欠陥人生 拳と刃   作:箱庭廻

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三十五話:心が冷めていく

 

 心が冷めていく。

 

 

 息を呑む。

 背筋が凍る。

 嫌な予感しかしなかった。

 その目の前の老人からは。

 

「ここにいる犬上 小太郎君はどこにいるのか知らないかね?」

 

 帽子を被ったまま、老人は告げる。

 コートから流れる雨の雫がポタポタと床のタイルに滴り落ちる。

 それを視界の端で捉えながらも、俺は警戒を緩めなかった。

 いや、明らかに目の前の存在の手によって壊れた扉と、倒れた先生を見て、警戒するなという方が無理だった。

 

「テメエ、先生に何しやがった!」

 

 まず激昂したのは豪徳寺だった。

 ズカズカと歩み寄り、普段の温和さも忘れて、老人の首元を掴もうと手を伸ばし――

 

「失礼」

 

 伸ばした手を弾かれて。

 ――次の瞬間、床に叩き伏せられていた。

 豪徳寺が。

 

「がっ……!」

 

「なっ!?」

 

 山下が戸惑った声を上げる。

 当たり前だ。その動きは速すぎて、目にも捉えられなかった。

 そして、豪徳寺は比喩表現無しで強い。

 普通の奴のパンチなら軽く捌いて、返り討ちに出来るぐらいに強い。

 なのに、瞬く間に床に組み伏せられた。

 それがどれだけ異常なことなのか分かるだろうか。

 俺は膨れ上がる嫌な予感を押さえきれずに、叫んだ。

 

「お前ら!! 女子と餓鬼を連れて逃げろ!!」

 

「はっ?」

 

「いや、でも」

 

 友人たちが戸惑う。

 おそらく顔を出してきた女子たちも戸惑っているだろう。

 けれど、俺は返事をする暇もなく。

 

「いいから逃げろ!!」

 

 俺は叫びながら、全力で駆け出した。

 汗が止まらなかった。

 油断するなと本能が叫んでいて、心臓の鼓動が恐怖でバクバクと打ち鳴らされている。

 目を見開いて、その動き一切を警戒しながら初老の男に俺は全力で駆けつけて。

 

「いい判断だ」

 

 間合いにまで踏み込んだ瞬間、老人は手を僅かに上げて。

 

「しかし」

 

 ――掻き消えた。

 

「っ!?」

 

 視界から消えて、俺は息を呑み――次の瞬間吐き出した。

 唾液と胃液と共に。

 腹部から拳がめり込んでいて。

 

「ゴッ!」

 

「悲しいかな、力が足りない」

 

 呼吸が出来ない。

 息が止まる。

 体が千切れそうだった。

 腹筋に力を入れる余裕もなく、動作すらも認識できず、消化物が喉から口から零れる。

 内臓が破裂していないことすらも奇跡。痛いという感覚すらも超越した衝撃。

 だけれども。

 

「   ぁ!!!」

 

 ――腕を掴む。

 そして、涎を流したまま足を跳ね上げた。

 

「むっ?」

 

 膝を掴んだ腕に叩き込む。

 膝から伝わる感触は鉄のように硬くて、それが本当に初老の老人の肉体なのか。

 人間なのかどうかすらも怪しいほどに堅く、重い。

 だけど。

 

「ばべるなぁあああっ!」

 

 さらに曲げた膝を伸ばして、その胸に靴底を打ち込んだ。

 手加減など一切していないのに。

 その男の体はまったく揺らぐことがなくて、銅像でも殴っているように手ごたえがなかったけれど。

 俺は引けない。

 蹴りこんだ足を捻り、さらに顎を蹴り上げようと伸ばした足が掴まれる。

 

「っ!?」

 

 さらに掴んでいた腕の拳が開いて、閉じる。

 俺の胸倉が掴まれて、咄嗟に引き剥がそうとしても万力のように硬い。

 

「足掻くか、それもよかろう」

 

「なっ!?」

 

 そのまま体が持ち上げられる。

 腕の一本で体が浮いた。つま先が地面に届かない。

 背筋が凍るような浮遊感。

 そして、そのまま――視界が回転した。

 吹き飛ぶ。体が宙を舞って、背中から激痛が走った。

 一瞬視界が霞む、壁に背中からぶつかってただでさえ息が出来ないのに窒息しそうだった。

 床に脚が付く、膝を着く、立ち上がれそうにないけれど。

 

