだと思った。あとついでにお風呂回避のチャンス。
「ね、こないだはさ、ちゃんと話せなかったから」
「……やめてください」
やっぱりひどい奴だ。美月さんを困らせて。
普段あんなにお世話してもらっといて、美月さんの頼み一つも果たせない。
でも、今解決しないと。僕らの歪な関係を。
これから先でもっと困らせることになるくらいなら、お荷物になり続けるくらいなら、今一瞬困らせる方がよっぽどましだ。
「ごめんよ、でも美月さんに聞きたいことがあるんだ、美月さんには嫌な話なんだろうけど、僕には何が嫌なのかも聞かないと分からなくってさ」
「嫌、嫌です」
美月さんが、耳を塞いでいた。
罪悪感はある。そりゃ死ぬほどある。誰が好き好んで好きな人を傷つけたりするんだ。
でもここで引き下がったら、美月さんに聞く機会を失ったら、本当にどうにもならなくなるから。
一歩、もとい車輪をわずかに回して美月さんに近づいた。
「嫌……!」
僕が何かを言う前に、美月さんは後ずさった。
なんだかんだ美月さんから距離を置かれることって初めてで、僕も思わず手を止めてしまった。
美月さんは後ずさって、それから身を翻してお風呂に消えていった。
しばらくシャワーの音は聞こえてこなかった。
それで次の日の朝、美月さんの休日に僕はナースコールを押せなかった。
余計頭の中はぐちゃぐちゃになって、今美月さんの手を借りると罪悪感に殺されてしまうような気がした。
本当にどん詰まりに辿り着いてしまった。
僕が考えたってどうしようもないのに、美月さんと答え合わせをすることもできない。僕の申し訳なさは出口を失って、僕の中で暴れまわるしかないのだ。
それどころか僕が解決しようとすることが美月さんに嫌な思いをさせてるのもはっきりわかってしまった。
せめて美月さんに迷惑にならないように、手を煩わせないようにするのが最後に残された精一杯だ。
「おはようございます日向さん、起きたら呼んでくださいよ」
だというのに、美月さんはそこにいた。
昨日僕に怯えるように消えていった美月さんが、僕の部屋の扉を開けていた。
「あおはよう美月さん、えっと、今起きたところでさ」
昨日のことなんて無かったみたいに美月さんは普段通りで、僕は混乱して当たり障りのないことしか言えない。
「30分前くらいから起きてたでしょう、朝ごはん出来てますから冷めちゃう前に食べますよ」
そう言って美月さんは僕を車椅子に移す。
僕は結局手を借りてしまう申し訳なさに頭がいっぱいで、美月さんがどうして僕の起きた時間を知ってるかなんて気にならなかった。
美月さんとの休日は本当にいつも通りで、美月さんの甲斐甲斐しいお世話をひたすらに受け続けた。
というか今までよりも甲斐甲斐しいくらいで、ちょっと動こうとすると美月さんが後ろに回り込んでいて、車椅子を押してくれた。
いっそここまでくると嫌がらせでもされてるのかと思えるけど、美月さんの表情は少し嬉しそうで。それを見てしまうと何も言えない僕がいた。
それから数日の間。僕の深まる悩みとは裏腹に、何も変わらない日々が続いた。
何も変わらない日が続いて、そしてその日は唐突にやってきた。
「日向さん、お話ししたいことがあります」
晩御飯を食べ終わってすぐ、美月さんがそう切り出した。あの日と同じ曜日で、あの日より質素な晩御飯のあとだった。
本当に唐突だったから、僕はとっさに何も言えなくて、ただ頷いた。
「えっと、何個か話したいことがあって、とりあえずあの日言おうとしたことから、聞いてもらえますか」
そういえばあの日美月さんも何か言おうとしてて、聞かないままだった。
美月さんがあの日のことに触れたくなさそうだったから聞けなかったけど、本人から話してくれるなら止める理由もない。
「じゃあ、その、日向さん」
美月さんは少しためらっているようだった。わざわざ話したい事なんだし、多分大事なことなんだと思う。僕は相槌を返して、それから美月さんの目をじっと見つめて待った。
「私、会社で新しく発足されたプロジェクトのメンバーになったんです、そこが結構新しいことに挑戦していて、今会社にいる人たちだけでは出来ないことも必要になってくるんです」
意外にも、いや別に話の内容を予想してたわけでもないんだけど、それは仕事の話だった。
美月さんは仕事のことを聞いてみても、楽しくてここに就職できたことを感謝してる、くらいしか話してくれなかったから仕事の内容を聞くのは初めてだ。
「それで、プログラミング周りのこととかもそのうちの一つで、今から会社で人材養成するより、外注するとか実績ある人に声をかけてみるのが良いんじゃないかって話で」
