欠陥人生 拳と刃 作:箱庭廻
冷たい雨が降っていた。
薄暗い雲、まだ夕方だというのに空は暗くて夜のよう。
空気を吸い込めば雨の味がして、水に濡れた土とアスファルトの臭いが鼻を突く。
雨の臭い。草の臭い。零れ落ちる樹液と湿気の重さを感じるような大気。
広げた傘から間断無く叩きつけられる飛沫の感触に、僕は冷たくなった足と濡れた靴の重さにため息を吐き出す。
「梅雨だねぇ」
肩に背負った竹刀袋の重み。
中には素振り用の木刀と竹刀、護身用の武器と部活用。
部活帰りに買った買い物袋が重くてたまらない。
傘を持った手と袋を持った手はポケットに入れるわけもいかず、冷たい雨に濡れるだけだった。
「長渡が風呂沸かしておいてくれたらいいんだけど」
これだけの雨なら風呂ぐらい自分用に沸かしているかもしれない。
沸かして無くても、シャワーぐらいは浴びないと風邪を引きそうだった。
僕は傘越しに空を見上げながら、ピチャピチャと撥ねる地面を歩きながら寮への道筋を歩いていた。
強い雨に外出を控えているのか、人っ子一人見かけない街灯道路を進んで、帰り道を急ぐ。
寒さから逃れるためか。
ジリジリと鼓膜を掻き毟るような雨音のざわめきに耳鳴りがしそうで、僕は僅かに吐き気を覚えた。
熱があるのかもしれない。
風邪を引き始めているのかもしれない。
そんな戯言にも似た感傷を抱いて、ぐっしょりと濡れた学生服のズボンと上着が鉛のように重く冷たい。
「もし」
幻聴のような耳鳴りがした。
雨音だと思い、すぐに無視したが。
「もし」
再び耳鳴り。
気のせいか? いや、違うか。
人の声か、そう思って傘を上げる。右手の指を僅かに上に移動させて、僕は前を見た。
降り注ぐ雨。濡れる地面。夜のように昏い闇、まだ付かない街灯の明かり。
声をかけるような人物、人影、気配は見当たらない。
「?」
狐に化かされたかのような違和感を覚えて、僕は傘を支点に、クルリと振り返った。
そこに彼女がいた。
「こんばんは~」
声を掛けてきたのは漆黒の傘を差した少女だった。
僕は思わず息を飲むほどに美しい少女だった。
白く色抜けた頭髪は雲闇の中で溶け込むように流れていて、その身に纏う衣服は豪華というよりも仰仰しいというべきか。
その時の僕の語録にはないゴシック調と言うべき衣装に、一歩踏み出すだけで泥に塗れてしまうのではないだろうかと思えるスカート。肩に掛けた色彩溢れる長包みすらも単調なはずの闇を喰らい尽くすように違和感を発していて、唯一マトモと思えるのは漆黒にも似た色合いの瞳を押し隠す丸い眼鏡。
その向こう側からどこか色褪せた眼球がギョロリと僕を見つめている。
まるで幽鬼のようだと、僕は一瞬失礼な錯覚を覚えた。
「こんばんは~」
「え? あ、こんばんは」
二度繰り返した言葉に、反射的に返事を返す。
関西弁? いや、京都の人か。
そんな思考を巡らせながら、僕はどこか異彩を放つ少女に声を掛けてみた。恐怖に飲まれないように。
何故このような少女が"背後に立っていたのか"、気付かなかった自分への疑問を忘れたまま。
「何か用かな?」
背丈と顔立ちから見て、どう見ても中学生ぐらいだろうと目当てを付けて僕は口調を整えていた。
「用がなければ、声をかけたらあかんか?」
「……」
けれど、返ってきた言葉は中々に反応に困る代物で、僕は一拍ばかり息を飲み込み。
ニコリと歪んだ微笑があった。
「冗談どす。気を悪くせいでおくれやす」
「はぁ」
中々にマイペースな性質らしい。
僅かに頭痛にも似た軋みを憶えるが、落ち着けと自分に言い聞かせる。
「ちょい人を探したはるんせやかて、聞いてええどすか?」
鈴を鳴らすような声。
目の前の少女は楽しげな口調と表情で言い出した。
「人?」
僕は首を傾げる。
「"桜咲 刹那"先輩知ってはります?」
「桜、咲?」
一瞬僕は息を止めた。
これが長渡や柴田、他の知り合いだったならばああ、あいつか。と少し驚きながらも相槌を打っただろう。
しかし、僕と桜咲には簡単には済ませられない事情があり、なおかつ未だにそれは解決していなかった。
拒絶反応に近い僕の態度に、目の前の少女は首を傾げて。
「どないしたんですか~?」