「ぐっ、がっ!」

 

 諦めるな。

 ただ指を動かして、少しでも抗うために、息を吸い込む。

 だけど、次の瞬間視界が真っ黒に染まった。

 

「ガッ!?」

 

 鼻血が噴き出す。引きつるような痛みが伝わってきて、喘ぐ暇もなく、俺は動きを止められていた。

 靴底が胸に打ち込まれる。

 肋骨と背骨が同時に悲鳴を軋ませた。

 

「ギァ!!」

 

 激痛が走って、息が止まる。ヒビが入ったかもしれない。

 まるで壁と接着されたかのように動かない、動けない。

 

「中々に頑張る、だが――」

 

 拳を振り上げて、止めを刺そうとする老人の姿が見えて――

 

「させるか!」

 

 それを殴り飛ばす中村の姿が見えた。

 

「ほぅ?」

 

 かすんだ視界の中で掌底を打ち込んだ中村が見えて、それを老人が肘で受け止める。

 空気の破裂するような音と共にズシリと床が揺れた。

 

「この威力。一般人に見えたが、"気"の使い手かね」

 

「せやっ!」

 

 言葉を交わしながら、拳が飛び交う。

 鉄板でも射抜けそうな崩拳を手の平で受け止め、即座に中村が出した脚払いに老人は跳躍し――

 

「ぶっ!」

 

 跳躍と共に打ち込まれた前蹴りで中村の顎が跳ね上がった。

 脳震盪と衝撃で仰け反る中村の胸倉を、重力に引かれて落下する老人の手が掴んで。

 

「しかし」

 

 ダンッと大気が揺れた。

 床がひび割れる。タイルの破片が舞い散る。

 

「   !」

 

 吹き飛んでいた。

 中村の体が。声すらも発せずに。

 放物線すら描かずに十数メートル先の壁に激突していた。

 そこまで見て、理解する。

 ガランッと遅れて響き渡る音に信じるしかなかった。

 老人の掌から発せられた衝撃が、彼をあそこまで弾き飛ばしたのだと。

 

「――足らんよ」

 

 頭の帽子を押さえて、ふわりと老人が着地する。

 その瞬間、足首を掴む手があった。

 豪徳寺の手だった。

 

「山ちゃん!」

 

「オウッ!」

 

 悶絶からの復帰。

 豪徳寺の叫びと共に力強い指が老人の足を掴んでいた。

 軋む音が幻聴で聞こえて来そう。

 声を張り上げる山下が接敵。

 掬い上げるような軌道で老人の顔面を殴打。

 老人の首が後ろのめりに曲がる。首がへし折れそうなほどの威力。

 けれども、山下は決して油断せず、その顔面を掴む。

 その握力はリンゴだって握り潰せるのを知っていた。

 

「手加減しねえっ!」

 

 ――吼えた。

 顔面を引き寄せたまま、山下は膝を曲げ、腰を捻り、老人の鳩尾に肘を叩き込む。

 瞬くような速度。打撃音が轟く馬鹿げた肘打ち。

 生身の人間にやったら重傷確定の一撃に満足せず、逆手に老人のコートの裾を掴み。

 

「離せ!」

 

 山下の言葉と同時に豪徳寺の手が離れて、老人の体が宙を舞い、床に墜落した。

 風車のような速度。

 重力を無視するような勢いでの投げ。

 

「だらぁあ!」

 

 受身すらも許さずに、背中から硬いタイルに叩き付ける。

 爆撃のような音が響く。

 外れた帽子が風圧でふわりと天井近くまで舞い上がり、持ち主である老人の背中から放射線状に床に罅が走っていた。

 

「……はぁ、はぁっ!」

 

 山下が息を吐き出す。

 

「や、やりすぎじゃねえ?」

 

 大豪院が恐る恐る声を上げる。

 確かに普通なら背骨粉砕、重傷確定の投げ落としだった。

 だけど、俺には分かる。

 

「ばだだっ!」

 

 必死に呼吸を整えてようやく叫べたのはそれだけだった。

 