ああ、だんだん話が分かってきた。それでお仕事の話を僕にしてくれてるのか。
「それで、日向さんにそう言った依頼をさせてもらえないか聞くつもりだったんです、あの日は」
「なるほど、そういう話なら全然大丈夫だよ、今は特にどこからも依頼されたりもしてないし、時間はあるから」
「ありがとうございます、でも、その前にまだ聞いてもらいたいことがあるんです」
あ、何個か話したいことがあるって言ってたのは全部仕事関連なのかな。それだったらわざわざ話すのを避けて数日空けてから切り出すことでもなさそうだけど。
「その、日向さんに」
今度は少しじゃなくて、結構ためらっているようだった。少し逸らしたり見つめてきたりする美月さんの視線に向き合いながら、僕は美月さんが言い出すのを待った。
「新プロジェクトってかなり力を入れてるみたいで、お給料もすごくよくなったんです」
少し本筋から離れたところから話し始めたような感じだった。でもそれは割と僕にダメージのある話で、いよいよ美月さんとの関係性が歪になるのを感じた。
「それで、その、日向さんに」
本題に入るのはやっぱり躊躇っているようで、一度美月さんは顔を伏せた。
それからゆっくりと顔を上げると、さっきとは違って、真っ直ぐな目線が僕を捕らえた。
「日向さん、仕事、辞めてください」
「……え?」
何を言われたか全然わかんなくて、思わず聞き返してしまった。
「日向さんに仕事を辞めてほしいんです」
でも二回目も全く同じ内容で。僕が聞き間違えたわけではないことが分かった。
え、本当にどういうことだ。普通に話の流れが分からない。
戸惑っている僕とは正反対に、どうやら何かの覚悟を決めたらしい美月さんは落ち着いていた。
「そんなに悩まなくても大丈夫です、どちらにせよ結果は同じですから」
「それで、私が話したいことは終わったので、日向さんが話そうとしてたこと聞かせてもらってもいいですか」
この間の表情と違って、美月さんは真っ向から僕の話に向き合う姿勢を見せてくれた。果たしてこの数日に美月さんに何があったんだろう。
いや正直美月さんの話が呑み込めなくて頭の中はクエスチョンマークでいっぱいなんだけど、とりあえずここ数日逃し続けてきたチャンスをもらえたことは分かった。
美月さんが向き合ってくれたのに応えなくちゃという思いで、僕はまとまらない頭から少しづつ言葉を吐いた。
「その、美月さんにはお世話になりっぱなしで」
「結婚したときみたいに美月さんが僕の助けを必要としているわけじゃないし」
「美月さんには、もっといい相手がいるし」
「別れたいわけじゃないんだよ、でも別れたいんだ」
「幸せに、幸せになってよ、美月さん」
何日考え込んでもしどろもどろにしか話せない僕が嫌だった。
僕が幸せにするって言えない自分をまた見つけてしまって。
考えていたことの本当の最低限しか言えなくて、逃げ出したくなる。
「でもそれだけが、僕にできることだと思ってたけど、美月さんには嫌がられちゃって」
「だから、どうして良いか分からないんだ、美月さんがどうしてほしいのかもわからなくてさ」
「どうしたらいいかな、教えてほしいんだ」
情けなかった。結局美月さんに頼るしかなくて。
覚悟を決めて話した美月さんとは反対で、話すごとにしどろもどろになって。目も合わせられなくて。
「僕にはさ、僕には、足を引っ張ることしかできないからさ」
「美月さんの邪魔になるくらいなら、離れてしまいたくて」
「本当に、どうしたら、いいのかな」
嫌になる。あの日とは反対に、僕が目に涙をにじませていた。どうしてか涙が流れてきた。こんなダメなところを見せられて泣きたいのは美月さんの方かもしれないのに。
「そうだったんですね、別れたいって言うから、私勘違いしてたみたいです」
優しい声音だった。さっきまでの美月さんの震えるように張り詰められた声とは違って、僕を安心させようとしてくれているのがわかる。
「なんでそう思ったのかはまた問い詰めたいところですけど、今はいいです」
「日向さんが自分のことをどう思ってるかは分からないですけど、私にとって日向さんに代わる人はいないですよ」
「日向さんは分かってないのかもしれないですけど、私は今でも日向さんにお世話になりっぱなしですし、いくら日向さんのお世話をしたところで到底返せたものじゃないですから」
杞憂ですよ、と。そう言ってくれていた。
納得はできない。どう考えたって今圧倒的にお世話になっているのは僕で、美月さんが優しいからそう言ってくれてるだけなんだと思えた。