「あ、いや、なんでもない。桜咲だったら多分部活終わったから、もう女子寮に戻ったと思うよ?」
もう三十分前には部活は終わってるし、とっくに女子寮に戻っていてもおかしくない。
だから、僕は女子寮の方角を教えようと思って、軽く振り返り。
「確か、女子寮はあっちの方に……」
「そうですかぁ、助かりましたわー」
方角を指し示そうとした瞬間だった。
――ゾクリと背筋を走り抜けた違和感に、僕は反射的に飛び下がった。
傘を持つことを忘れて、買い物袋も捨てて、転げた。
「あらー」
間の抜けた声が響いて、けれど、その声の持ち主を見る前に――僕は熱い感触を腹部に覚えた。
「え?」
雨が降る。
目に飛沫が降りかかり、歪んだ視界の中で僕は真っ赤なそれを見た。
手を当てる。
濡れていた。雨にではなく、生温く生臭い血に。鮮血に。紅い華が裂いて。
学生服が切り裂かれて、脇腹から血が流れて、痛い。
「どして避けるんですー?」
灼熱にも似た痛みの中で、僕は見上げる。
少女が笑っていた。
右手に傘を、左手に雨に濡れて、血に濡れた――刀を持って。
嗤っていた。
「なっ、なっ」
「避けなければ綺麗に真っ二つやったのにー」
嗤っていた。
楽しげにソレは嗤っていたのだ。
楽しげな声を鳴らして、凶刃を手に微笑む美少女。
どんな冗談だ。
どんな出来の悪いドラマだ。
目の前に殺人志願者がいるなんて、吐き気が込み上げる。
雨に濡れた体が寒くて震える、突然の出来事に頭がパニックになって、考えるのがまとまらない。
歯がかち鳴るのは寒さのせいか。
痛い、痛い、痛い。
だけど。
「お礼だから素直に受け取ってくださいなー」
傘を差したまま、優雅に刀――小太刀を振り上げる少女の乾いた瞳に、僕は怒りにも似た感覚が込み上げた。
振り落ちる斬撃の軌跡が刻まれる、前に僕は手で掬った泥を投げつけた。
しかし、それを眼鏡の少女は大げさなぐらいに躱し、頬を膨らませる。
「なにしはるん? 先輩に会おうと思って折角のおめかしやのに」
不機嫌そうに告げる少女の言葉を無視して、僕は仰け反るように後ろに下がってから立ち上がって、肩の竹刀袋を開けた。
泥だらけで滑った手に木刀の感触がある。
濡れた地面に足を踏み込み、だらりと木刀を斜めに構えた。
「あれ~、もしかして剣士さんだったんですかー?」
「ただのパンピーだよ」
一々相手にする必要は無い。
情報は与えたくない。
そんな理性的判断故の発言だったけれど、それ以上に――恐怖が込み上げる。
目の前の少女は僅かに口元を歪めて、楽しげに小太刀を握り直したのだから。
「んー、神鳴流の先輩たちは二名だけやと聞いてやったんですけどなー?」
クルクルと傘を廻し、弄びながら少女が告げる。
楽しげに、楽しげに。
「しんめい、りゅう?」
どこかで聞いた名前だった。
どこかで憶えた言葉だった。
――お前は、"神鳴る剣"と戦う覚悟はあるかい?
「ま、さか」
思い出した。
想い出した。
「あらー、その反応やと知っているみたいですなー」
――強いよ? ああ、そりゃあ強い。滅茶苦茶に強いさね。刀で岩を切る、魔を断つ、化け物を殺しまくる、人すらも粉砕する。人の虚弱さを忘れたように"気"という名の力を使って、人の癖に人外以上に強靭な連中だ
タマオカさんの言葉を思い出す。
「神鳴流剣士 月詠言いますー」
――裏の術理が一つ、神鳴らす雷鳴を信奉と目標に鍛錬を極め続ける剣術。その名前は神鳴流という。
"桜咲 刹那の同類"。
覚悟は決めていたつもりだった。
いつか対峙するとは思っていた。
けれど、脇腹からの痛みが、明確な殺人凶器を持った存在が僕に震えを与えてくる。
僕の決心を腐らせて行く。
「短い付き合いですけどー、案内お礼に――」
月詠が小太刀を振り上げる。
未だに振り落ちる雨音が僅かに濁って、振り上げた剣先に触れた水滴が"弾けた"。
「っ!?」
反射的に体を横に移す。
「ざんがんけーん」
その刹那、間延びした口調とは裏腹に目にも見えない速度で剣が振り抜かれて。
――地面が抉られた。
泥が弾ける、水が撥ねる、土砂が舞った。
「!?」
ありえない。
どんな剣速と威力があれば、砕ける。しかも刀で、折れもせずに!?