『え?』

 

 大豪院と山下が老人に目を向ける。

 

「……やれやれ」

 

 そして、老人は……ため息を吐いていた。

 

「帽子が外れてしまったな」

 

 落下してきた帽子を指で掴んで、老人は倒れたまま片足を垂直に振り上げて。

 ガスンッと斧のように叩き落とした。

 

「なっ!?」

 

 靴底型に床が陥没、それを引っ掛けに老人はまるで重力を無視するかのような動作で立ち上がっていた。

 濡れた革のコートの裾が遅れて落下する。

 

「仰向けに倒れるなど何世紀ぶりだったかな。いやはや、歳は取りたくないな」

 

 帽子を被り直して、感心したような口ぶり。

 まるで堪えた様子もなく、平然とした佇まい。

 

「くっ!?」

 

「このっ!」

 

 山下がその腕を、大豪院がその顔面を、それぞれ捉え、殴ろうと手を閃かせる。

 けれど、それよりも迅く。

 老人が旋転した。

 鞭のように濡れたコートの裾を翻り、二人の顔面を打ち据えた。

 濡れた布は凶器となりえる。

 それを体現したような破裂音と共に山下と大豪院が顔を押さえて、僅かに怯んだ刹那。

 ――左右に飛び出した掌が二人の顔を鷲づかみにしていた。

 

「申し遅れたが」

 

 そして、そのまま持ち上げられた。

 まるで赤子のように簡単に持ち上げられる、二人の肉体。

 

「――!?」

 

「――!!」

 

 二人が顔を掴む老人の手を両手で引き剥がそうとする。

 けれど、剥がれない。

 あいつらの腕力を知っている俺から見れば信じられない光景。

 

「私はヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・ヘルマン伯爵。こうして名乗りを上げるのは君たちへの敬意の表れだと思ってくれると嬉しい」

 

 ニコリと微笑むヘルマンと名乗った老人。

 その笑みには吐き気がした。

 取り繕った感情の篭っていない表情だったから。

 

「ああ、伯爵と言っても没落貴族でね。今はしがない雇われものだ、気楽に接してくれたまえ」

 

 何度も山下が顔を掴む手の指を握り締めて外そうとしている。

 何度も大豪院がその脇腹に蹴りを叩きつけている。

 だけど、外れない。

 怯まない。

 堪えない。

 激痛を発し続ける肺で空気を吸い込みながら、二酸化炭素と一緒に汚物を吐き散らしながら、睨み付ける。

 やはり違う。

 コイツは何かが違う。

 

「――その手を離しなさいっ」

 

 その時だった。

 声が響いたのは。

 俺は目を向ける。ヘルマンもそちらを見た。

 そこには二人の少女がいた。

 

「ち、ちづ姉!」

 

 怯える村上さんを後ろに隠し、ヘルマンを睨み付ける那波さんがいた。

 

「に、逃げろ、那波さん!」

 

 豪徳寺が叫ぶ。

 ダメージが抜け切っていないのだろう、ガクガクと震える足で立ち上がろうとしては失敗していた。

 

「おや? これはこれは美しいお嬢さん、失礼な姿を見せてしまったね。お詫びに一輪の花でも贈りたいところだが、生憎手が離せない」

 

「花なんて要りません。その手を離しなさい」

 

「ふむ。手を離せばいいのだね?」

 

 那波さんの声にヘルマンが頷いた。

 大豪院の顔を握った腕が下に降ろされて――その瞬間、俺は奴がやりそうなことに気付いて、叫んだ。

 

「  !!」

 

 やめろ。

 そう叫んだつもりだったけれど、唾しか出ない。

 大豪院の体が掻き消える。

 頭上から轟音が聞こえた。

 投げ上げられて、ガードすることも出来ずに全身から天井にぶつかった音。

 薄い板だったのだろうか、天井を突き破る破壊音。

 豪徳寺の、山下の、絶叫が聞こえた気がした。

 

「いやぁああ!」

 

「やめ」

 

 那波さんの制止の声が発せられかけて。

 

「悪魔」

 

 山下を掴む手が外れる。

 その爪先が地面に付くよりも早く、ビシリとヘルマンの足元がさらにひび割れて。

 大振りに捻った腰が、肩上にまで持ち上げられた拳が唸りを上げて。

 

「――パンチ」

 

 直撃したと思った瞬間には、山下の姿は居なかった。

 血反吐を吐き散らしながら那波さんの頭上を越えて、近くのガラス窓を突き破った。

 ガラスの割れる音が鳴り響く。

 俺は絶叫していた。

 誰かの悲鳴が破砕音に掻き消える。

 外から鈍い音が聞こえた。

 体よ、動け。

 指先が震える。だけど、立てない。

 

「 ァァア!」

 

 畜生! 畜生!!!