「それに損得の話じゃないですよ」
「日向さん、もしかしてこれも分かってないんですか」
「私、日向さんのこと好きなんです、えっと、愛しています、私は、幸せですよ」
突然に。それは本当に突然に。
救われた気がした。
単純な話。そして単純な男だった。
それだけで嬉しくなって、それだけで色んな罪悪感とかも溶けていくような気がした。
「逆に、日向さんは違うんですか、損得勘定で私といるんですか?」
そんなわけなかった。じゃなかったらこんなに悩まなかったんだ。
ああ、でもそういえばそうだった。
僕らはこうして互いの感情を確かめたことがなかったんだ。
それですれ違ったんだ、思ってることはやっぱりちゃんと伝えるべきだったんだ。
「違うよ、僕も、僕も美月さんのこと愛してるよ」
顔を上げて、美月さんの目を見て、はっきりと伝えた。
恥ずかしいとか、そんなことはどうでもよかった。初めて、僕らは夫婦だって実感がわいてくるようだった。
見つめた美月さんは綺麗に微笑んでいた。綺麗な笑顔だった、本当に。
「でも良かったです、本当は日向さんが私のこと嫌になっちゃって離れたがってるのかなと思ってましたから」
「そんなことないよ、絶対ない、本当にごめんね僕が一人で考えこんじゃったみたいでさ、もっとちゃんと相談したりすればよかったね」
「良いんですよ、色々先走って考えてたのは同じみたいですから、でも」
美月さんは何か気になることがあるようだった。少し残念そうな顔をしているように見えた。
「でも、そうですね、もう大丈夫なんですよね」
「ああ、でも仕事も」
「気になることがあるなら何でも言ってよ、せっかくの機会だしさ」
美月さんが少し動揺しだしたように見えたから、聞いてみることにした。さっきの仕事の話に関係ありそうで気になったのもある。
「なんでもいいよ、本当に今なら何でも聞ける気分でさ」
僕がそう言うと美月さんはじっと僕を見つめてきた。
じっと見つめて、しばらく黙っていた。けど顔を逸らさずにじっと僕のことを見つめていた。
それからさっき話をした時とは違って、弱々しい口調で少しづつ話し始めた。
「あの日、日向さんのお話を聞くまでは、単純に一緒に仕事が出来るなら楽しいだろうなって思ってたんです。お給料が上がったのも恩返しできる気持ちで、だから新プロジェクトに配置されたのも本当に嬉しくて」
「でも別れようって言われて、日向さんが離れてしまうかもしれないって、もしかしたら他の人のところに行くのかもしれないって思って、それが嫌で」
「日向さんを手放したくなくて、他の人と接する機会が無ければ日向さんが奪われる心配もなくて、だからプロジェクトのお仕事を日向さんに依頼したらどうかってお話ももう断ってあって」
「でも日向さんがしてるお仕事の関連の人は引き剥がせないから、お仕事辞めてもらえば心配も無くなるかなって思ったんです、それに私の収入で二人で生きていくことも出来そうですし」
「だけど日向さんが別れたいわけじゃないって分かったから、お仕事はやめてもらわなくても大丈夫なんです、大丈夫なんですけど」
そこまでしどろもどろになりながら話して、美月さんはまた黙り込んだ。
どうやら本当に迷惑をかけたみたいだった。そうか、僕が美月さんのためを思って提案したことがこんなに困らせてたのか。本当にそれは申し訳ない。
「でもやっぱり、お仕事辞めませんか」
ぽつりと美月さんがそう言った。
「わかってます、日向さんを信じてないわけじゃないんです、さっき言ってもらった言葉に嘘はないって分かってます」
「それでも、不安なんです、あの日のことが脳裏をよぎるんです、どこかに行ってしまうんじゃないかって考えちゃうんです」
二年間死に物狂いで勉強していた時も、それからひたすら僕のお世話をしながらも、一度も美月さんが零したことのない弱音だった。
僕のせいで美月さんに背負わせてしまったものだ。
僕はただでさえお金を稼ぐことでしか美月さんにしてあげられることがないのだ。
ここでこの申し入れを受け入れては、本当にただお荷物にしかならない。
でも、これは僕が美月さんに背負わせてしまったもので。これは初めて美月さんが零してくれた弱音で。これを無視してしまっては美月さんのことを好きだなんて言う権利もない気がした。
「ごめんね、本当にごめん、そこまで考えさせちゃってさ」
ごめん、といった瞬間に美月さんが一瞬震えたように見えた。でも大丈夫だから、断るわけじゃないから。