頭が混乱する。
肌を打つ泥の痛みに、重く濡れた学生服が鉛のように重くて、僕は走りながら距離を取るしか出来なくて。
「いい読みですなー、けど」
月詠が手に持っていた傘を上に投げる。
月詠が一歩踏み出し――泥が弾けたと思ったら。
「雑魚ですわ」
「ぁああっ!!」
背後から声が響いたと思った瞬間、僕は反転しながら斬りつけていた。
足を支点に、体を沈めながらの旋転、逆袈裟。
しかし、それは――ニコリと傘を畳んで、笑う月詠の小太刀に受け止められて。
「なんどすねん。この軽い一撃ー」
不機嫌そうに顔を歪める月詠が少し手首を返して、木刀が割れた。
鉄心入りの木刀が、まるで発泡スチロールのように両断されて。
「ウチの衣装が汚れるだけですわー」
腹部に蹴りがめり込んでいた。
体が破れるかと思えるような威力で、内臓が軋んだ。
「げぇ!?」
激痛が脳に走ったと理解した時には、僕は嘔吐していて。
すっぱい味のする唾液を泥に吐出しって、うずくまり。
「あーもう」
――殴り飛ばされた。
横っ面を殴られて、僕は信じられない勢いで地面に叩き付けられて、転がった。
痛い、痛い、痛い。
痛いだけど熱くて、熱くてたまらなくて、雨が痛くて、吐きたいのに吐けなくて。
「ぅ、げぇ! あ、あが!」
「ほい、さいならですー」
月詠の足踏みが聞こえた。
クルリ、クルリと、ステップを踏んで。
降り注ぐ雨の雫を一身に浴びながら、濡れた髪をなびかせながら、その全てが一瞬で弾け散る。
爆発でも起きたかのような現象。
大気が焦がれて、震えて、薙ぎ倒される圧倒的な力の放出。
「ざんくうけ~ん!」
それは風を裂く、不可視の刃。
雨が千切れる、雨風が裂かれる、水を引き裂いて、疾駆する斬撃。
僕はそれを視認しながらも、躱す術がなくて。
「 !!」
汚物混じりに絶叫するしか出来なかった。
だから。
"それに気付くのが僅かに遅れた"
目を閉じて、生じるだろう衝撃と痛みに備えていたけれど。
「?」
僕はこれ以上の痛みを受けずにいた。
雨の感触が冷たくて、泥の冷気が体に染みるだけだった。
何故?
僕は考える。
「野暮な方やわー、真剣勝負の乱入は切り捨てられても文句出来ませんのにー」
「野暮も糞もあるか!」
だから、月詠の声と聞き覚えの無い声に僕は目を見開いた。
開いた視界には抉られた地面と、見覚えの無い背中があった。
月詠と僕の間に、誰かが立っていた。
背丈からして男だろうか。
身長は僕よりも多少ある程度の長身痩躯、厚手のジャンパーに、帽子を被った私服姿の男性。左手にはナイフを持ち、右手には信じられないことに拳銃らしきものを持っていた。
知らない人物だけど、唯一分かることがある。
それは僕を救った。
そして。
「逃げろ」
それは僕を助けようとしていた。
「え?」
「逃げろ。時間を稼ぐ、警察署に逃げ込むなり、家に隠れるなりしろ。多分そこまでは追ってこない」
「ざんくうーせんー」
男の言葉が終わるよりも早く飛来する先ほどの斬撃。
けれど、それを。
「風華・風障壁!」
渦巻く風が薙ぎ払った。
男が手を振るった前方が降り注ぐ雨粒を飲み込み、烈風となって斬撃を打ち払う。
信じられない光景だった。
かつてのネギ少年とエヴァと名乗った少女の戦いを見ていなければ目を疑うような現実。
「西洋魔術師ですかー。んー、戦士タイプやと斬り応えあって楽しいんどすけど、残念ですわー」
「空気読めよ、馬鹿!」
「知りませんわー」
月詠がもう片方の手にもう一本小太刀を取り出す。
圧倒的過ぎる恐怖に、僕は目を見開いて。
それを。
「さっさと逃げろっ!!」
吼え叫ぶ男の声が打ち破った。
「なんで、僕を?」
僕は思わず叫んだ。
何故助けるのか。
かつては誰も助けてくれなかったというのに。
長渡は誰も助けてくれなかった。
僕に何も教えてくれなかった。
だというのに。
「――お前が死んだら"長渡にすまなくなる"」
「え?」
知り合いの名前に、僕は一瞬戸惑って。
「いけ! 俺はあまり強くねえ! 死にたくないなら走れ!!」
僕は立ち上がる。
痛みを堪えて、血の流れる脇腹を押さえながらよろよろと立ち上がる。
声に急かされるように、ただ従って。
「いけ! 走れ!」
男が振るった手の先から光の矢が次々と撃ち放たれる。
それを斬り捌く月詠。
常識の理知外の光景。介入なんて考えられない圧倒的な力の奔流。
「無駄ですのにー」
足を引きずりながら僕は逃げ出した。
轟音の鳴り響く人外の戦場から逃げ出した。
「にとうれんげき~ざんてつせんー」
「ホワイトドゥラマ! サギタ・マギカ・ウナ・ルークス!!」
そんな声が最後に聞こえた。
そして。
走って、走って、寮の前まで辿り付いて。
僕は膝を付いて。
「 !!!!」
ただ泣き崩れた。
情けなくて。
臆病で。
降り注ぐ雨の中で泣き叫んだ。
悔しくてたまらなかった。