 

「ふむ。言われた通りに両手を離したのだが……不服そうだね」

 

 那波さんが唇を噛み締めて、睨み付けていた。

 視線に力があるとすれば今すぐにでもヘルマンは炎上しているだろう。

 そんな怒り。

 

「……本気で言っているのですか」

 

「先ほどの行為が気に触ったかね? 安心したまえ、彼らならばこの程度で死にはしない。君たちとお話をするのに、最低限邪魔にならない程度に動けなくさせただけだ」

 

 そう告げると、ヘルマンは帽子を外した。

 胸の前に帽子を持つと、軽く礼をして。

 

「さて美しいお嬢さんたち、ここにウェアウルフの少年がいるはずなのだが、どこにいるのか教えてくれないかね?」

 

「教えません」

 

「ち、ちづね……」

 

「おや? 何故かね?」

 

「彼は子供です。そして、貴方は信頼出来ない人間です。きっとあの子に乱暴をするでしょう、そんな人に教えることなんて出来ません」

 

 どこまでも彼女は気丈だった。

 普通ならば怯える。

 後ろで怯える少女のように泣き叫ぶだろう。

 怖がるだろう。

 けれど、那波さんの声は決して震えることもなくて、真っ直ぐにヘルマンを見つめていた。

 

「……ハッ、ハハハ! これは驚いた!」

 

 ヘルマンが楽しげに笑い出す。

 愉快げに笑い声を響かせて、帽子を被り直すと。

 

「気丈なお嬢さんだ。私の前でこのような反応を出来る人間はとても珍しい。立ち向かってきた彼らのように、敬意を表するに相応しい人間だ」

 

 そこまで告げて、ヘルマンが不意に手を振り上げて。

 パチンッと指を鳴らした。

 

「え?」

 

 そして、那波さんが唐突に目を閉じて、膝を落とした。

 

「ち、ちづ姉!?」

 

「安心したまえ。ただ眠っただけだ」

 

 そう告げて、ヘルマンが足を踏み出し、那波さんの肩に手を差し出そうとした瞬間だった。

 

「おぉおおお!!!」

 

 奮え猛る気炎があった。

 床に指を突き立てて、無理やりに這い上がってきた豪徳寺が足を踏み出す。

 リーゼントを掻き乱し、気合を入れるために打ち付けたのだろう。

 額から血を流して、全身から圧力を発していた。

 病院が揺れる。

 建物を奮わせる震脚と共に涎を流しながら、腕を振り上げて。

 

「ほぉ?」

 

「ひぃっさつ! 漢魂ぁああ!」

 

 手を突き出し、何時か見た衝撃波を撃ち出した。

 横を駆け抜ける漢魂と叫ぶそれに肌が震える。痺れたように、熱くなる。風が渦巻く。

 廊下のガラスが悉く吹き飛び、ヘルマンに飛来し。

 

「ふむ」

 

 避ける様子もなく――直撃。

 爆音が膨れ上がり、建物を揺らした。爆竹なんて比にならない炸裂音。

 

「きゃあああ!」

 

 村上さんが悲鳴を上げる。

 砕けた破片や粉塵が舞った。

 

「どうだぁあ!」

 

 豪徳寺が叫ぶ。

 手を握り締めて、壁に寄りかかりながら、それでも懸命に立ち上がっていた。

 俺はその姿に声を出せなかった。

 ただ無性に息が詰まる、涙が溢れそうだった。

 頼もしいと思えた。

 友人でよかったとさえ思う。

 必殺・漢魂。

 原理などさっぱり分からないけれど、威力だけは保障済み。

 まともに直撃すれば軽く人間が吹っ飛ぶ、骨が砕ける、それだけの破壊力。

 効いたか!?