「あのさ、他の人と接してるのが嫌なら、美月さんからだけ仕事を受けるのはどうかな」
これは折衷案だ。
美月さんはたとえ僕が何もできなくても、美月さんのそばにいれば良いと言ってくれてるんだと思う。
僕も美月さんが好きだと言ってくれたことを信じられないわけじゃないけど、それでもやっぱりお世話されるだけの負い目は振り切れるものじゃない。
だからこれでどうだろうか。これなら仕事をしつつも、接する人を美月さんだけに絞れる。
美月さんは考え込んでいるようだった。
考え込んで、珍しく表情をあちこち動かして、それから言った。
「約束してくれますか」
何か、条件があるようだった。でも多分僕の提案を受け入れてくれるようで少し安心した。
「私だけの日向さんでいること、約束してくれますか」
僕には、ひどく愛らしい約束に聞こえた。そして約束しなければそれを信じさせてあげられないことがただただ申し訳なかった。
断る理由なんてどこにもなくて、僕はそっと小指を差し出した。
それでついに僕の悩ましい日々は終わりを告げたのだった。
次の日の朝、僕は少し早起きして美月さんと二人で朝ご飯を作った。
それで食後のコーヒーを飲みながら二人で少し話しをする。
二人とももう悩み事が無くなって、久々に何のわだかまりもない時間、本当の日常が帰ってきたような感覚だった。
これから先の仕事のことを相談しながら、少し気になったことを聞いてみる。
「そういえば、昨日しばらく避けてた話を急にしてくれたけど、何かきっかけになることでもあったの?」
美月さんはそれを聞くと少し意味ありげに微笑んだ。
「ええ、実は心配事が一つなくなりまして、それで思い切って話すことにしたんです」
なんだろう、昨日のこと以外に心配事があったんなら、僕は本当に美月さんに負担をかけてしまっていた。申し訳なさを感じる、多少ましになった申し訳なさを。
「そっか、まあ心配事が一気に解決したわけだし、良かったよ、本当に良かった」
美月さんはそうですねと言って席を立った。そろそろ出勤の時間みたいだ。
「行ってらっしゃい美月さん」
「行ってきます、日向さん、約束忘れないでくださいね」
「うん、わかってるよ、美月さんからくる仕事の連絡だけ待ってるから」
美月さんは嬉しそうな顔をして、ちょっと名残惜しそうに家を出ていった。
家に一人、でもこの間までとは気持ちが全然違う。
癖で仕事の確認をしようとして開いたパソコンで、ゲームをしながら時間を過ごす。
仕事をしてないならせめて何か恩返しを、と思っていたついこの間とは別人みたいだ。
いや家事をしないのは流石にダメ人間すぎるので洗濯とかはするけど。
ああ、そうだ、またちょっと豪勢な食事でも作ろうか。
この間作ったのは結局そのあとの話で台無しにしてしまったし、仲直りのお祝いをするのも悪くない。いや喧嘩してたわけではないけど。
外はいい天気で、窓から太陽が高い位置に輝いているのが見える。
それじゃあ買い物に行こうかなと、玄関に向かって、ドアノブを握って。
そして動かないドアノブに遮られた。
内側の鍵は開いている、でもドアノブは回らなかった。
ポケットに入れた携帯がメールの着信を告げる、美月さんからだ。
『ごめんなさい、でも、約束しましたもんね、ごめんなさい日向さん、愛しています』
急にここ数日の出来事がいくつか頭をよぎった。
ふと玄関の隅を見上げると見覚えのないレンズがあった。
それで急に愛おしさと負い目を感じた。
美月さんも同じような気持ちなんだろう。
負い目を感じて、感じさせて、僕はやっぱり駄目な人間だ。
でも足はもう重くなかった、多分、この足も美月さんは愛してくれそうだから。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
この夫婦の話は一応これで完結となります。続きを書くこともあるかもですが。
今回は美月さんがどうしたいのかさっぱり分からなくて、美月さんサイドを書いてみたりしたので非常に時間がかかりました。
主人公が悩むパートももう本当に何回も繰り返し同じことを書いたような感じがして不安が残ります。
ヤンデレ具合も思ったようにはいかず結局タイトル詐欺はぬぐい切れないような感じです。
献身的すぎたりお互い優しすぎたり、しっかり両想いだったりのシチュエーションとヤンデレはなかなか相性が悪くて難しいのだなと感じました。精進します。
そして出来れば今回より短いスパンで次回作を書けるように頑張ります。
感想、評価もらえると非常に喜びます。誤字脱字も教えてもらえるとありがたいです。