 

「……やれやれ」

 

 だけど、声がした。

 

「なっ?」

 

 嘘、だろ。

 粉塵の奥から黒い手が飛び出す。

 軽く振り払われた手の指が粉塵を切り裂いて、その奥にいるコート姿のヘルマンの姿を映し出した。

 奴は……無傷だった。

 

「そ、そんな……俺の漢魂が」

 

「二流魔法使いのサギタ・マギカ数発分というところかね。練りも出力も足りんよ」

 

 失望したかのように息を吐き出し、ヘルマンが手を振り上げる。

 また何かをするつもりか。

 

「   」

 

 俺は息を吸い込む。

 ブルブルと情けなく震え続ける手足に吼える。

 叫ぶ。

 動け。

 たった一動作でいい。

 たった一撃でいい。

 

「……ごけ」

 

 全身の神経が痺れている。

 手足を動かそうとするたびに激痛が走る。

 息をするたびに痛い。

 痛みに屈服しそうになる。

 何もかも諦めたくなる。

 だけど、だけど、それでも!

 

「うごっ」

 

 抗うために。

 閃光が轟き、目の前で豪徳寺が殴り倒された。

 その光景に俺は泣きながら、血反吐を吐きながら、床に手の平を打ち付けた。

 

「けぇえええええええええええ!!!」

 

 喉から自分の声とは思えない金切り声が響く。

 そして、脚で散々壊れまくっているタイルを踏み締めて。

 

「おやおや?」

 

 嘲笑う声が聞こえた。

 嘲笑う顔が見えた。

 手足を数センチ動かすだけで吐き気が脳髄に流れ込んでくる。

 あまりの苦痛に眩暈が治まらない。

 息を吸い込むことすらも出来なくて。

 たった数歩。

 全力で駆け抜ければ一秒も掛からないヘルマンまでの距離が絶望的に遠い。

 脚がもつれる。

 息が出来なくて、叫んだ言葉で酸素がほぼ尽き掛けていた。

 今一撃でも喰らえば絶対に立ち上がれない。

 そんな状態。

 だけど、それでも、俺は足を止めない。

 一歩踏み出す。

 ――悲鳴を上げたくても声が出ない。

 二歩目を滑らせる。

 ――手足の感覚が虚ろ。

 足首を廻す。

 ――今にも滑りそうで。

 腰を捻る。

 ――視界が暗く濁って。

 握ることも出来ない掌で振り上げて。

 ――酸欠で意識が飛びそうで。

 

 ぺチンと音だけが聞こえた。

 

「……気概は認めるが、赤子でも殺せないな。その一撃では」

 

 触れる。

 硬い鉄板のような胸板。

 手には力が入らない。押し込むことも、体重をかける力すらも無い。ただの密着状態。

 全身の力が入らない。

 全身から力が抜けている。

 だから。

 

「 」

 

 ――テメエは死ね。

 

 脳裏に浮かぶのは竹筒の先端から飛び出す水銀。

 脱力の限りからの最後の力み。

 足首を廻す、膝を曲げる、腰を廻す、背骨を軋ませる、肩が唸る、肘を捻る、掌を開く。

 すなわち勁道を開く。

 最高最後の零勁が――

 

「ぐおっ!?」

 

 通った。

 ヘルマンから初めて聞く悶絶の声。

 手ごたえは十分。

 内臓破裂確定。

 人間に撃ち込んではいけない威力。

 だけど、それでも。

 

「……驚いたぞ」

 

 ――終わらねえよなぁ。

 前のめりに倒れたと思う俺の頭上から聞こえる声はピンピンしていて。

 

「一番弱いと思っていた君がもっとも私に傷を負わせるとはな」

 

 ああ。

 やっぱり。

 

「誇りに思いたまえ」

 

 勁の手ごたえからして。

 

 

「私という"悪魔"に一矢報えたことに」

 

 

 ……人間じゃねえよなぁ。

 

 

 

 ――ガッ。

 

 

 

 そこで俺の意識が途絶えた。

 ただ耳鳴りのように悲鳴が残響していた。

 

 

 俺は何も出来ていなかった。

 

 無力だった。

 

 

 

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